2008年12月31日

平成二十年二条河原落書

このごろ都に流行るもの 用品高騰 謀古紙
召人橋下「クソ教委」 田母神 海賊 自由チベット

中山大臣迷い者 アラフォー大賞 モナ二岡
本領離るる蘇民祭 番組辞めたる細木嫗

『相棒』 JAPAiN せんとくん 下克上するまんとくん
企業堪否沙汰もなく 漏るる人あり内定者

居慣れぬ監獄 詐欺の小室
持ちも慣らわぬ聖火持ちて 代理が歌う珍しや
管理職なる店長は 我も我もと見ゆれども
好まなりける偽りは 愚かなるにや劣るらん

麻生総理の言い間違い 豪雨 楊逸 クズ汚米
四川の土地の大地震 『蟹工船』の再出荷
下衆上臈の際もなく 大阪で燃えるビデオ店

今年時価総額上げず 引くに引きえぬ市場者
落馬G1で勝りたり
誰を師匠となけれども 遍く流行るオバマ節 事新しき風情也

与党野党をこき混ぜて 一座揃わぬ日銀人事
在々所々に裏サイト 勝者になれぬNOVAウサギ
譜代非成の差別なく GM往昔の世界なり

支持を沈めし角界の ウザい旧式の掟により
只品有りし力士も皆 なめんだらにぞ今はなる

朝にバナナを食べながら 「羊水腐る」倖田來未
謝罪に及ばぬ事ぞなし
させる修養無けれども 過分に昇任するものあり
定めて損ぞあるらんと 仰ぎて信をとる教師

天下統一珍しや
御代に生まれて様々の 事を見聞くぞ不思議共
京童の口すさみ 十分の一ぞもらすなり


おそまつ
posted by 手の鳴る方へ at 09:13| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

『それでも町は廻っている』

石黒正数 『それでも町は廻っている 5』(少年画報社)
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原作者のいる作品が一番面白くないという珍しい漫画家の新刊。


日常を描いているようで、時々、異星人とか変な水棲生物とかが出てくる。
登場人物達はそれらの手前で、背を向けて、無意識にスィッと日常へ引き返すし、
幽霊や異星人や水棲生物が別段、今後の展開の重要な伏線になるわけでも多分ない。
それらはケレン味のある見た目とは裏腹に、日常を変えることを期待されていない。
むしろ日常はそれらが不在である間に、不在であることを原動力として動いている。
事件や異物や秘密など、劇的なものの非現前こそが実は日常なのだという発想は、
よく考えれば怖いのだけど、この漫画の日常は多分、それらに巻き込まれはしない。
それはコメディだからとか、お気楽だからとか、主人公が女子高生だからではなくて、
現に「それでも町は廻っている」から、それが自然・本性(nature)だからだと思います。
って、あまり上手くないオチですね。25点。



しかしこの作者は、雪女の話にしても、亀井堂のねーちゃんが出てた話にしても、
『それ町』と『ネムルバカ』の主人公の名前にしても、そういうのが好きみたいだね。
尾谷高校とか、河井荘とかね。比音小学校って名前にも何かあるのかもね。
posted by 手の鳴る方へ at 10:26| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芸とTV

あらかじめ言い訳しておくと、内容とまとまりの無いことをダラダラ書いてます。
しかも、ここ数ヶ月、お笑い番組どころかTVを見ていない人間が書いてます。





「何故TVはこのようなコンテンツを作ってこなかったのだろう?」と、ふと思った。
「このような」とは、漫才という形を保ちつつ、舞台上に急に扉や電話が現れたり、
別撮りの、目玉のオヤジや魅魔様やテレサや骸骨が、要するに舞台上の漫才師以外が、
漫才の中に、編集の時点で意図的に差し挟まれる、そういう作り方のことを指している。
このコンテンツの目新しさは、Sims2の多様な表現とか東方とかそういう話ではなくて、
漫才なのに演者や舞台が、コンテンツの中で要素の一部と化している、という点にある。
で、TVなら、この類のコンテンツだって簡単に作れるはずなのに、全く試みられていない。
TVのお笑いコンテンツで人間が不在なのは、「オー! マイキー」くらいしか知らない。
まぁ、「オー! マイキー」はむしろ静止画の紙芝居(特に電脳紙芝居)の系譜っぽいが。


