2008年09月29日

Proof!

「日教組強いと学力低い」中山説、調べてみれば相関なし
2008年9月27日(土)03:01  asahi.com
http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY200809260383.html?ref=goo


メディアはきちんと数字を提示して、それなりに大臣の発言を批判してますが、
組織率が高いからって必ずしも組織が強いとは限らない(逆もしかりな)ワケで、
また、学力とは学力テストの成績を意味していない、ということもあるかもしれなくて、
元大臣の方にも論拠くらいあるだろうから、「確信犯」だとか意味不明なことを言わず、
それはそれでキチンと議論をするなり、自説の根拠を提示して欲しかったと思います。

しかし、「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分の学力は低い」とか、
「民主党が政権を取れば、日教組、自治労の支援を受けているので、日本が大阪府みたいになる」
って、他府県を馬鹿にてレッテルを貼るようなことを、国の代表が平気で口にするのはどうなの?
ましてや愛国心を語る彼が、他県民の郷土への自尊心を貶めて何のつもり? って思いますよ。
ずっと前、長崎県選出の政治家が「原爆はしょうがない」って発言をしたときも思ったけど、
自民党の愛国心って何なの? 国民には愛郷心が無いから何を言ってもイイとか思ってない?
少なくとも、彼ら国会議員を支える都道府県や市町村の、いわゆる支部レベルの支援者は、
私の身近にも多くいるから知っているつもりだけれど、常識のある好々爺・好青年ですよ。
彼らは良くも悪くも愛国者ですし、保守、自民党こそが日本を良くできると信じてます。


【Top Gear】 大臣にインタビュー (字幕)


話はスゴい変わるんだけど、というかまたニコニコ動画ネタなんだけど、これは面白いね。
政治家やマスコミの言葉ってとても大事だよね、と思います。何よりオチが素晴らしい。
反復される“proof”や“prove” の一言と、このユーモアがどうして日本にはないのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 08:33| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月25日

世代を超える「三国志」

三国志の赤壁の戦いを題材にした、ジョン・ウーの最新作『レッドクリフ』の前編が、
日本で11月1日に封切りということで、映画雑誌を中心に「三国志」特集が散見。
まぁ、「東洋経済」の記事「『三国志』ビジネスの秘密」にしか目を通していないのですが、
この記事は面白い。ビジネス誌として、シンプルに三国志を網羅している点がイイです。
時系列的な概説もイイし、数値化やビジュアル化による影響にも触れていて面白いです。

昔、私が働いていた頃、30代後半の上司が、会社近くの本屋で「ビジュアル三国志」という、
面長の格好イイ周瑜や、孔雀みたいな呂布の一枚絵がドンと描かれたムック本を買ってきて、
部署全体で「それはどうかなー?」みたいな空気になったのをはっきり覚えています。
1500年以上前の人物達が、ここまで可視化されている例もそうそう無い気がしますし、
誰も見たことのない空想の人物画だけで一冊の本にできるジャンルも無い気がします。
ギリシア神話とかで似たようなことをしても、30代のオッサンは見向きもしないでしょう。
と言うか、神戸かどこかで今やってる「大三国志展」にはイメージキャラクターがいて、
その立ち絵を正子公也が描いていて、しかもイケメン俳優にコスプレさせるらしいですね。
しかも衣装がどう見ても史実を無視したゲームキャラの衣装。いいぞもっとやれ。


記事によれば、吉川英治の『三国志』が1939年からの発売。累計1500万部の売り上げ。
そして2002年からTVゲーム会社コーエーが発売している『真・三国無双』シリーズが、
これも累計で1000万本のヒット商品となっている。購買層の平均年齢は17歳だってさ。
さらに1982年からNHKで繰り返し放送されていた川本喜八郎の「人形劇三国志」や、
恐らく日本で、最も影響力の大きい三国志であろう横山光輝版の漫画『三国志』、
1994年から連載が始まった『蒼天航路』(原案 李學仁 漫画 王欣太)等により、
三国志は「下は10代、上は70代」という、類稀な幅広いファン層を獲得している。

シブサワ・コウもインタビューで答えているけど、元々の話がぶっ飛んでて面白いから、
きちんと小説なり漫画なりで伝えることができれば、一定数の人間には必ず届くんですよね。
『レッドクリフ』も、新規開拓というより、「三国志」好きとして嫌な予感はしますけど、
それでもジョン・ウーなら、ジョン・ウーならきっと何とかしてくれる、そういう目をしている、
と、そんな期待が無いワケでもなくて、まぁ、「三国志」を表現するのに映画は短すぎるかもね。


