2009年08月20日

日記2 〜積み木〜

随分前の話だけど、姪っ子を園に引き取りに行って、そこで妹が井戸端会議を始めたので、
時間を潰すため、車内は暇だったから、園内の室内遊技場で絵本を読んだことがあった。

絵本の本棚は遊技場の南の隅にあって、そこで小さな白い椅子に肘をかけて床に座り、
「ぐりとぐら」とか五味太郎の本や「葉っぱのフレディ」(!)を片っ端から読んだ。


で、棚の向こうの遊技場の真ん中に男の子が一人だけいて、積み木遊びをしているのが見えた。
男の子は積み木を部屋の中央に集め、そこで城だか砦だか山だかを築いているように見えた。
面白いことに、積み木を積み上げるため、作品の周りをせっかちにクルクルと移動していて、
例えば東側の屋根に三角を乗せ、西に回り円柱を差し込み、北側で壁を増築したりしていた。
子供の積み木遊びって普通は座ったままされることが多い。その視点はほぼ固定されている。
彼のように作品の裏側に回って積み上げる、みたいなことは大人でもあまりしない気がして、
見れば見るほど不思議なことをやってるな、どういう欲望なんだろう、という気になってくる。


積み木の量が多いから作品はどんどん大きくなる。やがて裏側に回った彼の体が見えなくなる。
男の子は顔だけ出して黙々と積み木を積み上げるけど、無理して高くする気はないらしくて、
相変わらずクルクルと周囲を回りながら、今度はその裾野を広げて、また積み上げていく。
ときどき彼の袖やつま先が当たったり、彼の走る振動で、不安定な箇所が勝手に崩れたりして、
しばしばガラガラと音を立てるものだから、棚の奥から見てるこっちはハッとするんだけど、
ある程度大きくなると崩れてもどうでもいいというか、作品が駄目になった感じがしないのか、
チョコチョコっと補修すると、男の子はさっさと裏側へと回ってまた何やらを積み上げる。
補修と言っても、散乱したのを集めて、崩れた箇所にまた無造作に積み上げるくらいのもので、
完成しているのか半壊しているのかよくわからない、小さな建造物ができあがっていく。


時間が経つにつれて、何かスゴいものを見てる気がしてきたんだけど、
彼の母親がやってきて帰ると言うと、彼はあっさりと仕事をやめて、片付けをし始めた。
片付けも積み木を4、5個だけ持ってダンボールの大きな箱に入れることを繰り返すので、
この子は積み上げるのが好きなストイックな子なのかと思ったが、実際のところは知らない。
結局、何を作っていたのか作者の口からは聞けなかった。母親に見て欲しいと思ったとき、
あの子は母親を作品のどの方角に誘導しただろうか。建築はどこから見るのが正しいのだろう。
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日記1 コンフィズリー屋

随分前の話だけど、綺麗な洋菓子が陳列されたオサレなコンフィズリー屋に行った。

色とりどりの飴やヌガーが綺麗な紙に包まれて、さらにガラス瓶に入ってたりしてて、
全部の色がおいしそうで、本気を出した砂糖どもがガラス以上に輝いていてました。
結晶に囲まれて、もう何がキラキラしてるのかよくわからんような素敵空間でした。


で、店内を物色してると、若くて派手な親子連れがカラの乳母車を押して入ってきた。
そこにいるはずの赤ん坊は、父親の胸元に生地の薄そうなスリングでぶら下がってた。
その父親は日に焼けて真っ黒で、何かどっかの雑誌で見た高そうな革靴を履いていて、
パリッとしたシャツ着てて、如何にもモテそうで遊んでそうな感じだったんだけど、
生後8ヶ月くらいの子供が、父親の胸元から首だけ出してケーキとかを見てるワケで、
プレイボーイだけど今は子育てに夢中です、アットホームです、って感じで微笑ましい。
それを見て、私の連れの女の子は「ああいうのって格好いいわー」とか言うワケです。
「赤ん坊は最高のアクセサリー」とか何とか私が言うと、舌打ちとかするワケです。


一方の母親はと言えば、もう一人の、小学校低学年くらいの女の子の相手をしてました。
二人してハイテンションでコンフィズリーの瓶詰や缶、ケーキをワイワイ見てまして、
女の子がレジに商品を持っていく際に、「今までお手伝いしてお金貯めたもんね」とか、
「自分で買えるよね」とか、買ったら買ったで「一人でできたじゃーんスゴーイ」とか、
店を出るまで、子供の挙動にキチンとポジティブに反応してて、とても好感を持ちました。
が、私の連れは「本で見たような教育ママ」とかホザいてたので舌打ちしてやりました。


その後も二人で店内をブラブラ見て回り、私がふと「でもいい家族だねー」とか言うと、
「そうねー」みたいな感じで即座に肯定されてしまった。それはそれでどうなんだろうか。
「でもいい家族だねー」と言ったとき、私はむしろ舌打ちされたかったような気もするし、
連れの女の子も舌打ちをしそびれて、ついうっかり肯定してしまったんじゃないかと思うし、
そういう肯定の先には不毛なものしか転がっていないじゃないか、と、そんな気もする。
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2009年08月10日

