2010年01月30日

メディアと人間関係の濃淡

2010年1月29日 朝日新聞 天声人語
http://www.asahi.com/paper/column20100129.html


秋葉原無差別殺傷事件の初公判に伴い、殺人事件とネットを絡めてのコラム。
揶揄と諦観混じりの「何でもネットのせいにしてりゃあ、そりゃ楽だわな」、
というネットユーザーの声が、至るところから聞こえてきそうな内容となっている。


警察庁によれば、全国で去年に起きた殺人事件は戦後最少になった。皮肉なことに、ネット社会で人間関係が希薄化したのが一因という可能性があるそうだ。特定の相手への動機が生まれにくい。そうなったで今度は、「誰でもよかった」が目立っている


ネットは人間に直接会わなくても色んなことが出来る。だから人間関係は希薄になる、
ってのはまぁ一理あるんだけど、むしろネット本来の思想としては、人と人とを繋ぐ、
しかも今までに無い規模とスピードで繋ぐことなので、(メディアってそんなモノなので、)
2010年にもなってこんなこと言うのはアホ臭いんだけど、この手の話は辞めた方がいい。
「可能性があるそうだ」とか「目立っている」とかいう言い方も辞めた方がいい。


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ここで、殺人と「人間関係」の関係を調べれば、ネット云々とは異なる視点が見えてくる。
河合幹雄 『日本の殺人』(ちくま新書)によれば、日本の「犯罪白書」の殺人の項目には、
毎年大体約1400件という数値が並んでいるが、そこには殺人未遂と殺人予備が含まれる。
そこから殺人の定義を色々と勘案すると、大体800件前後が、実質的な殺人だと言える。
(そもそも「殺人」の類型化自体が困難であり、統計から読み取るのも困難そうに見える。
ついでに言えばネット上で検索できる犯罪白書や犯罪統計と、『日本の殺人』で使用された
数値があんまり一致していないようにも見える。私の調査能力が低いせいだろうけど。)

で、例えば2004年の殺人事件の検挙件数は1224件。その内の半分弱が家族、親族間での事件。
その内訳は実子・養子・継子殺しが135件、実父母・養父母・継父母殺しが合わせて121件、
配偶者殺しが206件、兄弟・姉妹間が88件、その他親族38件、以上の合計は588件となる。
この588件の中にも未遂犯、予備犯が含まれるが、その数は決して多くない、らしい。
つまり年間の実質的な殺人が約800件で、その内の(多分)約500件が親族間の殺人と言える。

一方、1977年の広義の殺人被害者の人数は1527人。加害者との関係が明らかなのが1448人。
その内訳は子殺し505件、親殺し87件、配偶者殺し159件、兄弟・姉妹が28件、その他49件。
親族関係だけで合計828件。残りの内訳は同居人31件、知人友人273件、顔見知り155件、
そして面識なし(無差別殺人があったとすればそれの犠牲者)161件で、計1448人となる。
1977年と比べて、2004年は子殺し(505件→135件)が圧倒的に減少しているのが見てとれる。
もっと言えば2004年の嬰児殺しは22件。1977年には187件あった。これだけで165件の減。
「80年代に入ってから現代に至るまで殺人事件は大きく減少してきたが、その減少分の半分は嬰児殺の減少で説明できる。」(p.31〜32)
というわけで、作者はこの嬰児殺しの減少の理由を、「できちゃった婚」が普通になって、
「不義の子」だとかの社会的偏見、親世代からの圧力がなくなったからだろうと予想している。
ネットの普及とこの嬰児殺しの減少は、とてもではないが結び付けることはできない。


河合幹雄によれば、殺人というのはエネルギーを使うので、強い動機がなければできない。
そしてその強い動機が生まれるのが人間関係の濃い場合で、つまりは家族や恋愛がそうだ。
人間関係が薄ければ、リスクを犯してまでして相手を殺そうとはしない。それが殺人の類型だ。
故に、人間関係が希薄ならば殺人は起こらない、という天声人語の言い分は河合幹雄と同じだ。
だが、統計的に見て殺人が減っている、故に現代人は人間関係が希薄である、とはならない。

昔と比べ、04年の家族間の殺人は減っている。ネットにより人間関係が希薄化したからだろうか?
ネット中毒でひきこもっている子供と、その家族の関係は希薄なのだろうか。逆ではないのか?
家族という関係は、PCや携帯等のメディアによって大きく、本質的に(まさに本質的に!)、
変化しているけれども、その変化は関係の希薄化だと、ただちに言えるものなのだろうか。
関係性が変化しただけで、その関係の濃淡については、メディアは関与できないのではないか。
今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄であると、安直に考えてはいないだろうか。
同じことは友人・知人関係にも言えるだろう。全ての人間関係にも言えると私は思う。


それと、メディア・環境の変化による殺人の減少について、河合幹雄がこんな例を挙げている。
昔と比べれば、所謂「ケンカ殺人」というものも、他と同様に大きく減少しているのだが、
その理由として、科学警察研究所の田村雅幸という人の80年代の研究を参考にしつつ、
河合幹雄も、「人間関係の希薄化」が原因であると述べている。


田村に言わせると「飲み屋で見知らぬ客と意気投合するという他者との関わりの強さは、逆にそこでのケンカ口論から暴力的な事件を発生させやすくもする。」となる。これは八〇年代はじめの指摘である。飲酒と犯罪のところで述べたように、その後、日本人は酔いつぶれるほど飲む機会を大きく減らしている。その原因として、背中に担いで帰ってくれる友人がいなくなってきているということを指摘した。遠くから通勤しているという理由があるため、友情を失ったというような精神論に陥ってはいけないが、人間関係の希薄化がケンカを減らせる作用はここでも確認できる。
 最近では、知らない同士が、肘をぶつけ合って屋台で飲むのではなく、明るくきれいで、十分なスペースがあり、隣席とは壁や衝立で仕切られたところで飲む、それも非常に少人数で飲むように飲み屋が変わってきている。店の方は、別にケンカ殺人の防止策をとっている認識はなく、客が、隣席とのかかわりを嫌うようになっているというマーケティングに過ぎないと考えられる。スペースのあるいい店で安く飲めるようになったとすれば、ここでも豊かになったことでケンカが減り、ケンカ殺人も減るということが起きていることになる。
(p.95〜96)


アーキテクチャと言えばそれまでの話だし、経済的に豊かになったからと言えばそれまでの話。
「最近の子は喧嘩しないから人間関係が希薄化している」と産経抄あたりが言いそうだし、
「飲ミニケーションが死語だから人間関係が希薄化している」とか編集手帳は言いそうだ。
もう一度書くが、今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄である、とは言えない。
喧嘩しなきゃ深まらない人間関係は、メアド交換しなきゃ深まらない人間関係と同じだ。
酒がなきゃ成立しない人間関係は、ニンテンドーDSがなきゃ成立しない人間関係と同じだ。
ネット社会ごときで人間関係が希薄になる奴は、最初から希薄なだけだ。そういうものだ。
posted by 手の鳴る方へ at 04:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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