2010年01月22日

スピノザの『神学・政治論』

スピノザ 『神学・政治論(上)(下)』(畠中尚志 訳 岩波文庫)


スピノザは、幾何学のような正確さで神の存在を証明したと思った17世紀オランダの哲学者。
神は永遠で絶対だから形なんかねえよ、だって形があるってことは有限ってことじゃん、
だから旧約聖書で神様の姿が描写されてるあれは違うんだよ、神即自然なんだよ、な?
とかなんとか言ったから、当時の神学者や世間一般からフルボッコに叩かれたKYな人。
しかも、哲学者として味方をしてくれると思ったデカルト主義者からもフルボッコで、
無神論者とかレッテルを貼られて罵倒され、いったいどうなってるんダ・ヴィンチ、な人。


西洋にはキリスト教と哲学の二本の柱があって、この二つはお互いに微妙な関係にある。
詳細は省くけど、哲学の懐疑とキリスト教の信仰は、そもそもからして相反しており、
しかもそれでいてどちらも真理を語ろうとする、そんな中で西洋の歴史は紡がれてきた。
巻頭の訳者解説や、上野修『スピノザ』(NHK出版)がとても詳細に説明しているけれど、
スピノザがこの本でやろうとしたことは、哲学と信仰の分離、役割分担の取り決めであり、
市民社会を閉じた神学者の信仰、知見から解き放とうとする政治的な試みでもあった。

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聖書の中に神という言葉があるけれど、それを哲学的な神と解釈するからおかしなことになる。
そこに書かれてある神は、預言者達の知的レベルによって表象された、真理ではないものの、
とても有意義な何らかのイメージである、そういう論旨でスピノザは話をグイグイと進める。
スピノザは聖書や神学を神への服従や隣人愛の物語と考え、真理は哲学の領分だと考えている。

例えばスピノザは、聖書で「神」という単語が強調の意味で使われてることを主張する。


かくの如く、常ならぬ自然の業が神の業と呼ばれ、常ならぬ大いさの木が神の木と呼ばれるのであつて見れば、創世記の中に於て、極めて強い極めて大きな人間たちが、それが不信心な盗人であり姦淫者であるに拘はらず神の子と呼ばれてゐるのも少しも不思議でなくなる。古人は凡そ人が依つて以て他の人々を凌駕する所以のものを何でも神に関係せしめるのが習ひであり、これはひとりユダヤ人に止まらず異教徒たちもさうであつた。例へば(略)ローマ人に在つてさへもかうしたことが極めて普通に行はれた。例へば精巧に作られた品がある場合、それを彼らは神の如き手に依つて作られたといふやうな表現をする。これを若しヘブライ語に直さうとすれば、「神の手もて作られた」と言はねばならぬ。(上巻 p.77)


昔のローマ人も「神パピルスwwwwwww」とか「神職人ktkr」とか言ってたと思うと感慨深いが、
スピノザにとって聖書とは真理の書ではなく、このような比喩と謎のイメージの群であった。
彼はそういう史的物語として聖書を高く評価する。民衆の理解力に沿う、経験的なものとして、
人々に服従と敬神を教示するという点で、聖書を、言わば社会的、福利厚生的に評価する。
ただしだからと言って、聖書そのものへの信憑性が、人間を幸福にするワケでは全くないし、
そこに書かれてある諸々の奇跡が、現実に起こったことであるなんてことは絶対に認めない。
認めないが、その意義は認めているわけで、ここら辺のスピノザのバランス感覚は絶妙だ。
神の正確な知識なんて信仰には不要だし、神を誤認してもそれは冒涜じゃないとすら彼は言う。


だから神が(略)自らを預言者たちの表象像や先入的意見に適応させたことも、又信心深い人々が神について色々違つた意見を抱いたことも、少しも不思議ではないのである。更に又聖書の諸巻が至るところ神について極めて不適当な語り方をし、神に手、足、目、耳、精神、場所的運動等を帰し、その上又心の激情(嫉妬、慈悲等々の)を帰し、最後に又神をばキリストを右にして天の玉座に坐つてゐる裁き主として描いてゐるのも不思議ではない。聖書の諸巻はつまり民衆の把握力に応じて語つてゐるのであり、聖書は民衆を学者にしようとしてゐるのではなくただ、従順な者にしようとしてゐるのである。然るに世上一般の神学者たちは、神に帰せられたさうした諸性質が神の本性と矛盾することを自然的光明に依つて知つてそれをすべて比喩的に解釈しようとつとめ、之に反して、彼らの把握力を越える事柄は之を文字通りに受け入れようと力めて来た。だが若し聖書の中に見出されるこの種の事柄が皆比喩的に解釈され・理解されねばならぬとしたら、聖書は大衆乃至無教養な民衆のためにではなくて単に識者たちのために、殊に哲学者たちの為に書かれたことになるであらう。(下巻 p.125〜126)


スピノザの神はスゴイので外部なんか無い。だから自分の外部を見るための目なんか無い。
また、自身が全ての中心なので、感情なんてワケの分からないモノにも振り回されない。
そして聖書の神は、預言者達にそんな事情は教えていないし、語ることを求めてもいない。
聖書の神が求めているのは、神への愛だとか、服従だとか、隣人愛だとかの生活方式であって、
それさえ個々人に備わっていれば、聖書解釈なんて勝手気侭でいいとすらスピノザは語る。


こうしてスピノザの語る哲学・真理は、神学が吐き出すドグマから巧妙に分離され、
さらに返す刀で、民衆の信仰を、哲学的で無意味な論争からも解き放つ筋道をつけた。
『神学・政治論』はさらに、聖書や歴史を絡めて国家論へと話が進んでいくのだけど、
そこら辺はもう私の手には負えない。固有名詞とヘブライ人の歴史がワケわからん。

スピノザの聖書解釈はスタンダードでは無いけれど、画期的で革新的で、何よりも面白い。
当時のキリスト教会からすればKYな奴だったのだろうけど、実はイイ奴だったのは読めば分かる。
posted by 手の鳴る方へ at 09:06| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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