2008年04月29日

個人と旗

今更ながら長野市の聖火リレーの話。

2008年4月26日7時26分47秒ライブログ‐Stickam
http://www.stickam.jp/video/178130158



Stickam というサイトでフリーランスの記者をしているtaca という人のライブ映像。
映像がしばしば途切れているが、時間は08年4月26日の朝方。場所は長野駅西口近辺。
内容はご覧の通り。taca 氏もボヤいているが、飲食店や近隣住民の皆さんには同情する。


FREE TIBET を掲げつつ群集から離れた場所にいた、名古屋からきた青年の所在の無さがイイ。


26日の長野市には、マスコミがお茶の間の大衆に配信する聖火リレーの言葉があって、
その周辺に、まとまりの無い、街宣右翼等と中国人留学生の、対立する言葉があった。
彼がその場にいながら馴染めなかったのは、その、大声でがなり立てる三種類の言葉で、
自分の思いをそのシュプレヒコールに重ねられなかった、彼の寄る辺の無さは面白い。

taca 氏の一連の映像の中には、鳥葬見学で世話になったチベットの友人と連絡が取れず、
(FREE TIBET ではない)チベットの旗を持って善光寺へ向かう途中のおっさんがいたり、
「紅は控えめが美しい和の心」と書いたプラカードを掲げて歩くおっさんがいたりして、
彼らは駅西口からは距離のある場所にいたんだけれど、信心や美意識がある人は格好いい。
冒頭にいた名古屋から来た青年が、駅前の組織的なアンチ・チャイナに幻滅しているのは逆に、
このおっさん達は組織とそもそも縁がない。彼らは群れる意味すら見出さないだろう。
(「紅は〜」の意味は、taca 氏にすら届かなかったみたいだけど、面白いと思いますよ。)


逆に、スーチー女史の写真を掲げたビルマの方々は、積極的に大きな言葉に思いを重ねていた。
反共ってだけで街宣右翼なんかと思いが一致するなんて不愉快だ、と思うかもしれないけれど、
彼らがそこに活路を見出したのには十分な正当性があるし、スーチー女史とFREE TIBET の旗が、
記号的に同じ意味を持つ限りにおいて、拡声器の近くでその写真を掲げる合理性もあると思う。

これと似たような構図は、聖火リレーの終了後に、改めてコース上を走った欽ちゃんにもあって、
欽ちゃんも「平和の祭典」という、マスコミの大きな言葉に積極的に思いを重ねようとしている。
それはTVの中の偶像が、偶像として、いつもの五輪をお茶の間に届けようとしたようにも見える。

私はマスコミの言葉も街宣右翼の言葉も、ついでに言えば中国当局の言葉も下らないと思うし、
大きな言葉に自分の思いを重ねるなんて止めてしまえよ、馬鹿馬鹿しい、とも思うけれど、
そういう、自分の思いと同じとは限らない言葉の中でしか生きられないこともあるのも確かで、
欽ちゃんにしても、街頭の市民と触れ合いたかったという思いには恐らく善意しかなくて、
その個人的な善意を生きる前提に「平和の祭典」という大きな言葉が必要だったから困る。
ましてや街宣右翼の言葉に乗っかったあのビルマの方々を下らないと言うのは明確に間違いだ。


冒頭の名古屋の青年は、街宣右翼の方を見ながら、もっとバラバラでもいいのに、とか、
組織的に抗議活動をやらなくてもいいのに、という思いをボソッと吐露していたけれど、
自分の思いを群集に重ねられない彼のその身振りは、中国当局の言葉に思いを重ねるしかなく、
嫌でも組織的にならねばならず、動員されなければならなかった対岸の留学生批判でもある。
というか彼ら留学生は全くバラバラではなくて、行動もインタビューの返答も似通っていて、
もちろんそれは面白くも何ともないんだけど、一人くらい中国国旗の下をこっそり離れて、
個人的な思いと、旗が象徴するイデオロギーとの落差に戸惑う人はいなかったのだろうか。
名古屋の青年が当然のように掴んでいた他者との距離感を、誰も測らなかったのだろうか。


あと、あの日の長野市内には、他にも小規模なFREE TIBET のグループがいたはずだから、
名古屋の彼がそのうちのどれかと合流できていればいいなと思ったりもします。
posted by 手の鳴る方へ at 08:31| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

