2009年08月20日

日記2 〜積み木〜

随分前の話だけど、姪っ子を園に引き取りに行って、そこで妹が井戸端会議を始めたので、
時間を潰すため、車内は暇だったから、園内の室内遊技場で絵本を読んだことがあった。

絵本の本棚は遊技場の南の隅にあって、そこで小さな白い椅子に肘をかけて床に座り、
「ぐりとぐら」とか五味太郎の本や「葉っぱのフレディ」(!)を片っ端から読んだ。


で、棚の向こうの遊技場の真ん中に男の子が一人だけいて、積み木遊びをしているのが見えた。
男の子は積み木を部屋の中央に集め、そこで城だか砦だか山だかを築いているように見えた。
面白いことに、積み木を積み上げるため、作品の周りをせっかちにクルクルと移動していて、
例えば東側の屋根に三角を乗せ、西に回り円柱を差し込み、北側で壁を増築したりしていた。
子供の積み木遊びって普通は座ったままされることが多い。その視点はほぼ固定されている。
彼のように作品の裏側に回って積み上げる、みたいなことは大人でもあまりしない気がして、
見れば見るほど不思議なことをやってるな、どういう欲望なんだろう、という気になってくる。


積み木の量が多いから作品はどんどん大きくなる。やがて裏側に回った彼の体が見えなくなる。
男の子は顔だけ出して黙々と積み木を積み上げるけど、無理して高くする気はないらしくて、
相変わらずクルクルと周囲を回りながら、今度はその裾野を広げて、また積み上げていく。
ときどき彼の袖やつま先が当たったり、彼の走る振動で、不安定な箇所が勝手に崩れたりして、
しばしばガラガラと音を立てるものだから、棚の奥から見てるこっちはハッとするんだけど、
ある程度大きくなると崩れてもどうでもいいというか、作品が駄目になった感じがしないのか、
チョコチョコっと補修すると、男の子はさっさと裏側へと回ってまた何やらを積み上げる。
補修と言っても、散乱したのを集めて、崩れた箇所にまた無造作に積み上げるくらいのもので、
完成しているのか半壊しているのかよくわからない、小さな建造物ができあがっていく。


時間が経つにつれて、何かスゴいものを見てる気がしてきたんだけど、
彼の母親がやってきて帰ると言うと、彼はあっさりと仕事をやめて、片付けをし始めた。
片付けも積み木を4、5個だけ持ってダンボールの大きな箱に入れることを繰り返すので、
この子は積み上げるのが好きなストイックな子なのかと思ったが、実際のところは知らない。
結局、何を作っていたのか作者の口からは聞けなかった。母親に見て欲しいと思ったとき、
あの子は母親を作品のどの方角に誘導しただろうか。建築はどこから見るのが正しいのだろう。
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日記1 コンフィズリー屋

随分前の話だけど、綺麗な洋菓子が陳列されたオサレなコンフィズリー屋に行った。

色とりどりの飴やヌガーが綺麗な紙に包まれて、さらにガラス瓶に入ってたりしてて、
全部の色がおいしそうで、本気を出した砂糖どもがガラス以上に輝いていてました。
結晶に囲まれて、もう何がキラキラしてるのかよくわからんような素敵空間でした。


で、店内を物色してると、若くて派手な親子連れがカラの乳母車を押して入ってきた。
そこにいるはずの赤ん坊は、父親の胸元に生地の薄そうなスリングでぶら下がってた。
その父親は日に焼けて真っ黒で、何かどっかの雑誌で見た高そうな革靴を履いていて、
パリッとしたシャツ着てて、如何にもモテそうで遊んでそうな感じだったんだけど、
生後8ヶ月くらいの子供が、父親の胸元から首だけ出してケーキとかを見てるワケで、
プレイボーイだけど今は子育てに夢中です、アットホームです、って感じで微笑ましい。
それを見て、私の連れの女の子は「ああいうのって格好いいわー」とか言うワケです。
「赤ん坊は最高のアクセサリー」とか何とか私が言うと、舌打ちとかするワケです。


