2010年03月25日

さよなら人材

中吊り広告で木村拓哉が「日本でできることはやり尽くしたよ」とか言っていたらしい。
ある人はそれで、「同じことを多くの企業家も考えているに違いない」とTweetしていた。
木村拓哉の上記の発言は、日本を捨てるとかそういう話とは絶対に直結しないはずだが、
それにしても、面白いことが出来る優秀な人々や、これからやろうと思っている人達にとって、
今の日本の現状はさして魅力的ではなく、底が見えてしまっている状態なのかもしれない。


近頃、週刊ダイヤモンドが、オタキング岡田斗司夫へのインタビューをWEBで公開している。

「FREEの正体 0円ビジネス大解剖」
http://diamond.jp/go/ct/free/okadatoshio.pdf


その中で岡田斗司夫は、最近の2ちゃんねるが面白くないことをこのように語っている。
2ちゃんの劣化は、それまでに存在した面白い連中の上位25%が他の所に移動したからだ、
それは優秀な上位25%の子供が私立中学に通い、私立中学に行けない残りの連中が、
「吹き溜まり」と化した公立中学に集まり、教育が成立していないのと似ている気がする。

ネット上の面白い連中は2ちゃんねるからMixiへと移動し、今はTwitterへと移動している。
そして今年の夏には、さらに敷居が高いfacebookへと移動するだろうとこの話は続いている。
そこにある、軸が移動する原理について、岡田斗司夫は以下のような説明をしている。


ネットにおいては。面白くて、注目されてて、評判が高かったり評価されている人、まあ「評価経済」「注目経済」っていい方もできるんですけど、そういうポイントを持っている人というか、資産といってもいいですね。そういう資産を持っている人がどこに流れるかで次の中心が決まり、そしてそういう人たちがごっそり抜かれることで前のメディアがいたたまれないほどさびれていく。


数年前のひろゆきの「ああ,居着かせちゃだめなんだ」のインタビューを思い出すが、
この種の話をネットだけでなく国やら社会やらに広げて考えると、最初の話に繋がる。
ネットとは違い、悪ユーザーが良ユーザーを駆逐する、みたいな属人的な話ではなくて、
VCが成立せず、優秀な人材が腐るのは、もっと社会構造、政策方針の問題なのだろうが、
起こっている現象は似通っている。人材の流出に加え、海外からの人材流入にしても、
最近は12万人前後で伸び悩んでいる。(12万人という数字自体は30年前の6倍だが。)


民主党や舛添氏が主張する移民に関しても、今後の「日本と移民」についてイメージするに、
日本の国土の中で移民と日本人が衝突する、治安が悪化する、みたいな話になるよりも、
日本人が海外で移民として働き、その先で辛い思いをする、頑張ってのし上がり名を上げる、
という話の方がリアリティがあるし、喫緊の関心事となるべきだと思う。個人的にはね。
保育園に通う私の姪っ子も、将来は後者のような生き方、海外で移民として生きる気がする。
日本はもう駄目だ、絶望しかない、という話じゃなくて、そういうのが普通になってるし、
今後ももっとそうなるだろうという話をしている。ただ、こういう話をすることによって、
日本国内の移民問題をウヤムヤにしようとしている、という意見には反論できそうにない。
日本人の海外移民とあわせて考えた方が、視野は広くなるよ、としか言い返せないと思う。


少子高齢化に加えて人材流出というのは、国家にとっても致命的な展開だと思われるが、
今のままだと「日本でできることはやり尽くしたよ」と言う人間を引き留めるのは難しい。
木村拓哉は日本でもまだ十分に稼ぐことができるだろうが、そうでない人を留めるのは難しい。
友人と、ほりえもんって海外に移住できないらしいね、という話をこの間したのだが、
「優秀な堀江貴文を日本から出さないことで日本の公益に強制的に貢献させる合法的な手段」
みたいな陰謀論になって、まぁ馬鹿話なんだけど、そういう発想が出てしまうくらい難しい。
これって法的にも世間的にも捻れていて、自分達の中からそういう発想が出てきたことが、
なんかもう嫌になる。何が嫌なのかは、今はまだあまり言葉にできないのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 20:12| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

ヴァイマールの亡霊

柴田寿子 『リベラル・デモクラシーと神権政治』 (東京大学出版会)
13010111.jpg


サブタイトルには「スピノザからレオ・シュトラウスまで」とあるが、
幾つかの論文を一冊にした本で、本書には他にもシュミットやアレント等への言及もある。
ちなみにシュトラウスはヴァイマール期の思想家でユダヤ人。1932年にアメリカに亡命。