『新現実 Vol.5』 〜雑誌の売り上げ〜

『新現実 Vol.5』(大塚英志 太田出版)
『「公共のことば」は断念すべきなのか』

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大塚英志と柄谷行人の対談。

昔々「季刊思潮」という雑誌がありまして、二、三年、全8号で終わってしまったんですが、
その編者だった柄谷行人によれば、1号は3000部から始まり、8号は5000部まで伸びたそうです。
ちなみに「季刊思潮」の後にできたのが「批評空間」という伝説的(やや誇張あり)な雑誌で、
対談相手の大塚英志は昔、「批評空間」なんて版元の太田出版の、『完全自殺マニュアル』や
『バトル・ロワイヤル』みたいな本が売れて、ゆとりができたから成立してるだけじゃねーか、
ということを01年(「批評空間」の第二期)の頃に言ってまして、面白いと思ったことがあります。

対談を読む限りでは、出版社に頼らず自前で作った第三期の「批評空間」は評価しているようです。
まぁ、自前を評価するなら、ネットでブログを書くのが手っ取り早いのに、とも思いますけどね。
しかし、大塚英志は意識的に(知識人として?)ネットの「他者」になろうとしている感があるし、
柄谷行人の方は、久し振りに読んだけど、積極的に何かをするような感じじゃ無くなってました。


あと、大塚英志が02年に『群像』で「不良債権としての文学」というのを書いたとき、
文壇や論壇は採算がとれてねーじゃん、出版者の他の部門の売り上げに寄生してるじゃん、
しかもお前らそれで当たり前だとか思ってない? 死んじゃえよそんな文学なんざぁ、
って啖呵をきってボコボコに叩かれたんだけど、その後にラノベブームが捏造されたり、
綿矢りさが華々しくデビューした、という史実があって、これも面白いと思いました。
まぁ、思い出したから書いただけで、柄谷行人とは何の関係もないんですけどね。


日本雑誌協会
http://www.j-magazine.or.jp/data_001/index.html



ちなみに最近の雑誌の発行部数はここで見ることができます。
例えば、前に論壇誌の特集をしていた『論座』で20,433部だそうです。
イロモノ雑誌の王様、『ムー』は69,865部だそうです。ここは笑うところです。
他にも、『月刊アスキー』で53,909部、『メガミマガジン』で64,391部らしいです。
あと、『文藝春秋』や『潮』の発行部数が桁違いなのは、個人的に軽く絶望します。
ちなみに、売れなくなったと言われる『週刊少年ジャンプ』は2,778,850部だそうです。

あれですよね。文芸誌や思想誌って売れてねーですよね。
現実の十倍は余裕で売れてると思ってた時期が私もありました。
あるいはネットの興隆の中、善戦してると言った方がいいんですかね。
posted by 手の鳴る方へ at 08:36| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『新現実 Vol.5』 〜工学化〜

『新現実 Vol.5』(大塚英志 太田出版)
『「公共性の工学化」は可能か』

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大塚英志と東浩紀の噛み合ってない対談。
この二人のスタンスを分かりやすく概説しようとすれば、
例えば以下のアルフレッド・ホワイトヘッドの言葉は役に立ちそうだ。

われわれは自分たちが何をしているのかを考える習慣を培養しなければならないというのは、あらゆる教科書や高名な人たちの演説で繰り返し述べられている陳腐な文句であるが、完全に間違っている。その正反対が真実である。われわれが考えることなしに成しとげることができる重要な作業の数を殖やすことによって、文明は前進するのである。


私にはホワイトヘッドの難しい本なんて読めないので、これは孫引き。
引用先はF・A・ハイエクの論文「社会における知識の利用」(p.70)から。
(田中真晴・田中秀夫 編訳『市場・知識・自由』に収録 ミネルヴァ書房)

ホワイトヘッド(ハイエク)からの引用の前半が大塚英志のスタンス。後半が東浩紀。
ちなみに後半の考え方は、対談のタイトルにある「工学化」っぽいね。


大塚英志が柳田国男を持ち出して、近代をもう一度ちゃんとやり直そうぜ、と言うとき、
それは現代人を近代的な主体に仕立て上げ、彼らの合意形成の中で、社会なり秩序なりを、
今よりも出来のイイモノにしようぜ、ということを言っている。大まかに言うとね。
だから国とか民族とかに思いを重ねたりせず、もっと他者とコミュニケーションして、
知や言葉を引き受けて、パブリックな人生観や共通語の主体として振舞おうぜ、とも言う。


