2010年03月23日

「須田家之墓」は何を意味するか

金田一蓮十郎 『ニコイチ』(スクウェア・エニックス)
75752624.jpg


死別した彼女の子供を、血が繋がってないのに女装しつつ育てる男の話。
時は流れ、小6になった息子に、未だに自分が実は男だと言い出せないでいる。
しかも女装状態で彼女ができてしまうが、その彼女には男であることをカミングアウト。
今のところはその彼女と息子と自分(女装又は素顔)とで、仲良く暮らしてていい感じ。
しかしこうして書くと分かり難い。登場人物もワケがわからないと自嘲してたりする。
ちなみに作者は17歳で商業誌デビュー。処女作がアニメ化というリアル『バクマン』だ。


他人同士で家族を作る、という点で『オハナホロホロ』とよく似た構造になっていて、
子供の実父が作中に不在だったり、故人(の墓)も込みで擬似家族なのも似ている。
『オハナホロホロ』は墓参がラストシーンだった。『ニコイチ』にも墓参のシーンがある。
死んだ彼女には身寄りが無いため、結婚もしてない主人公の家族墓に勝手に入れられている。
(それはそれですごい話だと思うのだけど、意外なほどあっさりとそこは語られている。)
しかも事情を知らない小6の子供は、お父さんがそこに入っていると思って墓参している。
これって個人墓だと成立しない話だなと思った。というか家族の概念がぶっ壊れており、
その廃墟と化した家族概念、「須田家之墓」(主人公の苗字)と彫り込まれた墓石が、
彼らのデリケートな秘密を守り、それをきちんと肯定しているようにも見えるから面白い。
別の言い方をすれば、血縁という概念は、現代では家族のリアリティに関わっていない。


日本人は祖先や血縁を大事にするから家族墓だ、みたいな話があるのかもしれないが、
ガッツリ制度化される前は、節操無く個々人を「家族化」する装置だったのかもしれない。
(そもそも「縁」を、国や制度がサポートするという発想が私には不愉快なのだが。)
あと、主人公の彼女は再婚家庭で育ち、そこで「黒歴史」的な反抗期を過ごしていて、
こういうのを見ると、血の繋がりってやっぱ大事じゃん、と思うかもしれないけど、
大人になったらそれはそれで関係も修復しており、ちゃんと家族になっていたりする。
漫画として語り易いのは、そこにある感情や情念である、というだけの話かもしれないが。


話は変わるけど、田中小実昌が直木賞を取った『浪曲師朝日丸の話』という作品があって、
そこには広島の原爆孤児(女ばかり)を保護して生活する朝日丸と言う男が出てくる。
家族的な共同体を作っておきながら、その原爆孤児十数人と近親相姦的にセックスして、
ぽこぽこと子供を作ってしまい、困ったなぁ、みたいなエピソードがあって、こういうのは、
わかりやすいタブー破りではあるんだけど、この「他人と一緒に暮らすことの節操の無さ」は、
ある一面で日本的な気もする。それは善悪の彼岸にある、人間の非人間的な関係ではないか。
この無節操さによって「家族」は破られるというより、むしろそんなことは想定の範囲内で、
「困ったなぁ」と苦笑する、その時々の個々人を肯定する。それが「家族」じゃないだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 04:00| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

『貧困と飢饉』

アマルティア・セン 『貧困と飢饉』 (黒崎卓・山崎幸治 訳 岩波書店)
00001924hinkonto.jpg


大勢の人が飢餓状態になる飢饉の原因は、食料の有無と言うより、食料に手が届くかどうか、
手が届くようなインフラや法整備があるかどうかにかかっている、と主張するセンの代表作。
人口と食料供給量を比較して、後者が前者よりも多くても飢饉は防げねーから! という話。


話を身近にするため、この本、『貧困と飢饉』とは離れて今の日本の話をしてみたいと思う。

現代日本は飽食であるが、それでも年に一度は、餓死者のニュースを見聞きすることがある。
彼らは自身の労働力を有効に活用できず、社会保障制度からも滑り落ちてしまった人々だが、
仮に、コメの値段がもっと安ければ、彼らがより多くの白飯を食べていた可能性は高い。

減反廃止ならコメ価格半値に 見直しで試算、農政改革チーム 2009/04/22 23:43
http://www.47news.jp/CN/200904/CN2009042201000866.html