リベラルだとかデモクラシーだとか、響きのいい言葉を口にしてウットリする連中がいるが、
その内実をよくよく考えてみれば、諸手を上げて称賛できるようなモンでもねぇよって内容。
この本には、レオ・シュトラウスが国外に持ち出したヴァイマールの亡霊が憑依している。
普遍主義によって排除され、モダニズムの礎石として埋葬されたその亡霊の名はユダヤである。


ナチス前夜、ヴァイマール共和国には、リベラル・デモクラシーが実現しつつあるように見えた。
それはドイツのユダヤ人を政治的に解放・同化して、法的平等をある程度まで達成したものの、
その政治体制は全体主義思想に対して無力であり、その後に続く殲滅計画にも無力であった。
シュトラウスによれば、そこにはリベラル・デモクラシーの根本的、致命的な脆弱さがある。


シュトラウスの分析によれば、まずリベラリズムとは国家と社会を分離し、国家という公的領域の縮小化と社会という私的領域の拡大化をめざす考え方である。その結果、公的領域においては法によるリベラルな原理が保証されるが、他方、自由とされる私的領域を規制する原則はなく、リベラルな原理に反する差別が容認・保護される。リベラリズムにとって宗教を公事とすることは自由の抹殺であるが、かといって宗教を私事とするかぎり、ユダヤ教やセミティズムを寛容に容認するのと全くおなじように、反セミティズムをも寛容に容認することになる。結局リベラル・デモクラシーは、反セミティズムに反対する公正・正義といった準拠点をもちえず無力である。
それゆえさらにシュトラウスによれば、リベラル・デモクラシーはユダヤ人問題に対して無力なだけではなく、その悪化をもたらすことになる。そもそも普遍主義的でリベラルな個人主義と固有性をもつコミュニティは矛盾し、リベラル・デモクラシーは人間という普遍主義的な原理に基づきユダヤ人全体を保護するという目的のもとに、ユダヤ人コミュニティの固有性にたいする暴力的な破壊をもたらす。
(p.43)


リベラル・デモクラシーは価値中立的であろうとするため、啓示宗教のような固有性は、
例えば政教分離の中で綺麗に排除される。政治には“理性的な”自由があるべきだからだ。
『神学政治論』の中で、スピノザが神学・聖書の価値を福利厚生的なものとして認めつつ、
一方で政治の場を、自由な言論空間として確保しようとしたのと構図は似ていると言える。
(が、聖書も理性も重要だと考えている点で、スピノザのモダニズムは私達のそれとは異なる。)
啓示宗教はこのプロセスの中で漂白され世俗化される。と言うより、あらゆる個別性が、
剥離し、リベラル・デモクラシーの中でフラットに扱われた挙句、宗教も倫理も喪失する。
「色んな考え方があるよね」的な馴化の果てに、煽られた反セミティズムが暴走し始める。


シュトラウスは、啓示と理性、宗教と哲学には、そもそも共約可能性が無いと言いたいのだ。
世俗的理性の見地から啓示宗教を批判したところで、それは宗教対立の亜種でしかない。
そしてそれを踏まえて、リベラル・デモクラシー内での共存可能性を問い質すべきなのだ。
(スピノザと同じくシュトラウスも、宗教と哲学はどっちが偉いか、みたいな議論はしない。
二人とも、理性や真理だけで社会も人間も動いてねぇよ、という当たり前の発想をしている。)
また、ユダヤ人はヴァイマールの最中、公私の両領域に引き裂かれたのだとも言いたいのだ。
数千年もの間、この「ユダヤ人問題」は、西欧の他者理解の重大問題として推移してきた。
西洋の二本の柱、ギリシアの懐疑とイスラエルの信仰の捩れの中にユダヤ人の歴史もあり、
リベラル・デモクラシーは、そんな歴史の刃先として現れ、ジェノサイドを招き寄せた。
その矛先はイスラームやマイノリティ文化へと向かいつつあり、ずっと前に紹介したのだが、
シャンタル・ムフの『政治的なものについて』にそこら辺の事情は詳しく書かれてある。
西洋が設えた公共空間から宗教は撤退する。それが爆弾を抱えて戻ってきたのが9.11だった。
その後のアメリカの行動がネオコン的と称され、ネオコンはシュトラウス的だと称されたが、
それは大きな誤解である。ヴァイマールの亡霊が疑うのは、そこにある普遍主義なのだから。
posted by 手の鳴る方へ at 18:19| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月23日