一方の母親はと言えば、もう一人の、小学校低学年くらいの女の子の相手をしてました。
二人してハイテンションでコンフィズリーの瓶詰や缶、ケーキをワイワイ見てまして、
女の子がレジに商品を持っていく際に、「今までお手伝いしてお金貯めたもんね」とか、
「自分で買えるよね」とか、買ったら買ったで「一人でできたじゃーんスゴーイ」とか、
店を出るまで、子供の挙動にキチンとポジティブに反応してて、とても好感を持ちました。
が、私の連れは「本で見たような教育ママ」とかホザいてたので舌打ちしてやりました。


その後も二人で店内をブラブラ見て回り、私がふと「でもいい家族だねー」とか言うと、
「そうねー」みたいな感じで即座に肯定されてしまった。それはそれでどうなんだろうか。
「でもいい家族だねー」と言ったとき、私はむしろ舌打ちされたかったような気もするし、
連れの女の子も舌打ちをしそびれて、ついうっかり肯定してしまったんじゃないかと思うし、
そういう肯定の先には不毛なものしか転がっていないじゃないか、と、そんな気もする。
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2009年08月10日

ファッションの語る言葉

メンズナックルキャッチコピーまとめ


「メンズナックル」と言えば――いまさら解説も紹介も不要に違いないけれども――、
ガイアが俺にもっと輝けと囁いたり、鳥人拳だったり、マッド・ロックの伝道師だったり、
孔雀は堕天使の象徴だったり、伊達ワルだったりで、とても有名な男性ファッション雑誌。
「俺たちゃ無敵のXYZ」だとか、「ある意味、俺がホスト界のスペードのエース」だとか、
わかりそうで、でもよく考えればやっぱり意味がわからないキャッチコピーが大好きです。

この類の、後発のニッチ狙いの雑誌は、手探りで独自の文化を築き上げなければいけません。
もっと細かく言えば、扱うファッションを言語化し、ボキャブラリーを練る必要があります。
個性のマス・プロダクトを築くためには、モデルやブランドと同じくらい言葉が大事なのです。


ちなみに、普通の先行しているファッション誌なら、その煽り文は極限まで洗練化されており、
材質や形状、色、柄、ブランド、状況、ステータス等々、語彙も一般的なものが占めています。
彼らは奇を衒う必要も無いし、変に自分自身を意識することもない位置で仕事をしています。
正統派のフォーマルなファッションなら、それを語る言葉も正統派で一向に構わないからです。
例えば(手許にどういうワケか女性誌しか見つからないので)女性誌の煽り文を例にとれば、


ミリタリーショーパンはざっくり
ニットとアースカラーのグラデが命

リゾート風サンドレスは
+ベストでタウンユースに変身

夏の大人カジュアルは
クラシカル女優がお手本



と言った具合に、見事な様式美、機能的な美文を見せてくれます。役目を全うしてる感じです。
この傾向は「小悪魔ageha」や「POPTEEN」等、フランクな雑誌でもあまり変わりがありません。
文章は確かにざっくばらんで馴れ馴れしい感じにはなりますが、言葉の使い方は同じです。
女性誌に話が移行してますが、例えばこれが「Gothic & Lolita Bible」ならどうでしょう。
その名の通りゴスロリのファッション雑誌です。煽り文を幾つか引用してみましょう。


茨の森で待ち構えているのは、リスの国の女王様。
「この森を無事に抜けたいのなら、
岩トカゲのしっぽと、雪うさぎの前歯、
上質なドングリを帽子いっぱいに集めてきなさい。
かわりに、この森の出口の地図をあげましょう」