ちなみに私事ですが、私の初「三国志」はこれです。中二の頃でしたね。

SFC:スーパー三国志2スーパーガイドブック
super-sangokushi2.gif


はい、小説や漫画やゲームの三国志よりも先に攻略本でした。何故か持ってたんだよね。
この攻略本の面白いところは、最初に中国人画家の三国志の作品を数枚掲載していて、
簡単な解説と共に「桃園の誓い」や「赤壁の戦い」、「錦馬超」の絵があった点。
作者の名前は忘れたけど、顔料を用いた、輪郭を強調しない没骨画の技法で描かれた、
シンプルで印象に残る絵画でした。それは単なる資料として攻略本に載せられていて、
何だかゲームのクセに格調高いなオイこの野郎と思った記憶があります。

しかもこの攻略本、攻略の進め方も、軍師が君主に進言(佞言)するという見せ方で、
陳宮が呂布に、陸遜が孫権に、「まことに恐れながら申し上げます」みたいな口上で、
タラタラと解説してくれる優れもの。攻略(実利)よりも雰囲気を最優先する良書でした。
「まさに汗顔の至り」とか、中二の頃の私は喜び勇んで日常に取り入れてましたよ。
ええ、もちろん黒歴史です。あの時代がかった口上は、完成度が高かったと思います。
手許に本があれば文章を真似することもできるのですが、さすがに無いんですよね。
まぁ、攻略本だって教養の素地にくらいなれるよ、って言いたいだけなんですけどね。
posted by 手の鳴る方へ at 10:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月23日

煙と世代間ギャップ

近所に農耕地を持っているジジイがいて、そのジジイがそこでゴミを燃やすのを止めない。
もう何度も何度も何度も何度も苦言を呈しているのに、聞きやしねぇ。っていうか馬耳東風?
その土地は、元々は田んぼだったんだけど、ジジイが腰を痛めたとかでずっと休耕地状態。
周囲にはバスも通る幹線道路があり、町外からも客が立ち寄るスーパーとその駐車場があり、
何よりも隣りの土地には去年から一戸建てが建っている。目と鼻の先、10メートルほどの所。
もちろん人も住んでます。新居の隣りでジジイがゴミを燃やしているのです。嫌がらせです。
というか、宅地開発が進んで、そのジジイの土地だけが休耕地として取り残されていて、
周囲の、元々は田畑だった場所は売却され、綺麗な新興住宅地に様変わり、というのが現状。

住宅地の煙害もそうだけど、そもそも6〜7年前に条例で野焼きは禁止されているワケで、
当然、町内会としては「お前いい加減にしないと出るトコ出るヨ?」という雰囲気なのだが、
そのジジイは止める気配が無い。理由は「今まで良かったじゃねーか」と、そうホザく。

「いえ、ずっと言ってますが、今はもう禁止なんです。近所迷惑ですから」
「そんなこと言ったって、今まで燃やしてたぞ?」
「駄目です。周囲の環境も変わってますし、条例でも禁止されてます」
「俺の土地でいつもゴミは燃やしてたんたぞ?」
「昔はここも畑ばかりだったから良かったものの、今はもう違うじゃないですか。30年前にスーパーは無かったでしょ? 隣りに家も無かったでしょ? 田畑はもう住宅地になってます。見れば分かりますよね?」
「でもゴミはここで燃やさないと」
「いいえ、業者の方が持って行ってくれます。それはあなたも知っているはずです」
「俺の土地で燃やそうが俺の勝手だろ」
「煙が幹線道路まで広がってます。道路の向こう側の住宅地にまで煙が届いてます。勝手が過ぎてます」
「お前が生まれる前からここで燃やしてたんだぞ?」


と、こんな死ぬほど無意味な遣り取りを、延々と繰り返してきたワケです。
視力を含めた五感は衰えてはいるのでしょうが、幾らなんでも隣地の新築が見えないはずは無い。
周囲の環境の変化を黙殺して、頭の中の慣習を実施する自動機械を相手にしているようで、
コミュニケーションが全く成立しないのです。全ては「昔からそうだったからOK」なのです。
恐らく相手にしてみれば、私の方も、コミュニケーションが通じない若者に見えるでしょうが、
これはもうあれですか、酒でも飲ませて酔わせて殴りあい覚悟で説教するしかないのですかね。

