2009年06月06日

『千と千尋の神隠し』〜放棄について〜

語り尽くされた感があるけれど、千とカオナシのスタンスの違いは面白い。
例えば「千は全部捨てる。カオナシは全部拾う」と言ってみるのはどうだろう。
「千は後先考えず捨てる。カオナシは後先考えず拾う」と言ってみるのは。

千は油屋で働いているときに、催吐剤としてのニガ団子を手に入れた。
最初にまずその半分を、銭婆の呪いにやられて、のた打ち回るハクに与え、
「本当は両親にあげるつもりだった」もう片方を肥大しきったカオナシに与えた。
4枚綴りの電車のチケットも、帰りの分を無視して全部使い切ってしまった。
カオナシが出した黄金は手にしなかった。宮崎駿作品の真っ当なヒロインらしく、
「私の欲しいものは、あなたには絶対に出せない」と、申し出を拒否していた。


また、物語のクライマックス、銭婆の所からの帰り、ハクが名前を思い出した後、
千が12匹の豚の中から、物語冒頭で豚になった両親を探し当てるシーンがあるが、
そこで千はどの選択肢も選ばなかった。12の可能性を全て捨ててしまったと言える。

私はこのシーンが大好きだ。物語の最中に、何のフラグも立ってないはずなのに、
決定的な場面で選択肢の中に答えが無いことを言い当てる、その正しさが好きだ。
「正しさ」とは、決定的な場面で、目前の選択肢の中に答えが無い、という点で、
そこに答えが無いのなら、ならば選ばないことが正しいのだ、という程度の意味だ。


世の中を見渡せば、「この中に、本当に痩せるダイエット方法がある」とか、
「この中に、本当にあなたを幸せにする生き方が、価値観がある」とか、
「この世の中には、赤い糸で結ばれた、あなたに相応しい伴侶がいる」とか、
「本当の進路、職場、老後がある」とか「本当の政党、政策、思想がある」とか、
「食べ物がある」とか「安全がある」とか「教育方法が」とか「正しさが」とか、
挙げればきりが無いくらい、正しい道筋を示唆する情報で満ち溢れている。
私達は個々人の関心に従ってそれらの情報や実物やらを生業として手にするし、
場合によっては個人で情報や実物を作り出し、発信してみたりすることもある。
私達には個人的な欲望や、社会的な責任感・使命感が多少はあるに違いなくて、
経済も政治も法律も教育も、どれも全て決定することで未来へと繋がっている。
「答えが無いから選ばない」的なスタンスでは社会も個人の人生も成り立たない。
(逆に言えば、答えが無くても選んでしまえば何とかなる。「答え」涙目wwwww)
非決定をあえて語るのは、せいぜいが真摯な宗教者か変人の哲学者くらいのもので、
この『千と千尋の神隠し』が、物質文明を説教しているように見えるのも、
登場するキャラクターや世界観のためというよりは、この宗教性のためだと思う。


決定的な場面で選択肢の中に答えが無いから選ばない、という生き方は不可能だ。
私達はどう頑張っても、自分達は千よりもカオナシに似ていると結論せざるを得ない。
物語の中の千の生は、その労働と時間を費やして得るものはとても少なく、
与えられても拒み、せっかく手にしたものがその手からこぼれ落ちるのは早い。
意志しつつ放棄し、関心を持ちつつ放棄することで、生はゼロへと近似する。
「ゼロになる体 満たされてゆけ」と心地よい主題歌は歌っている。
空の容器に水が入るように満たされるのではない。ゼロそのもので満たされる。
それはつまりは死ということであり、千は死ぬことによって元の世界への道を開く。
彼岸で死ぬことで、振り返ってはならない道を通り、此岸へと戻ることができる。
放棄することの極北がここにある。それは本来性へと帰還する道なのだ。
物質文明は人間にとっては彼岸であり、あの世である。カオナシは本来性を喪失している。
と、この口調は、「死後の世界が真の世界である」とホザく宗教とよく似ている。
宗教は悪くない。このような言葉を宗教に任せきりにしていた非宗教の怠慢だ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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