2009年11月28日

ぼくのかんがえたでん子ブックリーダー

SONYがウォークマンを開発したとき、その後に現れたのは、一つの新しい世界だった。
それはスピーカーの省略とか軽量化とか小型化とか、そういう技術の進化というより、
街中で好きな音楽を聴きながら歩ける、という音楽との新しい関係を作った点でスゴかった。
新しい関係を垣間見せてくれたり、違う世界へと誘ってくれる商品というのは素晴らしい。

今後、新しい世界を見せてくれそうな商品、デザインとして、電子ブックリーダーがあって、
日本では恐らく、電子ブックは絶望的に普及しないし、したとしてもKindleだろうけれど、
そこには読書と人間の関係が、今までに無いものに変化する可能性が胎動している。


もしも私が電子ブックリーダーを開発しろと言われたら、きっとこんな機能をつける。

電源をONにし、読みたい本をチョイスした後に、二つの項目が画面上に表示される。
「ページ数」「時間」とそこにはあり、例えば「200ページ」「100分」と設定する。
すると電子ブックは200ページの分量を、100分かけて自動スクロールし始める。
この場合は、単純計算で1ページで30秒。本の内容によっては結構早いペースだろう。
無論、ストップやリバースの機能はつける。それらは片手で操作できるのが当然。

この機能を使えば、人は時間――移動時間、待ち時間、休憩時間――に合わせて、
本を所定量まで読むことが期待できる。何なら丸一冊を読み終えることだってできる。
今までは(当たり前だが)自分の読むスピードに合わせて本を読んでいたけれど、
これによって、ある意味で強制的に速読の状態に持ち込んで文字を目で追わせてしまう。
こう書くと速読を推奨しているみたいだし、恐らく速読が推奨されるのだろうけど、
個人的には良い読書体験というのは、気に入ったフレーズや文章に出会った後の余韻、
本から眼を離して、その文章から自分が何を思ってるかとか、何を考えているかとか、
そういうことをしている状態というのが心地よいので、1ページ30秒というペースではなく、
1ページ5分とか、200ページ2000分とか、そのくらいのペース配分を推奨したい。

そんなことする位なら普通に読めよ、自動スクロールはいらんだろ常識的に考えて、と、
そう思われるだろうけど、読書の最中の思考の流れ、みたいなのがあると思うんですよ。
それを機械の側に預けて、自分と本の関係を客観化するのって面白くないですかね?
読書のスピードというのは、本とその人との関係をシンプルに示唆していると思う。
好きな本、好きな作者の新刊は、敬意を込めてゆっくりとしたスピードで読み、
あるいは、もう好き過ぎるから、情熱に任せるままに速いスピードで読んでみたり、
自分に合うかどうか分からない本は、自分が最も読みやすいスピードで下調べしたり、
別に読みたくないけど読まなきゃ怒られる本は、自分の読むよりも速いスピードで読んだり。
本を読むのにかかった時間じゃなくて、文字の上を滑り、そこから垂直に深く潜った、
その速度を電子ブックと共有できるのなら、それは紙の本よりも親しくなれないだろうか?


他にも新機能の案は幾つかあるし、そういうことを考えること自体が面白いんだけど、
人間と読書の関係は、イノベーション次第でもっと面白く、有意義になると思ってます。
posted by 手の鳴る方へ at 06:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月27日

『知識・信仰・懐疑』

カール・レーヴィット 『知識・信仰・懐疑』(川原栄峰 訳 岩波書店)


ヨーロッパの精神には互いに矛盾する二つの源流、ギリシャとイスラエルがある。
前者は西洋哲学、後者はキリスト教をしてヨーロッパ精神を支える柱となったけれど、
学問たる哲学と、宗教たるキリスト教との間には、越えがたい深い断絶がある。
断絶があるけど繋がってて、繋がってないという意味で繋がってるとも言えるよね、
まぁ、そこら辺が西洋哲学の分かり難いところかもね、という入門書的な一冊。


懐疑的に哲学するとは求めること、問いつつ探求することをとおして可能な答えの周囲を回ることをいうのであって、啓示された真理を確信することではない。キリスト教的思惟とは信仰を基礎にして考えることであるが、ほんとうに信じている人はけっきょくもはや求めることをしない。その人は神の言葉と神の語りかけとの中に自分を自由にし救済してくれる真理を見いだしているのである。もちろんその人とて、この真理をくりかえし新たに信じなければならないのではあるが。信仰がはじまるところでは、ソクラテス的懐疑的な意味で哲学することはやむ。真理を見いだしてしまえば、探求的な懐疑の求めるというはたらきはやむからである。(P.48)


