2008年03月28日

colour

CMと美学の話をしようと思ったけどやめて、色って綺麗だよねって話。

sony bravia (bouncy balls)



ソニーのTV、BRAVIAのCMのうちの一つ。Jonathan Glazer って人の作品。
流れている曲名は“Heartbeats”。Jose Gonzalez という人が歌っているバージョン。
もっと高画質で見たいなら、ニコニコ動画のプレミアム会員にでもなればいいと思うよ。




んで、下は、二年前くらいにTrekEarth で拾った、確かデンマークかどこかの写真。

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ここに写っているのは、たまたま街中のオープンスペースに居合わせた個別の一市民に過ぎない。
グリッド状に並ぶテーブルの色はランダム。そこにいる人の位置も、その向いている方向も、
年齢も、椅子の色の組み合わせも、材質の違う床の比率も、どれも不均衡なんだけど面白い。

色の力は個別の空間同士を結びつけるだろうが、そこには強制力も粘着力も抵抗力も引力も無い。
それはトリコロールでは無いし、虫を呼ぶ花の色彩でも、マタドールや信号機の赤でも無い。
それでも、ある人がカメラのレンズをこの空間へと向けて、シャッターを切った気持ちはわかる。
色の傍に人が立っている。あるいは色と色の間に人がいて、腰掛けたりしているのは端的に面白い。

色は面白い。それは単なるテーブルの色だが、単なる色でも面白い。と言うか、単なる色がイイ。
とりわけモザイク状の色は、花畑でもステンドグラスでもbouncy balls でも、見ていて面白い。

これは都市計画の産物なのだろうか。それともショッピングモールやホテル資本のそれだろうか。
どちらにしろ色彩は、もはや画家の筆先のみに宿るのではない。それは画家の専売特許ではない。
ありがたいことにそれは街並みの中に広がっている。テレビのCMやPVの中に無料で広がっている。


ちなみにこの写真の対極にあるのが、日本の学校の味気ない教室だろう。
同じ規格の、大量生産丸出しの、厚い木の板と板金を組み合わせたシンプルな机。
そして同様な椅子。それが教室の前方、権威ある教卓に向かってズラッと並んでいる。

感受性が豊かになるとか、心理学的に教育にいいとか、そういうのはどうでもよくて、
学校の机もパステルみたいに色とりどりにして、ランダムに配置すれば面白いのに。
同じ色同士で派閥が出来たり、色で差別することを覚えたり、目がチカチカしたり、
ピンクの机になって不登校になる男子とかが出るかもしれないけど、それはそれで。
posted by 手の鳴る方へ at 02:35| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月26日

ナースと美学

「芸術作品を理解するとは、それを買うことである」というアルヌルフ・ライナーの賢明な箴言に人々が従うようになって以来、芸術の方は何の苦労もなく生き延びてはいるが、芸術に関する理論たらんとする美学は、ほとんど誰も気づかぬままに、その生を終えた。
(N・ボルツ 『グーテンベルグ銀河系の終焉』 識名章喜・足立典子 訳 法政大学出版局 p.156)


LOUIS VUITTON やマーク・ジェイコブスのやっていることはこういうことなのだと思った。
芸術品とは商品のことだ。そして芸術品の使用価値とは、その作品を理解することだ。
そして芸術作品を理解するとは、それを買うことだから、交換価値こそが芸術の使用価値だ。

LOUIS VUITTON と、村上隆やロバート・ウィルソンとかのコラボレーションは、
商品と芸術品の区別なんかもう無いよ、ってことを面白おかしく示唆している。
まぁ、こんなことは今更、もったいぶって言うほどのことでもないのだけれど。


去年の10月、LOUIS VUITTON はグッゲンハイム美術館でリチャード・プリンスとのコラボを行った。
エキシビジョンは彼の作品の一つ、「ナース・ペインティング」からインスパイアされている。
それは看護婦がヒロインのロマンス小説、その表紙をスキャンして、それに絵の具を塗った作品群だ。
例えば7点の子がナース服を着ることにより、10点になるというのはあまりにも有名な話だが、
さらにその服がシースルーで、なおかつLOUIS VUITTON のバッグまで持っているとなれば、
それはもう10点どころじゃない。スカウターが壊れる戦闘力だ。地球ヤバイ。

