2009年08月06日

メディアと時代のスピード

SMAPの草なぎ剛が、最近やたらと雑誌の表紙に登場していて、
あの全裸事件はもう完全に過ぎ去ったことになってるらしい。
地デジのキャラクター、というか大使にも復帰したらしいし。

新聞やTVに限らず、メディアは国民に情報を提供する役割を担っており、
現代の問題点を表象し、その時代の時代性を知らしめるためにありそうなもんだけど、
表象するスピードが速すぎて、逆に歴史と言うものが失せている気もする。

先週のニュースが今週のニュースで押し流され、昨日のニュースが今日のニュースに、
今朝のニュースが夜のニュースで押し流されてしまうような表象の速度の中で、
情報の受容者が、そのスピードから果たして何を得ているかと言えば心もとない。
実際の所、手許に残っているのは個々の事件ではなく、それらの断片ですらなく、
事件が重なり合い、猛烈な速度で過ぎていったそのスピード感だけではないのか。
情報の量こそが目に見える時代の速さだとすれば、ネットもその流れの加速に加担し、
ノイズもいや増し、参照点となり、寄って立つべき時代性は一段とかき消されている。


われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物となってしまったことを考えてみるだけでいい。ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的体験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことにある、と言いたくもなるだろう。このように、メディアの情報機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。
(室井尚 「「歴史」は誰のためにあるのか?」 「現代思想」1986 11 p.97)


と言ったのは1983年の時点でのフレドリック・ジェームソンという哲学者だが、
当時以上に現在は、過去も現在も未来もフラットに流れ去り、忘れ去られている。
忘却こそがメディアの役目というのなら、草なぎ剛の事件の一連の表象具合は、
なるほどメディアの役割が忠実に果たされた結果であると言えなくも無いし、
それを恒久的な変化(アイドル→容疑者→アイドル)と呼ぶならそうなのだろう。

歴史はもはや意味を成さない。現代のスピードの中でその首はへし折れて消えている。
現代人にとって歴史とは、人生の縦糸でもなければ横糸でもない。なんでもない。
草なぎ剛が生まれ変わったとされるスピードよりも、現代の変化するスピードは速く、
私達はそんな新しい時代に対応するため、即座に健忘症になって情報を更新する。
歴史とは最初から喪失された記憶、忘れたままの記録、鏡に漠然と映る像なのだ。

ノルベルト・ボルツは『意味に餓える社会』の中でこんなことを書いている。


われわれは、満たされた時間のもろもろの意味素形なしに――歴史の目標も終点もなしに、救済も進歩もなしに、伝統という指導像なしに、経験という基礎も由来という支えもなしに――やっていくことを学ばなければならないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 23:26| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昔、教育学をかじった際に聞いた話なんですが
幼稚園児前後くらいの子供たちに「好きなものを食べなさい」って言って一切強制することなく
ハンバーグやカレーとたくさん料理が並んだバイキングから本当に自由に食べたいものを選ばせ続ける実験があったそうで、
最初のうちは子供たちも肉ばっかり選んで野菜には目もくれなかったそうなんですが
10日くらい経ったあたりから体に必要な栄養素を求めて
自然と野菜なんかも食べ始めるようになったそうなんです。
情報もそれと一緒でテレビや新聞以外にもネットなんかにゴロゴロと情報が転がってる現状
どれだけ旧来のメディアが「新聞は幕の内弁当だからバランスがいいんだー」とか言おうと
ネットやってる層は「発信元自体が偏ってんじゃねえか」とか言って
ネットに比重を高めていく。

正義は1つでない、絶対的正義なんて存在しない、
「正義の反対側にあるのは別の誰かの正義」ってな感覚が普遍的となった今じゃ
情報にも絶対的正義・正解は存在していなくて多数派ゲームでしかない。
旧来のメディアが都合のいい健忘症発動して草なぎをアイドルとする一方で
ネットでも脊髄反応のように草なぎといったら裸じゃないかとする。
そしてそのどちらの解釈も物足りなく感じている僕もいて。

身近な例で言えば押尾の事件が酒井法子の事件に完全に食われちゃいましたが、
でも忘れられる事件なんて遅かれ早かれ
どうでもいいとラベリングされた引き出しの中にしまわれる運命にあるはずです。
まあ押尾氏はむしろネタキャラですら使う価値のない存在となったところに
その小物っぷりを引き立たせる酒井法子の大きな事件が来たところで
逆に新しい意味が生まれて、セット販売となることで延命したって感じで
「酒井さんの染み入るような優しさはホンマ天井知らずやで」ってな具合ですけど。