古代の哲学は懐疑を旨とし、エピステーメーとドクサ、哲学者とソフィストを区別する。
そこで人が本当に哲学的に考えるのなら、聖書に書かれてあることは真理と断定できない。
聖書の神はいるともいないとも言えないし、それ故に絶対視・特別視することもできない。
が、つい最近まで、ヨーロッパの多くの哲学者は、当たり前のようにキリスト教徒でもあった。
無論それは彼らの思想が短慮であったり、キリスト教徒としてインチキであったことを意味しない。
単純に言って、彼らは、キリスト教の教義だけが、人間や世界の摂理の本質に迫っていると、
そう確信していただけの話で、信仰と懐疑の間に横たわる矛盾と格闘しなかったワケでは無い。

アウグスティヌスは真実を求めて哲学の門をくぐり、幻滅して門を出た後に信仰の徒となった。
彼は「私が信じているから神は存在しており、神が存在しているから私はそれを信じる」的な、
この循環的な信仰の基礎付けの存在をはっきりと認めつつ、信仰の知について熱く語っている。

パスカルは数学的な知見を有する物理学者であり、哲学者であり、キリスト教徒でもあった。
彼は『パンセ』の中で、人が本当に理性的なら、理性で掴みきれないことが多々あるのだから、
人は理性を捨てなければ理性的とは言えないと述べ、懐疑の限界と信仰の知を語っている。

キルケゴールは自身を「キリスト教的ソクラテス」と自称し、懐疑と信仰を絶望で繋いだ。
(ちなみにレーヴィットは、「キリスト教的哲学」とかマジであり得ないと述べている。)
キルケゴールの懐疑は古代哲学の懐疑ではなく、キリスト教的、実存的な懐疑なのだけど、
均等化される西洋に抵抗し、一般性を廃する「単独者」として、知を脇にそっと置き、
普遍性と似ているようでその実は全く異なる永遠性、啓示としての真理について思索した。

他にもカントは、哲学の懐疑論と宗教の独断論の中間に活路を見出し、哲学的に処理したし、
ヘーゲルは知識と信仰を、絶対者の中では同一だと言うことで、その対立を弁証法的に解消した。
そして無神論者であるはずのあのサルトルですら、その実存主義はキリスト教的だと言える。
サルトルは、その哲学を実存と共に始めたが、それはキリスト教的な神学から出た考え方である。
ギリシャにおいて実存は自明のことであり、神については主にその本質が問われていたが、
キリスト教は、創造物は神の意志によって無から生み出されたと語り、それに驚愕してみせた。
そして16〜17世紀の天文学などの進展により、創造物の世界と人間との関係が素っ気なくなり、
人間は意味も無くこの宇宙の片隅に放り出された、というような偶然性の経験を経たワケだが、
サルトルの実存主義は、その西洋の経験に答えるかたちで、かつての神の創造説を差し引き、
神の代替として実存を担保にして、決断主義的に、そして効果的に、哲学的なことを語る。
サルトルの発想そのものはトマス・アクィナスと結構似ていると、そうレーヴィットは述べている。


このような良質な本が昭和34年に翻訳され、200円で売られていたことに感動する。
レーヴィットの本は復刊するなりして、もっと手に入りやすくなればイイと思います。
posted by 手の鳴る方へ at 05:47| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

自分のことは自分で決める!

たくさんあるTV雑誌を前に、老婦人が店員にこう尋ねていた。
「この中で一番、文字が大きく書かれた本はどれ? 私は目が悪いから見えないの」
店員は困った顔つきで適当に選んだ雑誌をペラペラとめくっていた。

例えば店員がそこから、客観的に見て一番文字が大きい雑誌を選んだとしても、
それが老婦人に読めるかどうかはわからない。何故なら視覚は主観に属するからだ。
逆に、文字の大きさが三番目の雑誌を選んでも、老婦人は読めてしまうかもしれない。
そもそも「私の目で読めるかどうか」という選択を他人に任せているのがおかしい。
その雑誌が読めるかどうかは、実際に自分の目で見て判断すればいいのだから。


この話自体も今年の6月頃の話なんだけど、3〜4年前にも本屋でこんなことがあった。
30代くらいの男性が、小さな男の子を連れて、店員にこのように尋ねる。
「この本は『6歳以上対象』と書いてあるが、4歳のウチの子でも読めるだろうか?」
それに対して中年の書店員はこのように言う。
「お子さんが読みたいと言っているのなら、読ませてあげて問題はないですよ」
実際に、子供はその本を読みたがっていたから、父親(多分)はその本を購入した。

何が言いたいかって、「対象年齢が○歳」という表記は、作り手の大体のイメージなワケで、
それを鵜呑みにして、子供が欲しがっている本を買うのを躊躇うなんてのはどこかおかしい。
主観的であるべき判断基準が、客観的に見える規範の側へと無自覚に横滑りしている。


自分のことは自分で決める、あるいは複数形にして自分達のことは自分達で決めるのは当然で、
こうして当然というのは簡単なんだけど、自分のことを判断するにも想像以上にいい加減で、
岡目八目、なんて言葉もあったりするし、ましてや自分達のことを決めるとなると大変だ。

