2010年01月23日

『偶像崇拝』

M・ハルバータル、A・マルガリート 『偶像崇拝』(大平章 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「その禁止のメカニズム」とある。
タルムードやミドラッシュ(旧約聖書についての古代ユダヤ人の残した注釈)、
カバラ思想、マイモニデスなどのユダヤの哲学者達の書き残した言葉を手がかりとして、
微に入り細に入り、ユダヤ教の偶像崇拝のメンタリティを解き明かそうとしている。


偶像崇拝の問題は、神を表象できるか、代理できるか、みたいな形而上学的なものではなく、
もっとシンプルな道徳の問題、具体的には夫を裏切って浮気する妻の姦淫の問題である。
イスラエルは神に選ばれ、その神との間に婚姻関係(契約)を結んだ妻としてイメージされる。
エジプトからの脱出は結婚物語の一部として語られ、関係は一夫一婦制の模範として描かれる。
そのイスラエルが、ワケの分からないバールだとかを崇拝するとき、それは性的な罪となり、
夫以外の男(それは夫よりも下らない男に違いない)への売春、色目という隠喩で語られる。
そして姦淫が禁止されるのと同じように、偶像崇拝は――何より性道徳的に――禁止される。


ここまではまだ分かり易い話なのだけど、例えばこの神とイスラエルの夫婦関係という隠喩、
それ自体が神を人として扱っているから、それだって偶像と言えるんじゃねえのかおいコラ、
という議論だってあり得るし、言葉で「神」とか言うのは偶像(表象代理)じゃないのかとか、
言葉で「神の手」と言うのはいいとしても、像や絵で神の手を形作るのが駄目なのは何故かとか、
契約の函やケルビム(天使)が、神の換喩として用いられているけどそれはいいのか、とか、
異神を崇拝するのは姦淫でいいけど、正しい神を間違った仕方で崇拝するのはどうなのかとか、
そういえばエジプトの王は当時は神扱いだから、それとの政治的な絡みで偶像崇拝を語れるし、
ローマの支配下に置かれた際、ユダヤ人がローマ皇帝に税金を支払うのは、異教徒の偶像に、
供え物をするのと同じじゃないのか、それも偶像崇拝に該当するんじゃないの? とか等々、
そういう偶像崇拝に関する議論、解釈の歴史的な流れが延々と、引用豊富に解説されている。

信仰心の薄い人間からすれば、こいつらまぁ長年に渡ってよくやるわ、と思う以外に他ない。
この本のまとめを乱暴に、一言で言えば「偶像崇拝は魔術で私的で非絶対的価値の信仰」だ。
つまりその具体的な内容は、軽薄には語れない。それは肩透かしだが実に正当な結論でもある。
あと、こんな具合に書けば如何にも普遍的に読めるけど、ユダヤ教自体のそれはそうでもない。
繰り返すけど、偶像崇拝の禁止は、神に選ばれたと自称する妻としてのイスラエルの道徳で、
そもそもからして、特定の共同体、その生活に深く根を下ろしている類のメカニズムなのだ。


(ちなみに、上の方で神が人の形なのはどうなの、みたいなことについて少し触れたけれど、
全能の神を人の形としてイメージすることは、昨日触れた汎神論者のスピノザが全否定し、
イェヘズケル・カウフマンという有名が学者が肯定したことだった。カウフマンにしてみれば、
神を抽象的なものとして考え、そこから個性・意志を抜き取ることは異教的な考え方だった。
スピノザにしてみれば、抽象的な神概念は聖書の語るモノでは全くなく、哲学の領分であり、
イスラエルの信仰は民衆のための信仰で、抽象的・観念的・エリート的なモノでは無かった、
というその点で、カウフマンもスピノザも一致している。スピノザは異教徒にされ易い。)
posted by 手の鳴る方へ at 09:58| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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