2009年06月06日

『千と千尋の神隠し』〜放棄について〜

語り尽くされた感があるけれど、千とカオナシのスタンスの違いは面白い。
例えば「千は全部捨てる。カオナシは全部拾う」と言ってみるのはどうだろう。
「千は後先考えず捨てる。カオナシは後先考えず拾う」と言ってみるのは。

千は油屋で働いているときに、催吐剤としてのニガ団子を手に入れた。
最初にまずその半分を、銭婆の呪いにやられて、のた打ち回るハクに与え、
「本当は両親にあげるつもりだった」もう片方を肥大しきったカオナシに与えた。
4枚綴りの電車のチケットも、帰りの分を無視して全部使い切ってしまった。
カオナシが出した黄金は手にしなかった。宮崎駿作品の真っ当なヒロインらしく、
「私の欲しいものは、あなたには絶対に出せない」と、申し出を拒否していた。


また、物語のクライマックス、銭婆の所からの帰り、ハクが名前を思い出した後、
千が12匹の豚の中から、物語冒頭で豚になった両親を探し当てるシーンがあるが、
そこで千はどの選択肢も選ばなかった。12の可能性を全て捨ててしまったと言える。

私はこのシーンが大好きだ。物語の最中に、何のフラグも立ってないはずなのに、
決定的な場面で選択肢の中に答えが無いことを言い当てる、その正しさが好きだ。
「正しさ」とは、決定的な場面で、目前の選択肢の中に答えが無い、という点で、
そこに答えが無いのなら、ならば選ばないことが正しいのだ、という程度の意味だ。


世の中を見渡せば、「この中に、本当に痩せるダイエット方法がある」とか、
「この中に、本当にあなたを幸せにする生き方が、価値観がある」とか、
「この世の中には、赤い糸で結ばれた、あなたに相応しい伴侶がいる」とか、
「本当の進路、職場、老後がある」とか「本当の政党、政策、思想がある」とか、
「食べ物がある」とか「安全がある」とか「教育方法が」とか「正しさが」とか、
挙げればきりが無いくらい、正しい道筋を示唆する情報で満ち溢れている。
私達は個々人の関心に従ってそれらの情報や実物やらを生業として手にするし、
場合によっては個人で情報や実物を作り出し、発信してみたりすることもある。
私達には個人的な欲望や、社会的な責任感・使命感が多少はあるに違いなくて、
経済も政治も法律も教育も、どれも全て決定することで未来へと繋がっている。
「答えが無いから選ばない」的なスタンスでは社会も個人の人生も成り立たない。
(逆に言えば、答えが無くても選んでしまえば何とかなる。「答え」涙目wwwww)
非決定をあえて語るのは、せいぜいが真摯な宗教者か変人の哲学者くらいのもので、
この『千と千尋の神隠し』が、物質文明を説教しているように見えるのも、
登場するキャラクターや世界観のためというよりは、この宗教性のためだと思う。


決定的な場面で選択肢の中に答えが無いから選ばない、という生き方は不可能だ。
私達はどう頑張っても、自分達は千よりもカオナシに似ていると結論せざるを得ない。
物語の中の千の生は、その労働と時間を費やして得るものはとても少なく、
与えられても拒み、せっかく手にしたものがその手からこぼれ落ちるのは早い。
意志しつつ放棄し、関心を持ちつつ放棄することで、生はゼロへと近似する。
「ゼロになる体 満たされてゆけ」と心地よい主題歌は歌っている。
空の容器に水が入るように満たされるのではない。ゼロそのもので満たされる。
それはつまりは死ということであり、千は死ぬことによって元の世界への道を開く。
彼岸で死ぬことで、振り返ってはならない道を通り、此岸へと戻ることができる。
放棄することの極北がここにある。それは本来性へと帰還する道なのだ。
物質文明は人間にとっては彼岸であり、あの世である。カオナシは本来性を喪失している。
と、この口調は、「死後の世界が真の世界である」とホザく宗教とよく似ている。
宗教は悪くない。このような言葉を宗教に任せきりにしていた非宗教の怠慢だ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(1) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