私は基本的に、年上というだけで敬うことは一切無く、普通に年長者に対しても説教をします。
いまふと思い出したから書くけれど、高校生のときに、狭い古本屋で立ち読みをしている、
50歳くらいのサラリーマンの背後を「スイマセン、失礼します」と言って通ろうとした際、
「何だよ、馬鹿じゃねーの」って言われ、ブチ切れてそのオッサンに説教したことがあります。
狭い通路を「失礼します」と言って通ろうとして、それにもかかわらず馬鹿呼ばわりされては、
人は生きていけないからです。まぁ、相手が不良やヤクザだったなら我慢してたでしょうが。
思い出したついでに書けば、今も昔も、社会の中で怒る主体は成人男性のイメージがあります。
「最近の大人は怒らなくなった」と言うとき、怒るのは大人で、怒られるのは子供らしいです。
もちろんそんなワケはないですからね、と、現在、私はそれなりに堂々と言うことができます。
怒る主体が子供で、怒られる側が大人でも、怒りの内容さえもっともなら問題はないですから。


で、冒頭のジジイについては、埒があかないし、普通にブチ切れても仕方ないので撤収。
というか、コミュニケーションの成立しない相手にまともに怒っても、悲しいかな意味が無い。
私は巷に溢れる、世代間の差異を強調し、若者 vs 団塊世代の構図でモノを語って煽り続ける、
ロスジェネ連中のことは下らないと思うけど、世代間のギャップって思ったよりも断絶していて、
そういうロスジェネ連中が、老人の「俺の若い頃は〜」的な話に苛立つ気持ちは分かる気がする。
「俺の若い頃は〜」も、「今までは良かったじゃねーか」も、現状を不当に棚上げしている。
その硬直化した老人の経験則と、不確かな若者の経験則もどぎが、接点もなくすれ違っている。
そしてすれ違って丸損しているのは若者の方で、既に社会的地位のある老人は痛くないんだよね。
ディスコミュニケーションの割りを食うのは、大抵の場合は社会的な弱者なんですよね。
強者には積極的にコミュニケーションを進めようとするインセンティブが働かないよね。


まぁ、どちらにしろ話が通じないのは困る。硬直化した慣習はほとんど宗教と同じだ。
posted by 手の鳴る方へ at 05:23| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月18日

初音ミクの「舎利禮文」

【初音ミク】舎利禮文【オリジナル曲でお経カバー】



戸川ミクは聞いたことがあったけれど、向井ミク(初音秀徳)までいるなんてスゴイ。
とは言え、この曲に関しては、むしろイースタンユースっぽいと個人的には思います。
奈良美智は工房の中で、大音響のイースタンユースを聞きながら絵を描いたらしいけど、
それと似たような感じで、初音ミクが手拍子に合わせてお経を唱えるのはありそうな話です。
ポップなモノがどんどんポップじゃなくなっていき、体臭が漂ってきそうな感じがしますね。
そう考えてみれば、ポップなアートやカルチャーは、もうどこにも無いのかもしれません。

んで、初音ミクが誕生してから丸一年が経過。チヤホヤされる季節が終わり、
好きな人が好きなように曲を作り、リスナーの支持を得たり得なかったりして、
小さいけれどそこそこの規模のアヘン窟(褒め言葉)が乱立しているのが現状です。
ニコ動の有名どころのDTMer や、有名な絵師、歌い手が動けば試聴数は増えますが、
ヒットメーカーとしてのVocaloid は影を潜め、知られざる名曲ばかりが山積しています。
そんな大多数の、お気に入り数1000以下の楽曲の中にVocaloid の本質はあると思います。
予想外の量の多様な関心に沿って、色々なテーマがVocaloid によって歌われてきました。
個人的には「ハト」や「サイハテ」のお陰で、聞いていた音楽の狭さに気付かされました。
この一年間で、あらゆるテーマが網羅され、音楽として表象されたことは評価されるべきです。
ある文字列を見せられて、それが実はVocaloid の楽曲のタイトルでしたと言われても、
私達は喜びこそすれ、もう驚くことはないでしょう。「舎利禮文」だってそんな曲の一つです。
そう言えば、Vocaloid は万物を掬い上げて音楽に変えるから、どことなく大乗仏教的ですよね。
あらゆる物事は俗塵の中で、Vocaloid に歌われる日を待ち焦がれているのかもしれません。
posted by 手の鳴る方へ at 06:04| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月16日

『政治的なものについて』

シャンタル・ムフ 『政治的なものについて』(酒井隆史 監訳 篠原雅武 訳 明石書店)
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サブタイトルは「闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築」。

世の中には色々な人がいて、自分とは考え方が全く異なる人々もいるワケで、
そういう人達と一緒に共同体を営み、共に生きるためには、政治が必要だよね。
政治とはザックリ言えば「物事を決める」ことで、十人十色の考え方がある中で、
独裁者がビシッと決定したり、民主主義でバシッと決めたりするのが政治だよね。
「政治的なもの」とはつまるところ、この意見の相違、もっと言えば対抗関係で、
狂ってもいなければ道徳的な病気でもないけれど、それでも分かり合えない者同士が、
対立しつつもなお物事を決め、決定されてもなお対立していられるのが政治なんだよね。
それはカール・シュミットが言うように、「われわれ/彼ら」の対立項を前提にしている。
だって、みんな同じだったらそもそも全てが自明裡に進むし、何も決定する必要もないものね。

