2010年02月13日

『30年代の危機と哲学』

M・ハイデッガー他 『30年代の危機と哲学』 (清水多吉・手川誠士郎 編訳 平凡社ライブラリー)
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近代化したヨーロッパが、世界大戦やら資本主義の矛盾を経て、1930年にまで至った頃、
その近代を支えている、ヨーロッパが生み、培ったはずの客観主義・自然主義・自然科学が、
実はヨーロッパを、その大学を、精神を、民族を、文明を、危機に陥れているんじゃないか?
と、ドイツの知の巨人達(フッサール、ハイデッガー、ホルクハイマー)が主張したって内容。
もっとみんな本気で哲学を学ぼうぜ、人間について考えようぜ、という愚痴っぽい話でもある。


「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と、
カントの墓には刻まれてあるらしいが、フッサール達哲学者の危機感の根本は何かと言うと、
この前者の、天体の動きのような客観的合理性が、後者の道徳法則を飲み込むという自覚にある。
この「内なる合理性」の危機、人間精神の危機が、即ちヨーロッパの危機として認識されている。
科学至上主義は我が上なる星空だけでなく、我が内なる道徳法則にすら影を落とそうとしている。
そんな「外面化」された合理性にしゃしゃり出て来られると、ヨーロッパが衰亡するだろうよ、
人間や文明をそんな視点で語られたらたまったもんじゃないよね、と、まぁ、そういう認識だ。
訳者の一人の手川誠士郎が、とても勉強になる「あとがきにかえて」の中で述べているように、
「学問の危機とは現実を離れて存する純粋理論がそれ自体で超越論的に機能するところにある。」
この言葉自体は、科学至上主義だけではなく、フッサールの純粋理論にも向けられた言葉だけど、
この躓きの石の上に、アドルノやハーバーマス達の次世代はポストモダンの言説を築き上げる。
だからこの本の内容自体は、ポストモダンが繁茂するための苗床のようなものだったのだろう。


話はやや変わるけど、「西洋」「近代」「学問」「哲学」「古典」というこれらの言葉は、
私達日本人が思っている以上に、密接に絡み合い、分けて考えられない概念のようで、
近代の危機、なんてものは今の日本にもある話なんだけど、だからって哲学とか古典とか、
その類の学問がクローズアップされることは余り無い。新書が売れる程度でしか、無い。
近代を耐え抜き、近代人を鍛錬する「古典」、そんな発想がデフォルトな西洋が羨ましい。
日本の文系学問が軽視されてるのは、この種の発想が欠けてるからでもあるのだろうなぁ。
posted by 手の鳴る方へ at 04:43| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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