「須田家之墓」は何を意味するか

金田一蓮十郎 『ニコイチ』(スクウェア・エニックス)
75752624.jpg


死別した彼女の子供を、血が繋がってないのに女装しつつ育てる男の話。
時は流れ、小6になった息子に、未だに自分が実は男だと言い出せないでいる。
しかも女装状態で彼女ができてしまうが、その彼女には男であることをカミングアウト。
今のところはその彼女と息子と自分(女装又は素顔)とで、仲良く暮らしてていい感じ。
しかしこうして書くと分かり難い。登場人物もワケがわからないと自嘲してたりする。
ちなみに作者は17歳で商業誌デビュー。処女作がアニメ化というリアル『バクマン』だ。


他人同士で家族を作る、という点で『オハナホロホロ』とよく似た構造になっていて、
子供の実父が作中に不在だったり、故人(の墓)も込みで擬似家族なのも似ている。
『オハナホロホロ』は墓参がラストシーンだった。『ニコイチ』にも墓参のシーンがある。
死んだ彼女には身寄りが無いため、結婚もしてない主人公の家族墓に勝手に入れられている。
(それはそれですごい話だと思うのだけど、意外なほどあっさりとそこは語られている。)
しかも事情を知らない小6の子供は、お父さんがそこに入っていると思って墓参している。
これって個人墓だと成立しない話だなと思った。というか家族の概念がぶっ壊れており、
その廃墟と化した家族概念、「須田家之墓」(主人公の苗字)と彫り込まれた墓石が、
彼らのデリケートな秘密を守り、それをきちんと肯定しているようにも見えるから面白い。
別の言い方をすれば、血縁という概念は、現代では家族のリアリティに関わっていない。


日本人は祖先や血縁を大事にするから家族墓だ、みたいな話があるのかもしれないが、
ガッツリ制度化される前は、節操無く個々人を「家族化」する装置だったのかもしれない。
(そもそも「縁」を、国や制度がサポートするという発想が私には不愉快なのだが。)
あと、主人公の彼女は再婚家庭で育ち、そこで「黒歴史」的な反抗期を過ごしていて、
こういうのを見ると、血の繋がりってやっぱ大事じゃん、と思うかもしれないけど、
大人になったらそれはそれで関係も修復しており、ちゃんと家族になっていたりする。
漫画として語り易いのは、そこにある感情や情念である、というだけの話かもしれないが。


話は変わるけど、田中小実昌が直木賞を取った『浪曲師朝日丸の話』という作品があって、
そこには広島の原爆孤児(女ばかり)を保護して生活する朝日丸と言う男が出てくる。
家族的な共同体を作っておきながら、その原爆孤児十数人と近親相姦的にセックスして、
ぽこぽこと子供を作ってしまい、困ったなぁ、みたいなエピソードがあって、こういうのは、
わかりやすいタブー破りではあるんだけど、この「他人と一緒に暮らすことの節操の無さ」は、
ある一面で日本的な気もする。それは善悪の彼岸にある、人間の非人間的な関係ではないか。
この無節操さによって「家族」は破られるというより、むしろそんなことは想定の範囲内で、
「困ったなぁ」と苦笑する、その時々の個々人を肯定する。それが「家族」じゃないだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 04:00| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

『貧困と飢饉』

アマルティア・セン 『貧困と飢饉』 (黒崎卓・山崎幸治 訳 岩波書店)
00001924hinkonto.jpg


大勢の人が飢餓状態になる飢饉の原因は、食料の有無と言うより、食料に手が届くかどうか、
手が届くようなインフラや法整備があるかどうかにかかっている、と主張するセンの代表作。
人口と食料供給量を比較して、後者が前者よりも多くても飢饉は防げねーから! という話。


話を身近にするため、この本、『貧困と飢饉』とは離れて今の日本の話をしてみたいと思う。

現代日本は飽食であるが、それでも年に一度は、餓死者のニュースを見聞きすることがある。
彼らは自身の労働力を有効に活用できず、社会保障制度からも滑り落ちてしまった人々だが、
仮に、コメの値段がもっと安ければ、彼らがより多くの白飯を食べていた可能性は高い。

減反廃止ならコメ価格半値に 見直しで試算、農政改革チーム 2009/04/22 23:43
http://www.47news.jp/CN/200904/CN2009042201000866.html


コメの値段が半額であったならば、彼らの困窮した生活はもっと改善されていただろう。
彼らは本当なら、もっと容易に、もっと安価に栄養を摂取することができたのではないか?
嫌らしいことを言えば、コメの保護貿易は、国民の福祉を悪化させる方向で働いている。
さらに嫌らしいことを言えば、「食の安全保障」の名目で食料自給率の上昇にこだわるほど、
巷に餓死者が増える蓋然性は高くなる。自給率は国民を餓えさせないための指標なのに、
「食料に手が届かない」状況に荷担しているように見える。政策として如何なものだろう。