ところが、政治を対抗モデルで語るのは古い、という考え方が世の中にあるんだよね。
それによれば、敵対性は抹消され、誰も排除されない、敗者不在の政治があり得るらしい。
確かに、党派性なんか虚構ですよねー、みんなコスモポリタンの「われわれ」ですよねー。
ウヨサヨのイデオロギーとか民族とか、性差とか宗教とか国籍とかも古臭い虚構ですよねー。
だってそれって情念的で不寛容で非理性的ですもんねー。個人主義的じゃないですもんねー。
「右とか左とか、もう古い。これからの時代は和なのです。和っ!」って、
窪塚洋介もウヨ映画の試写会で言ってたよ。マンションからダイブする前の話だけど。
つまり、みんなが合理的なコミュニケーションを実践すれば、意見の相違もきっと一致するし、
みんなが理想的な解決法も見つかるよね、だって人類皆兄弟だし、宇宙船地球号の一員だし。

こういう潮流に異を唱え、政治の中に「政治的なもの」を呼び戻そうと言うのがこの本の趣旨。
ハーバーマスやネグリ、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが槍玉に上げられている。


政治から情念を除去することを望み、民主主義政治が、理性、慎み、合意といった観点からのみ理解されるべきであると主張する理論家は、政治的なものの力学を理解していない。(略)政治にはつねに「党派的」な次元が備わっており、それゆえに政治に関心をいだく人びとは、現実の選択肢を提示する政党のあいだで選択が可能である必要がある。だが、これこそがまさしく、「党派なき」民主主義を賞賛する現代の趨勢に欠落している事柄なのだ。いまや支配的な、合意を至上とする政治は、たとえいろいろな場所でいやというほど聞かされるにせよ、民主主義における進歩をあらわしているとはとうていいえない。(P.49)


ここで言われている情念とは、宗教とか民族、国家に対する愛着の総称のようなもの。
2000年、ある欧州の一国の総選挙で、右翼ポピュリズム政党が議席をそこそこ獲得した際、
EUの14カ国は外交的な制裁に乗り出し、民主主義を守る名目でその国を村八分状態にした。
また、そのような政党を支持したその国の国民に対しても、脱ナチ化していないと非難した。
この事例だけでなく、欧州はしばしば、この手の右翼ポピュリズム政党の台頭に怯えている。
ムフに言わせれば、ネオナチ的な政党が支持される背景には、まさに現代欧州に広く流布し、
党派を否定する、対抗無きネオリベラル的な政治環境があるのだが、彼らはそれに気付かない。
党派的な選択肢の無さが、不愉快な政党の支持へと繋がるのだが、彼らはそれに気付かない。
「政治的なもの」の否定が情念を呼び戻し、「政治的なもの」の否定が、道徳的にその情念を排除する。
その一人よがり、自業自得、マッチポンプに欧州のネオリベラル派は気付かないのだ。


この構図は、国内政治だけでなく、国際政治において、より深刻なかたちで見受けられる。
ブッシュ大統領の「自由で文明化された我々/自由の敵」という構図や、アルカイダのテロは、
欧米的な価値観しか存在し得ない国際社会の、オルタナティブの不在が招いた産物であり、
リベラルな普遍主義だけが真実で唯一の政治システムであるというリベラル派の思い上がり、
特にソ連が崩壊してからの一人勝ち、一極支配の唯我独尊が招いた産物であるとムフは主張する。
そこでは西洋的なヘゲモニーが、非西洋的なスタンスをあらかじめ政治から、道徳的に排除する。
その非西洋的な主張は、非人間的だとして、人類の共通利益に反するとして排除されるのだ。
ゆえに国際的な対抗関係は、闘技的な関係を持てずにいる。特殊な西洋が普遍の名で支配する。
この「政治的なもの」の否定ゆえに、人々は西洋的な世界の中に爆弾を抱えて突っ込むこととなる。


既存の秩序を根底的に否定する言説と実践が増殖しているそもそもの理由は、グローバリゼーションのネオリベラルなモデルのヘゲモニーに挑戦する政治的回路が欠落していることにあると考えるべきなのだ。(p.123)


