2008年02月28日

マガジンとサンデーが新誌発行

マガジンとサンデーが新誌発行 創刊50年に向け協力
2008年2月27日(水)21:26 KYODO NEWS



これがもしもジャンプとサンデーの合同による新雑誌だったら、
雑誌名が「脳噛探偵コナン」になって、確実に朝目新聞でネタにされてたよね。
指先が何だかよくわからない形状に変形して、それで毛利探偵の脳髄にダイレクトに
イビル・麻酔薬を打ち込んで、主にテグスを使った巧妙なトリックを解決するんだろうね。
「ジンなんてコードネームは中二病っぽいデース。こんな黒服クソ食らえデース」
とか言い出してマインドコントロールしたり、東京を大洪水で沈めたりするんだろうね。


これがジャンプとマガジンの合同による新雑誌なら、「さよなら銀八先生」ってタイトルで、
たまーにイイこと言うんだけど、基本的には世相を切りまくったり、担当やアシをいじったり、
「ジャンプとマガジンが合同で新雑誌をやったって、売り上げとか伸びるワケないじゃん」
とか、
「そうです! 銀行しかり、自治体しかり、時代はまさに合併ブームなのです!」
って感じのことをキャラに言わせるような、メタレベルなネタをしたりするんだろうね。
それで単行本では作者が病的な発言を繰り返したりするんだろうね。


某月某日新宿区某書店にて――
「銀八先生」第一集を手に取り買おうとしている天使ちゃん2人の会話。

「これさー、地獄少女の和服描く資料に使えるかな?」

お買い上げありがとうございます。
これからも私どもはお客様の地獄少女本の資料になるべく
スタッフ一同一層の作画努力をし、
精進していく次第でございます。
チーズ蒸しパンになりたい。



みたいな感じの鬱陶しい手書きの紙ブログが。
いや、もちろん見たいですけどね。



あと、どうせならヤングマガジンとヤングサンデーも合同で新雑誌を作ればいいよ。
タイトルは「頭文字Dr.コトー診療所」とかにして、離島の峠道の5連続ヘアピンカーブで、
日に焼けた老人相手にガードレールターンを決めるヒューマンホスピタルドラマがメイン。
自分でも何を言ってるのか、もう、ビックリするくらい全然わからないけど。

ついでに少女漫画のりぼんとなかよしも合同で新雑誌を作ればいいよね。
漫画の内容はともかく、雑誌の厚さの9割が付録なヤツを作ればいいよ。
いっそのこと10割が付録になってもいいんじゃない?

それとか、「本当にあった愉快なみこすり半劇場」とかね。
「岩谷テンホーのまんがタイムきらら」とかね。
どっちも同じようなモンなんだけど。


というかサンデーとマガジンって購読者層が被ってるんだから合同でやっても意味ないよね。
メガミマガジンあたりと合同で、ヒロインの水着ポスターとかを付録につけた方がいいよね。
あるいは購読者層を限定して、Lidre出版と合同で、ボーイズラブの新雑誌を出したりね。
内容によってはどっちも作者から刺されると思うけど、ジャンプに勝つにはそのくらいしないと。


で、サンデーとマガジンが共倒れしたところを、チャンピオンが光の速さで売り上げを伸ばします。
(※このブログは「チャンピオンは少年漫画雑誌のチャンピオン」を合言葉に活動しています。)
posted by 手の鳴る方へ at 05:15| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月27日

いいよね、枯山水って

枯山水とは、水を一切使わず、白砂や岩で自然を模している庭のこと。
大徳寺の塔頭(禅宗寺院の脇寺)の大仙院や龍安寺など、京都のそれが有名。


枯山水の自然表現は、能や狂言、水墨画などの様に、如何にも日本的で抽象的だ。
「抽象的」とか言うと、何か難しい、衒学的なイメージしかないだろうけれど、
abstraction には「要約」とか「要素に分解して取り出したモノ」って意味もある。
ある対象の要約だから、本当は「抽象的でよくわかる」と言ってもいいはずで、
枯山水は善く自然を表現している、という主張にはそれなりに納得できる人もいるだろう。
(そもそも現代人の自然観と、枯山水の神仙思想的なそれとは全然別物なのだが。)