話がズレてきたが、餓死は、個人の能力(労働力や購買力)や社会制度と大きく関わる。
歴史的に見れば、旱魃や冷害や戦争によって食料供給量が減少することは多々あったが、
それは必ずしも飢饉のトリガーではなかった。これがセンの権原アプローチと言える。
例えば(また『貧困と飢饉』から離れてしまうのだが)、こんな記事がある。


asahi.com (64)昭和の大凶作 2009年12月02日

この点で、昭和の大凶作について私が聞いた土地の古老の言い分は興味深い。古老のイメージでは、昭和初期には目屋はすでに飢饉のムラではなく、昭和の凶作は「大したことはない」のだと言うのである。伝え聞く天保の飢饉(1830年代)の地獄の惨状に比べると、昭和の凶作は「人が死んだ話は聞いていない」と言う。

すでに交通も経済も十分に発達し、飢えて死ぬまでのことはなかった。飢饉の時は高利貸でさえありがたく見える。そういったことかもしれない。



昭和初期の大飢饉は日本史上最悪の飢饉とされているが、餓死者は多くなかったと言う。
江戸期の飢饉と昭和の飢饉の違いを考えることは、センの権原理論の理解を深めるだろう。
昭和初期の飢饉は、近代化と資本主義化の二点で(ある意味一点だが)江戸期とは異なる。
つまり、@国民国家の成立による同胞意識、A新聞や電信を中心としたメディアの発達、
B鉄道が整備されたことによる物資運搬の簡易化などにより、昭和の東北地方の大飢饉は、
江戸期とは異なり、その他の地域からの、時機を逸しない援助物資を期待することができた。
権原概念は、個人や職業集団の能力だけでなく、このような相互扶助の可能性も内包している。
さらに、C工業化の発展により、農民はその労働力を非一次産業へと転化することができた。
ある種の「身売り」、あるいは時代はズレるが『女工哀史』的な工場労働が受け入れ先となり、
餓死は無いが、死ぬほど辛い労働によって生き長らえるという選択肢を得ることができた。
が、どっちがマシかは軽々しく口にはできない。選択肢があるだけマシ、とすら言いたくない。
ともあれ、一言で言って「近代化」が、飢饉に対する抵抗力となり、日本人の権原を拡大した。


国際問題としての飢饉、あるいは欠如、つまり貧困は、具体的な物資の有無を本質とはしない。
飢餓は貧困を原因とする。そして貧困は、そこに住む人々、職種の、権原の脆弱さの問題だ。
権原の保護のためには、経済成長、民主化、自由主義の導入などが有効な手段となるし、
それらについては、現今の経済学はある程度の成果や協力を果たしていると言えるだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:25| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

『デモクラシーとは何か』

ロバート・A・ダール 『デモクラシーとは何か』 (中村孝文 訳 岩波書店)
00002718.jpg


作者はアメリカの超有名な政治学者。「ポリアーキー」という概念の生みの親でもある。
民主主義研究に成果があり、この本は初心者向けに書かれた平易なデモクラシーの解説書。


民主主義とか共和制とかよく耳にするけど、北朝鮮や中国だって共和国らしいし、
日本国内でも、よく「民主主義オワタ」だとか「民主主義の危機」だとか言われるよね。
ヒトラーを生んだのも民主主義って言うし、そもそも民主主義って何を意味しているの?
この本ではそんな問いに答え、その歴史や種類、利点、必要条件などが解説されている。

民主主義の歴史は2500年に及ぶが、2500年前の民主主義と近代民主主義は大きく異なるし、
同時代の民主主義であっても、国の規模によってその体制にはバリエーションがある。
古代アテネの自由人/奴隷の社会構造を前提とした民主主義はもちろんのことだが、
19世紀以前の民主主義は、基本的には制限選挙下の代表デモクラシーだったと言える。
近現代における文脈で重要となるのは、非制限選挙による民主主義であるワケだから、
理想的なデモクラシーを指す言葉としてポリアーキーという新概念が導入される。
ダールによれば、ポリアーキーの要件は、
@選挙によって選出された公務員
A自由で公正な選挙の頻繁な実施
B表現の自由
C多様な情報源
D集団の自治・自立
E全市民の包括的参画
であるとされる。これで言うと、ファシズムは民主主義から生まれた政体ではあるものの、
それ自体は決して民主主義的では無かったと言える。そもそもダールの説明によれば、
20世紀において、民主主義体制が崩壊し、全体主義へと転落したケースは70を越える。
20世紀は民主主義にとって興亡の世紀、そして最終的に耐え抜いて生き残った世紀なのだ。