TVでやっている漫才番組は、演芸場でできる漫才と同じモノをお茶の間に届けている。
TVの前にいる視聴者と、客席で観客の見ている漫才の内容は、名目上は一致しているし、
番組製作者は、舞台の上に現れる芸や芸人が、コンテンツの中心となることを疑わない。
編集で添加されるのは笑い声やテロップ、客席や司会者、審査員の様子くらいなもので、
他の番組に比べたら、編集の手をなるだけ介在させないことに意識が向けられている。
それはほぼプレーンなまま、分かりやすく料理風に言えば「素材の良さをそのままに」
お笑いコンテンツが制作されている。舞台の上は隠れる場所がないし、隠す誰かもいない。

と言うことは、漫才コンテンツの関係者は、舞台上に生じる演芸の空間だけで、
お笑いのコンテンツは完成し得るし、現に完成していると考えていることになる。
つまりTVのこの発想は、演芸場の発想とほとんど同じであると言ってもいいはずで、
TVと芸の関係を否定的に考えることは、間接的に「舞台的なもの」も否定している。
松本人志がいくら「TVではもう勝負できない」とボヤいて映画を撮ったところで、
あるいは日刊ゲンダイがいくら「『M-1』は芸人を育てない」と非難したところで、
漫才、あるいは芸人は、TVよりも大きな舞台を見つけることは決してできないし、
今のTVでは人間不在の、冒頭の動画のようなコンテンツは主流にはなり得ない。

ところで考えるに、何故、主流にはなり得ないのだろうか?

TVの根源にあるのは不特定多数の、つまり大衆の耳目を集めるタレントで、
タレントの定義をせずに話を続けるけど、硬派なドキュメンタリーや教養番組を除いて、
TVのコンテンツの中心には必ずタレントがいなきゃいけないことになっているらしい。
それはTVが黎明期に舞台演芸や映画から引き継ぎ、独自にも成熟させたシステムで、
タレントのことを大衆は話題にするし、タレントを軸にマーケティングは動いている。
上の日刊ゲンダイの記事も、悪意を持ってみれば、芸人のスキルアップの話というより、
M-1で優勝したコンビがカリスマ的なタレントにならないからマーケティング的に辛い、
量産型ばかりでは昨今のTV離れの戦局は打開できないよ、と言っているように見える。

仮に冒頭のような漫才を生身の人間で作ろうとすると、芸人はコンテンツの一部と化し、
編集作業の中で、彼らはスタントマン的な匿名の誰か、諸要素の一つに成り下がってしまう。
今でもTV番組には「再現VTRにでてくるどこかの劇団の役者」みたいな存在が不可欠だけど、
それは、舞台の上にいる間は確実に主役である「使い捨て芸人」よりも過酷かもしれない。
少なくともタレントという見地からすれば、「使い捨て芸人」の方が知名度は高いだろうし、
TVがタレントを求めている限り、安上がりとは言え芸人をそんな役割には貶めないだろう。


冒頭の動画を漫才と呼ぶとすれば、それは舞台的=TV的な発想とは違う視点で作られた漫才で、
舞台上にあった“芸”そのものが変質している。この動画にとって“芸”とは何なのだろう、
というか、そもそも“芸”はあるのか、それはそもそも必要なのかという次元の話なのだが。
ここで身も蓋もないことを言えば、“芸”という誰も定義しない何かが不在でも問題はなくて、
自分が知っている言い回しやキャラ、アニメのワンシーンがそこにあれば十分に満足できて、
それらがTVタレントの代わりに、ネットの中で多くの人々の耳目を集めつつあるのではないか。

まぁ、この結論は度し難いくらいありきたりなんだけど、改めて確認しておきたいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:47| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

鉄の檻の中で妄想する保守

佐伯啓思 『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬社新書)
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私は自分のことを思想的に保守派だとは思っていないし、感化されたこともそれほどないし、
今いる日本の保守言論人の七割については馬鹿だと思っているけど、保守思想自体に恨みはない。
と言うか結構好きなのです。気楽だからブログではポストモダンばっかり紹介してますけど。

日本の保守派は、戦後の日本は狂ってしまったとか、東京裁判で日本人の本質が失われたとか、
そういう風に言いがちだけど、個人的に思うのは、敗戦で狂ってしまったのは単に保守、
保守という言論だけで、日本の大多数の人々は、別に東京裁判にも戦後云々にも興味は無い。
それを指してマインドコントロールだとか平和ボケとか頽廃とか言うのは別にいいけれど、
日本国や日本人を直そうとする前に、保守はまず自身の言葉を反省しろよ、と常々思ってます。