一方、枯山水に表現されている自然とは、枯山水の庭の外、借景のさらに向こう側、
広大に広がっている海や山、雲、星、空、広野、丘陵、河川や泉、岸辺の類では「無い」。
それら具体的な広がりと枯山水には、前者をモデル、後者をその表現とする関係は無い。
庭の外、現実にある自然は、自然にとてもよく似た、錯覚させられる別の何かであり、
山稜を楔形に飛ぶ渡り鳥や、海に沈む夕日、路傍の花を見て、人が自然を感じるように、
人は枯山水からも自然を感じる。そういう意味で、その美的な地位は双方ともに同格だ。

と、このような書き方をすると、まるで目に見える自然の背後にイデア的な自然があって、
枯山水もそれを表象しているように取れるかもしれないけれど、もちろんイデアなんて無い。
少なくとも現代では無視することになってる。つまりここには表現される側の準拠枠が無い。
枯山水は自然表現と言われているけれど、表現される側の自然はどこにも実在しない。
それは記号表現としての自然であって、その諸記号も諸実在と対応しているワケではない。
しかし、枯山水は、だからと言って、何も表現していないワケではないし、誰もそう思っていない。


この状況に似た比喩がある。M.C.エッシャーの絵の中に『描きあう両手』というタイトルがある。
描かれた手が紙から浮き出て、自分を描いたペンを持つ手を描いている。しかもお互いに。
どちらが本当に描かれた手なのだろうか、という問いは、ここではさして意味を成さない。
起源も中心も合目的性すらも無く、それらは円環する。記号も記号自身に準拠している。


さっきイデアと呼んだものを、アウラと呼べばベンヤミンの複製技術の話になる。
ウォーホルから枯山水に至るまで、現代の芸術は複製マシーンとしての芸術だ。
マリリン・モンローやキャンベル缶が反復されるように、記号は無根拠に反復される。
再生産が生産を豹変させた。それに気が付いたのはベンヤミンとマクルーハンだった。
と、そのようにボードリヤールは述べている。もっと言えば、生産は死んでしまった。
そもそも今回の話題全体が、ボードリヤールのシミュラークル論を前提としている。
枯山水はシミュラークルだ。丸山圭三郎もどこかでそう書いていたと思う。多分。


そんなことを、ホテルの中、ガラスの向こう側にあった枯山水を見て思いました。
現代的な、清潔で、表面がピカピカの建物の中に、抽象的な枯山水は似合いすぎだ。
いいよね、枯山水って。
posted by 手の鳴る方へ at 02:57| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

猥褻(専門家御用達)

男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分


第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い――などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。 (記事より引用)


上記写真集は,縦31.2p,横30p,ハードカバーによる装丁で
384頁,重量約4kgに及ぶ大型の本であり,その価格は当初1万6800円とさ
れていた。
 A社は,上記写真集について全国紙の朝刊第1面に販売広告を掲載するなどの販
売促進活動を行い,上記写真集に関する紹介文や書評が全国紙や写真専門雑誌に掲
載されたこともあって,平成7年1月1日から同12年3月31日までの間にこれ
を書店販売,通信販売等の方法により合計937冊販売した。
(判決文より引用)


堀籠幸男の反対意見の中に、『チャタレイ夫人の恋人』事件の判例に触れている部分があって、
つい最近それに関する本を読んだ者としては興味深かった。


法律についてはド素人なんだけど、今回の判決とチャタレイ事件の際の判決を比較して考えると、
『チャタレイ夫人の恋人』のケースは、発売された昭和25年4月中旬から同年6月下旬までの間で、
上巻約8万冊、下巻約7万冊の売上。この勢いに勝る英文学は、最近ではハリー・ポッターくらいだろう。
で、『チャタレイ』は、当時の新聞や雑誌の書評、投稿欄で物議を醸した文句なしのベストセラー。
つまりそれだけ人目に付きやすい、ということでもあり、そこら辺が被告人側に不利に働いていた。
第一審の中でも、「自分の子供には読ませたくない」的な見地で、検察側の証人に立つ者が多かった。
また、判決理由の中にも、例えば、