Paris - Louis Vuitton - Fashion - Wallpaper.com
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ちなみに、地球ほどではないけれど、芸術と袂を分かった美学もヤバイ。
ワイマールにバウハウス(Bauhaus)が開校した1919年以降、生を終えたらしい美学は、
いわゆる芸術家達よりもむしろ、優秀なインダストリアルデザイナー達の庇護下にある。
美学は現在、美術館の中よりも、コマーシャルや日用品、都市計画の中に多く散見される。
椅子やケトルが美学と手を組んだとき、芸術家とデザイナーの区別は無意味となり、
「アート」や「アーティスト」という言葉の外延は途方も無く広がってしまった。
「アーティスト」と「自称アーティスト」、例えば「アート」と「FUMIYART」の区別、
そんなことまでも曖昧になっている。―― もちろんそれは歓迎すべき愉快なことだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 05:28| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

ネグリが来ない

「〈帝国〉」の著者ネグリ氏、来日を延期
2008年03月20日13時18分  asahi.com



延期と言うか、主催者サイドの言い方では「中止」。

直接の理由は入国に必要な書類を揃えるのが間に合わなかった、ということらしいが、
革命を謳うポスト近代左派の哲学者が、サミットを控えた国に入国し損ねたワケで、
この、漫画と言うか、冗談みたいな顛末に、不謹慎ながらニヤニヤしてしまう。
三寒四温の季節の中に、一瞬だけ政治の季節が混じって消えたようなサプライズだ。


ネグリ『さらば、“近代民主主義” 政治概念のポスト近代革命』(杉村昌昭 訳 作品社)

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帯には「ネグリ初来日記念!」とあり、訳者もあとがきの最後で来日について触れている。
残念ながら今季の日本に「春一番」(p.20)は吹かなかったが、きっと次があるだろう。

ネグリのやろうとしていることは、―― いま現在の世の中には政治的問題が色々あるよね、
社会主義が失敗して「歴史は終わった」とか言われているけど安心するのはお門違いで、
例えばグローバリズムや資本主義や民主主義なんかで問題が山積しているのが実状だよね。
それらを批判する言葉や、現実に蠢いている運動を適切に言い当てる言葉がないから困るよね。
だから新しい、ポスト近代的な、政治的ボキャブラリーについて真剣に考えようじゃないか、
そういう用語を得ることによって、我々は新しい活動を行えるのだ―― ということだと思う。
その新しい用語が、(手垢のついたように見える)マルクスっぽいワケも本書に書いてある。


「下から上への、自由と平等のためのラディカルな絶対民主主義」(p.166 要約)って言葉は、
もちろん反サミット・反グローバリズム活動に対して使っても良さそうなセリフなんだけど、
政治や政治活動から距離を取りたい日本のノンポリとしては、ネグリの用語(ツール)は、
ネット上の集合知や2ちゃんねる、ニコニコ動画の説明に使ったほうが面白そうに見える。

権力(生権力)は上から下へと行使され、フーコー的には内外からも行使される、って現状は、
何も官僚制やグローバリズム、白色テロ的な側面だけに限定されているわけでもないだろう。
上から餌(金や名声)をぶら下げられても、「そんなエサには釣られないクマー」と身をかわす、
そういう態度を知っている連中は、思ったよりも現状批判的、革命的な気もするのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 09:12| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

華をば春の空ぞもちくる

そろそろ桜の季節です。
民俗学の知識をひけらかせば、桜の「さ」は稲の神様のことです。
五月雨の「さ」や早乙女の「さ」も、稲や稲の神様ことです。皐月もそのはずです。

桜と稲とはそんなに関係が無いように見えますが、昔はそうでもなかったようです。
山から神様が下りてきて、里山の桜花に宿る頃、それを徴に田植えが始められます。
昔の一般人のタイムスケジュールでは、桜と田植えは見事に連結されていたワケです。