コメの値段が半額であったならば、彼らの困窮した生活はもっと改善されていただろう。
彼らは本当なら、もっと容易に、もっと安価に栄養を摂取することができたのではないか?
嫌らしいことを言えば、コメの保護貿易は、国民の福祉を悪化させる方向で働いている。
さらに嫌らしいことを言えば、「食の安全保障」の名目で食料自給率の上昇にこだわるほど、
巷に餓死者が増える蓋然性は高くなる。自給率は国民を餓えさせないための指標なのに、
「食料に手が届かない」状況に荷担しているように見える。政策として如何なものだろう。


話がズレてきたが、餓死は、個人の能力(労働力や購買力)や社会制度と大きく関わる。
歴史的に見れば、旱魃や冷害や戦争によって食料供給量が減少することは多々あったが、
それは必ずしも飢饉のトリガーではなかった。これがセンの権原アプローチと言える。
例えば(また『貧困と飢饉』から離れてしまうのだが)、こんな記事がある。


asahi.com (64)昭和の大凶作 2009年12月02日

この点で、昭和の大凶作について私が聞いた土地の古老の言い分は興味深い。古老のイメージでは、昭和初期には目屋はすでに飢饉のムラではなく、昭和の凶作は「大したことはない」のだと言うのである。伝え聞く天保の飢饉(1830年代)の地獄の惨状に比べると、昭和の凶作は「人が死んだ話は聞いていない」と言う。

すでに交通も経済も十分に発達し、飢えて死ぬまでのことはなかった。飢饉の時は高利貸でさえありがたく見える。そういったことかもしれない。



昭和初期の大飢饉は日本史上最悪の飢饉とされているが、餓死者は多くなかったと言う。
江戸期の飢饉と昭和の飢饉の違いを考えることは、センの権原理論の理解を深めるだろう。
昭和初期の飢饉は、近代化と資本主義化の二点で(ある意味一点だが)江戸期とは異なる。
つまり、@国民国家の成立による同胞意識、A新聞や電信を中心としたメディアの発達、
B鉄道が整備されたことによる物資運搬の簡易化などにより、昭和の東北地方の大飢饉は、
江戸期とは異なり、その他の地域からの、時機を逸しない援助物資を期待することができた。
権原概念は、個人や職業集団の能力だけでなく、このような相互扶助の可能性も内包している。
さらに、C工業化の発展により、農民はその労働力を非一次産業へと転化することができた。
ある種の「身売り」、あるいは時代はズレるが『女工哀史』的な工場労働が受け入れ先となり、
餓死は無いが、死ぬほど辛い労働によって生き長らえるという選択肢を得ることができた。
が、どっちがマシかは軽々しく口にはできない。選択肢があるだけマシ、とすら言いたくない。
ともあれ、一言で言って「近代化」が、飢饉に対する抵抗力となり、日本人の権原を拡大した。


国際問題としての飢饉、あるいは欠如、つまり貧困は、具体的な物資の有無を本質とはしない。
飢餓は貧困を原因とする。そして貧困は、そこに住む人々、職種の、権原の脆弱さの問題だ。
権原の保護のためには、経済成長、民主化、自由主義の導入などが有効な手段となるし、
それらについては、現今の経済学はある程度の成果や協力を果たしていると言えるだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:25| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

『海月姫』

東村アキコ 『海月姫』 (講談社)
06340790.jpg


クラゲオタクの女の子が頑張る話。ノイタミナ枠でアニメ化もするとかどうとか。

恐らく腐女子という生き方は、色々なことに対して不戦敗であり続ける生き方なのだろう。
オシャレは女の武装であって、この漫画の腐女子はその武装を解除している状態で始まる。
が、自分の快適なポジションが奪われそうになったり、不覚にも異性にときめいたりしたので、
着飾ったり、必死でコミュニケーションを取ったり、トラブルに巻き込まれたりする。

クラゲ(オタク的な関心)→ウエディングドレス(女性一般の幸福)のラインが軸としてあり、
そこには、魔法の力を借りる必要が無いくらい地続きなシンデレラストーリーが予感される。
そのラインは、「クラゲってお姫様のフリフリなドレスみたいじゃね?」という発想から成る。
こういう発想は、本当にクラゲを綺麗だと思わないと出てこない発想で、そういうのは素敵だし、
そこのラインに説得力があるので、オタク+女子を描くのに最高な伏線になっているとも言える。