ファッションの語る言葉

メンズナックルキャッチコピーまとめ


「メンズナックル」と言えば――いまさら解説も紹介も不要に違いないけれども――、
ガイアが俺にもっと輝けと囁いたり、鳥人拳だったり、マッド・ロックの伝道師だったり、
孔雀は堕天使の象徴だったり、伊達ワルだったりで、とても有名な男性ファッション雑誌。
「俺たちゃ無敵のXYZ」だとか、「ある意味、俺がホスト界のスペードのエース」だとか、
わかりそうで、でもよく考えればやっぱり意味がわからないキャッチコピーが大好きです。

この類の、後発のニッチ狙いの雑誌は、手探りで独自の文化を築き上げなければいけません。
もっと細かく言えば、扱うファッションを言語化し、ボキャブラリーを練る必要があります。
個性のマス・プロダクトを築くためには、モデルやブランドと同じくらい言葉が大事なのです。


ちなみに、普通の先行しているファッション誌なら、その煽り文は極限まで洗練化されており、
材質や形状、色、柄、ブランド、状況、ステータス等々、語彙も一般的なものが占めています。
彼らは奇を衒う必要も無いし、変に自分自身を意識することもない位置で仕事をしています。
正統派のフォーマルなファッションなら、それを語る言葉も正統派で一向に構わないからです。
例えば(手許にどういうワケか女性誌しか見つからないので)女性誌の煽り文を例にとれば、


ミリタリーショーパンはざっくり
ニットとアースカラーのグラデが命

リゾート風サンドレスは
+ベストでタウンユースに変身

夏の大人カジュアルは
クラシカル女優がお手本



と言った具合に、見事な様式美、機能的な美文を見せてくれます。役目を全うしてる感じです。
この傾向は「小悪魔ageha」や「POPTEEN」等、フランクな雑誌でもあまり変わりがありません。
文章は確かにざっくばらんで馴れ馴れしい感じにはなりますが、言葉の使い方は同じです。
女性誌に話が移行してますが、例えばこれが「Gothic & Lolita Bible」ならどうでしょう。
その名の通りゴスロリのファッション雑誌です。煽り文を幾つか引用してみましょう。


茨の森で待ち構えているのは、リスの国の女王様。
「この森を無事に抜けたいのなら、
岩トカゲのしっぽと、雪うさぎの前歯、
上質なドングリを帽子いっぱいに集めてきなさい。
かわりに、この森の出口の地図をあげましょう」

ゴキゲンな日には、
黒猫みたいに
タンゴを踊るの♪
お気に入りの服は、
上手に踊れる魔法の道具の1つなの☆

しかし悲しいことがひとつ。
薔薇少女達は
たくさんの薔薇を食べなければ
動くことが出来ません。



どう見てもポエムです。そもそも、誌面の作り方からして煽り文であるよりはポエムなのです。
本来なら煽り文が入る場所に、連作ポエムがデカデカと挿入される誌面構成となっているのです。
一番目のヤツなんかは、ウサギの前歯を所望するあたりに残酷な童話の世界が垣間見れますね。
きっとリスvsウサギで、クイーンオブメルヘンアニマルの座を争っているに違いありません。
ちなみに「Gothic & Lolita Bible」の中身が全部こんな感じというワケではありませんし、
ゴスロリ誌一般がこんな感じってワケでもありません。ポエムは他の雑誌でも見受けられます。

で、ご覧の通り、「Gothic & Lolita Bible」にはイメージ先行の煽り文が多用されています。
そのイメージとは、キーワードを挙げれば「童話」「西洋」「ウィッチクラフト」等でしょう。
「メンズナックル」と同じように、イメージが先走りすぎて意味不明だったりもしますが、
このようなゴスロリ誌の言葉や誌面作りは、これはこれで洗練されているようにも思えます。


メンナク系やゴスロリ雑誌には、ファッション“を”語る言葉が希薄であると言えそうです。
むしろファッション“の”語る言葉があり、その言葉で、ストリートにイメージを招くのです。
それらの雑誌の煽り文は、モデルその人というより、ファッション自体が発した言葉なのです。
つまり、ガイアだとか黒猫のタンゴとかの語彙は、皮膚の上に憑依した霊の語る言葉であって、
それを着ている人間の言葉では必ずしもないのです。ゴスロリ少女はゴスロリに身を包みつつ、
結構、「お母さんに素麺買って来てって頼まれたー☆」とか生活臭のある言葉を吐くものです。
メンナク系のモデルだって、DQNや厨二病は少数派でしょうし、鳥人拳の達人も皆無でしょう。


ゴスロリやメンナク系の想定する世界を、「共同幻想」と言ってしまえばそれまでですが、
現代においても、幻想を作るというのは、最高にクリエイティブな仕事に違いないのです。
今までになかった幻想を作りつつあるという点で、私はそんなファッション誌を応援したいです。
雑誌業界はますます低迷していますが、雑誌“の”語る言葉もまだ大丈夫だと言いたいのです。
posted by 手の鳴る方へ at 23:06| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