木に神様が宿るというのは、山ばっかりの日本ではアリガチな世界観です。
オシラサマなんかの文化も、木が神様を宿す招代として扱われています。
ちなみに岩に神様が宿る場合は磐代と言います。八百万の神は宿りまくりです。


トンチ小坊主で有名な一休さんは破戒僧でした。肉は食うし妻は娶るしの風狂ぶりです。
その肖像画の(顔ではなくて)雰囲気は、芸人の江頭2:50に何となく似ています。
と言うか、江頭2:50に真面目な破戒僧のイメージがあります。禁欲的放縦って感じが。
それはまぁいいとして、一休宗純さん、『一休骸骨』の中でこんな歌を詠んでいます。


桜木もくだきてみれば花もなし 華をば春の空ぞもちくる


桜の木を砕いてみてもそこに花の素になるようなものは見当たらない。
春の空が華を桜木にもたらしているのだ ―― という意味の歌です。

桜の美しさが桜そのものからではなく、巡る季節の空からもたらされる、
という考え方はとても好きです。ここでの空はEmpty の方がいい感じです。
この歌にしても、桜の木は神的なモノが宿る、招代っぽいイメージですが、
そもそも一休さんは臨済宗で、しかも神も仏も認めないアナーキストでした。
どちらかと言うと汎神論的な考え方の人だったのかな、とは思います。

ちなみに現代の見地からすれば、一休さんは桜の砕き方が全然足りなかったのです。
もっと粉砕処理して原子顕微鏡で覗いて見れば、二重螺旋構造が見えたはずですから。

まぁだからと言って、DNAが華の素なのだ、なんて発想は美学的にどうかと思いますが。
posted by 手の鳴る方へ at 02:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月14日

『まぐれ』

ナシーム・ニコラス・タレブ 『まぐれ』(望月衛 訳 ダイヤモンド社)を読む。

通称「ノーベル経済学賞」を受賞した二人の学者がLTCMというファンドを設立した。
彼らは自分達が市場のことをわかっていると思っていたし、みんなもそう思っていた。
ところが彼らはアホみたいに損をした。彼らのポジション(仮説)は間違っていたのだ。


自分の仮説が正しいだなんて、おこがましいと思わんかね? という内容の本。


アルファブロガーの池田信夫が面白いって言ってるけれど、本当に面白いし読みやすい。
ちなみに池田先生は、数学的な傾向の強い計量経済学を机上の空論だとよく言っている。
この本の内容もまさにその通りの内容。計量経済学? ハッ、っていうこのスタンスだ。

池田先生は生物学的な方法論で、経済学の科学性を改善しようと思っているみたいだけど、
経済学って今までも、私が在学中だけでも心理学とか数学とかと付き合っていて、
その前は哲学と付き合っていたって言うし、基本的にフワフワした浮気性な学問だ。
ここに来て次は生物学とお付き合いですか。上手くまとまるといいですよね。


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「市場が三ヶ月で20%以上下げたことはない」としても、そのサンプルに意味は無い。
それに基づくポジションが上手くいっているのは、依拠する仮説が正しいからではない。
「まぐれ」だ、と作者は言う。そして仮説が反証され、まんまと大損をしたトレーダーは、
「自分の仮説は正しかったが、運が無かった」「むしろ市場が正しくない」とか言い出す。
この状況は、「ヒュームの問題」と呼ばれている考え方でアプローチすることが可能だ。

帰納法を巡る「ヒュームの問題」とは、有限個の証拠(この湖の白鳥はみな白い、等)から、
それを元手に全称命題(「全ての白鳥は白い」)を正当化することについてのまっとうな疑義。
「今までもそうだったから、これからもそうに違いない」という、あまり科学的でない信念が、
ここでは問題視されている。それは未だ無い未来が、過去と似ているに違いないと思っている。
もちろんタレブはそのことを問題視する。過去のトレーディングの成績は関係ないと言う。