『英国王 給仕人に乾杯!』

『英国王 給仕人に乾杯!』
(イジー・メンツェル監督 2006年 チェコ/スロヴァキア)
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背の低い野心家の給仕人が、1930年〜1960年代のチェコを生きる話。

この時代の、ドイツとソ連に挟まれた国を舞台にしているものの、
主人公が戦火に巻き込まれていないため、直接的な戦争表現は無い。
内容はむしろいい歳をぶっこいた、名も実もある良識ある大人達の乱痴気騒ぎだ。
町のカフェでの名士の馬鹿話、ブルジョワの暮らすチホタ荘での豪奢な暮らし、
ホテル・パリでの女体+食事、これらが楽しそうな雰囲気と共にスクリーンに現れる。
そして戦争(最大の乱痴気騒ぎだが)が始まると、ナチスの優生学研究の名の下に、
給仕人かつチェコ人の主人公は、全裸のアーリア人種の女性達の世話をする。
「何も見るな。何も聞くな」「すべて見ろ。すべて聞け」という給仕人の心得を、
見習いの頃に教わっていた主人公だが、ここでは積極的に全裸の女性達に無視される。


映画では、彼が乱痴気騒ぎの「おこぼれ」を貰う場面が多々ある。
それは女であったり、金であったり、勲章であったり、高額な切手であったりする。
切手は彼の妻がユダヤ人から回収してきたもので、それら僥倖は歴史の気まぐれで、
彼の足元に投げ出された硬貨のようなものだ。彼はそれを拾い、財を成し、投獄される。

この歴史の悪い冗談の中、英国王給仕人をしていたというホテル・パリの給仕長は、
ナチスに従わなかったとか、多分そういう理由でホテルから連れて行かれてしまう。
同じ頃、熱烈なヒトラー信者の女性と付き合っていた主人公は、彼女と結婚するため、
アーリア人女性を孕ませるのに相応しい遺伝子かどうか、優生学的な検査をする。
で、ヌードピンナップでオナニーをするわけだけど、その部屋にはラジオがあり、
そこからは、空気を読まずに、「ナチスの反逆分子」の名前が読み上げられている。
画面にはトラックから降りる若い男達と、降りた先で銃をもてあそぶ兵隊が映る。
主人公はその放送が流れる部屋の中で、優生学的な検査のための精子を搾り出す。
そしてやがて、太った看護婦の手伝いもあり、カップの中に精子が溜まっている。

ナチスに連れ去られたあの偉大な給仕長・英国王支給人に乾杯するその杯の中には、
恐らくこの精子が入っている。乱痴気騒ぎの極地で、優生学だけが杯を満たすのだ。
人間の尊厳も美酒も人生も何もかもが、アホみたいな騒擾の中で姿を消してしまう。
優生学研究所は、戦争が進む中で、全裸の負傷兵がノロノロと行きかう療養所と化す。
優生学すらも最後には残らない。2月革命により、主人公の「おこぼれ」も没収され、
栄誉ある勲章も、やがては山羊の肩にかけられて土に汚れるままになってしまう。

時代の馬鹿騒ぎが歴史を紡ぐのなら、歴史とはそもそもコメディのようなものだ。
この映画の最後は、ビールのCMのような科白で幕を閉じる。
幕引きに相応しい美しい言葉は、杯に精子が満たされた時に死んだのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

「小悪魔ageha」が面白い

小悪魔 ageha (アゲハ) 2009年 03月号
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発行部数が30万部ほどの、キャバ嬢御用達の雑誌。ファッション中心。
なのにティーンズのコーナーによく置かれているのは気のせいではないはず。