メディアと時代のスピード

SMAPの草なぎ剛が、最近やたらと雑誌の表紙に登場していて、
あの全裸事件はもう完全に過ぎ去ったことになってるらしい。
地デジのキャラクター、というか大使にも復帰したらしいし。

新聞やTVに限らず、メディアは国民に情報を提供する役割を担っており、
現代の問題点を表象し、その時代の時代性を知らしめるためにありそうなもんだけど、
表象するスピードが速すぎて、逆に歴史と言うものが失せている気もする。

先週のニュースが今週のニュースで押し流され、昨日のニュースが今日のニュースに、
今朝のニュースが夜のニュースで押し流されてしまうような表象の速度の中で、
情報の受容者が、そのスピードから果たして何を得ているかと言えば心もとない。
実際の所、手許に残っているのは個々の事件ではなく、それらの断片ですらなく、
事件が重なり合い、猛烈な速度で過ぎていったそのスピード感だけではないのか。
情報の量こそが目に見える時代の速さだとすれば、ネットもその流れの加速に加担し、
ノイズもいや増し、参照点となり、寄って立つべき時代性は一段とかき消されている。


われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物となってしまったことを考えてみるだけでいい。ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的体験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことにある、と言いたくもなるだろう。このように、メディアの情報機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。
(室井尚 「「歴史」は誰のためにあるのか?」 「現代思想」1986 11 p.97)


と言ったのは1983年の時点でのフレドリック・ジェームソンという哲学者だが、
当時以上に現在は、過去も現在も未来もフラットに流れ去り、忘れ去られている。
忘却こそがメディアの役目というのなら、草なぎ剛の事件の一連の表象具合は、
なるほどメディアの役割が忠実に果たされた結果であると言えなくも無いし、
それを恒久的な変化(アイドル→容疑者→アイドル)と呼ぶならそうなのだろう。

歴史はもはや意味を成さない。現代のスピードの中でその首はへし折れて消えている。
現代人にとって歴史とは、人生の縦糸でもなければ横糸でもない。なんでもない。
草なぎ剛が生まれ変わったとされるスピードよりも、現代の変化するスピードは速く、
私達はそんな新しい時代に対応するため、即座に健忘症になって情報を更新する。
歴史とは最初から喪失された記憶、忘れたままの記録、鏡に漠然と映る像なのだ。

ノルベルト・ボルツは『意味に餓える社会』の中でこんなことを書いている。


われわれは、満たされた時間のもろもろの意味素形なしに――歴史の目標も終点もなしに、救済も進歩もなしに、伝統という指導像なしに、経験という基礎も由来という支えもなしに――やっていくことを学ばなければならないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 23:26| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

『高校球児ザワさん』

『高校球児ザワさん』(三島衛里子 小学館)
09182537zawa.jpg


男だらけの野球部に女が一人でいたら周りの人はどう思うか、って話。
スポ根や部活動漫画というより、周囲の反応を記した観察記録みたいな漫画で、
主人公の「ザワさん」自体は、見られて反応される対象として描かれている。
チームメイトやクラスメイト、観客など、周りの人間のリアクションがメインで、
観察記録とはザワさんの記録ではなく、周囲の人間の、反応パターンの記録だ。


予想できる通り、ザワさんに接した人間のリアクションは、半分くらいがエロい。
「男だらけの体育会系部活動に女が一人」なんてエロ漫画のテンプレもいいとこだ。
「目隠ししてプロテイン」とか、もっと身も蓋も無いエロゲ的な描写もあるけれど、
もう半分はエロくなくて、キチンと部活動や青春を送っている描写もあったりする。


恐らく、現代人がザワさん的な相手に見せるリアクションのパターンはそれほど多くない。
作者の想像力は十人十色のリアクションを思いつくだろうが、その想像力の限界が、
すなわち現代人の想像力、ザワさんを前にしたときの想像力の限界ですらあると思う。
2巻にして既にエロい話が目立つのは、作者のマンネリなどでは決してなくて、
それがザワさん的なモノに接した際の、一般的な現代人の発想のテンプレだからだ。
そして一般的な反応だからこそ、そのテンプレは繰り返し描かなければならない。
描かなければ逆に嘘になる。チームメイトの猥談や困惑や妄想は特にそうだろう。

これが例えばマリナーズのイチローのニュースを見聞きした人々の反応なら、
漫画家はどの程度のパターンを想像して話数とすることができるだろうか。
それは何を考えることができるか、何を真っ先に考えてしまうかのテストでもある。
問われているのはステレオタイプと、そこからズレる現代の想像力に違いないし、
大仰なことを言えば、そこから生じた成果は、現代を映す鏡ですらあるだろう。
一人の作家が脳髄を振り絞って考え出した様々な反応のパターン数は、
現代人の反応パターンをほとんど網羅すると思うのだけど、どうだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 01:37| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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