ここからが本題で、福山市の「鞆の浦埋立て架橋計画問題」は現在進行形で迷走していて、
行政が説明し、お互いに話し合い、挙句に選挙を行ってもまだ住民の意見が分かれている。
そして2007年、工事反対派が広島地方裁判所(福山市から西に約90km)に差し止め訴訟。
で、裁判関係者が鞆の浦を二時間ほど視察したり、過去の判例を持ち出したりして原告勝訴。
また、イコモスと言う偉い環境団体のトップが飛行機で来日、一時間半ほど街並みを視察。
で、予定された都市計画は破壊的だし、ここの景観は世界遺産級とかなんとか言う。

自分達のことを自分達が決められないからって、余所の街の裁判官や余所の国の専門家、
余所の都道府県に住む映画監督に、自分達が生きて暮らす場所の運命を預るのはおかしい。
それらは確かに制度化されており、権威があったりするものだけど、そこに生きる人にとって、
そんなものは幼児雑誌の「対象年齢が○歳」という一文とさして変わるものではないはずだ。
繰り返すけれど、「私の目で見えるかどうか」を他人の判断に委ねるのがおかしいように、
「私達の暮らしが良くなるかどうか」を、そこに住んでも居ない他人の判断に委ねるのは変だ。
世界遺産だとか自然環境だとか歴史的遺産だとかも、生活を無視して金科玉条にするのは変で、
そういうことを言えば客観的な意味や価値があるように見えるし、実際そうかもしれないけど、
そこに住んでも居ない、数時間視察しただけの連中が箔をつけるためにそう言うのは嫌らしい。
それは冒頭の老婦人に対して、「表紙が福山雅治ですよ」とか「講談社の雑誌ですよ」とか、
彼女に読めるかどうかとは無関係なことを言っているのと似たようなものじゃないのか。
posted by 手の鳴る方へ at 07:43| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

小箱とたん『スケッチブック』

小箱とたん 『スケッチブック』(マッグガーデン)
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高校の美術部が舞台だけど、あるあるネタと昆虫ネタが中心な漫画。
登場人物の自意識の無さはむしろ小学生かと思うくらいだが、高校生。
人間パートは4コマ漫画、猫パートは普通のギャグ漫画という不思議な構成。
数年前にアニメにもなってたようで、今のところ、漫画は6巻まで出ている。


同じ作者の『スコアブック』という、野球漫画の面を被った動物漫画が顕著なのだけど、
(どのページをめくっても野球のアイテムと動物が当たり前のように揃って描かれてる)
動物がしゃしゃり出てくると、この作者は何故か4コマの枠をはみ出してしまうようで、
逆に言えば、そこに出てくる人間達にとっては、4コマが一番居心地いいのかもしれない。
確かに、あるあるネタや昆虫ネタ、変な日本語のネタなんかは4コマあれば足りるワケで、
カミキリムシ限定しりとりなんかでも、8コマあれば相手がキレるのには十分過ぎている。
漫画に出てくる登場人物の青春が、そもそも如何にも4コマ的な断片でできているのがイイ。

「彼らの青春は4コマ漫画みたいでした」って言うと、どういうイメージなのか分かり難い。
恋愛や部活動や学問と格闘することもなく、休憩時間中、ずっと机に伏せているワケでもなく、
モテないことを僻むのでもなく、「何が勉強だ」と嘯くのでもなく、孤独なワケでもなく、
そこそこに同性にも囲まれ、異性にも囲まれ、どうということのない関係を築いていて、
家族や友人や先生といった人間関係に深く悩むのでもないような、そんな「真っ当」な青春。
学校生活を舞台にした4コマ漫画は枚挙に暇ないが、私のイメージはそんな感じだろうか。
このように書くと何も残ってないように思えるけど、もちろんそんなはずはなくて、
そこには物語になり損ねた無数のエピソードが、霧のように不確定なまま漂って残されている。


あっちむいてホイ
だけで
部活の時間が終わった日
帰り際に部活に
うちこむ運動部の姿を
見たときの
なんともいえない気持ちといったら・・・



例えばこういう不毛さは不毛さそのものがエピソードで、不毛でない学校生活なんて嘘です。
『スケッチブック』の美術部は、居心地がいいけど不毛な場所のようで(特に先生には)、
文化系クラブの見せ場のはずの文化祭では、絵を飾りつつその横で焼きそばを作ってたりする。
焼きそばはあんまり売れなかったし、美術部のアイデンティティも丸つぶれのはずなんだけど、
主人公は「部長の作った焼きそばはまぁおいしかった」と、そう独白するだけで後に残さない。
この手応えの無さ、深刻に考えない感じは逆にリアルで、リアルだから4コマ以外では語れない。
霧のような密度のエピソードは、4コマ程度のパッケージでないと逆に拡散して不明瞭になる。
あるあるネタというジャンル自体が、そもそもそういう類のモノのようにも思える。