今の高等学校の生徒には本書の描写がよくわからないので全体を読まないで、初に読んだ生徒が印をつけておいて性的な興味だけで性描写の所だけを時間中に机の下でゴソゴソと読み廻すという心配がある。(伊藤整『審判』下巻p.327)


とあるように、『チャタレイ婦人の恋人』は紙一重で猥褻本とは言えず、
英文学の研究者にとっては価値のある本だと裁判所は認める一方で、
一般人にしてみればその思想は伝わり難く、誤解されやすいとも述べている。
そして誤解される環境を不用意に招いたから、刑法第175条に違反、有罪。


今回のメイプルソープの件では、高校生が机の下で廻し読みするには大きすぎるし重すぎる。
そもそも900冊強しか売れておらず、新聞の投稿欄に「けしからん」的な意見も出ていないだろう。
何より値段が専門書のそれだ。完全に「写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し」ている点で、
啓蒙的で、一般大衆を想定していた『チャタレイ婦人の恋人』とは状況が異なっている。


猥褻性の判断には、表現の内容そのものも重要だが、出版の規模、方法等も重要なように見える。


性行為を扱った論文はワイセツ文書ではないが、これを日刊新聞に掲載したという理由で有罪としたものがある。またある芸術作品を美術館では観覧する人の範囲が限られているから展覧してもよいとしながら、その複製の頒布を罰したものがある。(『裁判』下巻 p.343)


とは、伊藤整『裁判』の終わりで、団藤重光がドイツのビンディングという刑法学者の、
「相対的ワイセツ文書」という考え方を紹介している部分からの引用だけど、
堀籠幸男の反対意見(同じ写真が使われていながら、前回、平成11年のケースは駄目で、
今回のケースはOKって変じゃないか?)も、この「相対性」によって説明されるのだろうか。
前回のケースでは、写真集ではなくて写真家の回顧展のカタログ(記事中に写真あり)が問題だった。
カタログなら一万円もしないし、高校生が机の下で廻し読みをする恐れがありそうではあるが。
posted by 手の鳴る方へ at 07:03| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月19日

ボケノートクロニクル3 〜ダジャレ〜

「資本主義とは何か。人間を人間が搾取することだ。
では、社会主義とは何か。その逆である。」



終わって久しいネット大喜利サイト「ボケノート」に投稿されたボケを、
みんなが忘れた頃になって、主観的な見地からピックアップするコーナー。


3回目となる今回のテーマはダジャレ。お笑いの基本じゃないでしょうか。
お題の提示する世界観へ、言葉の近似性を接点にして如何に食い込むかが問題です。
子供騙しと思ってはいけません。下らないと言いながら笑わせるのがダジャレです。
ダジャレとはそのように、チープさを装った高等なレトリックなのです。

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【Page445】
数学の先生が誉めてくれるようなご飯の食べ方とは? (あや)

[ 4位 ] みんみん (九級)  
味噌汁にも貝を求める


【Page457】
刑務所の模範囚は、こんな単純な理由で選考されていた (なかやまふうぞ君。)

[ 4位 ] HIZ (七級)  
もはんですよ!の食べっぷり


【Page211】
サトシ君の将来の夢は宇宙飛行士。
そんなサトシ君の日々怠らない努力とは? (あや)

[ 7位 ] トカゲさんと後藤さん  
なんでも毛利毛利食べる。


【Page531】
現役を退いたゴレンジャーがしていることは (がちゃぴん)

[ 18位 ] ファザーマッカー  
ゴレゴレ詐欺



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最初のネタ以外は、どういう状況なのか絵が想像できないけど面白い。
もはんですよ! って言われても、三木のり平が囚人服を着てる絵しか思い浮かばないし。

次の2つの場合は、音は似てないけど、字面が似ている。
ネット大喜利は基本的に文字表現だからこういうのもアリですよね。

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【Page442】
え、このシーンで「THE END」のテロップが出ちゃうんですか? (鬼子)

[ 8位 ] 斜楽者 (九級)  
皇太子「これが明太子ですか」


【Page530】
給食のおばちゃん達の間で流行った遊び (拝一刀)