保守の課題として、現代の頽廃、近代化の弊害をどう乗り越え、改善するかという点があるが、
その語り方のパターンは、この本に限らず、大抵は精神論やアイデンティティ論になりがちだ。
近代はウェーバーが言うように「鉄の檻」で、そこから出る術はどうにも見つかりそうに無い。
だからそれを超克しようとする者は、精神だけでもなんとか檻から解き放たれようとするわけで、
武士道とか「無私」とか大伴家持とか「滅びの美学」とかが持ち出され、そして単に消費される。
それらは自由や民主主義をフィクションだと告発し、その欺瞞を気持ちよく暴くのだろうけれど、
「ひとが欺瞞をあばく(デミスティフィエ)のはいっそうよく欺くためなのだ」(p.250)と、
例えばクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房)には書いてあったりするワケです。

つまり、それら保守的な言説も、自由や民主主義と同様、所詮はフィクションとしてしか現れない。
神が死に、大きな物語が消滅した時代の中で、個人と化したデラシネ達が権威不在をいいことに、
底の抜けた社会をフワフワと漂いながら、武士道スゲーとか、特攻隊に思いを馳せるのですが、
その手の保守的な思想によって、現代の抜けた底が埋まったり、根無し草に根が生えるわけでは無い。
「日本の思想だから日本人や日本国には根付くはずだ。本物だ」と言えそうではありますがね。


以前ブログに今村仁司の言葉を引用したけれど、物質に対するそれら精神の対比そのものが、
デカルトから始まる近代の思想構造の枠内にあることは、もう一度改めて言っておいてもいい。
精神論やアイデンティティ論は、檻から出られないから手遊びに行われる妄想のようなもので、
超克の不可能性、大前提として底が抜けていることを、保守の言論人は常に確認して欲しい。
と、偉そうなことを書いているけれど、ここを押さえないと宗教と同じになってしまうのです。
あるいは近代以前に逆戻りと言う、出来もしないフィクションを主張することになるのです。
だから保守の言論というのは、本気で取り組むと結構シンドイはずなのです。これは嫌味ですが。


あと、宗教用語の「無私」という言葉を、思想やらイデオロギーに利用するのはいいけれど、
そもそも「個」して存在している現代人が、帰依もしてないのに「無私」と口走っても仕方ない。
本の中で紹介されていたニーチェも、西洋の中にニルヴァーナ思想が広がるのを危惧しています。
近現代人の仏教的「虚無」への誘惑は、別に今更始まったワケでもないということです。

ここまで書いて気付いたけど、いつもと同じようなことを書いてますね、私。保守の話なのに。
posted by 手の鳴る方へ at 08:37| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月16日

ネコナデ

ネコナデ(漫画 KUJIRA 原作 永森裕二 竹書房)
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リストラを断行する、鬼のような人事部長が猫を拾い、愛でたり困ったりする話。
TVドラマや映画にもなったらしい。以下ネタバレあり。


この本の中でリストラとは、「会社で世話をしますよ」と言っておきながらそれを後年、
会社の都合で反故にする行為のことで、主人公のオッサンは、会社の尖兵としてそれを担う。
「世話を辞めた」と言うのが彼の仕事で、その彼が猫の世話をし始めるのがプロットとしてイイ。

猫を拾って「本当はイイ人」みたいな展開は、昔ならリーゼントの、一匹狼な不良の役目で、
そこで捨て猫に投影される心情は、Stray な、「お前も一人なのか」的なモノだったけれど、
時代がクサクサしてくると、会社の方針に疲れたオッサンがその大役に抜擢されてしまう。
そこに投影されるのは「頼りにされること」だったり、「面倒を見ること」の真剣さで、
逆に言えば「面倒を見ない」という不条理との格闘でもあるワケで、世も末な感じはする。


主人公は最終的に、猫を世話することで自分は変わったと思い、リストラを全部済ませると、
自分自身も会社に辞表を提出し、自宅に戻る。漫画の方では、本編はそこら辺で終わっている。
これは、「パンとサーカス」という言葉があるけれど、現代人を政治的・社会的に盲目にするなら、
猫を一匹、街に放せばそれでどうにかなるようだ、と言いたくなるくらい救いようの無い話だ。
猫一匹で社会の不条理から身を逸らせることができて、汚れ役を忠実に、健康的にこなし、
不満もやや解消され、それなりに満足して、自分は変わったと思えることができて職を辞す。
それでは残った会社が結局は一人勝ちだ。読後感はイイが、事態はそれほど改善していない。