閑話休題。
だから、今の時代は自分の好きな情報だけ選んでたらいいと思うんですよ。
自分が偏ってるという認識さえ忘れずにいるのが大事で。
本当に必要な情報は自然と入ってきて、自然と残るもんでしょう。
テレビの言ってる歴史も誰かにとって都合のいい歴史だし
ネットに流れている歴史も誰かにとって都合のいい歴史。
だから今生きる自分たちは後世の歴史家みたく
それを都合のいいように情報を繋いでいけばいいと思うんです。
そうやって自分勝手につむいで出来た好きな歴史から好きな方に進んでいけば。
自分の前から押し流されて消えていったニュースでも
好き勝手に情報をつむいで歴史を作ることのできる今の時代は
どこかの誰かが大切に保管してることですし。
三沢光晴やアベフトシの死はマイケルジャクソンの死と違って
押し流されてしまうくらいの普遍的なショックではないけれども
ネットで検索すれば詳細な歴史が引っ掛かるものです。
そうして、後世の歴史家たちはまた新しい自分の歴史をつむいで。
考えてみれば教科書に載ってる歴史だって特に戦後文化なんかは欠落だらけでしたし
マスコミや誰かが作った歴史を盲信しきるのもそれは正しいことなのかという気もするんです。
今の時代はマスコミが色々な面でお役御免になるほどに
情報だけは玉石混合で溢れてますからね。
Posted by 名無し川名無し at 2009年08月09日 22:54
統合的、連続的な、グランド・セオリーとしての歴史はもう望むべくも無いし、
そもそも誰もそんなものに興味もないワケで、いつものように話を個人へと収斂させて、
「小文字の歴史」という便利ワードをポンと使って終わらせてもよかったんですがね。

実は私がこの記事の中でというか、底の方で考えているのはもう少し別のことでして、
「その話題はもう古いのにまだ何か話すことがあるの? 話すつもりなの?」的な、
全ての現象にとってのザラキ、「お前はもう、死んでいる」に等しいこのフレーズを、
どうしたら突破できるか、どうすれば現象のアテンションを再生することが可能か、
ア・ラ・モードに属さない情報は如何にして交通が可能か、みたいなことを考えています。

例えばマイケルの死は普遍的だと書いてありますが、作家の高村薫に言わせればそうでもない。
マイケルってそんな重要人物か? それより水俣病救済の特措法の方が大問題だろ、と言う。
何を歴史として選ぶか(そして即行で忘れるか)のスタンスの違いと言えばその通りで、
「人それぞれだよね」で終わってしまう話です。が、「人それぞれ」なのはイイとして、
子供が野菜を選ぶようには、ネットユーザーは検索サイトで「水俣病」なんて打ち込まない。

マイケルの死が世界レベルで長い間、共時的な事件として扱われているのに対して、
水俣病の特措法は、国内ですら個人的な事件に毛が生えた程度の扱いしかされていない。
「長い間裁判で争ってきて、日本国内の公害の事件なのに、お前ら無関心も大概にしろよ」と、
そう怒る高村薫の言い分も分かる。とは言え、社会派知識人の説教自体にアテンションが無い。
私自身、あらゆる事件をマイケルの死と同列に扱えとか、もっと「水俣病」で検索しろとか、
そんな主張をする気はなくて、ただ、話題を蒸し返せない=健忘症に勝てない、だと思うのです。
どうせ蒸し返したところですぐに忘れるのだけど、マイケルの死より水俣病の特措法が、
一瞬でもクローズ・アップされるのなら、それは逆説的に「歴史的」なことだと思うし、
後世の歴史家は、そのようなズレを歴史の記述とするのではないかとも思います。
Posted by 手の鳴る方へ at 2009年08月10日 22:52
YAHOOやGOOのトップページには、“最新の”24時間以内のニュースが掲載されていますが、
例えば“最新の”365日以内のニュースを掲載するサイトがあってもいいと思います。
YAHOOやGOOのトップページと同じデザインで、365日分の記事をランダム表記して、
「ウガンダ・トラ死亡」「日本経済は全治三年」「巨人、阪神に三連勝」といったような、
日時の異なるトピックを一箇所に表象して見せるのは、時代を把握するのに適しています。
それはレトロスペクティブなサイトではなくて、あくまでも「現在のニュース」のサイトで、
ここで問うているのは「現在」という言葉の意味、中身、その時代性の検討可能性です。
Posted by 手の鳴る方へ at 2009年08月19日 23:58
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