2008年09月16日

『政治的なものについて』

シャンタル・ムフ 『政治的なものについて』(酒井隆史 監訳 篠原雅武 訳 明石書店)
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サブタイトルは「闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築」。

世の中には色々な人がいて、自分とは考え方が全く異なる人々もいるワケで、
そういう人達と一緒に共同体を営み、共に生きるためには、政治が必要だよね。
政治とはザックリ言えば「物事を決める」ことで、十人十色の考え方がある中で、
独裁者がビシッと決定したり、民主主義でバシッと決めたりするのが政治だよね。
「政治的なもの」とはつまるところ、この意見の相違、もっと言えば対抗関係で、
狂ってもいなければ道徳的な病気でもないけれど、それでも分かり合えない者同士が、
対立しつつもなお物事を決め、決定されてもなお対立していられるのが政治なんだよね。
それはカール・シュミットが言うように、「われわれ/彼ら」の対立項を前提にしている。
だって、みんな同じだったらそもそも全てが自明裡に進むし、何も決定する必要もないものね。

ところが、政治を対抗モデルで語るのは古い、という考え方が世の中にあるんだよね。
それによれば、敵対性は抹消され、誰も排除されない、敗者不在の政治があり得るらしい。
確かに、党派性なんか虚構ですよねー、みんなコスモポリタンの「われわれ」ですよねー。
ウヨサヨのイデオロギーとか民族とか、性差とか宗教とか国籍とかも古臭い虚構ですよねー。
だってそれって情念的で不寛容で非理性的ですもんねー。個人主義的じゃないですもんねー。
「右とか左とか、もう古い。これからの時代は和なのです。和っ!」って、
窪塚洋介もウヨ映画の試写会で言ってたよ。マンションからダイブする前の話だけど。
つまり、みんなが合理的なコミュニケーションを実践すれば、意見の相違もきっと一致するし、
みんなが理想的な解決法も見つかるよね、だって人類皆兄弟だし、宇宙船地球号の一員だし。

こういう潮流に異を唱え、政治の中に「政治的なもの」を呼び戻そうと言うのがこの本の趣旨。
ハーバーマスやネグリ、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが槍玉に上げられている。


政治から情念を除去することを望み、民主主義政治が、理性、慎み、合意といった観点からのみ理解されるべきであると主張する理論家は、政治的なものの力学を理解していない。(略)政治にはつねに「党派的」な次元が備わっており、それゆえに政治に関心をいだく人びとは、現実の選択肢を提示する政党のあいだで選択が可能である必要がある。だが、これこそがまさしく、「党派なき」民主主義を賞賛する現代の趨勢に欠落している事柄なのだ。いまや支配的な、合意を至上とする政治は、たとえいろいろな場所でいやというほど聞かされるにせよ、民主主義における進歩をあらわしているとはとうていいえない。(P.49)


ここで言われている情念とは、宗教とか民族、国家に対する愛着の総称のようなもの。
2000年、ある欧州の一国の総選挙で、右翼ポピュリズム政党が議席をそこそこ獲得した際、
EUの14カ国は外交的な制裁に乗り出し、民主主義を守る名目でその国を村八分状態にした。
また、そのような政党を支持したその国の国民に対しても、脱ナチ化していないと非難した。
この事例だけでなく、欧州はしばしば、この手の右翼ポピュリズム政党の台頭に怯えている。
ムフに言わせれば、ネオナチ的な政党が支持される背景には、まさに現代欧州に広く流布し、
党派を否定する、対抗無きネオリベラル的な政治環境があるのだが、彼らはそれに気付かない。
党派的な選択肢の無さが、不愉快な政党の支持へと繋がるのだが、彼らはそれに気付かない。
「政治的なもの」の否定が情念を呼び戻し、「政治的なもの」の否定が、道徳的にその情念を排除する。
その一人よがり、自業自得、マッチポンプに欧州のネオリベラル派は気付かないのだ。


この構図は、国内政治だけでなく、国際政治において、より深刻なかたちで見受けられる。
ブッシュ大統領の「自由で文明化された我々/自由の敵」という構図や、アルカイダのテロは、
欧米的な価値観しか存在し得ない国際社会の、オルタナティブの不在が招いた産物であり、
リベラルな普遍主義だけが真実で唯一の政治システムであるというリベラル派の思い上がり、
特にソ連が崩壊してからの一人勝ち、一極支配の唯我独尊が招いた産物であるとムフは主張する。
そこでは西洋的なヘゲモニーが、非西洋的なスタンスをあらかじめ政治から、道徳的に排除する。
その非西洋的な主張は、非人間的だとして、人類の共通利益に反するとして排除されるのだ。
ゆえに国際的な対抗関係は、闘技的な関係を持てずにいる。特殊な西洋が普遍の名で支配する。
この「政治的なもの」の否定ゆえに、人々は西洋的な世界の中に爆弾を抱えて突っ込むこととなる。


既存の秩序を根底的に否定する言説と実践が増殖しているそもそもの理由は、グローバリゼーションのネオリベラルなモデルのヘゲモニーに挑戦する政治的回路が欠落していることにあると考えるべきなのだ。(p.123)


非西洋社会に残されているのは、経済的に発展するために西洋化し、文化的に絶滅するか、
自身の文化に拘泥して物理的に死ぬかの二者択一である。爆弾は第三の道として仕掛けられるが、
そのことにしても、政治の中に西洋化、リベラル民主主義化以外の選択肢がないことが問題なのだ。
非(反)西洋的な主張でも、正当と認められるような政治的な回路が求められているとムフは述べる。
啓蒙を語るトドロフがヨーロッパを疑わなかったのに対し、ムフは疑うところから始めている。
西洋的な「人権」ばかりを自明視し、当然廃止すべき方向で死刑制度を語るトドロフに対し、
ムフは「人権」はリベラル民主主義の中心概念であり、西洋の制度を前提としていると述べる。
さらにボアヴァンチュラ・ド・スーザサントスという学者の言葉を借りつつ(p.185〜187)、
「人権」概念が西洋文化の押し付けの道具とならないよう、「人権」概念も多元化すべきであり、
「人権」概念が、人格の尊重を機能とするならば、その方法は他にもあるはずだとも述べる。

世界の一部、多極の内の一極として語られる、ムフのヨーロッパ像にはとても好感が持てる。
前にも書いたけど、分かり合えることが素晴らしいなんてのは悪しきメルヘンですからね。
対抗関係が持続しつつも、それでも政治的な決定には従い、同じ共同体で生きる方がイイし、
殴り合いで決めるよりも、直接なり間接なり、投票用紙でムリヤリ決めた方がイイですものね。
posted by 手の鳴る方へ at 09:59| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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