今月発売の3月号を数ページ開くと、女の子44人が見開きで合掌している。
飯島愛の追悼らしくて、文芸誌なら作家が死ねば文章で追悼するのだろうが、
そんな言葉を持たない「小悪魔ageha」は、着飾った子達を黙祷させて追悼する。
モデルや編集者個々人による飯島愛談義もない。(接点が無かったのだろうか。)
そもそも44人の女性が黒服で合掌して並べられているというのも妙な構図で、
例えばこの眼を閉じて顎の前で手を合わせている姿を、44体、木彫りの像にして、
歌舞伎町のビルの一室を買い取ってその壁や廊下に等間隔に並べてみれば面白い。
漁師や農家が、近くの山や神社で仕事の安全や大漁・豊作を祈願をするように、
キャバ嬢にも、自身の職の安泰を願う、聖域のようなものがあってもいいと思う。


「小悪魔ageha」という雑誌は、そこそこ売れているのにやっていることが面白い。
例えば今月号の表紙には、デフォルトとなっているキラキラした文字でこうある。


生まれたときから
日本はこんな感じで、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛するもの、
買ったもの、
着てるもの
オール407コ!!!



「そして」の前後の文が繋がってないのはご愛嬌に違いない。
『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展 柳内圭雄 光文社新書)を
意識したような、そんな社会の眼差しを先取りして大急ぎで内在化したような、
雑誌のターゲットとは違う層、というか社会一般に語りかけている感じがイイ。
この今月号の表紙の一文は、他の雑誌で例えるなら、「ゆほびか」の表紙に、


人の欲望には
限りがないから
インチキだろ
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
お薦めする、
簡単ダイエット、
簡単開運法
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「ザ・テレビジョン」の表紙に


地デジ化を
進めなきゃいけないのに、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛して欲しいもの、
買わせたいもの、
流行らせたいもの
オール407番組!!!



って書いてあるようなものだ。「週刊新潮」の表紙に


真実とか嘘とか
そんなものに興味ないのに
社長にも責任がある
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
スクープした記事、
パパラッチした記事、
捏造した記事
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「潮」や「パンプキン」の表紙に(以下割愛)。


と、このように、「小悪魔ageha」のスタンスは面白いし、誠実ですらある。
ちなみにこの雑誌、メンヘル的な特集を組んだ先月号の表紙も変わっていた。


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泣いている表紙は女性誌では稀有。そもそも涙は雑誌の表紙を滅多に飾らない。
(最近の例では、映画雑誌の小栗旬や、引退セレモニーで泣いた清原くらいか?)
その先月号の内容はまぁ、ありがちな不幸自慢なんだけど、キャバ嬢の口から、
「本当は『フルーツバスケット』の本田透みたいな子になりたかった」とか、
そんなことを言われたら私なら確実に食いつくと思います。2時間くらいガッツリと。
本田透に憧れるというのは、実はそれほどイイ傾向ではないんですけどね。
それはいいとして、こういう特集がなされるのも、雑誌としてスゴイ誠実です。
彼女達キャバ嬢は、勝間和代的な女性の陰画だと、読んでいてそう思いました。
「小悪魔ageha」は、カツマーを敵視しつつ、女性のボトムアップに貢献すべきです。
雑誌として下流に片足を突っ込んでいるのは、当人達も自覚しているはずですから、
三下のオピニオン誌どもが党派性にまみれている横で、頑張って欲しいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:57| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

パレスチナ、下顎、耐えるということ

大阪の団体、村上春樹さんに「エルサレム賞」辞退求める
2009年2月10日(火)20:38



村上春樹の受賞とは全然関係のないことを書いてます。


アウシュビッツ(それにベトナム)の後で詩を書くことは野蛮らしいが、
現在進行形でフルボッコなパレスチナの中、そのパレスチナと同居する世界の中で、
小説を書いたり、それを読んだり、賞をあげたりすることも野蛮なのだろうか。

「現実的なものは理性的である」という虚言が虚言として退けられ、
目の前の世界を美しいものとして肯定することも困難になって久しい。
原始時代のような「サバイバル」が、文明の中で当然視されたとき、
文明は野蛮と、モダンは原始時代と肩を並べている事実に直面する。
作家でなくとも、その程度のことは中学生でも薄々分かっていることだが。