ゴキゲンな日には、
黒猫みたいに
タンゴを踊るの♪
お気に入りの服は、
上手に踊れる魔法の道具の1つなの☆

しかし悲しいことがひとつ。
薔薇少女達は
たくさんの薔薇を食べなければ
動くことが出来ません。



どう見てもポエムです。そもそも、誌面の作り方からして煽り文であるよりはポエムなのです。
本来なら煽り文が入る場所に、連作ポエムがデカデカと挿入される誌面構成となっているのです。
一番目のヤツなんかは、ウサギの前歯を所望するあたりに残酷な童話の世界が垣間見れますね。
きっとリスvsウサギで、クイーンオブメルヘンアニマルの座を争っているに違いありません。
ちなみに「Gothic & Lolita Bible」の中身が全部こんな感じというワケではありませんし、
ゴスロリ誌一般がこんな感じってワケでもありません。ポエムは他の雑誌でも見受けられます。

で、ご覧の通り、「Gothic & Lolita Bible」にはイメージ先行の煽り文が多用されています。
そのイメージとは、キーワードを挙げれば「童話」「西洋」「ウィッチクラフト」等でしょう。
「メンズナックル」と同じように、イメージが先走りすぎて意味不明だったりもしますが、
このようなゴスロリ誌の言葉や誌面作りは、これはこれで洗練されているようにも思えます。


メンナク系やゴスロリ雑誌には、ファッション“を”語る言葉が希薄であると言えそうです。
むしろファッション“の”語る言葉があり、その言葉で、ストリートにイメージを招くのです。
それらの雑誌の煽り文は、モデルその人というより、ファッション自体が発した言葉なのです。
つまり、ガイアだとか黒猫のタンゴとかの語彙は、皮膚の上に憑依した霊の語る言葉であって、
それを着ている人間の言葉では必ずしもないのです。ゴスロリ少女はゴスロリに身を包みつつ、
結構、「お母さんに素麺買って来てって頼まれたー☆」とか生活臭のある言葉を吐くものです。
メンナク系のモデルだって、DQNや厨二病は少数派でしょうし、鳥人拳の達人も皆無でしょう。


ゴスロリやメンナク系の想定する世界を、「共同幻想」と言ってしまえばそれまでですが、
現代においても、幻想を作るというのは、最高にクリエイティブな仕事に違いないのです。
今までになかった幻想を作りつつあるという点で、私はそんなファッション誌を応援したいです。
雑誌業界はますます低迷していますが、雑誌“の”語る言葉もまだ大丈夫だと言いたいのです。
posted by 手の鳴る方へ at 23:06| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

メディアと時代のスピード

SMAPの草なぎ剛が、最近やたらと雑誌の表紙に登場していて、
あの全裸事件はもう完全に過ぎ去ったことになってるらしい。
地デジのキャラクター、というか大使にも復帰したらしいし。

新聞やTVに限らず、メディアは国民に情報を提供する役割を担っており、
現代の問題点を表象し、その時代の時代性を知らしめるためにありそうなもんだけど、
表象するスピードが速すぎて、逆に歴史と言うものが失せている気もする。

先週のニュースが今週のニュースで押し流され、昨日のニュースが今日のニュースに、
今朝のニュースが夜のニュースで押し流されてしまうような表象の速度の中で、
情報の受容者が、そのスピードから果たして何を得ているかと言えば心もとない。
実際の所、手許に残っているのは個々の事件ではなく、それらの断片ですらなく、
事件が重なり合い、猛烈な速度で過ぎていったそのスピード感だけではないのか。
情報の量こそが目に見える時代の速さだとすれば、ネットもその流れの加速に加担し、
ノイズもいや増し、参照点となり、寄って立つべき時代性は一段とかき消されている。


われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物となってしまったことを考えてみるだけでいい。ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的体験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことにある、と言いたくもなるだろう。このように、メディアの情報機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。
(室井尚 「「歴史」は誰のためにあるのか?」 「現代思想」1986 11 p.97)


と言ったのは1983年の時点でのフレドリック・ジェームソンという哲学者だが、
当時以上に現在は、過去も現在も未来もフラットに流れ去り、忘れ去られている。
忘却こそがメディアの役目というのなら、草なぎ剛の事件の一連の表象具合は、
なるほどメディアの役割が忠実に果たされた結果であると言えなくも無いし、
それを恒久的な変化(アイドル→容疑者→アイドル)と呼ぶならそうなのだろう。