多くの政治学者は、寡頭制や君主制にも政治体制としての利点を見ることに吝かではない。
例えばシュンペーターは、フランスの政教分離はナポレオンの強権がなければ無理だった、
民主主義的に決めてたらあんなモンどうにもならねーよマジで、とか言っていたりする。
それでも時代を経るごとに民主主義が広がり、政治倫理と化しているのは、ダールによれば、
民主主義には説明責任があり、人間性を開花させ、国をより繁栄させ、私的自由を保障し、
政治的・本質的な平等を保護し、その他諸々で、ワリのいい「賭け」だからだとされる。

政治学者お墨付きの「賭け」であるけど、「賭け」だから100年に70回ほど負けたりもする。
文民による軍と警察のコントロール、近代的な市場経済の発展による中産階級の勃興、
それに過度に多元的な文化でないこと(つまり有権者にある程度の同質性があること)等、
幾つかのポイントが押さえられていれば、民主主義は興隆し、「賭け」に有利となる。
ここで、有権者の思想・宗教・民族・イデオロギーがバラバラで多元的な文化はヤバイよ、
そもそも民主主義が成立しないよ、と、民主主義の権威が述べていることは注目に値する。
まぁ、その例外として、オランダやスイスやインドに紙面を多く割いてもいるのだけれど。


他にも、民主主義と資本主義は、喧嘩してるけど結婚生活をやめない夫婦みたいなものだ、
資本主義は有権者の生活を豊かにし、諸々の政治活動にとってプラスに働くこともあるが、
その一方で格差を広げ、政治の分配機能を脅かし、アジェンダ設定にも差別が出ると語る。
どうであれ、資本主義は非ポリアーキー体制とは決して相容れないのだと述べている。


こうして見てくると、二一世紀に繰り広げられるかもしれない歴史劇の最後で最大の見せ場は、中国の非民主的な体制が、市場経済の生み出す民主化の流れにどこまで逆らい続けることができるかどうかという点になるだろう。(p.234)


中国が民主化の流れに逆らうのはまだこれから、21世紀の後半からになりそうだが、
個人的には如何にして中国が、ITを駆使してデモクラシーに抗うかにも興味がある。
中間層となった13億人の民主化への志向を、果たしてどこまで制御できるだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 07:51| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

『海月姫』

東村アキコ 『海月姫』 (講談社)
06340790.jpg


クラゲオタクの女の子が頑張る話。ノイタミナ枠でアニメ化もするとかどうとか。

恐らく腐女子という生き方は、色々なことに対して不戦敗であり続ける生き方なのだろう。
オシャレは女の武装であって、この漫画の腐女子はその武装を解除している状態で始まる。
が、自分の快適なポジションが奪われそうになったり、不覚にも異性にときめいたりしたので、
着飾ったり、必死でコミュニケーションを取ったり、トラブルに巻き込まれたりする。

クラゲ(オタク的な関心)→ウエディングドレス(女性一般の幸福)のラインが軸としてあり、
そこには、魔法の力を借りる必要が無いくらい地続きなシンデレラストーリーが予感される。
そのラインは、「クラゲってお姫様のフリフリなドレスみたいじゃね?」という発想から成る。
こういう発想は、本当にクラゲを綺麗だと思わないと出てこない発想で、そういうのは素敵だし、
そこのラインに説得力があるので、オタク+女子を描くのに最高な伏線になっているとも言える。


で、話は少し変わる。
私の友人に、葉脈の美しさを延々と話せる人間がいて、その熱弁を聞いているうちに、
何となく世間から閉じていくような感じがして、葉脈の美しさはよく理解できるけど、
そこから先へ広がるフックが無いんじゃないか、と、そんなことを思ったことがある。
オタク的、個人的な関心なんてものは、世間から閉じていて何の問題も無いと思うけど、
実際に「閉じた」感覚に触れると、それはそれで惜しい気持ちになったりもするワケで。

『海月姫』ではそのフックがあって、違和感無く一段広い世界へとコネクトしている。
閉じたように見える個人的な美学でも、実際には地続きで広い世の中と繋がっており、
何かの弾みで回路なり経路なりが繋がり、冗談みたいな活路がパッと開けることもある。
実は地続きであったり、地続きであり得るというのは、大事なことだと思うのですよ。
断絶してるという状態は悲しいのです。それが本人の心理的なものに基づいてるからなおさらに。
posted by 手の鳴る方へ at 04:11| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月19日

