2010年01月26日

『グーテンベルクからグーグルへ』

ピーター・シリングスバーグ 『グーテンベルクからグーグルへ』
(明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳 慶應義塾大学出版会)

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副題は「文学テキストのデジタル化と編集文献学」。
グーグルのことになんか触れてないので、内容的には副題の方がしっくりくる。
それと、訳者の明星聖子の後書きの内容は面白い。いつか新書あたりで書いて欲しい。


私達は自分の手にした本が、その本の内容に関して絶対的であることを疑わない。
しかし実際は作者のメモ、手稿、草稿、初版本とそれ以降の本、翻訳、海賊版には違いがあり、
さらにそこには植字工のミスや意図的な変更、注釈者、出版者、編集者の何らかの介入があり、
さらに編集者によって介入されたテキストによって作者がさらに改変したテキストがあり、
他人がテキストを変更して、それを元に戻せたのに作者が介入しなかったテキストがある。
また、書かれたテキストには書かれて読まれた当時の文脈があり、それはともすると重要であり、
それらを踏まえての批評家の批評があり、後世の編集者の介入や編纂、簒奪、再現等もある。

文学研究とは制度と言える。編集文献学はその制度の設計、交通を担う学問と言える。
上記の錯綜する諸事実と取り組みつつ、理想的な文献研究の制度を開発するのがその役割だが、
ここにきて学問的な知識の集積場所、文献学の舞台が、印刷版から電子版へと移行しつつある。
その影響は大きく、上記の諸事実との関係も大きく変わるだろうということが述べられている。
研究者達はそのことについて、失うものは少なくない、とは言いつつも好意的のようだ。


1960年代くらいまでは、文献編集者達も、所謂その言葉の意味どおりの「決定版」、
客観的な文献研究の最上の成果、プロジェクトの終わりを高らかに宣言する研究結果、
そんな学術編集版を志向していたけれど、最近はさすがにそんなことも言わなくなった。
編集とは主観的な批評行為であり、編集者(研究者)の志向性によってそれは編みこまれる。
彼らは資料から転写し、編集し、註をつけるだろうが、そこにはある意図が横たわっており、
別の意図(それは有益であり有意義であるかもしれないのに)は無視されて隠れてしまう。
だから文献編集者はそのことに自覚的になるべきだし、その意図の説明はしておくべきだし、
異なり、対立する編集方針の生まれる余地を常に残しておくべきなのだ。作者はそう語る。

学術編集と言うか、制度設計の方向性は、一つの目的だけを絶対視する閉じた以前の方向から、
複線的で開けた、将来の研究者達に依存することも多いだろう、歓待的な方向へと変化した。
そして電子版のナリッジサイトや編集システムは、印刷媒体よりも有効にそれを達成する。
それは分量的な制限を取り除き、ハイパーテキストによる参照、インデックス化も容易にする。
何よりPCさえあれば世界中からアクセスすることも可能であり、情報は簒奪されることもなく、
利用者(専門家から学生、一読者に至るまで)の自由なコントロールにも応えることができる。
電子テキストは、一つの意図によって致命的に隠されることもなく、電子の中で貯蔵される。
それは長きに渡って多くの人達によって管理され、新しい何かを産む土壌であり続けるだろう。


それでも問題は山積しているようで、その問題に頭を抱えている文章の方が多いくらいだ。
それどころか学術編集そのものに挫けている様子も無きにしも非ずで、訳者の後書きといい、
それは彼ら特有のメンタリティなのかもしれない。もう一度言うがこの後書きはとてもいい。
主観的でしかない人間風情が、客観性や学問の理想をどうして実現することができようか、
でもやるんだよ、やるしかないだろ、みたいな態度が全編に渡って展開されている稀有な本だ。
posted by 手の鳴る方へ at 10:56| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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