と、まぁ、いつものように漫画ごときに、見当違いなことを小難しくホザいてますけれども、
私はこの漫画に出てくる根岸という男が大好きなんですよ、要するに。そう、要するに!
この漫画の女性は全員がアンチヒロインな性格で、根岸と彼女らの普通の関係が好きなのです。
『スコアブック』に8ページほど、『スケッチブック』の非4コマな漫画が載っているのだけど、
根岸+女の子三人で、日曜にツチノコ探しに出かけたのに、現場で女の子なんかガン無視して、
全力でツチノコを追うこの男はもうね、素晴らしい。そもそも8ページあるこの漫画のオチ、
最後のコマは、ツチノコに間違えられやすいトカゲの簡単な解説でしれっと終わっていて、
この作者は常道から逸れることを素でやってのけているから、もっとやればいいと思います。


小箱とたん 『スコアブック 小箱とたん作品集』(マッグガーデン)
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2009年11月24日

リップマンの『世論』

ウォルター・リップマン 『世論(上・下)』(掛川トミ子 訳 岩波文庫)
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社会はとても広くてとても素早く変化するため、誰もその全貌を見た者はいない。
人々はほんの一瞬だけ、そのほんの一部を垣間見ることが出来るに過ぎないので、
社会を思い通りに変化させたり、社会の総体を推し量ったりするのはとても難しい。
もしも社会が狭ければ、かまどの炊煙が夕餉時に立ち上っていないから税を免除しよう、
と言ったような、直感的で、メディアを介さないような政策判断も出来るかもしれない。
が、現代では、このような仁政は理想でもないので、炊煙に代わり世論が政治の参考となる。


変化するうえに巨大な社会を、全体として把握するのは困難で何よりも面倒臭い。
社会の構成員はもはや同質ではなく、幾つものコミュニティが勝手な思惑を抱いている。
だから目に届き難い雑多なことは、類型を指し示す、特徴的なイメージで把握される。
社会の中の物事は生成変化するが、頭の中の、物事に関するイメージはあまり変化しない。
と言うより、本人に変える意志がなければ、イメージはずっとそのイメージのままであり、
ステレオタイプとは、この類のイメージが、多くの人々に共有されている様子を言う。


もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、次の二つのうちいずれかが起こる。当人がもはや柔軟性をなくしているか、あるいはなにか強烈な利害関係があるために自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合になっているような場合、彼はその矛盾を規則にはつきものの例外であるとして鼻先であしらい、証人を疑い、どこかに欠点を見つけ、矛盾を忘れようとつとめる。しかし、当人がなお好奇心が強く開かれた心の人であれば、その新しい経験はすでに頭の中にある画像の中にとり込まれ、それを修正することが許される。(上巻 p.136)


と、そう言われるように、ステレオタイプは広大な社会の穴を埋め、空転する憶測でもある。
そもそも人の目の届く範囲には限りがあり、人の目が見ようとするモノにもまた限りがある。
アリストテレスによれば、機能する民主主義の限界は、そこに住む人達の視力の限界であった。
仁徳天皇の仁政の範囲が、山上で目に映った、その風景に限られていたのとそれは似ているが、
リップマンは、「シカゴ市民は往時のアテネ市民と同じ視力しかないのに、はるかに遠くまで見聞きすることができるようになっている。」(下巻 p.255)と述べ、民主制に決して悲観はしていない。
リップマンが死んだ後、メディアは一層発達し、人々はますます遠くまで見通せるようになった。
現代の社会や政治が陥っている齟齬と、その齟齬を修正する力は、同じ根を共有している。


すなわち自治を行う人びとが、情報機関を発明、創造、組織して自分たちのきまぐれな経験、偏見の外へ踏み出そうとしないところに〔病巣の〕源がある。政府、学校、新聞、教会は、民主主義のあきらかな弱点、たとえば、はげしい偏見、無気力、重要だがつまらないことへの反発からきた、些細ながら好奇心を唆るものへの偏好や、枝葉のことや不完全なものへの欲求に対して、あまりにも主導性が乏しい。それは彼らが信頼すべき世界像のないままに行動せざるをえないからである。これは民主主義の根本的な欠陥であり、その伝統にもともとつきまとっている欠陥である。そして、ほかのすべての欠陥も、原因はこの欠陥にさかのぼると、私は思う。(下巻 p.222)


この引用した前のページで、新聞は暗闇を照らすサーチライトに喩えられている。
情報の世紀の中にあっても、新聞に限らず、メディア一般なんてその程度のモノなのだし、
それらに過度な責任を押し付けるのも、リップマンが弁護するように、お門違いなのだろう。
最終的にモノを見て考えるのは、何だかんだ言って、メディアでは無く個々人なのだから。
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2009年11月23日

『ヤシガラ椀の外へ』

ベネディクト・アンダーソン 『ヤシガラ椀の外へ』(加藤剛 訳 NTT出版)
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コーネル大学教授で専門分野は東南アジア。名著『想像の共同体』の作者として有名。
大学人、研究者としての自身の「幸運な」半生を、日本人の若者向けに語った本で、
訳者の加藤剛も、訳者の枠を超えて日本の大学教育の歴史、学問領域について語っている。

