2009年11月26日

自分のことは自分で決める!

たくさんあるTV雑誌を前に、老婦人が店員にこう尋ねていた。
「この中で一番、文字が大きく書かれた本はどれ? 私は目が悪いから見えないの」
店員は困った顔つきで適当に選んだ雑誌をペラペラとめくっていた。

例えば店員がそこから、客観的に見て一番文字が大きい雑誌を選んだとしても、
それが老婦人に読めるかどうかはわからない。何故なら視覚は主観に属するからだ。
逆に、文字の大きさが三番目の雑誌を選んでも、老婦人は読めてしまうかもしれない。
そもそも「私の目で読めるかどうか」という選択を他人に任せているのがおかしい。
その雑誌が読めるかどうかは、実際に自分の目で見て判断すればいいのだから。


この話自体も今年の6月頃の話なんだけど、3〜4年前にも本屋でこんなことがあった。
30代くらいの男性が、小さな男の子を連れて、店員にこのように尋ねる。
「この本は『6歳以上対象』と書いてあるが、4歳のウチの子でも読めるだろうか?」
それに対して中年の書店員はこのように言う。
「お子さんが読みたいと言っているのなら、読ませてあげて問題はないですよ」
実際に、子供はその本を読みたがっていたから、父親(多分)はその本を購入した。

何が言いたいかって、「対象年齢が○歳」という表記は、作り手の大体のイメージなワケで、
それを鵜呑みにして、子供が欲しがっている本を買うのを躊躇うなんてのはどこかおかしい。
主観的であるべき判断基準が、客観的に見える規範の側へと無自覚に横滑りしている。


自分のことは自分で決める、あるいは複数形にして自分達のことは自分達で決めるのは当然で、
こうして当然というのは簡単なんだけど、自分のことを判断するにも想像以上にいい加減で、
岡目八目、なんて言葉もあったりするし、ましてや自分達のことを決めるとなると大変だ。

ここからが本題で、福山市の「鞆の浦埋立て架橋計画問題」は現在進行形で迷走していて、
行政が説明し、お互いに話し合い、挙句に選挙を行ってもまだ住民の意見が分かれている。
そして2007年、工事反対派が広島地方裁判所(福山市から西に約90km)に差し止め訴訟。
で、裁判関係者が鞆の浦を二時間ほど視察したり、過去の判例を持ち出したりして原告勝訴。
また、イコモスと言う偉い環境団体のトップが飛行機で来日、一時間半ほど街並みを視察。
で、予定された都市計画は破壊的だし、ここの景観は世界遺産級とかなんとか言う。

自分達のことを自分達が決められないからって、余所の街の裁判官や余所の国の専門家、
余所の都道府県に住む映画監督に、自分達が生きて暮らす場所の運命を預るのはおかしい。
それらは確かに制度化されており、権威があったりするものだけど、そこに生きる人にとって、
そんなものは幼児雑誌の「対象年齢が○歳」という一文とさして変わるものではないはずだ。
繰り返すけれど、「私の目で見えるかどうか」を他人の判断に委ねるのがおかしいように、
「私達の暮らしが良くなるかどうか」を、そこに住んでも居ない他人の判断に委ねるのは変だ。
世界遺産だとか自然環境だとか歴史的遺産だとかも、生活を無視して金科玉条にするのは変で、
そういうことを言えば客観的な意味や価値があるように見えるし、実際そうかもしれないけど、
そこに住んでも居ない、数時間視察しただけの連中が箔をつけるためにそう言うのは嫌らしい。
それは冒頭の老婦人に対して、「表紙が福山雅治ですよ」とか「講談社の雑誌ですよ」とか、
彼女に読めるかどうかとは無関係なことを言っているのと似たようなものじゃないのか。
posted by 手の鳴る方へ at 07:43| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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