何かそれが悪い、みたいな書き方だけど、個人的には、「世の中は変わるべきだ」とか、
「今の社会は狂ってる」とか言う連中よりは共感できる話だし、主人公についてもそう思う。
大の大人が猫一匹で変わったり、不条理を耐える力を貰ったりするのは滑稽なんだけど、
そういう閉じた、視野の狭い生き方をきちんと肯定できる世の中は、そこそこ正しいはずで、
大上段に振りかぶった「救い」なんかより、この「救いようの無さ」の方がマシだと思うのです。
posted by 手の鳴る方へ at 06:54| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

本に帯はいらないと思う

現世に、不要なものは多々あれど、本の帯ほどむつかしきものはなし。

本屋や本棚の構造によっては、あれって不覚にもビリビリになるじゃないですか。
本棚から抜くときはそうでもないけど、戻すときにうっかりすると破れるじゃないですか。
背表紙を向けているにしろ、表紙を向けているにしろ、ギチギチに差し込まれた本棚に、
本の帯みたいな、防御力の低い、ペラペラした弱卒が入り込むと返り討ちに遭うんですよ。
しかもあれって商品なのか販促なのか、ちょっと微妙なところがあるじゃないですか。
販促なら破っていいワケじゃないし、どちらにしろ買う前に破ると罪悪感があるわけですよ。

何が言いたいかって、本の帯って本屋の構造に適してないんですよ。
大きな本屋なら、ゆったりしたスペースに本も置かれているからいいですよ。
街中の、中規模の、如何にも老舗っぽい本屋なんかを御覧なさいよ。
狭いスペースに本を大量に詰め込むから、密度が高いんですよ。押し合いへし合いですよ。
そこの本棚の隙間には、帯どもの無残な残骸が転がってますよ。ツワモノどもが夢の跡ですよ。
特にムックって言うんですか? あの手の本についてる帯の死亡率は高い気がします。

あと、あれって何て言うんですかね? 平積み? 本を水平に積み上げて売ってるヤツは?
あれならいいんですよ。無駄な圧力をかけてないから、帯に優しい親切設計ですよ。
でも棚に差すともう駄目なんですよ。帯は。もうフルボッコで涙目状態なんですよ。
「次に生まれてくるときは、『うずくまって泣きました』的なポップになりたい・・・」って、
きっと千切れてしまった帯達はそう思ってますよ。帯は広告戦争の最大の犠牲者ですよ。


本の装丁で有名なクラフト・エヴィング商會って人達の作品は、帯も含めて一つの作品で、
私は嫌いではないんだけど、一方で「それはどうなんだ?」という作品もある気がします。


クラフト・エヴィング商會『ないもの、あります』(筑摩書房)
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この本の帯に見える部分は、実はカバーの裏側。つまり一枚の紙を折り畳んでいる。
表(写真の上半分)がクラフト素材で、裏側(写真の下半分)が白い紙。
どうせこんな「作品」と呼ばれるような装丁の本は、街の本屋には置いてないだろうけど、
それにしたって防御力の低い帯が本体と一体化しているなんて、もうね、悪夢ですよ。
切ったら血が出る髪の毛や爪みたいな怖さがある。そこは分離可能にしとけよ、と。
買っても怖いから、きっと本棚に差し込めない。鞄に入れるのも怖い。額に飾るしかない。
発想は面白いし、綺麗な本なんだけど、本棚の構造を前提にするとこれは無いんですよね。

つまりですね、本の帯っていらないと思うんですよ。
帯にこだわるなら、本棚をどうにかしないといけないはずなんですよ。
今の本屋は帯達が生き残るには過酷過ぎるんですよ。現代の蟹工船ですよ。
資本主義ってヤツは、人間の血を啜るだけでは飽き足らず、本の帯まで供犠に付すワケです。
こうしている間に犠牲者は増えてるんですよ。政治は何をやってるんですかね。
posted by 手の鳴る方へ at 07:07| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