非西洋社会に残されているのは、経済的に発展するために西洋化し、文化的に絶滅するか、
自身の文化に拘泥して物理的に死ぬかの二者択一である。爆弾は第三の道として仕掛けられるが、
そのことにしても、政治の中に西洋化、リベラル民主主義化以外の選択肢がないことが問題なのだ。
非(反)西洋的な主張でも、正当と認められるような政治的な回路が求められているとムフは述べる。
啓蒙を語るトドロフがヨーロッパを疑わなかったのに対し、ムフは疑うところから始めている。
西洋的な「人権」ばかりを自明視し、当然廃止すべき方向で死刑制度を語るトドロフに対し、
ムフは「人権」はリベラル民主主義の中心概念であり、西洋の制度を前提としていると述べる。
さらにボアヴァンチュラ・ド・スーザサントスという学者の言葉を借りつつ(p.185〜187)、
「人権」概念が西洋文化の押し付けの道具とならないよう、「人権」概念も多元化すべきであり、
「人権」概念が、人格の尊重を機能とするならば、その方法は他にもあるはずだとも述べる。

世界の一部、多極の内の一極として語られる、ムフのヨーロッパ像にはとても好感が持てる。
前にも書いたけど、分かり合えることが素晴らしいなんてのは悪しきメルヘンですからね。
対抗関係が持続しつつも、それでも政治的な決定には従い、同じ共同体で生きる方がイイし、
殴り合いで決めるよりも、直接なり間接なり、投票用紙でムリヤリ決めた方がイイですものね。
posted by 手の鳴る方へ at 09:59| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月13日

21世紀の移民問題

天沼香 『故国を忘れず新天地を拓く』(新潮選書)
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サブタイトルには「移民から見る近代日本」とある。こっちの方がタイトルっぽい。
戦前の日本人移民がどのような背景のもとに出国したか、当時の知識人達は何を述べたか、
日本や受け入れ先の国は、20世紀の大変動の中で何をし、あるいは何をしなかったか、
移民達の顛末はどうなったか、生活の基盤を得た後で、彼らは何を思っているか、という話。
エピソードと歴史的な話が混在して、無知で初心者な私でも面白く読むことができました。
例えば作者が「外国人労働者」や「新移住者」という名称を忌避しているあたりがそうで、
「移民」という言葉の持つロマンティズムが、日本や移住先の国の都合で蹂躙されてきた、
という筋書きが見えなくもないけど、そういうイメージ戦略はとても重要だとも思います。


現在、海外在住日系人は270万人、在日日系人は37万人と言われている。
少子高齢社会に加えて人口減少が予測されている21世紀の日本は、国策として、
入移民政策について本腰で考えなければならないし、そうせざるを得ないだろう。
移民問題は決して古い問題では無く、かつての日本を見る限り、入・出移民双方にとって、
この国の移民政策は十全とは言えなかったし、その傾向は現在にも尾を引いているようだ。
作者はあまり触れていないけれど、マスコミの認識も相当低いと言わざるを得ないよね。

これは知識人に関しても同様で、今後、日本に外国人労働者と言う名の移民が入ってきた場合、
現在の労働環境は大きく変わることになる。かつての日本人移民がホワイト・プアの仕事を奪い、
彼らからの差別に苦しんだように、日本へ来る移民も、日本人の仕事の幾分かを奪うだろう。
その際、労働弱者を御神体に掲げるフリーターズ・フリー界隈の言論人は何を語るのだろう。
というか、何を語れるのだろうか。これは言論左派にとって一つの大きな試練石になるだろう。
同じ社会的弱者として、「共闘」の御旗のもとに、今まで通り国や経営者を叩くだろうか。
それとも歴史を繰り返すように、ジャパニーズ・プアは移民達に敵意を向けるだろうか。

ボリビアには日系人コロニーが幾つかあるが、その内の「オキナワ村」と本土の村との間には、
さしたる繋がりがなく、異国の地でお互いに助け合うどころか、反目し合う場面もあるそうだ。
お互いの言語を解し、そう遠くない場所に、同じ移民としてコロニーを築き上げたというのに、
本土と沖縄の出自の違いで、そのような弱者同士での差異化、断絶が生じてしまったらしい。
1871年、明治新政府による廃藩置県により、沖縄は鹿児島県に強制的に編入させられたが、
作者によれば、そこから始まる捻れ、心理的な距離感が移民達の距離と化しているそうだ。
と、移民同士でも「共闘」しないケースもあるワケで、労働問題を飯のタネにしている連中は、
果たして有効な、多少はマシな提案をすることができるだろうか。私は無理だと思います。