話はトレーディングから変わるけど、ファイヤアーベントは『知についての三つの対話』の中で、
ヒュームの問題は定言命法的なお伽噺で、科学の現場とは無関係だと言っている。


「すべてのカラスは黒い」が非常に美しくかつ調和に満ちた体系にぴったり合っていれば、白いカラスがいようが、科学者はそれを保持し、もっとこと細かに改良しようとすることもあるよ。
(『知についての三つの対話』 ちくま学芸文庫  p.177)


科学者だって人間だ。トレーダーのように自分の仮説に拘泥したりもするだろう。
自分の仮説にそぐわない実験結果が出ても、それを偶然の産物、ノイズだと思うだろう。
ある種の金融経済学者が、自分のポジションが正しく、市場が間違いだと思ったように。
このような演繹的な態度の中に、ヒュームの哲学的な懐疑主義の占める位置はあまり無い。
加えて、このような科学者のメンタリティは、科学の反証可能性(ポパー)とも相容れない。
白いカラス(反証)がいても、「カラスは黒い」と科学者は主張するかもしれないからだ。
ファイヤアーベントはポパーに恨みでもあるのか、彼を形式的衒学者と呼んでいたりもする。
タレブはポパーの影響を認めつつも、単純にポパー的なスタンスは取っていないように見える。
それはファイヤアーベントとは異なるが、合理性に対する、一歩引いた謙虚な態度のようだ。
posted by 手の鳴る方へ at 09:41| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

独創と模倣、あるいは肺腑に積もる音楽



この人はトップクラスのミク使いだと断定できる。異論なんか無いだろう。
他の曲もイイ。もちろん他の人の全てのVocaloid 作品を見たワケじゃないけど、
私の中でのVocaloid 最高傑作は、この人の『銀輪は唄う』だと思っている。

ブレスだとか、バックコーラスだとか、絶賛の言葉を並べるとキリが無い。
へこんじゃったときは、本当にへこんじゃったように発声している。
その一方で、この人の初音ミクは「機械のように」も歌うことができる。
人と機械、声と音の境界線を、テクノポップと共に軽々と越境している。


この人にはもう一つ、越境の悪意がある。コンテンツに引かれた独創と模倣の境界線の越境。
この人は模倣であることを隠そうとしない。受容された他人の音楽があからさまに顔を出す。
それは作者一流の遊び心であり、原曲に対する敬意であり、まさにおっさんホイホイであり、
要するに「ここはa-ha の Take On Me だね。懐かしい」とか言って遊ぶためのとっかかりだ。


独創とは「他人の真似をせず、自分一人の考えで物をつくり出すこと」だそうだ。
「独創」や「才能」という言葉は、作者・作品の固有性・唯一性を謳ってみせるが、
この言葉があなたの前に現れたら眉に唾をつけた方がいい。それは形而上学的だ。

現実世界に生きる人間はみな、ある種の環境の中におり、そこから逃れている者はいない。
人間の欲望は常に既に他人の欲望であり、模倣である。作品もその影響を逃れてはいない。
作品と人間との総和である文化そのものですら、民族固有の独創が生んだわけではない。


衣冠束帯や十二ひとえや長い髪というごとき趣味の変遷は、ただ模倣から独創に移ったというだけのものではない。寝殿造りや仮名文字の類は、咀嚼や独創について最も有力な証拠を与えるものとせられているが、しかし仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教わった建築術による日本式住宅の完成である。すなわちこれらの変遷は外来文化を土台としての我が国人独特の発達経路と見られるべきである。固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。この見方は外来文化を生育の素地とする点において、外来文化を単に挿話的なものと見る見方と異なっている。この立場では、日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものである。(和辻哲郎 『古寺巡礼』)