[ 2位 ] 羽衣童エスト (漆段)  
「あらーこれは見事な天献立ね」とか言って海に流した給食を股から覗く


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【Page530】のネタは発想そのものがおばちゃんだよね。

次の3つはダジャレで1位になった作品。
お題に即したボケ、という意味ではとても正統派なのです。

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【Page591】
大相撲で座布団が飛ぶ裏の理由 (梅吉)

[ 1位 ] 無理すんなよ同盟 (弐段)  
力士から排出される二酸化ちゃんこを抑制する


【Page388】
キューピーちゃんが裸でも笑っていられるわけ (てふてふ)

[ 1位 ] バルタン井上  
マヨネーズハイに達している


【Page230】
80歳にして未だ少年の心を持ち続けるという川田さん。そんな彼の少年っぷりを最もよく表すエピソードとは? (たまご塾)

[ 1位 ] ファザーマッカー  
尿からワンパクが検出された


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最後のは一字違い、子音一つ(TANPAKU → WANPAKU)違いの妙。匠の技だ。
たったそれだけの細工で、何の関係も無い風景、文章が、お題の世界観と一致するのです。
ファザーマッカーさんはコテからして音位転換の類が得意そうですよね。
posted by 手の鳴る方へ at 06:41| Comment(2) | ネット大喜利・小咄板 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

もう一度、『リバーズ・エッジ』から

友人宅で『リバーズ・エッジ』(岡崎京子 1994年)を読んだ。(7ヶ月ぶり2回目)


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あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠の中にたたずみ続けるだけだ。



この作品は、普段生きている日常がフィクションであると告発しているように見える。
噂話に花を咲かせ、志村けんのTV番組を見て、釣りをし、黒板に落書きをする日常。
しかし、その足元を一枚めくれば、白々と骨を覗かせて朽ちる、匿名の死体が横たわっている。
日常の空騒ぎは、死というリアリティから目を逸らす。しかも誰もそのことに気付いていない。
死という事実、消失点を目の当たりにして、あらゆるフィクションが形骸化してしまう。
平穏で能天気な日常には根拠が無い。それは簡単に崩れ落ちても仕方のないモノなのだ、
という内容の小説や漫画や映画は幾らでもあるし、これからもきっと作られ続けるだろう。


『リバーズ・エッジ』には、いじめや同性愛や拒食症や猫殺しや放火やドラックや殺人がある。
当世風に言えばケータイ小説と同じくらい、登場人物達は転がり落ちるように傷付いていく。
日常を優しく包む物語、フィクションに彼らはもう騙されない。騙されたくても騙されない。
その代わり彼らはヒドイ目に会う。ヒリヒリとした現実に触れて、色々と取り返しがつかなくなる。
彼らは騙されない。「本当」を知った若者は、書き割り化した世界の中で永遠に佇み続けるだけだ。


ここで言う「本当」とは、「あなたは本当の愛を知らない。心から人を愛したことが無いでしょ」と、
とある小娘Aが、したり顔でケータイ小説の批判者に向けて反論する場合の「本当」と似ている。
それは日常の薄っぺらい愛なんかじゃ無く、一切の騙しがない、真の愛のことらしい。
あるいは新聞の社説や投稿欄で、経済至上主義、競争社会を快く思わない論説員や一読者の、
「そろそろ日本も本当の豊かさについて考え直すべきだ」と言う場合の「本当」と似ている。
それは日常の薄っぺらい豊かさなんかじゃ無く、一切の騙しがない、真の豊かさのことらしい。
あるいは「本当の日本人」とか、「本当の友情」とか、「本当の国際平和」とか、まぁ色々ある。

彼らも書き割りと化した愛や豊かさの中で、佇んだり反論したり新聞に投書したりしている。
しかし恐らく、実際のところ、彼らは「本当」の愛や豊かさなど御存知ないだろう。
彼らは現今の愛や豊かさに不満があり、それに対するアンチとして「本当」と口走る。
それは正しい意味でのフィクションであり、彼らは安穏と、湯に浸かるようにそれに騙される。