アンダーソンは1936年生まれ。父親はアイルランド人、母親は中流階級のイギリス人。
雲南(昆明)で生まれ、ヴェトナム人の保姆(保母)に育てられ、思春期に至るまでに、
カリフォルニア、コロラド、独立アイルランド、イングランドと、色々と転居している。
21歳でコーネル大学のティーチング・アシスタントととなり、全キャリアを同大学で過ごす。

本の内容は、大学やフィールドワークの思い出(巻末の人名索引がスゴいことになってる)や、
大学の学問領域(ディシプリン)解説、アメリカの大学事情や時代背景との絡みも面白い。
タイトルの『ヤシガラ椀の外へ』は、学問領域や国境、言葉、時代を越境し続けた作者からの、
狭い場所に引き篭もってないでもっと視野を広げてみなよ、というシンプルなメッセージだ。


で、話はスゴイ変わる。
『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞を受賞した水村美苗が、同賞の受賞コメントの中で、
アンダーソンの『想像の共同体』に触れ、「英語で書いてあることに無自覚」と述べているが、
無自覚な理由はこの本に書かれてある。「翻訳されることに無自覚だった」と言う方が正しい。
『想像の共同体』が書かれた1983年当時、ナショナリズムの著作は、主にイギリスで出版され、
主にイギリスで論争が行われていた。その論争に学術的でない文章で横槍を入れようとしたのが
『想像の共同体』で、アンダーソン本人は、当たり前なんだけど、言語に関しても鋭敏である。
例えば学者として、現地語に堪能になるほどその地域に愛着を持ち、肩入れする危険性を語り、
学術領域のみで流通しがちなジャーゴンの使用が、その学問を閉鎖的にする呪縛であると言い、
他国語で読むことで他者を発見し、学問が始まるという、トドロフの啓蒙的な話もしている。
また、インドネシアの華人が書いた多言語的な本を、復刊するようなこともしていたりする。

(ちなみにアンダーソンの母親は、イギリスの西の果てでしか流暢に話されていなかった、
消滅しかけのアイルランド語ではなく、既に消滅しているラテン語を息子に学ばせている。
それは優秀なパブリック・スクールや、いい大学に入るための受験対策だったらしい。
これはアンダーソンが小学校時代の頃、アイルランドのウォーターフォードにいたときの話で、
このときに「ラテン語に恋をした」と、のたまってしまうアンダーソン先生マジ格好イイ。)

ついでに『日本語が亡びるとき』に即して言えば、アンダーソンはこの本の最後の方で、
グーグルのような検索サイトが、アメリカ語の跋扈を許すことになることを危惧しており、
ドイッチュの「権力とは耳を傾ける必要がないということだ!」という言葉を引用する。
アメリカ語は権力だから、他の言語の事情なんか知らないし、興味ないよ、ということだ。

この『ヤシガラ椀の外へ』は、訳者との共同作業で、日本のみで出版されたのだけど、
その内容と水村美苗の『日本語が亡びるとき』や受賞スピーチとは、どこか交差している。
日本語で書くと言うことは、国際社会の批判に晒されない場所で書くということでもあって、
小説は百歩譲ってまだいいとしても、学問の分野ではそれはヤシガラ椀の中に篭ることだ。
アンダーソンはこの本によって、日本の若者、特に研究者に、〈現地語〉から脱しなさいよ、
でも〈普遍語〉をあまり過大視しなさんなよ、と、そう言って背中をポンと叩いているようだ。
posted by 手の鳴る方へ at 09:52| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

『ヨコハマ買い出し紀行』

ヨコハマ買い出し紀行(1)(2) 新装版 (芦奈野ひとし 講談社)
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月刊アフタヌーンで連載していた漫画の復刻版。通常版はとても手に入り難かった。

いい意味でも悪い意味でも使われることがあるらしい、「雰囲気漫画」って言葉だけど、
この漫画の場合、いい意味で、しかも最高峰の、類無き、雰囲気だけの漫画だといえる。

登場人物の周囲は、時間的にも空間的にも、基本的にのほほんとした雰囲気なんだけど、
「優しいことばかりじゃなかった」時代を経た、銃の携帯も不自然ではない世界観が背後にある。

この漫画が「雰囲気だけ」なのは、単刀直入に言って世界がとっくに滅んでいるからで、
滅んで、元に戻れないところまで閾値を振り切ってしまった、そんな世界だからだと思う。
比喩で語れば、華やかな遊園地があり、そこにある全てのアトラクションの電源が落とされ、
日は沈み、音楽が止み、入り口が閉じた後の、帰り道の人間達の「何事も無さ」に似ている。
本当に楽しいことも、本当に悲しいことも全部終わってしまった後の、デストピアのような風景。
後は明日を待ち、次の時代の到来を待つだけの、空白のような、周縁に位置する時間の中で、
金網の向こう、シルエットだけになった観覧車のように、過去や「ターポン」は眺められ、
老いた世界がベッドの上で見るような、あるいは見たいと思うような人の遣り取りがある。