あと、2ちゃんレベルの議論では、フランスの暴動の例がよく引き合いに出されている感じですが、
移民に関しては、ネットやこの手の学術書よりも、海外の映画の方がタメになる気がします。
圧倒的な社会的弱者であり、下手したら言葉も通じない、プロレタリア以下の棄民としての移民、
周縁的で実存的なその生が、国や社会状況によって振り回され、ズタズタに傷つきやすい移民。
ケン・ローチの最新作もイギリス移民の話ですしね。まぁ、私の地元では上映しないんですけどね。
この手の文化的な地域格差はホトホト嫌になります。ユーロスペースとか全国展開しねぇかなぁ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:15| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月10日

ボケノートクロニクル10 〜有名人でボケよう3〜

801 :ロング背表紙 ◆vNDeemktHM :2007/02/10(土) 06:42:40
腕時計が必要ならば、己の手で太陽を掴むがよい。
太陽を掴んだ手は、朝に昇り、夕に沈むことで、その腕に時を刻むであろう



終わって久しいネット大喜利サイト「ボケノート」に投稿されたボケを、
みんなが忘れた頃になって、主観的な見地からピックアップするコーナー。
どこかの美大生が卒業制作で作ってそうだよね。「これが本当の腕時計」とか言って。


記念すべき10回目の今回は有名人。日本の芸能人・著名人を中心に。
基本的に芸能人を使ったネタは安易です。ましてやお笑い芸人などもってのほかです。

何か面白いネタを書こう → いま、みんなから面白いと思われているモノは何だろう
→ あのお笑い番組の、あのお笑い芸人は人気があるようだ → それを真似しよう


このような思考の流れのことを安易と言います。考えることを放棄しているのが駄目です。
脳に汗かいて考えてこそ大喜利です。いわゆる「ひらめき」なんてたまにしかありません。
目の前の、ありふれたモノでボケるのは、自らでハードルを高くしているようなものです。
それを踏まえて、高評価を得た有名人ボケを見ていきましょう。

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【Page162】
答えが「バルタン星人」になるようなお題を考えてください。 (キツネ)

[ 9位 ] マテス  
蜷川幸雄は怒ると灰皿を投げますが、では円谷英二は?


【Page300】
カレーを一ヵ月間寝かせると起こる現象 (猫親父)

[ 5位 ] 犀門  
「私も1ヶ月間寝てたことがある」と釈由美子が言い出す


【Page169】
最近ヤクザの間で持ちきりの噂 (U-BOT)

[ 2位 ] IWAコスタリカ (三級)
携帯のボイスレコーダに「ヤクザ」と録音して逆再生すると「上戸彩」に聞こえる


【Page77】
いつもは神なんていないと言っている人が
おもわず、命乞いした場面とは? (herakles)

[ 17位 ] 右肘
怒った広瀬香美がマイクを握り潰した。


【Page417】
「パンが無ければケーキを食べればいいのに」より傲慢なマリー・アントワネットの発言 (鬼子)

[ 3位 ] PAIPO (六級)  
三人とも高見沢だったらいいのに


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この人選の絶妙さ加減。高見沢でいいんですか? 桜井とかもいますよ?
あと、バルタン星人のお題で円谷英二が出てくるのは予想の範囲内としても、
この書き方が秀逸ですよね。キーワードだけじゃ上位にはなれないのです。

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【Page149】
白馬に乗った王子様が現れる条件とは (桃☆ミサイル)

[ 32位 ] 八百屋さん  
美女が毒リンゴをかじり、歯茎から血を出したら
白馬に乗った織田裕二がデンターを持って現れる

[ 41位 ] リモコン (八級)  
一点おまけした瞬間の山本晋也監督は仮装ではなく確かに王子様だった


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織田裕二も最近はネタキャラになってる気がします。
ネタキャラといえば、この人も意外とネタにされやすい。

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【Page260】
最も売れたコーヒーのキャッチフレーズとは? (だんりゅう)

[ 2位 ] 撥条  
徳永英明「もやもやしない」


【Page605】
雨の日が1ヶ月続くと (超合金うんこ伊忍道)

[ 25位 ] ファザーマッカー  
徳永英明がとんでもない名曲を書きあげる


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【Page260】はズルいよね。完全に面白ワードです。
【Page605】みたいな使い方でも、採点者の支持は得られるようです。徳永秀明は奥が深い。
次もネタにされやすいミュージシャンを、もう一人だけ。

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【Page414】
拍子抜けするホラー小説のラスト1行 (鬼子)

[ 2位 ] ガパラスゴ (二級)  
で、矢沢が封じたわけ、霊を。


【Page479】
「涙じゃないよ、心の汗だよ!」の名台詞に代わる
泣いている時の言い訳は? (美しい世界になる予感)