大学にいた頃、テレビで見たパレスチナの初老の詩人は、
自分達の住む町のことを「上顎の無い頭蓋骨」だと詩に書いた。
テレビカメラは詩人を映し、黄ばみ、角が削げ落ちた建物が点々と佇立する町を、
恐らく丘の上からパンで撮影していたが、その町並みは如何にも下顎に見えた。
とっくの昔に白骨化して、人知れず1000年ほど経過した老人の顎の骨に見えた。

パレスチナには下顎しかない、という語りには喪失感がつきまとって離れない。
そこに主要部分は無く、その空いたスペースには青空が詰め込まれている。
目も鼻耳も失って、頭蓋骨は世の理不尽に奥歯を噛んで耐えることも出来ない。
奥歯を噛みしめる、というのは、耐えるという受動的な行為の中の能動性で、
それならば弁証法的な契機もあるのかもしれないが、パレスチナにその契機は無い。
彼らが世の理不尽に耐えているように見えるのは、「天井のない檻」の名に相応しく、
他に行く場所がないからにすぎない。それは「耐えている」と呼ぶのも憚られる。


その空虚さを埋めるのは食べ物ではなく、文学なのだ、と言ってみるのもいいし、
戦地でベケットを演じてみたり、名作をアフリカに届けてみたりするのもいいけど、
ここで語られている文学なるものは、パレスチナに広がる青空みたいなもので、
要するに上顎の代替物にはならないし、青空は足りているのだから余計ですらある。
そもそも、そんないい加減なことを大言壮語する奴を信用するのはとても難しい。
演劇や文学を不毛の地に持ち込む態度、「芸術は素晴らしいYO!」という態度、
世界に生じつつある現実を「それでもなお!」とか言いながら肯定する態度、
そのような、富める芸術家・文学者達の心理は、端的に言って鼻につく。
「それでも頑張って生きていこう」的なことを歌うJ-POPくらい鼻につく。

詩や文学が、もはや易々と現実的なものを肯定したりできなくなったとしても、
取り巻く状況について言及すること自体は、まだ無効化されてはいないだろう。
そもそも、町を下顎に喩えたあの詩を、アドルノは野蛮だとは考えないだろう。
詩人が町には上顎が無いと語ることで、うっすらと見えてくるパレスチナがある。
アドルノが問うたのは、そのような欠如した、肯定できそうにない現実であり、
白リン弾やらテロリズムを語る新聞の、その散文では届かない現実だったはずだ。
そのような状況を知るということ、言葉で把握し、たまに思い出すと言うこと、
そういうのはある種の、文学的な知恵であり、知恵であるなら力でもあるだろう。
肯定することも耐えることもできない理不尽な現状を、詩を通じて把握することで、
そこに初めて能動的な力が生じるかもしれない。ほとんど戯言のような話だが。
posted by 手の鳴る方へ at 08:39| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

平成二十年二条河原落書

このごろ都に流行るもの 用品高騰 謀古紙
召人橋下「クソ教委」 田母神 海賊 自由チベット

中山大臣迷い者 アラフォー大賞 モナ二岡
本領離るる蘇民祭 番組辞めたる細木嫗

『相棒』 JAPAiN せんとくん 下克上するまんとくん
企業堪否沙汰もなく 漏るる人あり内定者

居慣れぬ監獄 詐欺の小室
持ちも慣らわぬ聖火持ちて 代理が歌う珍しや
管理職なる店長は 我も我もと見ゆれども
好まなりける偽りは 愚かなるにや劣るらん

麻生総理の言い間違い 豪雨 楊逸 クズ汚米
四川の土地の大地震 『蟹工船』の再出荷
下衆上臈の際もなく 大阪で燃えるビデオ店

今年時価総額上げず 引くに引きえぬ市場者
落馬G1で勝りたり
誰を師匠となけれども 遍く流行るオバマ節 事新しき風情也

与党野党をこき混ぜて 一座揃わぬ日銀人事
在々所々に裏サイト 勝者になれぬNOVAウサギ
譜代非成の差別なく GM往昔の世界なり

支持を沈めし角界の ウザい旧式の掟により
只品有りし力士も皆 なめんだらにぞ今はなる

朝にバナナを食べながら 「羊水腐る」倖田來未
謝罪に及ばぬ事ぞなし
させる修養無けれども 過分に昇任するものあり
定めて損ぞあるらんと 仰ぎて信をとる教師

天下統一珍しや
御代に生まれて様々の 事を見聞くぞ不思議共
京童の口すさみ 十分の一ぞもらすなり


おそまつ
posted by 手の鳴る方へ at 09:13| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