で、話は少し変わる。
私の友人に、葉脈の美しさを延々と話せる人間がいて、その熱弁を聞いているうちに、
何となく世間から閉じていくような感じがして、葉脈の美しさはよく理解できるけど、
そこから先へ広がるフックが無いんじゃないか、と、そんなことを思ったことがある。
オタク的、個人的な関心なんてものは、世間から閉じていて何の問題も無いと思うけど、
実際に「閉じた」感覚に触れると、それはそれで惜しい気持ちになったりもするワケで。

『海月姫』ではそのフックがあって、違和感無く一段広い世界へとコネクトしている。
閉じたように見える個人的な美学でも、実際には地続きで広い世の中と繋がっており、
何かの弾みで回路なり経路なりが繋がり、冗談みたいな活路がパッと開けることもある。
実は地続きであったり、地続きであり得るというのは、大事なことだと思うのですよ。
断絶してるという状態は悲しいのです。それが本人の心理的なものに基づいてるからなおさらに。
posted by 手の鳴る方へ at 04:11| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月19日

「自分探し」の移民たち

加藤恵津子 『「自分探し」の移民たち』(彩流社)
77911468.jpg


サブタイトルには「カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者」とある。
主にバンクーバーの日本人一時滞在者を対象としたフィールドワークをまとめた本。
期間は2001年〜2008年。21ヶ月にわたるフィールドワーク。インタビュイーは106人。
何故バンクーバーへ来たのか、そこでの生活はどうか、そこで何を考えているのか、
今後の人生プランはどのように考えているのか、ということが掘り下げられている。
「自分探し」とは、この一時滞在者達のメンタリティーを大まかに語るキーワードで、
依るべきコミュニティの無い、根無し草(デラシネ)としての若者の姿が炙り出されている。
インタビュイーは自分の仕事にしか関心がない、カナダのコミュニティへの関心が薄い、
という作者の感想と、それと現代日本社会の関係を指摘した部分はとても面白く読めた。


また、章の合間にはコラムもあり、現地人に話しかけられたからって見境無く喜ぶなよ、
海外での生活は心細いかもしれないけど、付き合う人間は選べよJK的な話が盛りだくさん。
「日本人女性は海外でモテる」という言葉の裏には、わかりやすい落とし穴があるらしい。
このようなケアサポート・アドバイス・説教っぽいコラムが、論文と並んでいるのも面白い。


北米大陸の屋根裏部屋、カナダの人口のほとんどはアメリカとの国境線に集中している。
最近オリンピックがあったらしいが、カナダやバンクーバーの印象はどんなものだろうか。
美しい自然、寛いだ雰囲気、同調圧力の欠如、目立つホームレス、マリファナの敷居の低さ、
ワーキングホリデーなのに英語が話せないから仕事がないという矛盾、詐欺、搾取、セクハラ、
短い夏、スキーリゾート、綺麗な英語、安全な都市、思ったより高い税金、そして移民大国。
2006年の調査では、バンクーバーに暮らす約50%の人が英語を、約25%の人が中国語を、
約3%の人がタガログ語とパンジャブ語を、それぞれ母国語であると解答しているらしい。
この多文化主義的な雰囲気が、一定数の日本人一時滞在者を移民へと導く誘引となっている。


加えて日本のように、何世代にも渡って住んでいる在日コリアンにも完全な市民権が与えられない国とは異なり、カナダでは滞在1年未満の英語もたどたどしい人でも、「移民しないの?」と周囲から尋ねられる。まして2―3年住んでいれば、「まだ移民していないの?」と驚かれる。そして周りでは、強い訛りの英語を話す、あるいはほとんど英語を話せない、多様な肌の色の人々が「カナダ人」として働いている。これを見て「自分もここで、移民になって働けるのではないかと思った」というインタビュイーもいる。(p.61〜62)


こうして日本と比較された部分を抜き出すと、マークス寿子的な本だと思われるかもしれないが、
もちろんこの本はそんなレベルの低い本ではない。カナダ、あるいは西洋文化の諸問題と、
それに振り回され、時として火中の栗を拾う一時滞在者のメンタリティに紙面を多く割いている。
トラブルの事例も幾つか紹介されているので、ネガティブキャンペーンのようですらある。

最終章の作者の意見も、「地球市民になるなら国内でもできることはある」というものだ。
わざわざ言葉の通じない場所で暮らし、自分の能力に枷を嵌めて生活し、単純労働に甘んじ、
リスクを背負って、地域社会にコミットできないのはもったいない、ということだと思う。
もちろん作者は、ワーキングホリデーや移民化を否定しているわけではないのだけど。