[ 2位 ] なめこ汁 (十級)  
YAZAWA「これ?これもYAZAWAよ」


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ネタになるとは絵になるということでもあります。多分ね。
破天荒でアウトローなYAZAWAも、記号的には周縁的で、ゆえに豊穣です。

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【Page216】
完全犯罪のスペシャリストが、たった一度だけ犯したミス (猫親父)

[ 20位 ] プルミエ (五級)  
現場に一茂忘れた


【Page579】
先生に「なんで給食を残すんだ!」
と言われた時の、誰もが感心した言い訳。 (muscle)

[ 15位 ] 浪人形・ラ (八級)  
もし俺が飯食ってる時に河村隆一が死んだら不謹慎なヤツと思われる


【Page281】
バスジャックされたバスに警察が強行突入したら犯人が泣いていました

いったい何があった? (いんく)

[ 17位 ] 虫こない (九級)  
工藤静香「こいつすごくいい子だよ」


【Page605】
雨の日が1ヶ月続くと (超合金うんこ伊忍道)

[ 13位 ] calpis (八級)  
「悪い魔女が雨を降らせている」との噂が広まり、火あぶりの刑に処される八代亜紀
その光景を肴にぬるめの燗を楽しむイカ


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芸能人とかそういう問題じゃないネタ。
最後のボケは何なんだろうこれは。たった2行でびっくりするくらいカオスだ。

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【Page462】
テレビをミュートで長時間観続けると、番組の出演者はこんな行動を取り始める (スカイドライブ)

[ 3位 ] 63なのよ (七級)  
三輪明宏の発色がブラウン管の限界を越える


【Page574】
俺って死んだのかと気づいた瞬間 (粉雪)

[ 14位 ] みつたん( ̄▽ ̄)ノ  
吉村作治の持つハケが顔にあたった


【Page436】
二十話目辺りで既にネタ切れしだした百物語の第八十七話目 (鬼子)

[ 6位 ] てふてふ (二級)  
大槻教授「おばけの話します」


【Page583】
今日は羊を数えてもなんだか全く眠れません。なにか眠りにつくための新しいテクニックを教えて下さい。 (夕刊フロンティアS)

[ 1位 ] ありせ (九級)  
大滝秀治のオールナイトニッポン


【Page330】
最近地球の重力が強くなったことに気付いた理由 (道)

[ 1位 ] torota (一級)  
「ちょっとギターが重いんで降ろしましょうかね」とさだまさしが早い段階で言った


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最後の2つは納得の1位。その芸能人のテイストを凝縮した見事なボケだと思います。
「大滝秀治のオールナイトニッポン」なんて字面だけで眠たくなるよね。
最後はこんなボケを。如何にもネット大喜利的な、可能性のあるボケだと思います。
ちなみにこのボケは数年前のものだけど、さっき改めて確認したところ、
デザインは全く変わっていませんでした。

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【Page608】
目の手術を受けた少女が包帯を取って最初に見た光景 (山梨)

[ 34位 ] ぐりま  
信じられないくらいシンプルな阿部寛の公式サイト


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阿部寛のホームページ
posted by 手の鳴る方へ at 05:28| Comment(0) | ネット大喜利・小咄板 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月08日

辺見庸のコラム風に雑誌の休刊を語る

 夕立が降り始めた。商店街のアーケードの下へと人々が駆け込んでくる。肩や頭をハンカチで拭う人々を横目に、私はタリーズコーヒーで友人を待っている。友人は約束の時間に遅れている。何度も携帯で呼び出しているのだが誰も出ない。恐らく家に忘れたまま外出しているのだ。通りを歩く人々の中にその友人の姿はない。店の入り口で呼子をする店員の声がはきはきと聞こえる。客のまばらな店内には静かな音楽が流れており、私は空になった皿やグラスを前に「論座」の10月号に目を通す。表紙には『進化を続ける「論座」的空間』とあるものの、内容は何の代わり映えもない鼎談にインタビュー、書評、時評、論文等々。この雑誌はこの号で休刊になる。それを含めて普通の雑誌だ。


 雨に降られたらしい母親と男の子が店内へと呼び込まれ、一番手前の席にいた私と目が合う。私は友人でないと確認すると、視線を落としてまたぱらぱらとページをめくる。しかし休刊する雑誌が謳う「進化」とはいったい何のことだろうか。保守のオピニオン誌と比べれば書き手に幅はあるものの、それに何の意味があるのだろう。「最後のU-40(under forty)特集」を組みながら、75年生まれの中島岳志だけ、何故、柄谷行人、山口二郎のビッグネームとの鼎談が組まれているのだろう。それは例えば田村哲樹ではいけなかったのだろうか。そもそも柄谷行人はまだ必要なのだろうか。