で、東浩紀はそれに対して「え〜でも面倒臭いし」と言う。大まかに言うとね。


引用したホワイトヘッド(ハイエク)の後半部分は、読む人によっては危うさを感じさせるだろう。
見る人が見れば、そこにポピュリズムやファシズムの真っ暗な影だって見てしまうに違いない。
大塚英志もそこに危機感を抱くはずだ。逆に東浩紀はそういう感度とは縁がないように見える。
例えば(p.105)

ひとりひとりが欲望だけで動いていても、結果としてどう公共性が発生するか、ということを考えています。


これなんかは如何にも、ハイエクやフリードマンの自由主義っぽい考え方のように見えるし、
欲望が暴走しているネットの、話の通じなさを肌身に沁みてわかってる知識人のセリフっぽいが、
その少し後で大塚英志が以下のように言うとき、やはり会話が噛み合っていないことが露呈する。

大塚 そこが違うんだよね。私的な価値観の総体として社会という枠組みができあがるとすれば、そこで自分の隣の人間との価値観の利害を調整していくことの先に公共性があるという意識をもちうるか、それとも普遍化できないから成りゆき任せでいいと考えてしまうか。(p.108)


ここで東浩紀が考えていたのは、恐らく、「考えることなしに成しとげる」方法であって、
「普遍化できないから成りゆき任せでいい」というネガティブなイメージではないのでは?
「普遍化できないけど、だからこそむしろイイ」という道筋はここに描けないのだろうか。
柳田国男とは異なる、「共通語なんか無いけれど、それでも何とかなる」という可能性、
「分かり合えないし、合意も妥協も成立しないけど、まぁいいじゃん」という可能性は。
(つまり個人的には、大塚英志のユートピア的な近代って鬱陶しいなぁ、と思っているワケで)
例えば東浩紀は後の方、p.131 で、

ぼくが思うのは具体的なことです。一般に、世界から切り離されたという感覚が、ある種の抽象的な思考とか、他者への寛容さを育てていくんです。


と述べているように、普遍化できない、バラバラにバラけてシラけてしまった世の中で、
「それ故に」ファシズムやポピュリズムから距離を取るような筋道は無いのだろうか。


問題なのは「考えることなしに成しとげる」ことについての評価の違いなのだろうと思う。
そういう「見えざる手」が、市場以外の、言論や思想の世界についてもあり得るのだろうか、
無いなら無いで作ることはできるのだろうか、ということも踏まえて、問題なのだろう。

市場システムが神の手だとしても社民的政策の併用が必要なように、考えないで済む完全なシステムはありえないし、少なくともテクノロジーでは解決しない。(p.142)


というのが大塚英志の解答で、「公共性の工学化」は無理じゃね、ということらしい。
大塚英志は対談の中で何回か、そういうシステムはリヴァイヤサンになるとも述べている。
システムそのものに対しての批判的な視点が求められており、この解答には説得力がある。
posted by 手の鳴る方へ at 08:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

Sheryl crow 〜 幾山河越えさり行かば寂しさの…… 〜

Sheryl crow は現代アメリカの女性シンガーソングライターの筆頭。
単純な善意とアリガチな正義の歌をしばしば歌う。
(一番新しいアルバム『 Detours 』は社会派が鼻につく。)
あるいはシンプルかつ私小説的な愛の歌を歌ったりする。

Detours
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曲調は聴き易く無駄の無いカントリーミュージックが基調。
しかしその歌詞の世界は、安心感のある郷土のイメージからはほど遠い。
そこにあるのは安穏としたアットホームな雰囲気とは正反対の世界観だ。
アコースティックギターを手にし、都市に暮らす現代の女性シンガーは、
その身分に忠実に、自分が根無し草であることを根拠に、率直に歌っている。


彼女の歌の中の人物は、家族やカントリーの庇護の外に突っ立っている。
そこは安住の場所ではない。もはやない。故に彼女は否応なく移動する。
彼女は移動の中に生きる。まさに『 EVERYDAY IS A WINDING ROAD 』だ。
シェリル・クロウの歌は移動の歌だ。不在の終点を目指す旅の歌だ。

