2008年12月10日

ホッブズの『市民論』

トマス・ホッブズ 『市民論』(本田裕志 訳 京都大学学術出版会)
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次期アメリカ大統領は、今までのユニラテラリズムの反省から国際協調路線を取るらしい。
軍事力とドルのハイパーパワーを背景に、自分達好みの理念を世界中に撒き散らしていた、
あの無邪気な盟主アメリカは、子ブッシュともども過去の一ページになるような気配で。

9.11以降のアメリカで主導権を握っていた(もはや死語だが)ネオ・コンサバティヴの源流には、
レオ・シュトラウスという学者がいて、シュトラウスの源流にはホッブズとシュミットがいた。
強い、ホッブズ的なイデオロギーが、ブッシュと一緒に歴史の舞台から一旦退くこの端境期に、
今まで翻訳の無かった『市民論』が出版ということで、紹介する意味はあると思うのです。


人間は秩序の中でしか生きることができない。法は尊重され、人々を好き勝手にさせてはならない。
人間には確固とした基盤、ユラユラと揺れたりしない、安定した社会が必要不可欠なのだ。
ホッブズは社会契約論者で、契約以前の自然状態は「万人の万人に対する闘争」である。
そんな中では人間はまともに生きていけない。故に彼は秩序が必要であることを強調する。
自然状態は「弱肉強食」よりも性質の悪い状況で、弱肉強食なら強い奴が常に勝つワケだけど、
強い奴だって別に無敵なワケではなく、寝込みを襲われ、権謀術数で殺されたりすることもある。
故にそこに上下関係は生じない。シマウマがライオンを殺すことだってあり得るような状況だ。
ホッブズによれば、自然状態では、誰もが殺し、殺され得るという理由で、人類はみな平等なのだ。


ところで、あなたの目の前に天秤と分銅が用意され、「この天秤を安定させろ」と言われたら、
多くの人は左右の皿に同じ重さの分銅を乗せるだろう。それで天秤の左右は釣り合うからだ。
しかしホッブズはそうしないかもしれない。彼は片方の皿に全ての分銅を乗せるかもしれない。
皿は片方に大きく傾いているものの、他の天秤とは異なり、多少の振動や風では微動だにしない。
ユラユラ動く他の天秤を横目に、ホッブズは「皆の天秤は安定していない」と言うかもしれない。

ホッブズは議会民主制や貴族制を軽視することは無かったが、群を抜いて王政を支持していた。
王は議会のような集合体ではなく、一人である。この最高権力者が、多数派の権利のために、
社会秩序にとって必要なこと全てを決定し、権威でもって意見の対立、論争に終止符を打つ。


最高命令権の特徴は、法を制定したり廃止したりすること、戦争と平和を決定すること、あらゆる争論を自分自身で、もしくは自分が定めた裁判官を通じて取り調べ、そして判決すること、あらゆる高級官吏・顧問官を選任すること、これらのことである。(p.150)


ついでに言えば、聖書をどう解釈するかの解釈権も、この王の権威の下に委ねられている。


ホッブズによれば、善悪・正不正・徳不徳の判断を個人に委ねることは秩序にとって致命的である。
ある人が「善」と判断したものを、他の人が「悪」と判断した場合、そこに不和は避けられない。
ましてや王がある事例に対してAと判断し、その旨を社会全体へ公布したにもかかわらず、
個人が勝手に自分の判断でBと判断し、規範とするとなれば、彼は秩序の敵と判断されるだろう。
善悪や正不正は市民法の問題であり、市民法は自然法とは異なり社会秩序の内にしかあり得ない。
個人にすれば「AではなくてBが真理なのではないだろうか」と思うくらい良さそうなものだが、
正しさの基準がそもそも最高権力者である王や議会にある場合、その問い自体が無意味なのだ。

ルソーならここで「一般意志」というワケのわからないフレーズが出てくるのであろうが、
ホッブズの語る人間達には、そんな予定調和的で、超越的な一致点は存在する余地がない。
ホッブズの語る社会の構成員は本質的にバラバラであり、群集(multitudo)であり、
そのバラバラな連中を鋲止めするために、王や議会の権威が原暴力として用意されている。
ホッブズ的臣民は、一般意思的な真理にではなく、権威に集い、権威の作る法に従っている。

色々な意見を認め、様々な党派を認めるような社会秩序がホッブズには我慢ならないようだ。
ましてや手前勝手な聖書解釈や自称預言者、教会に従わない異教徒、無神論者など論外だ。
多様性とは危ういバランスで安定を保っている、両皿に分銅の乗ったあの天秤のようなものだ。
それは相対的で、如何にも寛容な社会だが、妬みや野心でいつバランスを崩してもおかしくない。
社会秩序が崩れ、合一が砕かれると、人間にとって最悪なあの自然状態が首を擡げるだろう。
それは絶対に避けなければならない。ホッブズの立場は、「私は混乱よりも不正を選ぶ」と語った、
ゲーテのあの立場に近いように思われる。少し前のアメリカもそんな感じではなかっただろうか?

と言うか、全ての社会秩序が不正、隠匿された暴力で成立しているとすれば、
ホッブズやネオコンの立場は可視化されているだけまだ誠実なのかもしれなくて、
国際協調主義の名の下に、結局は今まで通りグローバル社会を管理するとなれば、
単に戦略が変わっただけで、状況はさほど変わっていないのではないだろうか?
ブッシュからの解放で、世界はどの程度、寛容になれるのだろうか。よくわからない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:08| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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