雰囲気。それは自分以外の何かから生じている広がりだ。あるいは比喩的な意味での音楽だ。
人はその音楽を、家族やTVや街角から耳にして、意識的にしろ無意識的にしろ心を奪われる。
やがて好き好んで繰り返し聴くようになり、指でリズムを刻み、運転中に口ずさむようになる。
その音楽を心地よいと思い、長い時間を共にする。真剣に考えたり、その思いを口にしたりする。
例えばそんな彼がDTMを熟知し、初音ミクで歌を作ったとする。それは一体何の産物なのだろう。
その作品は彼の「才能」から生じたのだろうか。そんな言葉を使う必要がここにあるのだろうか。
むしろその作品は、作者と音楽が長い時間を共有した中で生じた、思考の産物なのではないか。
人と音楽、つまり人間を包み込む雰囲気との間に生まれた、2人によく似た嬰児なのではないか。


模倣は独創の母である。唯一人のほんたうの母親である。二人を引離して了つたのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会へようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがへのない歌を模倣するに至る。これは日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、かういふ言葉も逆説めいて聞える程、独創といふ観念を化物染みたものにして了つた。(小林秀雄 『モオツァルト』)


独創なんて無い、と言っているのではない。模倣でない独創は無い、と言っている。
小林秀雄や和辻哲郎だけでなく、この類の物言いは少し探せば幾らでも見つかる。

「日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものである。」
和辻哲郎はそう書いたが、このことは文化一般にも言えるだろう。ニコニコ動画にも言える。
ニコ動の文化は外来文化の中から生じたものだ。一見そう見えても、無関心やアンチの産物ではない。
外来文化には豊富なコンテンツがあり、眠っている。例えば80年代前半のテクノポップがそうだ。
それらの文化には既得権益があり、情報技術の発展から目を逸らす権利者によって守られているが、
ネットの住人はそんなコンテンツを空気のように吸っているし、空気のように吐き出してもいる。
その呼吸によって生き延びるのはコンテンツの権利者ではない。少なくともそんな時代ではない。
現世の彼岸で繰り返し蘇り、新たに生まれ変わるのは、気息としてのコンテンツとその雰囲気だ。
posted by 手の鳴る方へ at 05:09| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月07日

『「国語」入試の近現代史』

石川巧 『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ)

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「教養」だとか「文は人なり」だとか「美感」だとかが、受験教育の言説として現れ、
試験官サイドの、あるいは時代のヘゲモニーに都合のいいように組み替えられていく。
学問は多少なりにリゴリズム(厳格主義)であるべきだが、読解にはそれがあり得ない。
で、受験生はその時代の中で、思ったよりも恣意的に国語を教育させられている、という話。


普通、文章は読むものだけど、国語の授業の文章は読まされるものだった。
しかもクラスのみんなで、誰かの音読に合わせて読み進めるから始末が悪い。

例えば授業が始まり、出席番号6番の男子が指名される。今日は不幸にも6日だからだ。
やがて教室にボソボソと声が響く。それは教科書の45ページを読み進めている。
出席番号15番の男子は、そこは授業が始まった直後に、個人的に読み終わっている。
というか、今やっている作品は、既に読み終わっている。なかなか面白かったと思う。
それは白樺派のある有名な作者の作品で、彼は前に、同じ作者の同じ作品を読んだことがある。
そのときは面白く無いと思ったけれど、授業でじっくり読まされるとまた違って見えた。
彼は今、教科書の118ページの韓非子をじっくり読んでいる。次に指名される可能性も低い。
また、彼の後ろの席の男子は、国語の教科書に隠れて次の授業、数学の宿題をやっている。
経験上、国語(ただし古典・漢文を除く)は勉強しなくても、そこそこいい点が取れるからだ。
窓際の席、出席番号7番の男子は、一応45ページを開いている。もちろん真面目だからではない。

やがて出席番号6番、本日の不幸な男子はノルマを終えてホッと肩の力を抜き、席に着く。
先生は教卓に、チョークで汚れた手をついて言う。「3月×3月で9、それに6日を足して15・・・」
韓非子に読み耽っていた出席番号15番の彼は、先生の導き出したその数字にギョッとする。
「次、次はどこから読むの?」
助けを請うて振り返った彼の視界には、何故だろう、多角形に見当違いな補助線が引かれつつある。

出席番号15番の男子は黒板の方を向き、ゆっくりと立ち上がり、こう思う。
「3月と3月をかけたら341日です。それに6日を足せば347日です!」
そう、彼はインド式計算をマスターしていたのだ! ボケッとすんな! しばらく立ってろ!!