『それでも町は廻っている』

石黒正数 『それでも町は廻っている 5』(少年画報社)
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原作者のいる作品が一番面白くないという珍しい漫画家の新刊。


日常を描いているようで、時々、異星人とか変な水棲生物とかが出てくる。
登場人物達はそれらの手前で、背を向けて、無意識にスィッと日常へ引き返すし、
幽霊や異星人や水棲生物が別段、今後の展開の重要な伏線になるわけでも多分ない。
それらはケレン味のある見た目とは裏腹に、日常を変えることを期待されていない。
むしろ日常はそれらが不在である間に、不在であることを原動力として動いている。
事件や異物や秘密など、劇的なものの非現前こそが実は日常なのだという発想は、
よく考えれば怖いのだけど、この漫画の日常は多分、それらに巻き込まれはしない。
それはコメディだからとか、お気楽だからとか、主人公が女子高生だからではなくて、
現に「それでも町は廻っている」から、それが自然・本性(nature)だからだと思います。
って、あまり上手くないオチですね。25点。



しかしこの作者は、雪女の話にしても、亀井堂のねーちゃんが出てた話にしても、
『それ町』と『ネムルバカ』の主人公の名前にしても、そういうのが好きみたいだね。
尾谷高校とか、河井荘とかね。比音小学校って名前にも何かあるのかもね。
posted by 手の鳴る方へ at 10:26| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芸とTV

あらかじめ言い訳しておくと、内容とまとまりの無いことをダラダラ書いてます。
しかも、ここ数ヶ月、お笑い番組どころかTVを見ていない人間が書いてます。





「何故TVはこのようなコンテンツを作ってこなかったのだろう?」と、ふと思った。
「このような」とは、漫才という形を保ちつつ、舞台上に急に扉や電話が現れたり、
別撮りの、目玉のオヤジや魅魔様やテレサや骸骨が、要するに舞台上の漫才師以外が、
漫才の中に、編集の時点で意図的に差し挟まれる、そういう作り方のことを指している。
このコンテンツの目新しさは、Sims2の多様な表現とか東方とかそういう話ではなくて、
漫才なのに演者や舞台が、コンテンツの中で要素の一部と化している、という点にある。
で、TVなら、この類のコンテンツだって簡単に作れるはずなのに、全く試みられていない。
TVのお笑いコンテンツで人間が不在なのは、「オー! マイキー」くらいしか知らない。
まぁ、「オー! マイキー」はむしろ静止画の紙芝居(特に電脳紙芝居)の系譜っぽいが。


TVでやっている漫才番組は、演芸場でできる漫才と同じモノをお茶の間に届けている。
TVの前にいる視聴者と、客席で観客の見ている漫才の内容は、名目上は一致しているし、
番組製作者は、舞台の上に現れる芸や芸人が、コンテンツの中心となることを疑わない。
編集で添加されるのは笑い声やテロップ、客席や司会者、審査員の様子くらいなもので、
他の番組に比べたら、編集の手をなるだけ介在させないことに意識が向けられている。
それはほぼプレーンなまま、分かりやすく料理風に言えば「素材の良さをそのままに」
お笑いコンテンツが制作されている。舞台の上は隠れる場所がないし、隠す誰かもいない。

と言うことは、漫才コンテンツの関係者は、舞台上に生じる演芸の空間だけで、
お笑いのコンテンツは完成し得るし、現に完成していると考えていることになる。
つまりTVのこの発想は、演芸場の発想とほとんど同じであると言ってもいいはずで、
TVと芸の関係を否定的に考えることは、間接的に「舞台的なもの」も否定している。
松本人志がいくら「TVではもう勝負できない」とボヤいて映画を撮ったところで、
あるいは日刊ゲンダイがいくら「『M-1』は芸人を育てない」と非難したところで、
漫才、あるいは芸人は、TVよりも大きな舞台を見つけることは決してできないし、
今のTVでは人間不在の、冒頭の動画のようなコンテンツは主流にはなり得ない。

ところで考えるに、何故、主流にはなり得ないのだろうか?