彼女はゴミゴミしたモーテルやハイウェイの傍ら、まばゆいネオンの街中、砂漠、
移動中の車の中、目の前を通り過ぎる風景の中、客のいないバー、見知らぬ街角で歌う。
相手を間違えた恋愛・結婚から離れたい、終わりたいと不満を口にし、次のドアを開ける。
過去を嘆き、時間には限りがあると言い、次の恋愛を探すために移動しようと思い、歌う。

そして正真の愛を求め、ベッドで一人寂しくならないような土地を求めてヒッチハイクする。
彼女はそれが生き続けるための術であることを知っている。デビューシングルでそう歌う。


So run baby run baby run baby run
Baby run
From the old familiar faces and
Their old familiar ways
To the comfort of the strangers
Slipping out before they say
So long
Baby loves to run

           (RUN,BABY,RUN)



彼女は走るのが大好きらしい。
世界との関係がプッツリと切れた後、彼女は次の定住先を探すのだろう。
見慣れた世界から見知らぬ世界へと、口元に笑みを浮かべ、コインを握り締めて移動する。
その徘徊するスピードの中で、太陽を浴び、お喋りし、しっかりするのは難しいと物思う。
それがシェリル・クロウの歌だ。彼女にとって街や部屋は走行の通過点に過ぎないのだろう。

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

と、若山牧水はこのような歌を残した。その詩境は不思議とシェリル・クロウの歌詞世界と合っている。
それは近代が懐に隠し持ち、今も持ち続けている生の寂しさなのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 07:20| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月15日

『大衆の反逆』

オルテガ・イ・ガセット 『大衆の反逆』 (神吉敬三 訳 ちくま学芸文庫)
ortega_rebelion.gif


19世紀ヨーロッパの自由主義的叡智が築きあげた物質的・社会的組織は、
人々に対し、歴史上類を見ないほどの恩恵、スケールの大きな生を与えたが、
20世紀の大衆は、忘恩にも、それを当然の、自然的な社会環境として認識し、
天真爛漫に、過去の規範を無視し、古典主義を排除し、慢心した生を送っている。

そういうのってどうなの? お前らもっとちゃんと生きろよ、という話。

「恣意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(p.88)
オルテガはこのゲーテの言葉を引用しつつ、自らに多くを求める貴族を持ち上げる。
それは現状に満足し、権利だけを主張し、受動的に生きる平均人(大衆)とは違い、
好き勝手に生きることを潔しとはしないし、自分自身の迷宮に迷い込むこともない。
彼らは自分を越える大きな何か、現状や国家の彼方にある秩序・精神に奉仕することを好む。
それこそが社会を前へと推進させ、ヨーロッパを大衆の反逆から死守する精神であり、
貴族の責任(Noblesse oblige)である。社会は真の貴族によって新たな歴史を刻みつける。


実家にパラサイトしているフリーターの身分としては、こういう本を読んでいると、
大地に頭を埋め込むタイプの土下座をしなければならないような気になってくる。
それはまぁいいとして、2次大戦前、1930年のスペインで、オルテガが描いた社会認識は、
時代と場所を超えて、21世紀、極東の島国の状況に違和感無くあてはめることが出来る。


ただ、現代に「真の貴族」とか、ノブレス・オブリージュとかはどうだろうね。

彼らは、現実を、自己自身の生を直視しないようにするために思想を用いているのである。それは、生とはさしあたって、自分が迷いこんでいる混沌だからである。人間はそれに気づいてはいるが、その恐るべき現実に直面するのが怖く、そこではすべてのものがきわめて明確になっている思想という幻影の垂れ幕でその現実を覆い隠そうとするのである。自己の「思想」が真正なものでないことには無頓着で、自己の生から自己を守る防空壕、現実を追い払う案山子として用いるのである。(p.224)


例えばこういう箇所にしても、21世紀の今となっては、思想なんてただのフィクションである、
それを生きることと現実を生きることは違う、という主張はありがちで、今更な話でしかない。
そもそもオルテガの後に現れた現代思想には、現実に垂れ幕をするような老婆心などありはしない。
オルテガが「真の貴族」という言葉で、混沌とした現実を受け入れ、招き寄せようとしたように、
現代の思想は案山子とは反対に、貴族よりは謙虚な身振りで、現実を歓待しようとしている。