「自分探し」の移民たち

加藤恵津子 『「自分探し」の移民たち』(彩流社)
77911468.jpg


サブタイトルには「カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者」とある。
主にバンクーバーの日本人一時滞在者を対象としたフィールドワークをまとめた本。
期間は2001年〜2008年。21ヶ月にわたるフィールドワーク。インタビュイーは106人。
何故バンクーバーへ来たのか、そこでの生活はどうか、そこで何を考えているのか、
今後の人生プランはどのように考えているのか、ということが掘り下げられている。
「自分探し」とは、この一時滞在者達のメンタリティーを大まかに語るキーワードで、
依るべきコミュニティの無い、根無し草(デラシネ)としての若者の姿が炙り出されている。
インタビュイーは自分の仕事にしか関心がない、カナダのコミュニティへの関心が薄い、
という作者の感想と、それと現代日本社会の関係を指摘した部分はとても面白く読めた。


また、章の合間にはコラムもあり、現地人に話しかけられたからって見境無く喜ぶなよ、
海外での生活は心細いかもしれないけど、付き合う人間は選べよJK的な話が盛りだくさん。
「日本人女性は海外でモテる」という言葉の裏には、わかりやすい落とし穴があるらしい。
このようなケアサポート・アドバイス・説教っぽいコラムが、論文と並んでいるのも面白い。


北米大陸の屋根裏部屋、カナダの人口のほとんどはアメリカとの国境線に集中している。
最近オリンピックがあったらしいが、カナダやバンクーバーの印象はどんなものだろうか。
美しい自然、寛いだ雰囲気、同調圧力の欠如、目立つホームレス、マリファナの敷居の低さ、
ワーキングホリデーなのに英語が話せないから仕事がないという矛盾、詐欺、搾取、セクハラ、
短い夏、スキーリゾート、綺麗な英語、安全な都市、思ったより高い税金、そして移民大国。
2006年の調査では、バンクーバーに暮らす約50%の人が英語を、約25%の人が中国語を、
約3%の人がタガログ語とパンジャブ語を、それぞれ母国語であると解答しているらしい。
この多文化主義的な雰囲気が、一定数の日本人一時滞在者を移民へと導く誘引となっている。


加えて日本のように、何世代にも渡って住んでいる在日コリアンにも完全な市民権が与えられない国とは異なり、カナダでは滞在1年未満の英語もたどたどしい人でも、「移民しないの?」と周囲から尋ねられる。まして2―3年住んでいれば、「まだ移民していないの?」と驚かれる。そして周りでは、強い訛りの英語を話す、あるいはほとんど英語を話せない、多様な肌の色の人々が「カナダ人」として働いている。これを見て「自分もここで、移民になって働けるのではないかと思った」というインタビュイーもいる。(p.61〜62)


こうして日本と比較された部分を抜き出すと、マークス寿子的な本だと思われるかもしれないが、
もちろんこの本はそんなレベルの低い本ではない。カナダ、あるいは西洋文化の諸問題と、
それに振り回され、時として火中の栗を拾う一時滞在者のメンタリティに紙面を多く割いている。
トラブルの事例も幾つか紹介されているので、ネガティブキャンペーンのようですらある。

最終章の作者の意見も、「地球市民になるなら国内でもできることはある」というものだ。
わざわざ言葉の通じない場所で暮らし、自分の能力に枷を嵌めて生活し、単純労働に甘んじ、
リスクを背負って、地域社会にコミットできないのはもったいない、ということだと思う。
もちろん作者は、ワーキングホリデーや移民化を否定しているわけではないのだけど。

身も蓋も無いことを言えば、個人的には、「自分探し」なら読書でもいいじゃんと思います。
海外旅行で「自分探し」なんて大袈裟すぎる。大山鳴動して鼠一匹みたいなもんじゃないか。
posted by 手の鳴る方へ at 06:52| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月18日

杉本彩は加藤智大を語ることができるか

仲正昌樹 『〈リア充〉幻想』(明月堂書店)
90314529.jpg


サブタイトルには「真実があるということの思い込み」とある。
2008年の秋葉原無差別殺傷事件をネタに、哲学教授が色々と思うところを喋っている。

「人間力」だとか「個性」だとか「モテ」だとか、その内実が意味不明な言葉はウザい。
雑誌の人生相談が鬱陶しくて中身が無い理由は、この手の観念が基底にあるからだと思う。
また、恋愛のプロと名乗る人物が、恋愛の相談に乗るという構図も、どう考えても意味不明だ。