TVの根源にあるのは不特定多数の、つまり大衆の耳目を集めるタレントで、
タレントの定義をせずに話を続けるけど、硬派なドキュメンタリーや教養番組を除いて、
TVのコンテンツの中心には必ずタレントがいなきゃいけないことになっているらしい。
それはTVが黎明期に舞台演芸や映画から引き継ぎ、独自にも成熟させたシステムで、
タレントのことを大衆は話題にするし、タレントを軸にマーケティングは動いている。
上の日刊ゲンダイの記事も、悪意を持ってみれば、芸人のスキルアップの話というより、
M-1で優勝したコンビがカリスマ的なタレントにならないからマーケティング的に辛い、
量産型ばかりでは昨今のTV離れの戦局は打開できないよ、と言っているように見える。

仮に冒頭のような漫才を生身の人間で作ろうとすると、芸人はコンテンツの一部と化し、
編集作業の中で、彼らはスタントマン的な匿名の誰か、諸要素の一つに成り下がってしまう。
今でもTV番組には「再現VTRにでてくるどこかの劇団の役者」みたいな存在が不可欠だけど、
それは、舞台の上にいる間は確実に主役である「使い捨て芸人」よりも過酷かもしれない。
少なくともタレントという見地からすれば、「使い捨て芸人」の方が知名度は高いだろうし、
TVがタレントを求めている限り、安上がりとは言え芸人をそんな役割には貶めないだろう。


冒頭の動画を漫才と呼ぶとすれば、それは舞台的=TV的な発想とは違う視点で作られた漫才で、
舞台上にあった“芸”そのものが変質している。この動画にとって“芸”とは何なのだろう、
というか、そもそも“芸”はあるのか、それはそもそも必要なのかという次元の話なのだが。
ここで身も蓋もないことを言えば、“芸”という誰も定義しない何かが不在でも問題はなくて、
自分が知っている言い回しやキャラ、アニメのワンシーンがそこにあれば十分に満足できて、
それらがTVタレントの代わりに、ネットの中で多くの人々の耳目を集めつつあるのではないか。

まぁ、この結論は度し難いくらいありきたりなんだけど、改めて確認しておきたいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:47| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

鉄の檻の中で妄想する保守

佐伯啓思 『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬社新書)
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私は自分のことを思想的に保守派だとは思っていないし、感化されたこともそれほどないし、
今いる日本の保守言論人の七割については馬鹿だと思っているけど、保守思想自体に恨みはない。
と言うか結構好きなのです。気楽だからブログではポストモダンばっかり紹介してますけど。

日本の保守派は、戦後の日本は狂ってしまったとか、東京裁判で日本人の本質が失われたとか、
そういう風に言いがちだけど、個人的に思うのは、敗戦で狂ってしまったのは単に保守、
保守という言論だけで、日本の大多数の人々は、別に東京裁判にも戦後云々にも興味は無い。
それを指してマインドコントロールだとか平和ボケとか頽廃とか言うのは別にいいけれど、
日本国や日本人を直そうとする前に、保守はまず自身の言葉を反省しろよ、と常々思ってます。