まぁ、とかなんとか大袈裟なこと書いてますが、普通に面白い、肩の全く凝らない漫画です。
三巻ももうすぐ出るようです。あるいはもう出ているかもしれません。
posted by 手の鳴る方へ at 09:01| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

『近代の再構築』

J・A・トーマス『近代の再構築』(杉田米行 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「日本政治イデオロギーにおける自然の概念」とある。

丸山眞男によれば、日本の政治は自然に依存する道を選んだため、主体的になれずにいる。
明治以降の政府や知識人達は、決定論的な自然の権威や威光をしばしば利用し、思想化した。
一般的に、近代とは脱自然化した状態であり、自然は近代の背後に押しやられた存在と考える。
つまり自然とは反近代であり、デカルト的な人間モデルを用いるのなら、それは野蛮であり、
人間の自由を抑圧する何かであり、過去であり、東洋であり、要するにアンチ人間的である。

丸山眞男は故に、日本は西洋みたいに近代化してないよね、残念だよね、みたいなことを言うが、
西洋が培ってきた近代/自然の関係だけが近代の形態ではないよ、近代の形態は幾つかあって、
その中でイデオロギー的な自然の取り扱い方も自ずと異なってくるよ、というのが本書の内容。

もっとざっくりと言うと、明治以降、日本の政府や知識人達は、近代化に着手する中で、
近代化の不和とも取り組むことになったんだけど、その不和に対応するために、つまり、
真の近代国家にならんとするがために、自然に依存する道を辿ったんだよ、という話。
丸山眞男は日本の近代化に不満があったかもしれないが、あれはあれで(これはこれで)、
キチンとした近代化のプロセスだったと言えるんじゃないかなぁ、そもそも丸山先生は、
明治期以降のイデオロギー的な自然概念を毛嫌いし過ぎてるよね、という挑発でもある。


自然という言葉自体は明治期以前からあったけれども、西洋文化を翻訳・摂取する中で、
それは政治行動の絶対的な規範、混沌とした時代の中でも信頼できるツールと見做された。
しかしその中身は曖昧であり、知識人達は、その政治概念としての潜在力を模索することとなる。
自然は、旧幕府、新政府、民権派にとって、新時代を語るのに具合がいい言葉に思えたが、
それ故に、自然という概念を巡って、明治期初期に激しい論争が繰り広げられることとなる。

明治時代前半の頃は、ハーバート・スペンサーの社会的ダーウィニズムが隆盛を極めており、
「一八七七年から九〇年の間に日本ではスペンサーの著作は少なくとも三二回翻訳され」ていた。
初期のスペンサーは、人間が進化すれば、個人がお互いの利益を犯さずに完璧に共存できるし、
究極的には政府なんて不要になるし、世の中が均衡状態になって安定するよマジで、と言う。
明治初期の自然論争の担い手とされた加藤弘之と馬場辰猪は、このスペンサーに精通していた。
加藤は(反体制派・民権派から転向し、)寡頭制を支持し、エリートや政府のために発言した。
自然の目的と人間の目的は必ずしも一致しないので、エリートが操縦桿を握るべきだと彼は言う。
自然の用意したユートピアと、人間の望むものは違うため、加藤はエリートの寡頭制を肯定する。
一方の馬場は、逆に、自然の進化、その帰結としての民主化、そして安定化を疑わなかった。

どちらにしても、彼らの論点は自然、しかも社会ダーウィニスト達の言う「自然」であったが、
「彼らの論には、『人間』という言葉はあっても『国家』という言葉はなく、『世界』という言葉はあっても『政府』という言葉はない」ために、明治政府はむしろ自然概念について語ることを避けていた。
大日本帝国憲法や教育勅語には、自然についての言及、自然の権威を借りる表現は一切無い。
スペンサーのユートピア的なイデオロギーは、明治以降の政府・官僚のお気に召さなかったし、
全く均衡していない当時の西洋列強の立ち振る舞いは、楽観主義そのものに疑義を差し挟んだ。
要するに、スペンサーの思想には実用性もなければ説得力も無いと、そう判断されたワケで、
明治末になると、借り物の、普遍性を装う自然概念を、日本文化に内在化する試みがなされる。
西洋的普遍性を映し出す鏡だった自然は、日本人のアイデンティティを映す鏡へと姿を変えた。
日本人と自然との関係、日本人の感性を表現するものとしての自然は、この時期に再発見され、
愛国心や国民性、天皇や家族観との接合、自然概念の中央集権化(地方の風土の軽視、抹消)、
土地資源利用の官僚主義化、つまり近代的な自然観が形成され、そして一部は今にまで至る。