かつては「真の貴族」に見えた生き方も、今ではフィクションのようにしか映らないだろう。
というかそれは、残念ながら「キャラクター」の類型の一つのようにしか見えないに違いない。
そもそもオルテガの言う「真の貴族」は、漫画の主人公の類型をイメージするのが分かり易い。
困難を乗り越え、運命を切り拓き、逆境に立ち向かい、不可能を可能にする少年漫画の主人公は、
つまり大衆に埋没せず、物語を起動し、推進し、煽動し、奉仕し、神としての作者に従っている。
オルテガは真の貴族の例としてシーザーを挙げ、ページを割いてその栄光を熱っぽく語っているが、
私たちは同じようなテンションで、『ONE PIECE』の主人公について熱く語ることができるだろう。

逆に言えば、もはや「真の貴族」は物語の中にしか存在の余地がない、とも言えるかもしれない。
現実世界には作者なんてモノはいないし、共有すべき物語・歴史・世界観すら欠けている。
貴族はその中で、一体何の歴史を更新するのだろう? 誰の、どこの、何の社会の歴史を?
貴族の言葉も大衆の言葉も区別がつかないだろう。貴族自身にも区別がつかないに違いない。
本当の生だとか、本当の言葉なんてセンチメンタルなものは、もはやJ-POPの中にしか居場所が無い。
貴族が歴史を切り拓くなんていうのも、オルテガがいう意味での思想の垂れ幕でしかなくて、
貴族という思想は、ある種の混沌と対峙する一方で、大衆という混沌からは眼を逸らしている。

そのような貴族のフィクションに生きることは、今も昔ももちろん間違ってはいないけれど、
歴史の不在、共通項の欠如を踏まえない、その不可能性に無頓着な貴族趣味はただの悪趣味だし、
その手の悪趣味は、ネットの中にも外にも掃いて捨てるほどに蔓延っているから始末が悪い。
posted by 手の鳴る方へ at 02:01| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月10日

雨の降る街角を、ゴシックロリータの女の子が、チェ・ゲバラの首をぶら下げて歩いていた

首だと思ったらそういうバッグだった。
バッグの表面に、こういうゲバラの写真の、顔の部分だけがプリントされたもので、
顔(というか帽子・髪の毛・髭)の輪郭に合わせて鞄が縫製されてあった。

che.jpg


女の子の腰の辺りで、ゲバラの顔が無表情にプラプラと揺れているのはビビる。

しかも作り手の遊び心か、(同じようなものだけど)悪意なのかは知らんが、
そのバッグの大きさが、実際の大人の頭部と同じくらいの大きさだから趣味が悪い。
厚さは多分5センチくらい。側面にジッパーが半周を描いているタイプのバッグだろう。
裏面は見ていないけど、見慣れないゲバラの後頭部がプリントされていれば面白い。


ハローキティーでああいうバッグは見た記憶があるけど、ゲバラはないよね。
それにしてもどこで買ったんだろう? それとも自分で作ったのだろうか?
ググッた限りでは見つからなかったけど、どうなんだろう。


ゴスロリとゲバラの組み合わせは如何にもサイコだ。まず意味がわからない。
街中ではゴスロリ自体が異端なのに、そのゴスロリ界隈でも彼女は異端だろう。
インパクトがあったのに、その子の顔どころか、体型すら思い出せないから不思議だ。

一緒にいた私の友人は、彼女から雨宮処凛を連想したらしい。
とっくの昔から思想はファッションだし、ファッションは思想なんだけれど、
私はもう、首バッグとそれを携帯する彼女から、悪意とか敵意の類しか思わなかった。
「だからそれが雨宮処凛じゃん」って友人は言ってたけど、全くピンとこない。
posted by 手の鳴る方へ at 04:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

論壇とブログ

斉藤環はBlogってデッサンに似てね? と言っている。

つまり、「書籍」あるいは「テキスト・アーカイヴ」を完成した絵画作品になぞらえるなら、Blogこそは、永遠の未完成形として増殖を続ける知的デッサンにほかならない(略)。
(斉藤環  『メディアは存在しない』 (NTT出版) p.139)  