身も蓋も無いことを言えば、個人的には、「自分探し」なら読書でもいいじゃんと思います。
海外旅行で「自分探し」なんて大袈裟すぎる。大山鳴動して鼠一匹みたいなもんじゃないか。
posted by 手の鳴る方へ at 06:52| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月18日

杉本彩は加藤智大を語ることができるか

仲正昌樹 『〈リア充〉幻想』(明月堂書店)
90314529.jpg


サブタイトルには「真実があるということの思い込み」とある。
2008年の秋葉原無差別殺傷事件をネタに、哲学教授が色々と思うところを喋っている。

「人間力」だとか「個性」だとか「モテ」だとか、その内実が意味不明な言葉はウザい。
雑誌の人生相談が鬱陶しくて中身が無い理由は、この手の観念が基底にあるからだと思う。
また、恋愛のプロと名乗る人物が、恋愛の相談に乗るという構図も、どう考えても意味不明だ。


「恋愛力」っていう話も定番化されていますね。先日たまたまテレビドラマの『流星の絆』を見ていたら、「恋愛経験がゼロなのに、いきなり恋愛の難易度の高い人と付き合った」というようなセリフがあった。ああいう場合の「恋愛の難易度」って何だろうと思うけど、でも、結構そういう言い方が日常的によく使われるようになったとも思いますよね。言いたいことは何となくわからないでもないけど。何だろうな、この「レベル」とか「難易度」みたいな言い方。ロールプレイングみたいな感覚で、これをクリアしたら次はこれ、というような段階的な考え方なのかな。
テレビのバラエティ番組でも、杉本彩とか、三十代、四十代の「経験豊富」そうな女性が出てきて、恋愛も学習して成熟していくことができるんだ、というような話をする。「恋愛の初心者」という言い方はその裏返しですよね。恋愛についての「うまい」「下手」という言い方がテレビを通してだいぶ流行っている。「中年の男のほうが実は魅力がある」とか、そういう言い方は昔からあったけど、「チョイ悪」とかって具体的なイメージではなかったと思います。つまり恋愛にも具体的なテクニックがあって、魔法のアイテムみたいに手に入れて、キャラのグレードをアップしていく、そういうことができるかのように言われている。
(p.163)


恋愛に関しては独自のモノなので、一般化したりテクニックとして扱うのは無理がある。
そもそも「付き合って別れて結婚して離婚した回数が多い」=「恋愛の達人」だしね。
ただ、文中にある杉本彩、また、渡辺淳一、AV俳優の加藤鷹、飯島愛などが語りがちなのは、
恋愛と言うよりもセックスの話で、セックスならもしかするとテクニックとして語り得て、
一般化することもできなくは無さそうで、さらに恋愛とセックスは密接な関係があるワケで、
「性愛」というフレーズで語られると、そこら辺のラインは曖昧模糊としてしまったりもする。
しかもそれと「恋愛至上主義」が重なると、非モテの人間にとって最悪な言説がばら撒かれ、
生き難い世の中にされてしまうのだが、それでも、杉本彩的な存在は評価すべきだとも思う。

例えば、杉本彩の恋愛相談というか性愛相談の中には、結構面白い内容があったりする。
「彼氏がSM系のPCゲームを持っていた。どうすればいい?」という女性からの質問に、
「単なる趣味の問題」「不健全なことを空想の中で楽しめるのが大人ってもの」
「あなたの感覚が一番の問題」「愛してるなら相手の好みを理解しようと努力するべきね」
と、質問者の方を叩く有様。ちなみに括弧内は原文そのまま。某都知事も見習って欲しい。

何が言いたいかって、恋愛だとか性愛だとか性癖だとかが社会的な問題となった場合、
杉本彩的な「恋愛の達人」のご意見と言うのは、意外と公共性があるように見える。
「愛してるなら相手の好みを理解しようと努力するべきね」的な考え方は鬱陶しくもあるけれど、
「恋愛のレベル」「恋愛上手・下手」という意味不明な観念が、意味不明なままに通用して、
杉本彩的な存在の基盤となり、杉本彩的な発言の基盤となり、公共性に関与するのなら、
それはそれで我慢できる話ではないかとも思う。ここで私が公共性云々について語るのは、
上で紹介したSMゲームの話にしても、非モテ、2次元好きな連中からすれば肯定的な話だからだ。
まぁ、杉本彩は2次元ではなくむしろSMを肯定しているんだけど、マイノリティの側に立ち、
性愛に関して寛容を説く延長線上に、非モテや2次元を肯定する言葉も出てきそうな予感もする。
(経験豊富で高レベル、だから寛容になれる、というのは、家父長的な寛容って気もするけど。)