保守の課題として、現代の頽廃、近代化の弊害をどう乗り越え、改善するかという点があるが、
その語り方のパターンは、この本に限らず、大抵は精神論やアイデンティティ論になりがちだ。
近代はウェーバーが言うように「鉄の檻」で、そこから出る術はどうにも見つかりそうに無い。
だからそれを超克しようとする者は、精神だけでもなんとか檻から解き放たれようとするわけで、
武士道とか「無私」とか大伴家持とか「滅びの美学」とかが持ち出され、そして単に消費される。
それらは自由や民主主義をフィクションだと告発し、その欺瞞を気持ちよく暴くのだろうけれど、
「ひとが欺瞞をあばく(デミスティフィエ)のはいっそうよく欺くためなのだ」(p.250)と、
例えばクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房)には書いてあったりするワケです。

つまり、それら保守的な言説も、自由や民主主義と同様、所詮はフィクションとしてしか現れない。
神が死に、大きな物語が消滅した時代の中で、個人と化したデラシネ達が権威不在をいいことに、
底の抜けた社会をフワフワと漂いながら、武士道スゲーとか、特攻隊に思いを馳せるのですが、
その手の保守的な思想によって、現代の抜けた底が埋まったり、根無し草に根が生えるわけでは無い。
「日本の思想だから日本人や日本国には根付くはずだ。本物だ」と言えそうではありますがね。


以前ブログに今村仁司の言葉を引用したけれど、物質に対するそれら精神の対比そのものが、
デカルトから始まる近代の思想構造の枠内にあることは、もう一度改めて言っておいてもいい。
精神論やアイデンティティ論は、檻から出られないから手遊びに行われる妄想のようなもので、
超克の不可能性、大前提として底が抜けていることを、保守の言論人は常に確認して欲しい。
と、偉そうなことを書いているけれど、ここを押さえないと宗教と同じになってしまうのです。
あるいは近代以前に逆戻りと言う、出来もしないフィクションを主張することになるのです。
だから保守の言論というのは、本気で取り組むと結構シンドイはずなのです。これは嫌味ですが。


あと、宗教用語の「無私」という言葉を、思想やらイデオロギーに利用するのはいいけれど、
そもそも「個」して存在している現代人が、帰依もしてないのに「無私」と口走っても仕方ない。
本の中で紹介されていたニーチェも、西洋の中にニルヴァーナ思想が広がるのを危惧しています。
近現代人の仏教的「虚無」への誘惑は、別に今更始まったワケでもないということです。

ここまで書いて気付いたけど、いつもと同じようなことを書いてますね、私。保守の話なのに。
posted by 手の鳴る方へ at 08:37| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月16日

ネコナデ

ネコナデ(漫画 KUJIRA 原作 永森裕二 竹書房)
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リストラを断行する、鬼のような人事部長が猫を拾い、愛でたり困ったりする話。
TVドラマや映画にもなったらしい。以下ネタバレあり。


この本の中でリストラとは、「会社で世話をしますよ」と言っておきながらそれを後年、
会社の都合で反故にする行為のことで、主人公のオッサンは、会社の尖兵としてそれを担う。
「世話を辞めた」と言うのが彼の仕事で、その彼が猫の世話をし始めるのがプロットとしてイイ。

猫を拾って「本当はイイ人」みたいな展開は、昔ならリーゼントの、一匹狼な不良の役目で、
そこで捨て猫に投影される心情は、Stray な、「お前も一人なのか」的なモノだったけれど、
時代がクサクサしてくると、会社の方針に疲れたオッサンがその大役に抜擢されてしまう。
そこに投影されるのは「頼りにされること」だったり、「面倒を見ること」の真剣さで、
逆に言えば「面倒を見ない」という不条理との格闘でもあるワケで、世も末な感じはする。


主人公は最終的に、猫を世話することで自分は変わったと思い、リストラを全部済ませると、
自分自身も会社に辞表を提出し、自宅に戻る。漫画の方では、本編はそこら辺で終わっている。
これは、「パンとサーカス」という言葉があるけれど、現代人を政治的・社会的に盲目にするなら、
猫を一匹、街に放せばそれでどうにかなるようだ、と言いたくなるくらい救いようの無い話だ。
猫一匹で社会の不条理から身を逸らせることができて、汚れ役を忠実に、健康的にこなし、
不満もやや解消され、それなりに満足して、自分は変わったと思えることができて職を辞す。
それでは残った会社が結局は一人勝ちだ。読後感はイイが、事態はそれほど改善していない。