「恋愛力」っていう話も定番化されていますね。先日たまたまテレビドラマの『流星の絆』を見ていたら、「恋愛経験がゼロなのに、いきなり恋愛の難易度の高い人と付き合った」というようなセリフがあった。ああいう場合の「恋愛の難易度」って何だろうと思うけど、でも、結構そういう言い方が日常的によく使われるようになったとも思いますよね。言いたいことは何となくわからないでもないけど。何だろうな、この「レベル」とか「難易度」みたいな言い方。ロールプレイングみたいな感覚で、これをクリアしたら次はこれ、というような段階的な考え方なのかな。
テレビのバラエティ番組でも、杉本彩とか、三十代、四十代の「経験豊富」そうな女性が出てきて、恋愛も学習して成熟していくことができるんだ、というような話をする。「恋愛の初心者」という言い方はその裏返しですよね。恋愛についての「うまい」「下手」という言い方がテレビを通してだいぶ流行っている。「中年の男のほうが実は魅力がある」とか、そういう言い方は昔からあったけど、「チョイ悪」とかって具体的なイメージではなかったと思います。つまり恋愛にも具体的なテクニックがあって、魔法のアイテムみたいに手に入れて、キャラのグレードをアップしていく、そういうことができるかのように言われている。
(p.163)


恋愛に関しては独自のモノなので、一般化したりテクニックとして扱うのは無理がある。
そもそも「付き合って別れて結婚して離婚した回数が多い」=「恋愛の達人」だしね。
ただ、文中にある杉本彩、また、渡辺淳一、AV俳優の加藤鷹、飯島愛などが語りがちなのは、
恋愛と言うよりもセックスの話で、セックスならもしかするとテクニックとして語り得て、
一般化することもできなくは無さそうで、さらに恋愛とセックスは密接な関係があるワケで、
「性愛」というフレーズで語られると、そこら辺のラインは曖昧模糊としてしまったりもする。
しかもそれと「恋愛至上主義」が重なると、非モテの人間にとって最悪な言説がばら撒かれ、
生き難い世の中にされてしまうのだが、それでも、杉本彩的な存在は評価すべきだとも思う。

例えば、杉本彩の恋愛相談というか性愛相談の中には、結構面白い内容があったりする。
「彼氏がSM系のPCゲームを持っていた。どうすればいい?」という女性からの質問に、
「単なる趣味の問題」「不健全なことを空想の中で楽しめるのが大人ってもの」
「あなたの感覚が一番の問題」「愛してるなら相手の好みを理解しようと努力するべきね」
と、質問者の方を叩く有様。ちなみに括弧内は原文そのまま。某都知事も見習って欲しい。

何が言いたいかって、恋愛だとか性愛だとか性癖だとかが社会的な問題となった場合、
杉本彩的な「恋愛の達人」のご意見と言うのは、意外と公共性があるように見える。
「愛してるなら相手の好みを理解しようと努力するべきね」的な考え方は鬱陶しくもあるけれど、
「恋愛のレベル」「恋愛上手・下手」という意味不明な観念が、意味不明なままに通用して、
杉本彩的な存在の基盤となり、杉本彩的な発言の基盤となり、公共性に関与するのなら、
それはそれで我慢できる話ではないかとも思う。ここで私が公共性云々について語るのは、
上で紹介したSMゲームの話にしても、非モテ、2次元好きな連中からすれば肯定的な話だからだ。
まぁ、杉本彩は2次元ではなくむしろSMを肯定しているんだけど、マイノリティの側に立ち、
性愛に関して寛容を説く延長線上に、非モテや2次元を肯定する言葉も出てきそうな予感もする。
(経験豊富で高レベル、だから寛容になれる、というのは、家父長的な寛容って気もするけど。)


杉本彩は加藤智大を語ることができるか、というのは「サバルタンを語れるか」に似ている。
そもそも非モテは、恋愛至上主義の生み出したモテ幻想の犠牲者として位置づけられる。
ただ、問題の所在が幻想ならば、その幻想の外延を広げることで、救われる連中はいる気がする。
逆に言えば、モテやら個性やら人間力という幻想を打ち砕く、という話にはリアリティが無い。
幻想が打ち砕かれるとしたら、全ての人間がその幻想に加わった場合だけだろう。
とりあえず杉本彩や渡辺淳一には、「ラブプラス」をプレイするあたりから頑張って欲しい。
posted by 手の鳴る方へ at 06:45| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月10日