以上から、丸山眞男が言うように、日本の政治と自然の関係は伝統的な宿痾とは言えないし、
日本の自然概念は、前近代的な装いのものでもない。むしろそれは20世紀の産物ですらある。
「自然とは過去の遺物ではなく、根本的に再構築した考えの連続」(p.305)だと作者は言う。
世界遺産やら、環境問題やら、地方自治体の既得権やらが蔓延る21世紀日本の自然概念も、
伝統や普遍性、地域性、ツーリズムを語る言葉の中でゆっくりと生成変化していくに違いない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

それは戦友の愛なのではないか

週刊誌の「AERA」の終わりの方に「はたらく夫婦カンケイ」というコーナーがあって、
週毎に、働く夫婦の写真と経歴、二人の文章、出会いから結婚に至るまでが掲載されている。
夫婦の職業は様々で、共に農家だったり、夫が会社を立ち上げて、妻もそこで働いていたり、
妻がマーケティング会社の代表取締役で、夫が商社のサラリーマンだったり、まぁ色々ある。
本人達の思惑が多分に込められた(と私が勝手に思ってる)写真の構図が多様で面白い。


で、そこに掲載されていたある夫婦を見て思った、というワケでも別にないのだけど、
現代において夫婦と言うか、伴侶と言うか、配偶者と言うか、パートナーと言うか、
その内実が大きく変化しているのではないかと、そんなことをぼんやり考えている。
まず、「AERA」のこの連載に出てくる夫婦を、「夫婦」と呼ぶことに違和感がある。
彼ら彼女らの言葉や写真から滲み出ているのは、より良い人生への真摯な努力であって、
「素晴らしい人生を送るため」や「もっと良い人生を築くため」という功利的な理由で、
お互いを必要としているような感があって、ここで「功利的」という言葉を安易に使うと、
また余計な誤解をされそうだけれども、彼ら彼女らがその関係の中で賭けようとしているのは、
愛だとか金銭だとかの三文芝居的なものではなくて、自分自身の人生なのではないだろうか。
それを踏まえた上で、初めて愛や経済や家庭やらが言葉にされ、繋がっているのではないか?

ぼんやりとした考えをぼんやりとしたまま書いたので、ぼんやりとした文章になっているが、
喩え話を持ち出すと、生きるということはよく言われるようにサバイバルみたいなもので、
私達はどこかの戦場の最前線で、結構ヒリヒリとした現実と交戦していると言えなくもない。
不況や政治や国際情勢の影響で、より良く、あるいは普通に生きるのすら難しい昨今だが、
人生をサバイバルする戦略の一つとして、例えば理解し合えて、自身を成長させてくれて、
一緒にいると安心できるようなパートナーを、側に置くことはとても有効なことだと思える。
一緒に戦えて、より長く生き延び、戦局を優位に進められる仲間の存在はきっと心強い。


現代人はその身をサバイバルに投げ込まれている。それこそ生まれて死ぬまで最前線生活だ。
「はたらく夫婦カンケイ」に垣間見える関係は、夫婦というより、共に戦う戦友のように見える。
現実を生き延び、サバイバルを潜り抜け、お互いの心身を休める居場所としての戦友関係だ。
思えば夫婦という関係性と、戦友という関係性は、一体どちらがより強く堅いのだろうか。
後者だと即断したくなる。そこにある夫婦の愛は、比喩が雄弁に語る戦友の愛なのではないか?
posted by 手の鳴る方へ at 05:42| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

東アジアの100冊

「東アジア100冊の本」選定 白川静さんの「字統」など(47NEWS 09.10.29)



日本、中国、韓国、台湾、香港が集まって東アジアの本を100冊選んだらしい。
日中韓から各26冊ずつ、台湾から15冊、香港から7冊、計100冊をチョイスした結果、
日本からは廣松渉や白川静、河合隼雄、多木浩二などの有名どころが選ばれた模様。

で、「東アジアの100冊」に選ばれた日本の書物26冊が、09年11月上旬時点のAmazon.comで、
どの程度レビューをされているのか、調べて書き置いておこう、というのが今回の試み。
同じ本が同じ会社、違う会社から何冊か出版されている場合、レビュー数が多い書を優先。
面倒臭いから、各個にリンクを貼ったり、紹介された本の表紙を載せたりはしません。

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・佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社 1965年 中公文庫 2005年)
中公文庫版のカスタマーレビュー(3件) 星5つ

・丸山眞男 『講義録 第6冊・第7冊』(東京大学出版会 第6冊 2000年 第7冊 1998年)
カスタマーレビュー 第6冊、第7冊ともに無し

・吉本隆明 『共同幻想論』(河出書房新社, 1968年、角川文庫 1982年)
河出書房新社版、角川文庫版のカスタマーレビュー(16件) 星4.5
16件のレビューは26冊の中で最多。さすがに一世を風靡した本だけはある。

・石牟礼道子 『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫 1972年 2004年)
2004年度版のカスタマーレビュー(9件)星4.5
ちなみに1972年度版のカスタマレビューは2件 星5つ