話は変わって、こんな流れの後で、『あずまんが大王』(あずまきよひこ)の話。

84022128.jpg



「割り箸をきれいに割れたら大学合格」というおまじないが4巻の後半部分にある。
しかもそれが頭の悪い(語弊アリ)クラスメイトが勝手に考案したおまじないで、
こんなモノはもちろん安いフィクションで、その御利益に根拠なんて微塵も無い。
おまじないの類は根拠薄弱なのが普通だが、このケースは輪をかけて人を馬鹿にしている。
それはビックリするくらい薄っぺらくて、騙されるのに気が引けるくらいキッチュだ。

が、それでも、受験する親友達のため、一人の登場人物は買ってまでして箸を割り続けてみせる。
これは時間の無駄だし、資源(割り箸)の無駄だし、つまるところやるだけ無駄なのだけど、
彼女は真剣に割り続ける。4コマの内、4コマ全部を使って割り箸を割り続けている。

ここにあるのは騙されることに対する覚悟で、フィクションに対する笑っちゃうような真剣さだ。
根拠が無いとか、能天気とか、本当でないとか、騙されているから駄目とか、そういう問題では無い。
『リバーズ・エッジ』とは違い、彼女は騙される。書き割りの世界の中、全力で騙されようとする。


『あずまんが大王』が、その後の萌え4コマ漫画の端緒となったという史観があるらしいが、
恐らく多くの萌え漫画は、キッチュでチープな、人を馬鹿にしたようなフィクションだろう。
しかしそれらにオタク達は真剣に、全力で騙される。4コマの内、4コマ全部を使って騙される。
何故ならその方が面白いからだ。たとえ真理だとしても、死と向かい合うのなんか真っ平御免だ。
それはオタクだけに限らない。日常がフィクションだとすれば、それば全ての人に該当する。

フィクションにとって大切なのは、それが嘘だと告発することではない。それはもう終わっている。
大事なのはそのフィクションに対し、どこまで大真面目に生きることができるかということで、
もっと言えば、そのフィクションがどこまで信頼できるか、どこまで考え抜くことができるか、
騙され続けるに値するか(信憑性があるか)、自分に嘘を付き通せられるか、ということだ。
騙されることは騙されないことよりも難しいし、青年が何にも騙されないことを誇るのは小賢しい。




『リバーズ・エッジ』に出てくる拒食症の女の子は、河原の死体を見ていると落ち着くと言った。
彼女は全てのフィクションから身を引き剥がし、眼前の死と向かい合い、閉じ合っている。
その丸まった背中の後方で、フィクションとフィクションがお互いに「本当」を主張し合い、
萌え漫画やそうでない漫画が溢れ返り、TVや雑誌が日常を煽ったり再構築したりしている。
笑っちゃうような真剣さで、「萌え」だとか「愛」だとか「安心」だとか「環境」だとか「革命」だとか、
そういう類のお喋りが飽きもせずに繰り返され、痩せこけた女の子の背後で消費されていく。
このような現代を軽佻浮薄と呼ぶのは簡単だ。そしてそれは余りにも簡単すぎて馬鹿みたいだ。
それよりもむしろ真剣にフィクションに騙され、人生を片時でも預けてみせる方が難しい。
そういう真剣さや難しさこそ、寄る辺無い現代人の、なけなしのリアリティなのではないか?
posted by 手の鳴る方へ at 09:47| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

地方自治は未完のプロジェクト

米軍機移転容認へ 井原氏を小差で破る 出直し市長選 岩国市長に福田氏
西日本新聞 2008年2月11日(月)17:10



国とは違う存在としての地方が、「自らを治める」から地方自治と言うワケだけど、
多くの地方自治体は国からお小遣いを貰っており、それに多くを依存している。

今回のように、航空基地周辺の平穏や、街全体の安全を欲することは実に正当だが、
主張する相手側に補助金を人質に取られ、生殺与奪の権を握られていては仕方ない。
経済的に自立できていないのに、団体自治を自負し、自治体と称するのは矛盾だ。