歴史はもはや意味を成さない。現代のスピードの中でその首はへし折れて消えている。
現代人にとって歴史とは、人生の縦糸でもなければ横糸でもない。なんでもない。
草なぎ剛が生まれ変わったとされるスピードよりも、現代の変化するスピードは速く、
私達はそんな新しい時代に対応するため、即座に健忘症になって情報を更新する。
歴史とは最初から喪失された記憶、忘れたままの記録、鏡に漠然と映る像なのだ。

ノルベルト・ボルツは『意味に餓える社会』の中でこんなことを書いている。


われわれは、満たされた時間のもろもろの意味素形なしに――歴史の目標も終点もなしに、救済も進歩もなしに、伝統という指導像なしに、経験という基礎も由来という支えもなしに――やっていくことを学ばなければならないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 23:26| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

『高校球児ザワさん』

『高校球児ザワさん』(三島衛里子 小学館)
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男だらけの野球部に女が一人でいたら周りの人はどう思うか、って話。
スポ根や部活動漫画というより、周囲の反応を記した観察記録みたいな漫画で、
主人公の「ザワさん」自体は、見られて反応される対象として描かれている。
チームメイトやクラスメイト、観客など、周りの人間のリアクションがメインで、
観察記録とはザワさんの記録ではなく、周囲の人間の、反応パターンの記録だ。


予想できる通り、ザワさんに接した人間のリアクションは、半分くらいがエロい。
「男だらけの体育会系部活動に女が一人」なんてエロ漫画のテンプレもいいとこだ。
「目隠ししてプロテイン」とか、もっと身も蓋も無いエロゲ的な描写もあるけれど、
もう半分はエロくなくて、キチンと部活動や青春を送っている描写もあったりする。


恐らく、現代人がザワさん的な相手に見せるリアクションのパターンはそれほど多くない。
作者の想像力は十人十色のリアクションを思いつくだろうが、その想像力の限界が、
すなわち現代人の想像力、ザワさんを前にしたときの想像力の限界ですらあると思う。
2巻にして既にエロい話が目立つのは、作者のマンネリなどでは決してなくて、
それがザワさん的なモノに接した際の、一般的な現代人の発想のテンプレだからだ。
そして一般的な反応だからこそ、そのテンプレは繰り返し描かなければならない。
描かなければ逆に嘘になる。チームメイトの猥談や困惑や妄想は特にそうだろう。

これが例えばマリナーズのイチローのニュースを見聞きした人々の反応なら、
漫画家はどの程度のパターンを想像して話数とすることができるだろうか。
それは何を考えることができるか、何を真っ先に考えてしまうかのテストでもある。
問われているのはステレオタイプと、そこからズレる現代の想像力に違いないし、
大仰なことを言えば、そこから生じた成果は、現代を映す鏡ですらあるだろう。
一人の作家が脳髄を振り絞って考え出した様々な反応のパターン数は、
現代人の反応パターンをほとんど網羅すると思うのだけど、どうだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 01:37| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

『千と千尋の神隠し』〜放棄について〜

語り尽くされた感があるけれど、千とカオナシのスタンスの違いは面白い。
例えば「千は全部捨てる。カオナシは全部拾う」と言ってみるのはどうだろう。
「千は後先考えず捨てる。カオナシは後先考えず拾う」と言ってみるのは。

千は油屋で働いているときに、催吐剤としてのニガ団子を手に入れた。
最初にまずその半分を、銭婆の呪いにやられて、のた打ち回るハクに与え、
「本当は両親にあげるつもりだった」もう片方を肥大しきったカオナシに与えた。
4枚綴りの電車のチケットも、帰りの分を無視して全部使い切ってしまった。
カオナシが出した黄金は手にしなかった。宮崎駿作品の真っ当なヒロインらしく、
「私の欲しいものは、あなたには絶対に出せない」と、申し出を拒否していた。