世の中に何かが起こると、次の瞬間には多くの感想・評論が即興的にネット上に書き込まれる。
それはブログだけでなく、2ちゃんねる的な大型掲示板やMixiのようなSNSも含めての話で、
それが(今更そんなことを言うのも恥ずかしいが)「ウェブ2.0」時代のありふれた現状。
デッサンは完成品ではなく、それに至る以前の手と思考の運動、模索、出来事の痕跡で、
デッサンによって、デッサンの中で、対象や、対象のマチエールを発見したりもする。
デッサンは書籍や論文、文芸誌や論壇誌に掲載される読み物と、概念上は区別されている。


ずーっと前にネット上で話題になった本に『必読書150』(太田出版)というのがあって、
「批評空間」の偉い人達が、「これを読まなければサルである」ってアジった本なんだけど、
ブロゴスフィアのリアクションは、私が見た限りでは反感の方が多かった気がする。
反感の内容は、教養主義・権威主義・古典主義への真っ当な拒絶感で、さもありなんだ。

権威や教養が希薄な中で、それでも日本のブロガー達はデッサンをシコシコと描いている。
ただ、それは「希薄」であって「皆無」ではない。必要ならば彼らは古典を読むだろうから。
読んで面白ければ次も読むだろう。暗中模索しつつ、手探りで、書架から本を抜き出すだろう。

それなのに、ああそれなのに、偉い人達にはそれがわからんのですよ。
『必読書150』(p.22)で、師曰く


渡部 (略)当初はこの本の巻末付録に、せいぜい現代の日本の小説しか読んでない人のための「道しるべ」のような一文を添えようかと考えました。村上龍が好きならば、必ずサドもセリーヌも読めるはずだ、とか。『エクスタシー』からはバタイユ、『共生虫』からはモンテーニュ『エッセー』の「人喰い人種について」の章を経てレヴィ=ストロース。『希望の国のエクソダス』の遠いネタ本は、本人も読んでないだろうけれど、トマス・モアの『ユートピア』やラブレーの『パンタグリュエル』に出てくる「テレームの僧院」であるとか。柄谷さんもいってるように、村上春樹の曽祖父は国木田独歩で、『一九三七年のピンボール』の「僕」のようにベッドでカントも読めるはずだといった、まあ、詐欺すれすれの道案内ですけれど、結局やめました。そこまで親切にすることはないですよね。


最後の一文にカチンと来るが、というか、この本は全編通じてカチンと来るのだけれど、
それはいいとして、意味不明の理由で知識人が道案内の地図を出し惜しみしている間に、
ネット上には幾らでもその手のサイトが現れて、無名の親切な読書家が需要に応えている。
極上の教養を持つ知識人は、並の教養を持つ無名の紳士によってムザムザと役目を奪われ、
ブログや2ちゃんねるは、それなりに、知識人よりは、学問の裾野の拡大に貢献している。
デッサンを描くスピードで様々な内容の道案内がなされ、エピゴーネンが同類を生んでいる。
それでも山積されたデッサンの束は、いつか知識人の住まう象牙の塔を越えるかもしれない。


ネットの住人が『必読書150』に敵意をむき出しにした気持ちはよくわかる。
それはTVに対する感情と同じで、オールドメディア、旧体制のクセに偉そうだからだ。
もしもネット言論という、幼稚でウソ臭いものを大真面目に発展させていく気があるのなら、
『必読書150』的なモノを、ネット住人は仮想敵としてデッサンしていくことになるだろう。
ただ、それなりのケーキを作るためには、小麦粉や卵や砂糖が不可欠なように、
世の中についてそれなりに語るためには、カントやマルクスやフロイトは不可欠で、
勢古浩爾が幾ら皮肉を言っても、デッサンの動きの先には古典の見本があると私は思う。
だから知識人とか大学人は、もっとブログを書いて偉そうに啓蒙すればいいとも思う。


雑誌はデッサンに近い完成品という、なかなか骨の折れる仕事を求められているはずだが、
どこかの週刊誌みたいに、ネット上のデッサンをかき集め、補正だけするようでは落日も近い。
時流に沿った言論は、もはやネットにアドバンテージがある。出版社はその後を追うだろう。
ならばいっそのこと時勢とは一線を画した、法政大学出版局みたいな硬派を気取ろうか?
書籍とはそもそもそういう役割を期待されている。雑誌だって似たようなものだろう。
しかしブロゴスフィアにも硬派な言論はあり、凡庸な問題提起では競合してしまうだろう。