ここにある構図は、国(中央)を家父長、地方を子供とするパターナリズムだ。
要するに力のある大人が、自立していない子供にお小遣いをあげている構図だ。
福沢諭吉は自立について、「自立とは他人の世話厄介にならぬこと」だと述べている。
福沢のこの論は、団体ではなく、近代的な一個人を念頭に置いて書かれたことであるが、
国と地方の構図に、福沢のこの論をあてはめて考えるならば、地方自治は自立していない。


唯酋長なる物、独りよく其時勢を知り、恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し、一種族の人民を視ること一家の子供の如くし、之を保護維持して、大は生殺与奪の刑罰より、小は日常家計の細事に至るまでも、君上の関り知らざるものなし


上記にリンクを貼った記事の中に、「アメとムチ」というフレーズがあるが、
「恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し」とはまさしくそのことだ。
このような自立を阻む「恩威情実の政」こそ、福沢諭吉が忌避しようとし、
その代表作、『学問のすゝめ 』の中において排撃しようとしていた当のものだ。


其恩威の何事たるを詳にし、受く可らざるの私恩は之を受けず、恐る可らざるの暴威は之を恐れず、一毫をも貸さず一毫をも借らず、唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し


ちなみに前に紹介した『市場・道徳・秩序』(ちくま学芸文庫)の中で坂本多加雄は、
この文中の「一毫をも貸さず一毫をも借らず」をキーワードに、福沢諭吉の論を進めている。
何の貸し借りもなければ、自分の道理に基づいて、正々堂々と自論を展開することが出来る。
そこにこそ近代人としての倫理があるし、「恒産なくして恒心なし」という言葉も意味を持つ。

自身の道理を世間に通したいのならば、まずは経済的に自立することが求められている。
国に借りがある地方自治体は、逆に言えば、正しいと信じる自論をまともに展開などできない。
「唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し」と福沢は明確に述べているが、
現代の地方自治体は、そもそもそれが成る前提が成立していない。それは子供のままだ。


今回の選挙で民主政治は達成されたかもしれないが、近代そのものは相も変わらず未完のままだ。
posted by 手の鳴る方へ at 01:14| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

伊藤整の『裁判』

伊藤整 『裁判 上・下』(晶文社)


 裁判(上巻)       裁判(下巻)
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戦後間もなく、D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』の完全版を出版したところ、
それが刑法第百七十五条の猥褻文書販売に当たるとして、訳者と出版者が訴えられた。
その訴えられた当人の一人、訳者の伊藤整自身による第一審(東京地裁)のノンフィクション。
AMAZONのカスタマーレビューには、流行りの「国策捜査」と繋げてある評があるけれど、
伊藤整自身は、彼の人柄なのだろうけど、裁判官や敵であるはずの検察・検察官に対し、
特に悪くは書いていない。もちろん検察側の論旨・理屈には何度も突っ込んでいるけれども。


第一審の裁判の顛末は、伊藤整には無罪。出版者には罰金25万円。本書の内容はここまで。
ちなみにこれに検察、被告人双方が控訴。高裁の判決は伊藤整にも罰金10万円という内容。
最高裁へ上告するものの、昭和32年、上告棄却。有罪判決は覆らず。

下巻の帯で池澤夏樹が語り、本文中でも裁判官達が自覚しているように(下巻p.272)、
この判決や裁判内容自体が、その後の人々、歴史によって裁判されることになる。
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』自体は、現在では普通に読むことが出来る。
内容も言うほど過激ではない。他に出版されている、ある種の雑誌の方がまだヒドイし、
この点は裁判当時から所謂「カストリ雑誌」との比較が成され、証拠としても用いられている。



で、何で今更こんな本を読んだかというと、岩手県で蘇民祭のポスターがセクハラで駄目だ、
みたいな騒動があって、セクハラと言うか、猥褻ってどう扱われてきたのか気になったから。


<知りたい!>何がセクハラ?蘇民祭 けがれなき奇祭、岩手で13日夜〜14日朝
2008年2月7日(木)15:03



上の記事の中で、住職が「祭りの本質や信仰とは全く関係ない興味本位の人が増えるだけ」
と言っているが、この傾向は50年前の『チャタレイ夫人の恋人』事件でも問題視されている。
思想や伝統なんかより、ただエロい部分に目が行き、それだけで良しとする出歯亀根性のことだ。
というか、それが有罪判決の一つ、この本が猥褻文書となり得る可能性の遠因となっている。
(例えば下巻p.309 猥褻感は読者と書物並に環境の関数であるという部分等。)