また、物語のクライマックス、銭婆の所からの帰り、ハクが名前を思い出した後、
千が12匹の豚の中から、物語冒頭で豚になった両親を探し当てるシーンがあるが、
そこで千はどの選択肢も選ばなかった。12の可能性を全て捨ててしまったと言える。

私はこのシーンが大好きだ。物語の最中に、何のフラグも立ってないはずなのに、
決定的な場面で選択肢の中に答えが無いことを言い当てる、その正しさが好きだ。
「正しさ」とは、決定的な場面で、目前の選択肢の中に答えが無い、という点で、
そこに答えが無いのなら、ならば選ばないことが正しいのだ、という程度の意味だ。


世の中を見渡せば、「この中に、本当に痩せるダイエット方法がある」とか、
「この中に、本当にあなたを幸せにする生き方が、価値観がある」とか、
「この世の中には、赤い糸で結ばれた、あなたに相応しい伴侶がいる」とか、
「本当の進路、職場、老後がある」とか「本当の政党、政策、思想がある」とか、
「食べ物がある」とか「安全がある」とか「教育方法が」とか「正しさが」とか、
挙げればきりが無いくらい、正しい道筋を示唆する情報で満ち溢れている。
私達は個々人の関心に従ってそれらの情報や実物やらを生業として手にするし、
場合によっては個人で情報や実物を作り出し、発信してみたりすることもある。
私達には個人的な欲望や、社会的な責任感・使命感が多少はあるに違いなくて、
経済も政治も法律も教育も、どれも全て決定することで未来へと繋がっている。
「答えが無いから選ばない」的なスタンスでは社会も個人の人生も成り立たない。
(逆に言えば、答えが無くても選んでしまえば何とかなる。「答え」涙目wwwww)
非決定をあえて語るのは、せいぜいが真摯な宗教者か変人の哲学者くらいのもので、
この『千と千尋の神隠し』が、物質文明を説教しているように見えるのも、
登場するキャラクターや世界観のためというよりは、この宗教性のためだと思う。


決定的な場面で選択肢の中に答えが無いから選ばない、という生き方は不可能だ。
私達はどう頑張っても、自分達は千よりもカオナシに似ていると結論せざるを得ない。
物語の中の千の生は、その労働と時間を費やして得るものはとても少なく、
与えられても拒み、せっかく手にしたものがその手からこぼれ落ちるのは早い。
意志しつつ放棄し、関心を持ちつつ放棄することで、生はゼロへと近似する。
「ゼロになる体 満たされてゆけ」と心地よい主題歌は歌っている。
空の容器に水が入るように満たされるのではない。ゼロそのもので満たされる。
それはつまりは死ということであり、千は死ぬことによって元の世界への道を開く。
彼岸で死ぬことで、振り返ってはならない道を通り、此岸へと戻ることができる。
放棄することの極北がここにある。それは本来性へと帰還する道なのだ。
物質文明は人間にとっては彼岸であり、あの世である。カオナシは本来性を喪失している。
と、この口調は、「死後の世界が真の世界である」とホザく宗教とよく似ている。
宗教は悪くない。このような言葉を宗教に任せきりにしていた非宗教の怠慢だ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

『英国王 給仕人に乾杯!』

『英国王 給仕人に乾杯!』
(イジー・メンツェル監督 2006年 チェコ/スロヴァキア)
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背の低い野心家の給仕人が、1930年〜1960年代のチェコを生きる話。