何の話だっけ?


普通の読書は読解したり誤解したり、翻訳したり、暗記したりするものだけど、
国語の試験は読解させられたり誤解させられたり、翻訳、暗記させられたりするもので、
しかも匿名の出題者(つまり問題文の作者ではない)の思惑に従ってそうさせられるものだった。
それは受動的で受容的な読書で、求められるリアクションを上手く演じることが肝要だった。
昭和12年の参考書『解釈学を基底とせる現代文の新解釈』にはこんなことが書いてあったそうだ。


国語受験は決して断片的な語句の解釈でもなく皮相的な換言でもない。それは広い教養と不断の準備を背景とし、自我の全幅を数葉の答案に傾注して、敬愛する志望学校教官の厳正なる裁断を待つ所の人格的試練であり、紙上の人物考査である。(p.102 石川巧による傍点は省略)


学問や教育(ましてや最高学府以前の教育)が受動的で受容的なのはごもっともだが、
だからと言って言葉や読書が、本質的に無条件に受動的で受容的であるワケではなくて、
ここらへんの議論は本書の第4章に、論理主義/心理主義の対比で扱われている。


個人的な感想としては、人は受験の文章は受験の文章として読解するけれど、
それ以外の文章はそれ以外の文章として、漫画は漫画、攻略本はそれとして読むから、
「入試問題を解くようにしか文章を読めなくなっている」的な意見は、受験を過大評価していると思う。
受験の国語なんて、実際に読み書きする国語の一部分だ。優秀な人ほどそのはずだ。
谷川俊太郎の詩は、教科書にある場合と、ハードカバーにある場合とでは別物だし、
最近では、受験で扱われた哲学の文章で、こういう面白い試みをやっている新書もある。


入不二基義 『哲学の誤読』(ちくま新書)

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こういうのを読むと、哲学って面白いよね、素敵だよね、って改めて思います。
ちなみにどちらの本も、同じプロジェクトから作られたもののようです。
posted by 手の鳴る方へ at 05:18| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

毒餃子 No Shelter

たまにはワイドショー的な時事ネタを。中国の毒餃子の話。

この事件って「誰かが毒を食品に混入した」っていうのが本質だから、
反日感情で日本料理店が襲撃された事件や、企業ぐるみの食品偽装の事件なんかよりも、
むしろ98年に起こった、林眞須美の「和歌山毒カレー事件」に似ている気がする。

反日感情でなくとも、頭のおかしい人が、何らかの動機や衝動で食品に毒を入れるっていうのは、
別に中国でなくても日本でもあり得る話で、もっと言えば町内会の催事の中ですら発生する。
どこで餃子に毒が混入されたのかはまだ断定できないのかもしれないけれど、それが中国だとしても、
中国の林眞須美が日本の不特定の食卓へ危害を加えたとすれば、それはそれで不愉快な話だ。

そしてこの実情を鑑みて、輸入食品を疑ったり、あるいは流通を疑ったりするのは面倒臭い。
食品偽装の事件でもそうだが、この件の場合も、根本的に商品や人を疑うのは不可能だ。
日本=信用できる、中国=信用できない、という線引きは、便宜的にのみ有効なだけで、
それが神話なのは昨年〜今年の食品偽装のケースで、嫌になるくらいわかりきったことだ。
海外の国営会社・新興会社も、日本国内の老舗も、このケースに関しては似たようなものだった。

とは言え、対処法としては、その程度の線引きをするくらいしか他に方途が無い。
食品への毒の混入を本気で危惧するなら、84年に起こったグリコ・森永事件の時のように、
小売店に商品が並んだ段階で毒を入れられるケースや、それこそ「毒カレー事件」のように、
小売店から購入、調理後、野外テントの下で毒を入れられる可能性まで考慮しないといけない。
そして逆説的に言えば、そこまで本気で考える人こそ頭がおかしい。