今月号(5月号)の「論座」の特集「ゼロ年代の言論」に眼を通す限りでは、
論壇の若い世代は、今の時代に紙媒体で活動することについて自覚的になっている。
知識人/無名の紳士、完成品/デッサン、書籍(雑誌)/ネットという構図の中で、
それでもあえて(「あえて」だ!)前者を志向することの意義が語られている。


あと、どうでもいいけど、最近の「論座」は頑張ってる感じがしてイイと思う。
何に比べて頑張っているかと言うと、例えばこういう雑誌と比べて頑張っている。
御用文士をかき集めて、しょーもないワイドショーみたいなネタをわざわざ雑誌でやる。
地元のゼネコンに仕事を与えるために、いらない公共事業をやってるようにしか見えない。
文春が出す、100人くらい動員したこの手の臨時号は読んでて辟易します。立ち読みだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 02:20| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

袋はいらないんで、シール貼ってください

本屋って変な客と遭遇する確率が高い気がします。


二、三日前、本屋に行ったんですよ、本屋。
で、レジに並んでたら、私の前の客が店員にキレ始めたんですね。
客はオッサンですよ。五十代くらいの、いい歳ぶっこいた。

「何で雑誌にシールを貼ろうとするんだ。貼ったら紙が痛むだろ。わかるだろそんなこと」

って、ものスゴイ勢いでのたまっておるワケですよ。若い店員の兄ちゃんは困惑顔ですよ。
私はオッサンの後ろに居たワケだけど、正直どうでもよかったから話半分しか聞いてなくて、
「雑誌買う」→「レシートも袋もいらない」→「じゃあ万引きと間違えないためにシールを」
→「はぁ何言ってるの? お前馬鹿だろ?」→「・・・・・・」ということだと思うんです。多分ね。

個人的には、雑誌にシールは全く問題ない。ただし文庫本や漫画に直接貼られるのは嫌。
「何で鶏の唐揚げに当たり前のようにレモンかけてるの?」みたいなことだと思うんだけど、
世間的にはどうなのだろう。どちらにしろ怒りを買うほどの非常識さでは無いはずだけど。


で、背後で聞かされていてあまり愉快なモンでも無いし、そもそも待たされるのは鬱陶しいし、
その叱り方も、下手糞な、怒鳴っているうちに自分の中で勝手に盛り上がっちゃう感じの、
上司にいたら心底ウザイ感じの叱り方で、あと、後ろに並んでいる人のことも考えて欲しいし、
そもそもオッサンの主張には全く同意できないしで、何かとてもイライラしてきたんですね。

しばらくしてスッキリしたのか、オッサンがレジの脇に避けて商品を鞄に入れ始めたわけです。
私の番になったワケです。手にはとっくに雑誌の値段ジャストの金額が握り締められとるワケです。

「レシートも袋もいらないんで、シールだけ貼ってください」

って、言ってやりましたよ。ああ言ってやりましたともさ。
困った顔をしながら店員が、バーコードの部分にシールを貼ってましたね。
隣りのオッサンはこっち見てましたけど、知ったこっちゃないです。

で、ここまでなら単に私のダサい武勇伝、「手鳴るさんカッケーwwwww」で終わりですが、
私がそのとき購入したのは、先週号(先々週号?)の「エコノミスト」たった一冊でして、
こんな薄くて軽い雑誌は、丸めれば口の中にでも入るくらい持ち運びには不自由しません。
本を入れる袋をいらないと言ったところで、私には何のリスクもないのです。

だから真の武勇伝は、人を殴り殺せそうな最新号の「Oggi 5月号」を持ちながら、
「袋もレシートもいいんでシール貼ってください」と言ってのけた、
私の後ろにいた若い女性だと思います。

いや、おかしいだろ。袋いるだろ。

重い・デカイ・硬いのが女性誌なんです。アレは週刊誌みたいな紙質じゃないんです。
だから彼女こそリスクを引き受けて、自分の主張を押し通した現代の女勇者なのです。
持っていたセカンドバッグには入らないだろうから、きっとあのまま持ち帰ったんでしょう。
心当たりのある方、もしもこのブログを見てたら結婚して下さい。あのときのメガネです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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