この時代の、ドイツとソ連に挟まれた国を舞台にしているものの、
主人公が戦火に巻き込まれていないため、直接的な戦争表現は無い。
内容はむしろいい歳をぶっこいた、名も実もある良識ある大人達の乱痴気騒ぎだ。
町のカフェでの名士の馬鹿話、ブルジョワの暮らすチホタ荘での豪奢な暮らし、
ホテル・パリでの女体+食事、これらが楽しそうな雰囲気と共にスクリーンに現れる。
そして戦争(最大の乱痴気騒ぎだが)が始まると、ナチスの優生学研究の名の下に、
給仕人かつチェコ人の主人公は、全裸のアーリア人種の女性達の世話をする。
「何も見るな。何も聞くな」「すべて見ろ。すべて聞け」という給仕人の心得を、
見習いの頃に教わっていた主人公だが、ここでは積極的に全裸の女性達に無視される。


映画では、彼が乱痴気騒ぎの「おこぼれ」を貰う場面が多々ある。
それは女であったり、金であったり、勲章であったり、高額な切手であったりする。
切手は彼の妻がユダヤ人から回収してきたもので、それら僥倖は歴史の気まぐれで、
彼の足元に投げ出された硬貨のようなものだ。彼はそれを拾い、財を成し、投獄される。

この歴史の悪い冗談の中、英国王給仕人をしていたというホテル・パリの給仕長は、
ナチスに従わなかったとか、多分そういう理由でホテルから連れて行かれてしまう。
同じ頃、熱烈なヒトラー信者の女性と付き合っていた主人公は、彼女と結婚するため、
アーリア人女性を孕ませるのに相応しい遺伝子かどうか、優生学的な検査をする。
で、ヌードピンナップでオナニーをするわけだけど、その部屋にはラジオがあり、
そこからは、空気を読まずに、「ナチスの反逆分子」の名前が読み上げられている。
画面にはトラックから降りる若い男達と、降りた先で銃をもてあそぶ兵隊が映る。
主人公はその放送が流れる部屋の中で、優生学的な検査のための精子を搾り出す。
そしてやがて、太った看護婦の手伝いもあり、カップの中に精子が溜まっている。

ナチスに連れ去られたあの偉大な給仕長・英国王支給人に乾杯するその杯の中には、
恐らくこの精子が入っている。乱痴気騒ぎの極地で、優生学だけが杯を満たすのだ。
人間の尊厳も美酒も人生も何もかもが、アホみたいな騒擾の中で姿を消してしまう。
優生学研究所は、戦争が進む中で、全裸の負傷兵がノロノロと行きかう療養所と化す。
優生学すらも最後には残らない。2月革命により、主人公の「おこぼれ」も没収され、
栄誉ある勲章も、やがては山羊の肩にかけられて土に汚れるままになってしまう。

時代の馬鹿騒ぎが歴史を紡ぐのなら、歴史とはそもそもコメディのようなものだ。
この映画の最後は、ビールのCMのような科白で幕を閉じる。
幕引きに相応しい美しい言葉は、杯に精子が満たされた時に死んだのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

「小悪魔ageha」が面白い

小悪魔 ageha (アゲハ) 2009年 03月号
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発行部数が30万部ほどの、キャバ嬢御用達の雑誌。ファッション中心。
なのにティーンズのコーナーによく置かれているのは気のせいではないはず。

今月発売の3月号を数ページ開くと、女の子44人が見開きで合掌している。
飯島愛の追悼らしくて、文芸誌なら作家が死ねば文章で追悼するのだろうが、
そんな言葉を持たない「小悪魔ageha」は、着飾った子達を黙祷させて追悼する。
モデルや編集者個々人による飯島愛談義もない。(接点が無かったのだろうか。)
そもそも44人の女性が黒服で合掌して並べられているというのも妙な構図で、
例えばこの眼を閉じて顎の前で手を合わせている姿を、44体、木彫りの像にして、
歌舞伎町のビルの一室を買い取ってその壁や廊下に等間隔に並べてみれば面白い。
漁師や農家が、近くの山や神社で仕事の安全や大漁・豊作を祈願をするように、
キャバ嬢にも、自身の職の安泰を願う、聖域のようなものがあってもいいと思う。


「小悪魔ageha」という雑誌は、そこそこ売れているのにやっていることが面白い。
例えば今月号の表紙には、デフォルトとなっているキラキラした文字でこうある。


生まれたときから
日本はこんな感じで、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛するもの、
買ったもの、
着てるもの
オール407コ!!!