杉本彩は加藤智大を語ることができるか、というのは「サバルタンを語れるか」に似ている。
そもそも非モテは、恋愛至上主義の生み出したモテ幻想の犠牲者として位置づけられる。
ただ、問題の所在が幻想ならば、その幻想の外延を広げることで、救われる連中はいる気がする。
逆に言えば、モテやら個性やら人間力という幻想を打ち砕く、という話にはリアリティが無い。
幻想が打ち砕かれるとしたら、全ての人間がその幻想に加わった場合だけだろう。
とりあえず杉本彩や渡辺淳一には、「ラブプラス」をプレイするあたりから頑張って欲しい。
posted by 手の鳴る方へ at 06:45| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月10日

『オハナホロホロ』

鳥野しの 『オハナホロホロ』(祥伝社)
39676484.jpg


女二人と子供一人で暮らし、毎日のように別階に暮らす男も紛れ込む、そんな生活の話。

気のおけない他人同士で暮らすことで、家族のイメージはもっと多元的なモノになるし、
他人と家族との境界線も不確かなものとなる。人間の関係というのは目には見えにくいし、
現在・過去・未来の中でその糸は複雑に絡み、変動するため、一義的に考えることは難しい。
家族と言うのは制度であると同時に常に一つの比喩であって、名前の無いものの総称なのだ。

ちなみにこの漫画には「家族」や「愛」なんて言葉は出てこない。子供の父親の名前も不明だ。
大人達は他人同士である、という自覚がある。だからメンバーの一人が異性の旧友と再会すると、
他のメンバーの一人は、旧友と彼女の関係が、友情より先の感情になるのではないかと心配し、
今の自分達の関係が終わってしまうのではないかと心配する。そんな切羽詰った心境の中で、
唐突に「結婚しよう」という話題になるのは、家族という比喩の力を当人が信用しているからで、
言い換えれば、そこにある具体的な(ように見える)関係性に頼ろうとしているからなのだろう。
そこで求婚された側が、実際の関係性、感情について諭すのは一つの見せ場としても面白い。
彼女達の関係はフワフワした名前の無い関係だけど、だからと言って冗談半分ではないし、
いい加減な感情で生きているわけでも全くない。フワフワした足場こそが彼女達のものなのだ。


人間関係は必ずしも帰る場所を用意しないし、「家族」という場所がそうであるとも限らない。
彼女達の帰る場所の名前は「おうち(お家)」であって、彼女達は「同居人」として振舞う。
ひびの入った関係性を修復する「ただいま」と「おかえり」は、その場所の上に成立する。
その場所の底は恐らく抜けている。その上で、彼女達の関係性は宙吊りのままに作用する。
そもそも人間関係に根拠などなくて、愛とか血縁だとかが、その空白に転がるだけだとも言える。



あと、話は変わるけど、ぬいぐるみ(表紙で子供が抱いてるやつ)の作中での役割だけど、
かわいい顔をして、ドロッとした大人のモノローグの相手役として描かれているのは面白い。
それを踏まえて表紙を見ていると、子供は大人の色んな感情を抱きしめて抑えているのだなぁ、
とかなんかとか思ったりする。この種のモノローグの表現方法って、女性作家特有なのだろうか。
少女漫画の、ぬいぐるみ相手に独り言を呟くシーンの延長線上にあるように思ったのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 06:16| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

メディアと人間関係の濃淡

2010年1月29日 朝日新聞 天声人語
http://www.asahi.com/paper/column20100129.html


秋葉原無差別殺傷事件の初公判に伴い、殺人事件とネットを絡めてのコラム。
揶揄と諦観混じりの「何でもネットのせいにしてりゃあ、そりゃ楽だわな」、
というネットユーザーの声が、至るところから聞こえてきそうな内容となっている。


警察庁によれば、全国で去年に起きた殺人事件は戦後最少になった。皮肉なことに、ネット社会で人間関係が希薄化したのが一因という可能性があるそうだ。特定の相手への動機が生まれにくい。そうなったで今度は、「誰でもよかった」が目立っている


ネットは人間に直接会わなくても色んなことが出来る。だから人間関係は希薄になる、
ってのはまぁ一理あるんだけど、むしろネット本来の思想としては、人と人とを繋ぐ、
しかも今までに無い規模とスピードで繋ぐことなので、(メディアってそんなモノなので、)
2010年にもなってこんなこと言うのはアホ臭いんだけど、この手の話は辞めた方がいい。
「可能性があるそうだ」とか「目立っている」とかいう言い方も辞めた方がいい。