『オハナホロホロ』

鳥野しの 『オハナホロホロ』(祥伝社)
39676484.jpg


女二人と子供一人で暮らし、毎日のように別階に暮らす男も紛れ込む、そんな生活の話。

気のおけない他人同士で暮らすことで、家族のイメージはもっと多元的なモノになるし、
他人と家族との境界線も不確かなものとなる。人間の関係というのは目には見えにくいし、
現在・過去・未来の中でその糸は複雑に絡み、変動するため、一義的に考えることは難しい。
家族と言うのは制度であると同時に常に一つの比喩であって、名前の無いものの総称なのだ。

ちなみにこの漫画には「家族」や「愛」なんて言葉は出てこない。子供の父親の名前も不明だ。
大人達は他人同士である、という自覚がある。だからメンバーの一人が異性の旧友と再会すると、
他のメンバーの一人は、旧友と彼女の関係が、友情より先の感情になるのではないかと心配し、
今の自分達の関係が終わってしまうのではないかと心配する。そんな切羽詰った心境の中で、
唐突に「結婚しよう」という話題になるのは、家族という比喩の力を当人が信用しているからで、
言い換えれば、そこにある具体的な(ように見える)関係性に頼ろうとしているからなのだろう。
そこで求婚された側が、実際の関係性、感情について諭すのは一つの見せ場としても面白い。
彼女達の関係はフワフワした名前の無い関係だけど、だからと言って冗談半分ではないし、
いい加減な感情で生きているわけでも全くない。フワフワした足場こそが彼女達のものなのだ。


人間関係は必ずしも帰る場所を用意しないし、「家族」という場所がそうであるとも限らない。
彼女達の帰る場所の名前は「おうち(お家)」であって、彼女達は「同居人」として振舞う。
ひびの入った関係性を修復する「ただいま」と「おかえり」は、その場所の上に成立する。
その場所の底は恐らく抜けている。その上で、彼女達の関係性は宙吊りのままに作用する。
そもそも人間関係に根拠などなくて、愛とか血縁だとかが、その空白に転がるだけだとも言える。



あと、話は変わるけど、ぬいぐるみ(表紙で子供が抱いてるやつ)の作中での役割だけど、
かわいい顔をして、ドロッとした大人のモノローグの相手役として描かれているのは面白い。
それを踏まえて表紙を見ていると、子供は大人の色んな感情を抱きしめて抑えているのだなぁ、
とかなんかとか思ったりする。この種のモノローグの表現方法って、女性作家特有なのだろうか。
少女漫画の、ぬいぐるみ相手に独り言を呟くシーンの延長線上にあるように思ったのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 06:16| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月09日

ドキュメンタリーの撮り方

ドキュメンタリー作家募集。
「僕たち」が想像もしないような「あいつら」の文化が世の中にはたくさんあります。
その文化をビデオカメラで撮影し、編集し、一本の映画にするだけの簡単なお仕事です。


「僕たち」を煽情する映像を撮れば撮るほど、「僕たち」の癇にさわればさわるほど、
「僕たち」はその映画を見るため映画館に足を運び、お金を落とすことに躊躇しないでしょう。
「僕たち」の人口は多いので、あなたが思うほどこのビジネスチャンスは狭くないのです。

ドキュメンタリーとは「あいつら」の文化を撮影して、「僕たち」からお金を貰うことです。
世の中には差異なんていくらでもあります。それを巧みに見つけ出し、批判するお仕事です。
差異のギャップが大きければ大きいほど、ドキュメンタリーの破壊力、価値は高まるのです。
それは啓蒙であり、事実の伝達であり、問題提起であり、ときには異文化理解でもあります。
映像によってその差異は時に埋められ、時に強調され、時には更に断絶することもあります。
「僕たち」はそれを正当に評価する能力があり、正当な対価を払う能力があると自負します。

マイケル・ムーアという映画マンは、自国の「異常な」文化を撮影することを好んでいますが、
彼はあえて隘路を通う変態です。彼は共和党を内なる他者として見ることに慣れているのです。
彼は「僕たち」の中に「あいつら」を見出す天才、「僕たち」の差異をえぐり出す天才です。
しかしそのことにより、ムーアの「僕たち」からの評価は真っ二つに割れているのも事実です。
ドキュメンタリーに国境はありませんが、国境を跨いだ方が差異は多く見つかるのは自明です。
それに国境を跨いだ方が、「僕たち」の怒りに触れないだけ楽です。ここだけの話ですがね。
ドキュメンタリーはビジネスです。予想できるリスクをそれでも取るなら、覚悟が必要です。


皆様からの素晴らしい作品を、我々は心よりお待ちしております。
posted by 手の鳴る方へ at 09:50| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。