ホッブズの『市民論』

トマス・ホッブズ 『市民論』(本田裕志 訳 京都大学学術出版会)
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次期アメリカ大統領は、今までのユニラテラリズムの反省から国際協調路線を取るらしい。
軍事力とドルのハイパーパワーを背景に、自分達好みの理念を世界中に撒き散らしていた、
あの無邪気な盟主アメリカは、子ブッシュともども過去の一ページになるような気配で。

9.11以降のアメリカで主導権を握っていた(もはや死語だが)ネオ・コンサバティヴの源流には、
レオ・シュトラウスという学者がいて、シュトラウスの源流にはホッブズとシュミットがいた。
強い、ホッブズ的なイデオロギーが、ブッシュと一緒に歴史の舞台から一旦退くこの端境期に、
今まで翻訳の無かった『市民論』が出版ということで、紹介する意味はあると思うのです。


人間は秩序の中でしか生きることができない。法は尊重され、人々を好き勝手にさせてはならない。
人間には確固とした基盤、ユラユラと揺れたりしない、安定した社会が必要不可欠なのだ。
ホッブズは社会契約論者で、契約以前の自然状態は「万人の万人に対する闘争」である。
そんな中では人間はまともに生きていけない。故に彼は秩序が必要であることを強調する。
自然状態は「弱肉強食」よりも性質の悪い状況で、弱肉強食なら強い奴が常に勝つワケだけど、
強い奴だって別に無敵なワケではなく、寝込みを襲われ、権謀術数で殺されたりすることもある。
故にそこに上下関係は生じない。シマウマがライオンを殺すことだってあり得るような状況だ。
ホッブズによれば、自然状態では、誰もが殺し、殺され得るという理由で、人類はみな平等なのだ。


ところで、あなたの目の前に天秤と分銅が用意され、「この天秤を安定させろ」と言われたら、
多くの人は左右の皿に同じ重さの分銅を乗せるだろう。それで天秤の左右は釣り合うからだ。
しかしホッブズはそうしないかもしれない。彼は片方の皿に全ての分銅を乗せるかもしれない。
皿は片方に大きく傾いているものの、他の天秤とは異なり、多少の振動や風では微動だにしない。
ユラユラ動く他の天秤を横目に、ホッブズは「皆の天秤は安定していない」と言うかもしれない。

ホッブズは議会民主制や貴族制を軽視することは無かったが、群を抜いて王政を支持していた。
王は議会のような集合体ではなく、一人である。この最高権力者が、多数派の権利のために、
社会秩序にとって必要なこと全てを決定し、権威でもって意見の対立、論争に終止符を打つ。


最高命令権の特徴は、法を制定したり廃止したりすること、戦争と平和を決定すること、あらゆる争論を自分自身で、もしくは自分が定めた裁判官を通じて取り調べ、そして判決すること、あらゆる高級官吏・顧問官を選任すること、これらのことである。(p.150)


ついでに言えば、聖書をどう解釈するかの解釈権も、この王の権威の下に委ねられている。


ホッブズによれば、善悪・正不正・徳不徳の判断を個人に委ねることは秩序にとって致命的である。
ある人が「善」と判断したものを、他の人が「悪」と判断した場合、そこに不和は避けられない。
ましてや王がある事例に対してAと判断し、その旨を社会全体へ公布したにもかかわらず、
個人が勝手に自分の判断でBと判断し、規範とするとなれば、彼は秩序の敵と判断されるだろう。
善悪や正不正は市民法の問題であり、市民法は自然法とは異なり社会秩序の内にしかあり得ない。
個人にすれば「AではなくてBが真理なのではないだろうか」と思うくらい良さそうなものだが、
正しさの基準がそもそも最高権力者である王や議会にある場合、その問い自体が無意味なのだ。

ルソーならここで「一般意志」というワケのわからないフレーズが出てくるのであろうが、
ホッブズの語る人間達には、そんな予定調和的で、超越的な一致点は存在する余地がない。
ホッブズの語る社会の構成員は本質的にバラバラであり、群集(multitudo)であり、
そのバラバラな連中を鋲止めするために、王や議会の権威が原暴力として用意されている。
ホッブズ的臣民は、一般意思的な真理にではなく、権威に集い、権威の作る法に従っている。

色々な意見を認め、様々な党派を認めるような社会秩序がホッブズには我慢ならないようだ。
ましてや手前勝手な聖書解釈や自称預言者、教会に従わない異教徒、無神論者など論外だ。
多様性とは危ういバランスで安定を保っている、両皿に分銅の乗ったあの天秤のようなものだ。
それは相対的で、如何にも寛容な社会だが、妬みや野心でいつバランスを崩してもおかしくない。
社会秩序が崩れ、合一が砕かれると、人間にとって最悪なあの自然状態が首を擡げるだろう。
それは絶対に避けなければならない。ホッブズの立場は、「私は混乱よりも不正を選ぶ」と語った、
ゲーテのあの立場に近いように思われる。少し前のアメリカもそんな感じではなかっただろうか?