「そして」の前後の文が繋がってないのはご愛嬌に違いない。
『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展 柳内圭雄 光文社新書)を
意識したような、そんな社会の眼差しを先取りして大急ぎで内在化したような、
雑誌のターゲットとは違う層、というか社会一般に語りかけている感じがイイ。
この今月号の表紙の一文は、他の雑誌で例えるなら、「ゆほびか」の表紙に、


人の欲望には
限りがないから
インチキだろ
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
お薦めする、
簡単ダイエット、
簡単開運法
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「ザ・テレビジョン」の表紙に


地デジ化を
進めなきゃいけないのに、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛して欲しいもの、
買わせたいもの、
流行らせたいもの
オール407番組!!!



って書いてあるようなものだ。「週刊新潮」の表紙に


真実とか嘘とか
そんなものに興味ないのに
社長にも責任がある
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
スクープした記事、
パパラッチした記事、
捏造した記事
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「潮」や「パンプキン」の表紙に(以下割愛)。


と、このように、「小悪魔ageha」のスタンスは面白いし、誠実ですらある。
ちなみにこの雑誌、メンヘル的な特集を組んだ先月号の表紙も変わっていた。


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泣いている表紙は女性誌では稀有。そもそも涙は雑誌の表紙を滅多に飾らない。
(最近の例では、映画雑誌の小栗旬や、引退セレモニーで泣いた清原くらいか?)
その先月号の内容はまぁ、ありがちな不幸自慢なんだけど、キャバ嬢の口から、
「本当は『フルーツバスケット』の本田透みたいな子になりたかった」とか、
そんなことを言われたら私なら確実に食いつくと思います。2時間くらいガッツリと。
本田透に憧れるというのは、実はそれほどイイ傾向ではないんですけどね。
それはいいとして、こういう特集がなされるのも、雑誌としてスゴイ誠実です。
彼女達キャバ嬢は、勝間和代的な女性の陰画だと、読んでいてそう思いました。
「小悪魔ageha」は、カツマーを敵視しつつ、女性のボトムアップに貢献すべきです。
雑誌として下流に片足を突っ込んでいるのは、当人達も自覚しているはずですから、
三下のオピニオン誌どもが党派性にまみれている横で、頑張って欲しいところです。
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2009年02月11日

パレスチナ、下顎、耐えるということ

大阪の団体、村上春樹さんに「エルサレム賞」辞退求める
2009年2月10日(火)20:38



村上春樹の受賞とは全然関係のないことを書いてます。


アウシュビッツ(それにベトナム)の後で詩を書くことは野蛮らしいが、
現在進行形でフルボッコなパレスチナの中、そのパレスチナと同居する世界の中で、
小説を書いたり、それを読んだり、賞をあげたりすることも野蛮なのだろうか。

「現実的なものは理性的である」という虚言が虚言として退けられ、
目の前の世界を美しいものとして肯定することも困難になって久しい。
原始時代のような「サバイバル」が、文明の中で当然視されたとき、
文明は野蛮と、モダンは原始時代と肩を並べている事実に直面する。
作家でなくとも、その程度のことは中学生でも薄々分かっていることだが。


大学にいた頃、テレビで見たパレスチナの初老の詩人は、
自分達の住む町のことを「上顎の無い頭蓋骨」だと詩に書いた。
テレビカメラは詩人を映し、黄ばみ、角が削げ落ちた建物が点々と佇立する町を、
恐らく丘の上からパンで撮影していたが、その町並みは如何にも下顎に見えた。
とっくの昔に白骨化して、人知れず1000年ほど経過した老人の顎の骨に見えた。