 主著の中でアーサー・ケストラーは、進化の袋小路について、コアラを例に出して語っている。その動物は、オーストラリア大陸に適応し過ぎたため、他の土地では生きていけない体の構造をしているらしい。

この生物はユーカリ樹のうちでもある特定種の葉だけを餌とし、他のものはいっさい食べないように特殊化した。それで五本の指の代わりにかぎ爪があり、これは樹皮をよじのぼるのにぴったり適しているけれども、他にはいっさい使いみちがない。これを人間にたとえれば、愛くるしくない点は別として、考えることも行動もすべてがかたくなに、枠にはまった学者ぶり、習慣の奴隷こそまさにそれだ。(『機械の中の幽霊』 p.220)

進化とは袋小路へと続く隘路であり、特殊な気候風土の中で生き抜くため、生き方を特殊化することである。ケストラーはこのことを生物だけに当てはめてはいない。文化や思想にもこの構図を持ち込もうとしている。コアラがオーストラリア大陸に特化し、生物として隘路にはまったように、短くはない雑誌の歴史も、ここにきて隘路にはまっているのかもしれない。そういえばオタクは死んだらしいが、それも「萌え」の風土に適応し過ぎて、袋小路にはまったためかもしれない。隘路から抜け出すには後戻りするしかないとケストラーは語る。未完成の子供へ戻れと言うのだ。いったん御破算することこそが進化の要である。ならば雑誌が進化する可能性は、既存雑誌の休刊の中にしかない。もちろんこれは皮肉に違いない。しかし「論座」の進化の語り方は当を得ている。


 先ほどの母親が商品を持って店の奥へと入っていく。小学校低学年くらいの、大人しそうな男の子がその後を追って歩く。彼の持つ象牙色のトレイの上ではアイスコーヒーが危なげに揺れている。母親は隅に陣取って子供の名前を呼ぶ。母親は「ガムシロは貰った?」と尋ねる。影の中で白いタオルを取り出しているように見えた。男の子は何も言わなかった。店員がバックヤードから現れて、店の奥の方でなにやら対応していた。私は鞄に雑誌をしまいこみ、もう一度携帯で連絡を取る。濡れた傘を持った人々が通りを過ぎていく。あの男の子は「論座」という雑誌を知らずに育つのだろう。それはまったく問題のないことだ。戦前、日本の出版史上で最初の百万部を達成した「キング」という男性誌があった。それは現代、「KING」という名前で創刊されていたが、今年の9月発売号で休刊となる。襲名からわずか二年。月刊の方の「PLAYBOY」日本版も11月で休刊する。最近では詩や写真の特集に目を見張るものがあったが、中原中也の詩がネット上で難なく読め、文庫になっても漫画絵が表紙になるような時代だ。また、ミニチュアのように社会を写し撮ることが評価され、街で起こった事件に携帯のレンズが一斉に向けられる時代だ。ポルノを見たければ雑誌よりもネットが頼りになる、そんな時代だ。池澤夏樹やジャーナリズムが立つ土俵には観客がいない。その土俵は隘路の先、袋小路に設置されている。それを人々は時代の閉塞感と呼ぶのだ。


 電話には誰も出なかった。その代わりにびしょ濡れの友人が店内に入ってきた。彼はレジ前を素通りし、車が動かなくなったと、ありそうもない言い訳をする。聞けば、携帯を忘れたことには気がついていなかったと言う。店を後にして、私は友人に何気なく聞いた。
「ヒュー・ヘフナーって知ってる?」
「プレイガールと暮らしてる奴だな。なに、死んだの?」
私より1つ年上の友人はそう即答した。それはありそうなことだった。私は「別に」と言った。
「じゃあお前、辺見庸って知ってる?」
「元ジャーナリストの芥川賞作家だろ。『自動踏台昇降ベッド』だっけ? なに、死んだの?」
そう答えたのは私の方だった。正しくは『自動起床装置』。友人も「別に」と言った。私はさっきまでいた店内を振り返った。カウンターにいた店員と目があった。あの親子は影の中にいてもう見えなかった。あの男の子は「PLAYBOY」創刊者の伊達男、ヒュー・ヘフナーの名や、セバスチャン・サルガドの「ブラジル セーラ・ペラーダ金山」のような写真を知らずに育つのだろう。辺見庸的な言説もきっと知らずに育つだろう。彼がヘフナーやサルガドの名をグーグルで検索することもないだろう。歩き出して友人は私の知らない人物の名前を挙げた。私が「知らない」と言うと、彼は残念そうな顔をした。
posted by 手の鳴る方へ at 06:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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