2010年04月20日

地方分権に思うこと

2010/4/7 全国知事会PT/社会資本整備推進へ提言案/地方重視の事業評価へ転換を
【建設工業新聞 4月7日 記事掲載】



地方分権(民主党の用語で言えば地域主権か)は、行政サービスに競争原理をもたらす。
家父長的な中央官僚の支配から脱し、地域住民の意思によって政治が動き、生活が変わる。
何が必要で何が不要か、どの程度必要か、税金はどの程度、どんな形式で支払えばいいのか、
大きな地方政府か、それとも小さな地方政府か、これらのことが実験的に決まっていくだろう。
公務員の仕事は住民(スポンサー)から査定される。こいつらの仕事には税金を払う価値があるか?
こいつらに金を払うくらいなら、別のより良い行政サービスに税金を投入すべきではないのか、
あるいはもっと税金を安くした方が効用はより良くなるのではないだろうか、と言った具合に。
公務員は、「必要だから必要」という理屈で、住民と対峙することはもう恐らく適わないだろう。
彼らは住民を説得しなければならない。自身の提供するサービスの価値を証明しなければならない。
選ばれなかったとしたら、それは単純に言って自分達のサービスが悪いのが悪い、ということだ。


住民は主に政治家を通じて自分達の生活の基盤を変えていく。必ずそこには失敗があるだろうし、
「負け組」となる自治体も10や20は出てくるだろう。それでもこの潮流自体は間違ってはいない。
地方分権は近代の延長線上にある。団体自治は自立の別名であり、それはまだ完成していない。
「自分達にはできなかった。律することができなかった」と言うのは、失敗してからでもいい。
それならそれで、この国の形、方向性は、それなりに説得力のある筋道をつけられるだろうから。


その具体的な規模や形は未だ不明確だが、地方自治の見通しはどうであれ明るくは無い。
少子高齢化に加えて種々の制度疲労、ボトルネックとなるばかりの政治、マスコミ、裁判所、
そんな中で、衰退しつつある国の富を分け合って、さらに生んで増やすのは至難の技だろう。
必要とされている行政サービス、例えば福祉・教育・年金・医療・障害者支援・労働行政・
交通・経済対策・生活保護・文化事業等々は、パイを奪い合う形で縮小するより仕方ない。
必要な行政サービスが削減され、わりとガチで不便な時代がじきに到来するかもしれない。
バスは来なくなり、医者が消え、最低賃金は底なしに下がり、ゴミは回収されないかもしれない。
それでもそこに何らかの正しさがあるとすれば、それは住民が選んだ結果だ、ということだろう。
最悪なのは、住民がそうとは知らず、必要な行政サービスから税金を削り取られることであり、
その行政サービスの意図、重要性を知らないままに、自分の首を絞める政策を支持することだ。
そしてそうなるべきでないと謳うのが、未だに現れて来ない、近代人の自主独立性だった。
問われているのは「新しい公共」などではない。それは原理原則としてのラディカルな「公共」だ。
posted by 手の鳴る方へ at 20:00| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

政治は決定する

デフレ脱却にお金の循環が必要=菅財務相 2010年 04月 12日 17:07 JST

さらに、「場合によっては、増税をしても景気は悪くならず、逆に使い道を間違わなければ景気はよくなるということを部下に検証させている」と発言。しかし、「(政治家は)増税すると選挙に負けるというトラウマがある。この問題を選挙の争点として語る限りは(実現できない)」と述べ、国会などの議論を通じて与野党が認識を共有することが不可欠と強調した。


経済学にあまり詳しくないらしい、管直人・経済財政担当相の言い分を真に受けても仕方ないが、
<増税しても使い道間違わなければ景気にプラス>という発想は、政治家として致命的だと思う。
ここで語られている「間違いのなさ」は、政治的な正しさではなくて、客観的な正しさであって、
みんなが幸せになり、不満も少ない税金の使い方(それに徴収の仕方)の正解を意味している。

端的に言って、そんな理想的な一致点は恐らく無いし、あったとしても人間にはわからないだろう。
「私に税源と足場を与えよ。されば日本の景気を良くしよう」といった類のパロディならまだ面白い。
仮にそんなアルキメデスの足場があったとして、学者やスパコンがそれを導き出せるとしたら、
私達はその時、もはや政治も政治家も必要としないだろう。だから政治家として致命的だと言う。
スパコンではなくて管直人のみがその足場に立てる、現代の預言者ですから、的な話なら別だが、
実際はそんなことはあるワケがない。どちらにしろ凡人が政治を動かし、オロオロするしか道はない。


そもそも政治は、凡夫としての人間が、物事を決定するために用意した制度ではなかったのか?
正不正について意見の分かれる者同士で、それでも生きていくために政治はあるのではないのか。
民主制も君主制も、そのプロセスの正しさ、根源、根拠の正統性を担保に決定を行ってきたけれど、
それは客観的な正しさをついに知りえず、政治に導入できなかった故の苦肉の策ではなかったか。
そんな政治に携わり、大臣にまでなっている人間が、客観的な正しさを口にするのはズレている。
「使い道を間違えない」なんて言葉を使い、正解を希求する政治をもはや政治とは呼べない。
暗闇へと飛躍する不条理が欠けた政治、理性の断絶の無い政治になど名を与える必要はない。
何を残すべきか潰すべきかわからない、意見が分かれている中で行わざるを得ない事業仕分け、
例えばそれこそ、政治家が確固として存在し、政治的な決定の現れる場所なのだ、と私は思う。
posted by 手の鳴る方へ at 19:33| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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