・石母田正 『日本の古代国家論』 (岩波書店 1971年 2001年)
カスタマーレビュー 1971年版、2001年版ともに無し

・松下圭一 『都市政策を考える』(岩波新書 1971年)
カスタマレビューどころかAmazonの検索にヒットすらしない。
出版元の岩波書店HPの検索にも書名が出てこないという悲哀っぷり。

・廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房 1972年  講談社学術文庫 1991年)
講談社学術文庫版のカスタマレビュー(2件) 星5つ
廣松先生は再発見、再評価の機運が高くていいと思います。

・宇沢弘文 『自動車の社会的費用』(岩波新書 1974年)
カスタマーレビュー(6件) 星5つ

・山口昌男 『文化と両義性』(岩波書店 1975年 岩波現代文庫 2000年)
1975年、2000年版のカスタマーレビュー(1件) 星5つ
私はこの本から山口昌男のファンになった一人です。

・河合隼雄 『影の現象学』(思索社 1976年 講談社学術文庫 1987年)
講談社学術文庫版のカスタマーレビュー(10件) 星4.5
星2つや星3つもあるが、レビュー内容は辛口でもない。

・梅棹忠夫 『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫 1976年)
カスタマーレビュー(2件) 星5つ

・網野善彦 『無縁・公界・楽』(平凡社 1978年・1987年 平凡社ライブラリー 1996年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(8件) 星5つ
レビュー内容もやたらと熱いのばかりで好印象。

・西郷信綱 『古典の影』(未來社 1979年 平凡社ライブラリー 1995年)
未來社版、平凡社版ともにカスタマーレビュー無し

・佐竹昭広 『万葉集抜書』 (岩波書店 1980年 岩波現代文庫 2000年)
どちらにもカスタマーレビュー無し

・鶴見俊輔 『戦時期日本の精神史』(岩波書店 1982年 岩波現代文庫 2001年)
岩波現代文庫のカスタマーレビュー(2件) 星5つ

・藤田省三 『精神史的考察』(平凡社 1982年 平凡社ライブラリー 2003年)
平凡社ライブラリー版カスタマレビュー(2件) 星4.5

・前田愛 『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1982年 ちくま学芸文庫 1992年)
どちらにもカスタマーレビュー無し。
レビューは無いけれど、色々なところで引用されているのをよく見る本です。

・中井久夫 『分裂病と人類』(東京大学出版会 1982年)
カスタマーレビュー(5件) 星4.5

・井筒俊彦 『意識と本質』(岩波書店 1983年 岩波文庫 1991年 ワイド版 2001年)
文庫版カスタマーレビュー(10件) 星5つ
この人が選ばれない「東アジアの100冊」のなんて意味が無い。
あと、こんな難しい本に10件もレビューがあることにビビる。

・白川静 『字統』(平凡社 1984年 新装普及版 1999年 新訂版 2004年 新訂普及版 2007年)
新装普及版(1999年)のカスタマーレビュー(7件) 星4.5
「東アジアの100冊」でこの人がいないのも嘘だよね。

・二宮宏之 『全体を見る眼と歴史家たち』(木鐸社 1986年 平凡社ライブラリー 1995年)
木鐸社版は検索にヒットせず。平凡社ライブラリー版にはカスタマーレビュー無し
個人的に樺山紘一とダブってどっちがどっちかわからなくなることがある。

・多木浩二 『天皇の肖像』(岩波新書 1988年 岩波現代文庫 2002年)
岩波現代文庫版カスタマーレビュー(3件) 星4.5
ちなみに岩波新書版のカスタマーレビュー(2件) 星4.5

・伊谷純一郎 『自然の慈悲』(平凡社 1990年)
カスタマーレビュー無し

・ノーマ・フィールド 『天皇の逝く国で』 (みすず書房  大島かおり訳 1994年)
カスタマーレビュー(4件) 星5つ

・市村弘正 『小さなものの諸形態』(筑摩書房 1994年 平凡社ライブラリー 増補版 2004年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(1件) 星4つ
あと、Wikipediaに、「市村弘正」の、項目が、無い。

・林達夫 『精神史』(平凡社ライブラリー 『林達夫セレクション 3』 2000年)
カスタマーレビュー無し

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東アジアの歴史や思想が、これらの書物、学問の言葉で語られるのが理想なのでしょうが、
「現代の古典」とか言ってるけど、おい、あれか、戦前の書物はタブーなのか、とか、
岩波的な教養、知識人が2000年以降もまだ有効だと思っているとしたら甘くないか、とか、
あの著者がいない、あの本が無いのはおかしい、多木浩二なら他にあるだろ、とか、
これじゃあ東アジアどころか日本の戦後思想の地図も書けないんじゃないの、とか、
そもそも東アジアや100冊の括りに意味があるのか、とか、思うことは多々あるでしょう。
綺麗にまとめようとすれば、この選定の歪み自体が、東アジアの歴史の一部なのです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:28| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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