2010年02月15日

今村仁司の『仕事』

今村仁司 『仕事』 (弘文堂)
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ヨーロッパの伝統においては、労働は宗教的、神話的、道徳的な蔑視の対象であり、
自由な人間のすることではない、非人間的、周縁的、低俗なものとしてイメージされていた。
一方、近・現代の労働観では、働かないことがむしろ悪徳、後ろめたいことに分類されている。
だが、古代においてそれは善であり、「労働からの解放」として理想的な評価をされていた。
観想、宗教的瞑想、余暇こそが、人間本性と結びつけられた、人間らしい行為だったのだ。
無論、それらが奴隷制や劣悪な差別を支えとしていたことは考慮しておかなければならないが、
現代の私達の労働観が、それなりに擬似的な普遍性しか持っていないことは明記してもいい。


ここに見える古代と近・現代の労働観の転倒現象は、ウェーバーの『プロ倫』にあるような、
近代化の流れの中で生じたものだと言えるだろう。脱魔術化、脱宗教化、合理化の流れの中で、
都市の周縁に位置していた商業は、都市の中核を担う要素として把握されるようになり、
「最も卑しい」とされた労働行為は、人間社会を組織する中心的な価値として理解される。
また、科学者や技術者は産業と合流し、魔術師と同格だったその社会的地位を向上させ、
一方で、精神活動すらも「労働」「生産」という概念で語られてしまう時代が到来する。
学問や観想すらも労働であり、生産性を求められるというから、まさにプラトン涙目w である。


古代的な労働観は、産業革命や近代化を経て19世紀まで残り続け、20世紀になっても、
例えばバートランド・ラッセルあたりが「労働とか大概にしとけよ」と言っていたりする。
そこにある価値観は何かと言えば、「労働は人間的自由を喪失させる」という直観であった。
労働と言うのは生きていくために避けられない、自然的必然性に拘束された活動であって、
それに縛られている限りは自由でない、人間にはもっと大切なことがある、という意見は、
甘い、空想的な意見ではあるけれど、そこにはそれなりの説得力があるように思われる。

私達現代人は、その意味で総奴隷化されている。かつては一部の人間だけが奴隷だったが、
現代では全ての人間が労働者という名の奴隷である。余暇ですら、私達は消費するしか能がなく、
かつて永遠の相を帯びていたあらゆる耐久財は、「労働‐消費」の刹那性の陥穽へと落ち込む。
ハンナ・アレントが『人間の条件』の中で語った「労働」「仕事」「行為」の分類も、総労働化し、
「仕事」の美学も文化性も、「行為」の政治性・公共性も、労働的なものとして消費される。
そしてそのような状況で語られる、「労働の尊厳」だとか「労働は生きる意味」という観念は、
資本主義的だろうと社会主義的だろうと、現代の奴隷制を支えるイデオロギーでしかない。


「労働の尊厳」は、資本主義という労働社会を確立するための物質的力を発揮した。ウェーバーが言うように、「労働の非人間性・無意味性」を隠すためには「尊厳」という宗教的光明をさえ必要とした。資本家も労働者も同じイデオロギーに浸されることで資本主義的労働社会が成立する。そのイデオロギーが単なる空虚な観念でなく生産力の上昇に貢献したことは確かであるが、そのことと労働の不自由性=奴隷性とは別のことである。現代でも、カピタリストとソシアリストとを問わず、「労働の尊厳」を強調することが根強く生きのびているが、俗耳に入りやすいがゆえに、この労働イデオロギーは全般的労働奴隷性を強要することに貢献してしまう。現代の社会思想の根本問題の一つは、労働が根本的に奴隷的であることを直視し、それを美化する労働表象をできるかぎり解体することである。(p.194)


この話が具体的に、リアルに問題になるのは、恐らくベーシックインカム論の中でだろう。
政治家や批評家の中には、ベーシックインカムに肯定的な人が相当数いるように思われるが、
そこで「労働の尊厳」や「労働者の連帯」や「労働意欲の後退」という言葉をよく耳にする。
今後、ベーシックインカムが社会的な議論になるとすれば、そこで考えておくべきなのは、
「労働そのものに価値がある」的な意見の具体性・公共性、「労働」の意味ではなかろうか。
ここまでの論旨から言えば、そんなもん無えよ、というのが私の言いたいことなのではあるが。

今村仁司のこの本のタイトルは、『労働』ではなく『仕事』である。
この本は総労働化した社会を、「労働の仕事化」へと繋ぐ形で結ばれている。
この「仕事」とは、アレント的な「仕事」だろうが、簡潔に書かれすぎてて不明瞭だ。
ともあれ、「労働は人間的本質である」という観念を解体し、人間をより自由にするために、
ベーシックインカムという制度が、「労働の仕事化」に協力できることはあるかもしれない。
posted by 手の鳴る方へ at 07:24| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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