現代の状況を性の解放とか、表現の自由って素晴らしい、とか言うのは間違っていない。
逆に性の氾濫とか、セックスビジネスの行き過ぎとか、そう不平を言うのも間違っていない。
ただ、現在のそういう状況と、ロレンスや翻訳者の思想とは、逆の、正反対の方向を向いている。
商品価値としてのみ裸体が流通する時代には、性に対する誠実さは軽んじられるほか無いし、
劇薬として扱われたロレンスの思想も、毒に浸ったような現代では、逆に鎮痛剤のように映る。

現代に救いがあるとすれば、性についての一般性を、簡単に概観することができる点だろう。
本書の最後では、団藤重光の言葉が幾つか引用されてあり、そのうちの一つにこう書いてある。
ちなみに団藤重光は刑法の専門家。語学に秀で、31歳で教授、後に最高裁判事になったスゴイ人。


「裁判所では多数の証言を聞いたが、どうも専門家や名士が多すぎたように思う。むしろ一般の、そこいらにいる人たちの感じを聞くのが本当だったであろう。(p.344)


現代日本のブロゴスフィアは、「一般的な」猥褻がどの程度かを測るには都合がいいと思う。
大抵は偏っているんだけど、それでも検索して総覧して見れば、専門家の偏向よりはマシだろう。
『チャタレイ』事件の当時、このようなメディアがあれば、裁判の結果は違ったかもしれない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:55| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

cocomono mamani

cocomono mamani(ココモノママニ)


アクセサリや靴下を扱っているブランド。
そのアクセサリの多くが真珠(バロックアコヤ)を用いている。
卓上ライトや風船、がま口、トラックと真珠が組み合わされているデザインは面白い。


月並みな言い方だが、宝石は自然の生み出した芸術品で、それだけで価値があるらしい。
人間の手による研磨、カッティング等は、その美しさをより顕然化するためだし、
鉛ガラスや樹脂、ある種のオイルによるフラクチャー処理、放射能処理にしたって、
市場価値を上げるという下心はあるものの、美しさを際立たせるための方便だ。

が、価値のあるモノを、価値のあるモノとして所有することにはさして意味が無い。
シンプルなソリテールリングは確かに美しいだろうけれど、言ってみればそれだけの話で、
あるいは「お金持ちですね」と思うくらいで、身に着けている本人の美醜は変わらない。
宝石の可能性を、その程度の範囲に貶めているのはきっと良くないし、そもそも面白くない。

もちろん宝石にしたって、ソリテールリングやパヴェセッティングだけではなくて、
トンボや花、枯葉の形に宝石を敷き詰めたり、スカラベの形を模したりしたモノがある。
だた、その宝石のデザインは、もしかすると画一的で貧しい内容だったかもしれない。
それは伝統的で、貴族的で、西洋的で、自然へと偏向し過ぎていたかもしれない。
リンゴをウサギの形に切り、ウインナーをタコの形に切り、それ以外がなかったように、
それはあまりにも凡庸で、発想を広げる努力を怠っていたかもしれない。


だからcocomono mamaniのようなデザインは、宝石の、真珠の可能性を広げることができる。
それは小手先の子供騙し、表面的なことのようにも見えるけれど、真珠を裏切ってはいない。
デザインはともすると薄っぺらいけれど、そこにこそモノの本質があるのが現代の現代性だ。
それは宝石の大衆化なんてものではないし、もちろん自然の生んだ芸術作品への侮蔑でもない。
プラチナの玉座の上にうやうやしく鎮座させられ、自身の退屈さに欠伸をしていた宝石は、
風船や蛇口から流れる水玉へと姿を変えられ、イメージの中、生き生きとしているように見える。


というか、単純に面白いよね、コレ、と言う話。
posted by 手の鳴る方へ at 05:09| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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