
私は自分のことを思想的に保守派だとは思っていないし、感化されたこともそれほどないし、
今いる日本の保守言論人の七割については馬鹿だと思っているけど、保守思想自体に恨みはない。
と言うか結構好きなのです。気楽だからブログではポストモダンばっかり紹介してますけど。
日本の保守派は、戦後の日本は狂ってしまったとか、東京裁判で日本人の本質が失われたとか、
そういう風に言いがちだけど、個人的に思うのは、敗戦で狂ってしまったのは単に保守、
保守という言論だけで、日本の大多数の人々は、別に東京裁判にも戦後云々にも興味は無い。
それを指してマインドコントロールだとか平和ボケとか頽廃とか言うのは別にいいけれど、
日本国や日本人を直そうとする前に、保守はまず自身の言葉を反省しろよ、と常々思ってます。
保守の課題として、現代の頽廃、近代化の弊害をどう乗り越え、改善するかという点があるが、
その語り方のパターンは、この本に限らず、大抵は精神論やアイデンティティ論になりがちだ。
近代はウェーバーが言うように「鉄の檻」で、そこから出る術はどうにも見つかりそうに無い。
だからそれを超克しようとする者は、精神だけでもなんとか檻から解き放たれようとするわけで、
武士道とか「無私」とか大伴家持とか「滅びの美学」とかが持ち出され、そして単に消費される。
それらは自由や民主主義をフィクションだと告発し、その欺瞞を気持ちよく暴くのだろうけれど、
「ひとが欺瞞をあばく(デミスティフィエ)のはいっそうよく欺くためなのだ」(p.250)と、
例えばクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房)には書いてあったりするワケです。
つまり、それら保守的な言説も、自由や民主主義と同様、所詮はフィクションとしてしか現れない。
神が死に、大きな物語が消滅した時代の中で、個人と化したデラシネ達が権威不在をいいことに、
底の抜けた社会をフワフワと漂いながら、武士道スゲーとか、特攻隊に思いを馳せるのですが、
その手の保守的な思想によって、現代の抜けた底が埋まったり、根無し草に根が生えるわけでは無い。
「日本の思想だから日本人や日本国には根付くはずだ。本物だ」と言えそうではありますがね。
以前ブログに今村仁司の言葉を引用したけれど、物質に対するそれら精神の対比そのものが、
デカルトから始まる近代の思想構造の枠内にあることは、もう一度改めて言っておいてもいい。
精神論やアイデンティティ論は、檻から出られないから手遊びに行われる妄想のようなもので、
超克の不可能性、大前提として底が抜けていることを、保守の言論人は常に確認して欲しい。
と、偉そうなことを書いているけれど、ここを押さえないと宗教と同じになってしまうのです。
あるいは近代以前に逆戻りと言う、出来もしないフィクションを主張することになるのです。
だから保守の言論というのは、本気で取り組むと結構シンドイはずなのです。これは嫌味ですが。
あと、宗教用語の「無私」という言葉を、思想やらイデオロギーに利用するのはいいけれど、
そもそも「個」して存在している現代人が、帰依もしてないのに「無私」と口走っても仕方ない。
本の中で紹介されていたニーチェも、西洋の中にニルヴァーナ思想が広がるのを危惧しています。
近現代人の仏教的「虚無」への誘惑は、別に今更始まったワケでもないということです。
ここまで書いて気付いたけど、いつもと同じようなことを書いてますね、私。保守の話なのに。



ウェーバーや今村仁司の論にしても、「いわゆる左翼」も当然射程圏内です。
拉致問題や国防に関しては、この記事との関連はよくわからないですね。