パレスチナには下顎しかない、という語りには喪失感がつきまとって離れない。
そこに主要部分は無く、その空いたスペースには青空が詰め込まれている。
目も鼻耳も失って、頭蓋骨は世の理不尽に奥歯を噛んで耐えることも出来ない。
奥歯を噛みしめる、というのは、耐えるという受動的な行為の中の能動性で、
それならば弁証法的な契機もあるのかもしれないが、パレスチナにその契機は無い。
彼らが世の理不尽に耐えているように見えるのは、「天井のない檻」の名に相応しく、
他に行く場所がないからにすぎない。それは「耐えている」と呼ぶのも憚られる。


その空虚さを埋めるのは食べ物ではなく、文学なのだ、と言ってみるのもいいし、
戦地でベケットを演じてみたり、名作をアフリカに届けてみたりするのもいいけど、
ここで語られている文学なるものは、パレスチナに広がる青空みたいなもので、
要するに上顎の代替物にはならないし、青空は足りているのだから余計ですらある。
そもそも、そんないい加減なことを大言壮語する奴を信用するのはとても難しい。
演劇や文学を不毛の地に持ち込む態度、「芸術は素晴らしいYO!」という態度、
世界に生じつつある現実を「それでもなお!」とか言いながら肯定する態度、
そのような、富める芸術家・文学者達の心理は、端的に言って鼻につく。
「それでも頑張って生きていこう」的なことを歌うJ-POPくらい鼻につく。

詩や文学が、もはや易々と現実的なものを肯定したりできなくなったとしても、
取り巻く状況について言及すること自体は、まだ無効化されてはいないだろう。
そもそも、町を下顎に喩えたあの詩を、アドルノは野蛮だとは考えないだろう。
詩人が町には上顎が無いと語ることで、うっすらと見えてくるパレスチナがある。
アドルノが問うたのは、そのような欠如した、肯定できそうにない現実であり、
白リン弾やらテロリズムを語る新聞の、その散文では届かない現実だったはずだ。
そのような状況を知るということ、言葉で把握し、たまに思い出すと言うこと、
そういうのはある種の、文学的な知恵であり、知恵であるなら力でもあるだろう。
肯定することも耐えることもできない理不尽な現状を、詩を通じて把握することで、
そこに初めて能動的な力が生じるかもしれない。ほとんど戯言のような話だが。
posted by 手の鳴る方へ at 08:39| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

平成二十年二条河原落書

このごろ都に流行るもの 用品高騰 謀古紙
召人橋下「クソ教委」 田母神 海賊 自由チベット

中山大臣迷い者 アラフォー大賞 モナ二岡
本領離るる蘇民祭 番組辞めたる細木嫗

『相棒』 JAPAiN せんとくん 下克上するまんとくん
企業堪否沙汰もなく 漏るる人あり内定者

居慣れぬ監獄 詐欺の小室
持ちも慣らわぬ聖火持ちて 代理が歌う珍しや
管理職なる店長は 我も我もと見ゆれども
好まなりける偽りは 愚かなるにや劣るらん

麻生総理の言い間違い 豪雨 楊逸 クズ汚米
四川の土地の大地震 『蟹工船』の再出荷
下衆上臈の際もなく 大阪で燃えるビデオ店

今年時価総額上げず 引くに引きえぬ市場者
落馬G1で勝りたり
誰を師匠となけれども 遍く流行るオバマ節 事新しき風情也

与党野党をこき混ぜて 一座揃わぬ日銀人事
在々所々に裏サイト 勝者になれぬNOVAウサギ
譜代非成の差別なく GM往昔の世界なり

支持を沈めし角界の ウザい旧式の掟により
只品有りし力士も皆 なめんだらにぞ今はなる

朝にバナナを食べながら 「羊水腐る」倖田來未
謝罪に及ばぬ事ぞなし
させる修養無けれども 過分に昇任するものあり
定めて損ぞあるらんと 仰ぎて信をとる教師

天下統一珍しや
御代に生まれて様々の 事を見聞くぞ不思議共
京童の口すさみ 十分の一ぞもらすなり


おそまつ
posted by 手の鳴る方へ at 09:13| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする