2009年11月21日

『近代の再構築』

J・A・トーマス『近代の再構築』(杉田米行 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「日本政治イデオロギーにおける自然の概念」とある。

丸山眞男によれば、日本の政治は自然に依存する道を選んだため、主体的になれずにいる。
明治以降の政府や知識人達は、決定論的な自然の権威や威光をしばしば利用し、思想化した。
一般的に、近代とは脱自然化した状態であり、自然は近代の背後に押しやられた存在と考える。
つまり自然とは反近代であり、デカルト的な人間モデルを用いるのなら、それは野蛮であり、
人間の自由を抑圧する何かであり、過去であり、東洋であり、要するにアンチ人間的である。

丸山眞男は故に、日本は西洋みたいに近代化してないよね、残念だよね、みたいなことを言うが、
西洋が培ってきた近代/自然の関係だけが近代の形態ではないよ、近代の形態は幾つかあって、
その中でイデオロギー的な自然の取り扱い方も自ずと異なってくるよ、というのが本書の内容。

もっとざっくりと言うと、明治以降、日本の政府や知識人達は、近代化に着手する中で、
近代化の不和とも取り組むことになったんだけど、その不和に対応するために、つまり、
真の近代国家にならんとするがために、自然に依存する道を辿ったんだよ、という話。
丸山眞男は日本の近代化に不満があったかもしれないが、あれはあれで(これはこれで)、
キチンとした近代化のプロセスだったと言えるんじゃないかなぁ、そもそも丸山先生は、
明治期以降のイデオロギー的な自然概念を毛嫌いし過ぎてるよね、という挑発でもある。


自然という言葉自体は明治期以前からあったけれども、西洋文化を翻訳・摂取する中で、
それは政治行動の絶対的な規範、混沌とした時代の中でも信頼できるツールと見做された。
しかしその中身は曖昧であり、知識人達は、その政治概念としての潜在力を模索することとなる。
自然は、旧幕府、新政府、民権派にとって、新時代を語るのに具合がいい言葉に思えたが、
それ故に、自然という概念を巡って、明治期初期に激しい論争が繰り広げられることとなる。

明治時代前半の頃は、ハーバート・スペンサーの社会的ダーウィニズムが隆盛を極めており、
「一八七七年から九〇年の間に日本ではスペンサーの著作は少なくとも三二回翻訳され」ていた。
初期のスペンサーは、人間が進化すれば、個人がお互いの利益を犯さずに完璧に共存できるし、
究極的には政府なんて不要になるし、世の中が均衡状態になって安定するよマジで、と言う。
明治初期の自然論争の担い手とされた加藤弘之と馬場辰猪は、このスペンサーに精通していた。
加藤は(反体制派・民権派から転向し、)寡頭制を支持し、エリートや政府のために発言した。
自然の目的と人間の目的は必ずしも一致しないので、エリートが操縦桿を握るべきだと彼は言う。
自然の用意したユートピアと、人間の望むものは違うため、加藤はエリートの寡頭制を肯定する。
一方の馬場は、逆に、自然の進化、その帰結としての民主化、そして安定化を疑わなかった。

どちらにしても、彼らの論点は自然、しかも社会ダーウィニスト達の言う「自然」であったが、
「彼らの論には、『人間』という言葉はあっても『国家』という言葉はなく、『世界』という言葉はあっても『政府』という言葉はない」ために、明治政府はむしろ自然概念について語ることを避けていた。
大日本帝国憲法や教育勅語には、自然についての言及、自然の権威を借りる表現は一切無い。
スペンサーのユートピア的なイデオロギーは、明治以降の政府・官僚のお気に召さなかったし、
全く均衡していない当時の西洋列強の立ち振る舞いは、楽観主義そのものに疑義を差し挟んだ。
要するに、スペンサーの思想には実用性もなければ説得力も無いと、そう判断されたワケで、
明治末になると、借り物の、普遍性を装う自然概念を、日本文化に内在化する試みがなされる。
西洋的普遍性を映し出す鏡だった自然は、日本人のアイデンティティを映す鏡へと姿を変えた。
日本人と自然との関係、日本人の感性を表現するものとしての自然は、この時期に再発見され、
愛国心や国民性、天皇や家族観との接合、自然概念の中央集権化(地方の風土の軽視、抹消)、
土地資源利用の官僚主義化、つまり近代的な自然観が形成され、そして一部は今にまで至る。


以上から、丸山眞男が言うように、日本の政治と自然の関係は伝統的な宿痾とは言えないし、
日本の自然概念は、前近代的な装いのものでもない。むしろそれは20世紀の産物ですらある。
「自然とは過去の遺物ではなく、根本的に再構築した考えの連続」(p.305)だと作者は言う。
世界遺産やら、環境問題やら、地方自治体の既得権やらが蔓延る21世紀日本の自然概念も、
伝統や普遍性、地域性、ツーリズムを語る言葉の中でゆっくりと生成変化していくに違いない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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