と言うか、全ての社会秩序が不正、隠匿された暴力で成立しているとすれば、
ホッブズやネオコンの立場は可視化されているだけまだ誠実なのかもしれなくて、
国際協調主義の名の下に、結局は今まで通りグローバル社会を管理するとなれば、
単に戦略が変わっただけで、状況はさほど変わっていないのではないだろうか?
ブッシュからの解放で、世界はどの程度、寛容になれるのだろうか。よくわからない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:08| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月05日

重荷を降ろしつつある旧メディア

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今週の「週刊ダイヤモンド」は、新聞・テレビ業界にも改革が不可避だという内容。
再編、淘汰、構造改革と、他の分野に対してはやたらに喧しかった大メディアも、
ここにきて広告収入が減少、紙代の高騰、活字・テレビ離れも顕著という現状で、
とうとう自分の体にメスを差し込んで、最後の護送船団の忌み名も返上するような感じに。
あの天下の朝日新聞も、中間連結決算では初めて赤字を計上。通念でも赤字の見通し。
あのTBSも昼ドラをやめる、みたいなことを言っているようで、TVや新聞の風景も、
いい方向か悪い方向かは別にして、今後大きく変わっていくことでしょう。


で、ポストTV・新聞には当たり前のようにネットが君臨するんだろうけれど、
ネットの住民がTVや新聞の記者よりも優秀であり、倫理的であるとかというと、
まぁ見た感じではそうでもなくて、個々の情報発信者は当然、偏向しているわけです。
それはTVや新聞の記者が、ネット住人一般よりも倫理的で優秀なワケでもないのと同じで、
構造と言うか、メディアが変わるだけで、そこに携わる人間の性質は同じだと思うワケです。
それを踏まえ、ネットが今後、ジャーナリズムという分野をどう煮詰めるかは興味のあるところですし、
オールドメディアとなったTV・新聞がどう変わるかも、興味のあるところではあります。
「週刊ダイヤモンド」の記事を読む限りでは、過去のしがらみや膿や陋習を払い落とし、
無駄な重たい荷物を降ろせば、大衆の王様の地位くらいは死守できるような気はします。
そんな地位に果たして価値があるかどうかはまた別の話ですが。


新しいメディアの出現はしばしば古いメディアを解放して創造的努力に向かわせる。古いメディアはもはや権力と儲けの権益に奉仕する必要がないからである。エリア・カザンはアメリカの演劇界についていう。
「一九〇〇年から二〇年をとってみよう。演劇は全国にわたって盛んだった。競争相手がなかった。興行収入は莫大なものがあった。(略)そこへ映画がやってきた。演劇はよくなるか、滅ぶかのどちらかになった。そしてよくなった。あまり速くよくなったので、一九二〇年から三〇年にかけて、それが認識されなかったほどである。」
『マクルーハン理論』 大前正臣・後藤和彦訳 平凡社ライブラリー p.175〜176)



TVや新聞は終わった、的な論調が散見されますが、大抵のメディアは生き残ってます。
演劇もラジオも映画も本もレコードもCDも、古くはなってますが、終わってないですしね。
んで、TV・新聞の重たい荷物の一つに、商業主義への偏重があると思うワケです。
トヨタの奥田相談役から「マスコミに報復としてスポンサー引くぞ」とか言われて、
反発するどころか全力で腰砕けになっているようでは、やはり心もとないワケです。
お金は大きな権力を産む一方で、桎梏も産むわけで、その桎梏でグダグダになるようなら、
そんなものは喜んでネットにでも投げ与えてやればいいんじゃないでしょうかね。
ネットがその中でどうするか、どうなるか、検索サイトやブログ、2ちゃんねるがどう変わるか、
重荷はどう変化し、どう配分され、どのような権力を生み、どんな言説を作り出すか、
それをオールドメディアはどう報道するか、できるか、というのも面白そうな話です。
posted by 手の鳴る方へ at 10:12| Comment(5) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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