2008年11月02日

今更「ピカッ」の話

時事ネタとしても古いし、当事者が謝罪したから、事件としてはもうどうでもいいんだけど。

広島上空に「ピカッ」の文字
(中国新聞ニュース 08/10/22 )


「被爆者の気持ち理解してなかった」 「ピカッ」で一問一答
(中国新聞ニュース 08/10/24 )



この件に対して、公共空間で表現するアーティストは対話の努力をすべきだとか、
美術館の学芸員も立ち会っていたのなら、世間に対して説明責任があるだとか、
ヒロシマへの理解を欠いている、広島市民の感情を逆なでしている、だとか、
被爆者の思いを差し置いて表現する平和の訴えに意味があるのか、だとか、
もっと市民と歩み寄るべきだった、だとか、色々と言われていた様子で。

要するに「悪いのはアーティストの方です。説明責任を果たして無いし」という、
そういう、昨今たまに見かける論調(説明責任を果たせ!)で終わりそうな気配。
つまりヒロシマは、結局終始一貫してこの件を異物として捉えたワケなんだけど、
この手の論調が隠してしまうのは、もう一方の側にもあるはずのresponsibility で、
ヒロシマの側の、この件に対する応答はこんな拒絶反応で良かったのだろうか?
新聞も識者も団体も、何だか審査員のようなスタンスでケチをつけてるようで、
「ヒロシマを取り扱った芸術作品としては落選です、もっと勉強しましょう」と、
そんな上からの目線、絶対的で不動の立場から作品を取り扱うのはどうだったのだろう?


そもそもヒロシマの絶対平和という思想が、国際政治の中では異物でしかない。
ヒロシマの反核も、反原発も、武力の放棄だとか平和憲法の尊守にしたところで、
「国際政治を取り扱った思想としては落選です、もっと勉強しましょう」と、
そう言われるだけならまだマシで、失笑され黙殺され続けた経緯があるにも関わらず、
自分達も似たような態度で、実践された作品を品評しているのがとても気にかかる。
世界の中の異物として、「国際社会の側もヒロシマの思想に歩み寄って欲しい」と、
政治のプロからすれば滑稽かもしれないけれど、きちんと言いたいことを聞いて欲しいと、
そのように熱望したことはなかったのだろうか。多分そんなことはないはずなのだが。


まぁ、世の中そういうもんだ、甘くはないよ、と言えばそれまでの話だし、
冒頭でも書いたけど、本人達が謝っちゃったんならどうでもいい話ではある。
ちなみに私は10月21日の正午ごろ、たまたまこの「ピカッ」の現場にいて見たのだけど、
別に不快な印象は持たなかった。これが本物だったら確実に死んでたなぁとは思った。
空に「海」と描けば街が海底に沈むのと同じように、広島市の空に「ピカッ」と描けば、
そこは一面の廃墟になる。それはこの街のイマジネーションではなく、現実なのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:32| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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