何かそれが悪い、みたいな書き方だけど、個人的には、「世の中は変わるべきだ」とか、
「今の社会は狂ってる」とか言う連中よりは共感できる話だし、主人公についてもそう思う。
大の大人が猫一匹で変わったり、不条理を耐える力を貰ったりするのは滑稽なんだけど、
そういう閉じた、視野の狭い生き方をきちんと肯定できる世の中は、そこそこ正しいはずで、
大上段に振りかぶった「救い」なんかより、この「救いようの無さ」の方がマシだと思うのです。
posted by 手の鳴る方へ at 06:54| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

本に帯はいらないと思う

現世に、不要なものは多々あれど、本の帯ほどむつかしきものはなし。

本屋や本棚の構造によっては、あれって不覚にもビリビリになるじゃないですか。
本棚から抜くときはそうでもないけど、戻すときにうっかりすると破れるじゃないですか。
背表紙を向けているにしろ、表紙を向けているにしろ、ギチギチに差し込まれた本棚に、
本の帯みたいな、防御力の低い、ペラペラした弱卒が入り込むと返り討ちに遭うんですよ。
しかもあれって商品なのか販促なのか、ちょっと微妙なところがあるじゃないですか。
販促なら破っていいワケじゃないし、どちらにしろ買う前に破ると罪悪感があるわけですよ。

何が言いたいかって、本の帯って本屋の構造に適してないんですよ。
大きな本屋なら、ゆったりしたスペースに本も置かれているからいいですよ。
街中の、中規模の、如何にも老舗っぽい本屋なんかを御覧なさいよ。
狭いスペースに本を大量に詰め込むから、密度が高いんですよ。押し合いへし合いですよ。
そこの本棚の隙間には、帯どもの無残な残骸が転がってますよ。ツワモノどもが夢の跡ですよ。
特にムックって言うんですか? あの手の本についてる帯の死亡率は高い気がします。

あと、あれって何て言うんですかね? 平積み? 本を水平に積み上げて売ってるヤツは?
あれならいいんですよ。無駄な圧力をかけてないから、帯に優しい親切設計ですよ。
でも棚に差すともう駄目なんですよ。帯は。もうフルボッコで涙目状態なんですよ。
「次に生まれてくるときは、『うずくまって泣きました』的なポップになりたい・・・」って、
きっと千切れてしまった帯達はそう思ってますよ。帯は広告戦争の最大の犠牲者ですよ。


本の装丁で有名なクラフト・エヴィング商會って人達の作品は、帯も含めて一つの作品で、
私は嫌いではないんだけど、一方で「それはどうなんだ?」という作品もある気がします。


クラフト・エヴィング商會『ないもの、あります』(筑摩書房)
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この本の帯に見える部分は、実はカバーの裏側。つまり一枚の紙を折り畳んでいる。
表(写真の上半分)がクラフト素材で、裏側(写真の下半分)が白い紙。
どうせこんな「作品」と呼ばれるような装丁の本は、街の本屋には置いてないだろうけど、
それにしたって防御力の低い帯が本体と一体化しているなんて、もうね、悪夢ですよ。
切ったら血が出る髪の毛や爪みたいな怖さがある。そこは分離可能にしとけよ、と。
買っても怖いから、きっと本棚に差し込めない。鞄に入れるのも怖い。額に飾るしかない。
発想は面白いし、綺麗な本なんだけど、本棚の構造を前提にするとこれは無いんですよね。

つまりですね、本の帯っていらないと思うんですよ。
帯にこだわるなら、本棚をどうにかしないといけないはずなんですよ。
今の本屋は帯達が生き残るには過酷過ぎるんですよ。現代の蟹工船ですよ。
資本主義ってヤツは、人間の血を啜るだけでは飽き足らず、本の帯まで供犠に付すワケです。
こうしている間に犠牲者は増えてるんですよ。政治は何をやってるんですかね。
posted by 手の鳴る方へ at 07:07| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする