2009年02月12日

「小悪魔ageha」が面白い

小悪魔 ageha (アゲハ) 2009年 03月号
4910038810396koamar.jpg


発行部数が30万部ほどの、キャバ嬢御用達の雑誌。ファッション中心。
なのにティーンズのコーナーによく置かれているのは気のせいではないはず。

今月発売の3月号を数ページ開くと、女の子44人が見開きで合掌している。
飯島愛の追悼らしくて、文芸誌なら作家が死ねば文章で追悼するのだろうが、
そんな言葉を持たない「小悪魔ageha」は、着飾った子達を黙祷させて追悼する。
モデルや編集者個々人による飯島愛談義もない。(接点が無かったのだろうか。)
そもそも44人の女性が黒服で合掌して並べられているというのも妙な構図で、
例えばこの眼を閉じて顎の前で手を合わせている姿を、44体、木彫りの像にして、
歌舞伎町のビルの一室を買い取ってその壁や廊下に等間隔に並べてみれば面白い。
漁師や農家が、近くの山や神社で仕事の安全や大漁・豊作を祈願をするように、
キャバ嬢にも、自身の職の安泰を願う、聖域のようなものがあってもいいと思う。


「小悪魔ageha」という雑誌は、そこそこ売れているのにやっていることが面白い。
例えば今月号の表紙には、デフォルトとなっているキラキラした文字でこうある。


生まれたときから
日本はこんな感じで、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛するもの、
買ったもの、
着てるもの
オール407コ!!!



「そして」の前後の文が繋がってないのはご愛嬌に違いない。
『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展 柳内圭雄 光文社新書)を
意識したような、そんな社会の眼差しを先取りして大急ぎで内在化したような、
雑誌のターゲットとは違う層、というか社会一般に語りかけている感じがイイ。
この今月号の表紙の一文は、他の雑誌で例えるなら、「ゆほびか」の表紙に、


人の欲望には
限りがないから
インチキだろ
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
お薦めする、
簡単ダイエット、
簡単開運法
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「ザ・テレビジョン」の表紙に


地デジ化を
進めなきゃいけないのに、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛して欲しいもの、
買わせたいもの、
流行らせたいもの
オール407番組!!!



って書いてあるようなものだ。「週刊新潮」の表紙に


真実とか嘘とか
そんなものに興味ないのに
社長にも責任がある
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
スクープした記事、
パパラッチした記事、
捏造した記事
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「潮」や「パンプキン」の表紙に(以下割愛)。


と、このように、「小悪魔ageha」のスタンスは面白いし、誠実ですらある。
ちなみにこの雑誌、メンヘル的な特集を組んだ先月号の表紙も変わっていた。


4910038810297koafe.jpg


泣いている表紙は女性誌では稀有。そもそも涙は雑誌の表紙を滅多に飾らない。
(最近の例では、映画雑誌の小栗旬や、引退セレモニーで泣いた清原くらいか?)
その先月号の内容はまぁ、ありがちな不幸自慢なんだけど、キャバ嬢の口から、
「本当は『フルーツバスケット』の本田透みたいな子になりたかった」とか、
そんなことを言われたら私なら確実に食いつくと思います。2時間くらいガッツリと。
本田透に憧れるというのは、実はそれほどイイ傾向ではないんですけどね。
それはいいとして、こういう特集がなされるのも、雑誌としてスゴイ誠実です。
彼女達キャバ嬢は、勝間和代的な女性の陰画だと、読んでいてそう思いました。
「小悪魔ageha」は、カツマーを敵視しつつ、女性のボトムアップに貢献すべきです。
雑誌として下流に片足を突っ込んでいるのは、当人達も自覚しているはずですから、
三下のオピニオン誌どもが党派性にまみれている横で、頑張って欲しいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:57| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

パレスチナ、下顎、耐えるということ

大阪の団体、村上春樹さんに「エルサレム賞」辞退求める
2009年2月10日(火)20:38



村上春樹の受賞とは全然関係のないことを書いてます。


アウシュビッツ(それにベトナム)の後で詩を書くことは野蛮らしいが、
現在進行形でフルボッコなパレスチナの中、そのパレスチナと同居する世界の中で、
小説を書いたり、それを読んだり、賞をあげたりすることも野蛮なのだろうか。

「現実的なものは理性的である」という虚言が虚言として退けられ、
目の前の世界を美しいものとして肯定することも困難になって久しい。
原始時代のような「サバイバル」が、文明の中で当然視されたとき、
文明は野蛮と、モダンは原始時代と肩を並べている事実に直面する。
作家でなくとも、その程度のことは中学生でも薄々分かっていることだが。


大学にいた頃、テレビで見たパレスチナの初老の詩人は、
自分達の住む町のことを「上顎の無い頭蓋骨」だと詩に書いた。
テレビカメラは詩人を映し、黄ばみ、角が削げ落ちた建物が点々と佇立する町を、
恐らく丘の上からパンで撮影していたが、その町並みは如何にも下顎に見えた。
とっくの昔に白骨化して、人知れず1000年ほど経過した老人の顎の骨に見えた。

パレスチナには下顎しかない、という語りには喪失感がつきまとって離れない。
そこに主要部分は無く、その空いたスペースには青空が詰め込まれている。
目も鼻耳も失って、頭蓋骨は世の理不尽に奥歯を噛んで耐えることも出来ない。
奥歯を噛みしめる、というのは、耐えるという受動的な行為の中の能動性で、
それならば弁証法的な契機もあるのかもしれないが、パレスチナにその契機は無い。
彼らが世の理不尽に耐えているように見えるのは、「天井のない檻」の名に相応しく、
他に行く場所がないからにすぎない。それは「耐えている」と呼ぶのも憚られる。


その空虚さを埋めるのは食べ物ではなく、文学なのだ、と言ってみるのもいいし、
戦地でベケットを演じてみたり、名作をアフリカに届けてみたりするのもいいけど、
ここで語られている文学なるものは、パレスチナに広がる青空みたいなもので、
要するに上顎の代替物にはならないし、青空は足りているのだから余計ですらある。
そもそも、そんないい加減なことを大言壮語する奴を信用するのはとても難しい。
演劇や文学を不毛の地に持ち込む態度、「芸術は素晴らしいYO!」という態度、
世界に生じつつある現実を「それでもなお!」とか言いながら肯定する態度、
そのような、富める芸術家・文学者達の心理は、端的に言って鼻につく。
「それでも頑張って生きていこう」的なことを歌うJ-POPくらい鼻につく。

詩や文学が、もはや易々と現実的なものを肯定したりできなくなったとしても、
取り巻く状況について言及すること自体は、まだ無効化されてはいないだろう。
そもそも、町を下顎に喩えたあの詩を、アドルノは野蛮だとは考えないだろう。
詩人が町には上顎が無いと語ることで、うっすらと見えてくるパレスチナがある。
アドルノが問うたのは、そのような欠如した、肯定できそうにない現実であり、
白リン弾やらテロリズムを語る新聞の、その散文では届かない現実だったはずだ。
そのような状況を知るということ、言葉で把握し、たまに思い出すと言うこと、
そういうのはある種の、文学的な知恵であり、知恵であるなら力でもあるだろう。
肯定することも耐えることもできない理不尽な現状を、詩を通じて把握することで、
そこに初めて能動的な力が生じるかもしれない。ほとんど戯言のような話だが。
posted by 手の鳴る方へ at 08:39| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。