流通過程を全て可視化することは、個人では不可能だし、行政にも限界がある。
生産・加工・流通のシステムの変更だけでは、林眞須美的な人物には対応できない。
グローバル社会の個人はもっと優しく、道徳的になるべきだ、という啓蒙にも意味が無い。
だから結論としては、考えるのをやめるか、「めんどくせぇ!」と怒るしかない。
ただしその怒りには全然何の意味も無い。誰かが何とかしてくれることも恐らく無い。
その怒りには、世界のどこかに暮らしていて、何かの拍子に毒物を手にしてしまい、
いつかあなたと関わるかもしれない、林眞須美的な人物から身を守る効果は皆無だ。

だからなおさら面倒臭い。大真面目に考えれば考えるほどアホ面になってしまう。

社会学者のウルリッヒ・ベックは『危険社会』(法政大学出版局)の中で、
チェルノブイリ原発事故事故等、環境問題の延長線上で、今の時代には、
どんなに豊かな権力者であろうと、安全圏も保護区も無い、と述べている。
食品についても、現代の豊かな日本人には、安全圏も保護区も無いと言える。

そういえば Rage Against the Machine も、frontline は至る所にあって、
身を隠すシェルターもここには無いと歌っていた。あれは何年前だっただろうか。
市民としての闘争も、グローバル経済の中にありつつも、国と時代が違えば様変わりするものだ。
posted by 手の鳴る方へ at 10:06| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

公務も住民がするという発想

トイレ清掃は市職員で、年間6百万円の節約…兵庫・三木
2008年2月25日(月)21:06 YOMIURI ONLINE



一週間前の記事を今更。
業者に頼まず、自分のことは自分ですれば安くつく、という話。
トイレ掃除って、如何にも反省してます、本気です、みたいな感じで、
「私は生まれ変わった」アピールとしてはアリガチだ。何でだろ。


サービスを受けることを止めれば、その分だけ費用が浮く、というのはごもっともで、
この記事の話は、地方公務員がサービスを受けることを止めた、って話だけど、
そもそも行政サービスだってサービスだ。その受益者は言うまでも無く住民だけど、
「自分のことは自分でするのが当然」と息巻くのなら、住民も自分のことは自分でするべきで、
プロフェッショナルを雇う金が惜しいのなら、自分達でするのが筋と言うものだ。

公務員批判をする人達は、だから「自分でやるからお前ら失職しろ」って言えばいい。
でもみんな仕事や自宅警備で忙しいし、世の中の仕組みのことなんて知らないから、
どちらにしろ税金で自分以外の誰かを雇うしかないし、人を雇うなら雇うで、
それなりに優秀で公平なプロを雇った方がいいから、結局は公務員なんだろうけどね。


昔、友人が南フランスの片田舎、人口300人程度の村を訪ねたときの話だけど、
村の首長が元商社ウーマンで、その人だけが専門的な(副業のない)行政官で、
それ以外はと言えば、例えば副首長でも「現役の」工業デザイナーだったそうだ。
つまり専任の行政官がいなくて、ピザ屋のオッサンとかが交替で数時間だけ公務を行っていた。


こういうアマチュアニズムが日本で根付くことは難しいだろう。
威勢はあっても責任感の無い公務員批判だけが空転している。


ちなみに、アマチュアやNGOが頑張っても、フランスの地方自治はもの凄い効率が悪い。
フランスにある自治体の9割が人口3000人以下で、市町村議員は全国に50万人近くいるらしい。
(国家公務員も多いはずで、「ロシア赤軍に次ぐ雇用主」とフランス政府は揶揄されていた。)
人口が1人とか0人(歴史的に価値のある地名だから)って自治体もあるくらいだ。

どうやら民主主義のベースとして、市町村はローカルレベルで細分化されるべきだ、
みたいな風潮があるらしい。大陸型の中央集権に対するカウンターなんだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 09:44| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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