48006488.jpg


ここで、殺人と「人間関係」の関係を調べれば、ネット云々とは異なる視点が見えてくる。
河合幹雄 『日本の殺人』(ちくま新書)によれば、日本の「犯罪白書」の殺人の項目には、
毎年大体約1400件という数値が並んでいるが、そこには殺人未遂と殺人予備が含まれる。
そこから殺人の定義を色々と勘案すると、大体800件前後が、実質的な殺人だと言える。
(そもそも「殺人」の類型化自体が困難であり、統計から読み取るのも困難そうに見える。
ついでに言えばネット上で検索できる犯罪白書や犯罪統計と、『日本の殺人』で使用された
数値があんまり一致していないようにも見える。私の調査能力が低いせいだろうけど。)

で、例えば2004年の殺人事件の検挙件数は1224件。その内の半分弱が家族、親族間での事件。
その内訳は実子・養子・継子殺しが135件、実父母・養父母・継父母殺しが合わせて121件、
配偶者殺しが206件、兄弟・姉妹間が88件、その他親族38件、以上の合計は588件となる。
この588件の中にも未遂犯、予備犯が含まれるが、その数は決して多くない、らしい。
つまり年間の実質的な殺人が約800件で、その内の(多分)約500件が親族間の殺人と言える。

一方、1977年の広義の殺人被害者の人数は1527人。加害者との関係が明らかなのが1448人。
その内訳は子殺し505件、親殺し87件、配偶者殺し159件、兄弟・姉妹が28件、その他49件。
親族関係だけで合計828件。残りの内訳は同居人31件、知人友人273件、顔見知り155件、
そして面識なし(無差別殺人があったとすればそれの犠牲者)161件で、計1448人となる。
1977年と比べて、2004年は子殺し(505件→135件)が圧倒的に減少しているのが見てとれる。
もっと言えば2004年の嬰児殺しは22件。1977年には187件あった。これだけで165件の減。
「80年代に入ってから現代に至るまで殺人事件は大きく減少してきたが、その減少分の半分は嬰児殺の減少で説明できる。」(p.31〜32)
というわけで、作者はこの嬰児殺しの減少の理由を、「できちゃった婚」が普通になって、
「不義の子」だとかの社会的偏見、親世代からの圧力がなくなったからだろうと予想している。
ネットの普及とこの嬰児殺しの減少は、とてもではないが結び付けることはできない。


河合幹雄によれば、殺人というのはエネルギーを使うので、強い動機がなければできない。
そしてその強い動機が生まれるのが人間関係の濃い場合で、つまりは家族や恋愛がそうだ。
人間関係が薄ければ、リスクを犯してまでして相手を殺そうとはしない。それが殺人の類型だ。
故に、人間関係が希薄ならば殺人は起こらない、という天声人語の言い分は河合幹雄と同じだ。
だが、統計的に見て殺人が減っている、故に現代人は人間関係が希薄である、とはならない。

昔と比べ、04年の家族間の殺人は減っている。ネットにより人間関係が希薄化したからだろうか?
ネット中毒でひきこもっている子供と、その家族の関係は希薄なのだろうか。逆ではないのか?
家族という関係は、PCや携帯等のメディアによって大きく、本質的に(まさに本質的に!)、
変化しているけれども、その変化は関係の希薄化だと、ただちに言えるものなのだろうか。
関係性が変化しただけで、その関係の濃淡については、メディアは関与できないのではないか。
今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄であると、安直に考えてはいないだろうか。
同じことは友人・知人関係にも言えるだろう。全ての人間関係にも言えると私は思う。


それと、メディア・環境の変化による殺人の減少について、河合幹雄がこんな例を挙げている。
昔と比べれば、所謂「ケンカ殺人」というものも、他と同様に大きく減少しているのだが、
その理由として、科学警察研究所の田村雅幸という人の80年代の研究を参考にしつつ、
河合幹雄も、「人間関係の希薄化」が原因であると述べている。


田村に言わせると「飲み屋で見知らぬ客と意気投合するという他者との関わりの強さは、逆にそこでのケンカ口論から暴力的な事件を発生させやすくもする。」となる。これは八〇年代はじめの指摘である。飲酒と犯罪のところで述べたように、その後、日本人は酔いつぶれるほど飲む機会を大きく減らしている。その原因として、背中に担いで帰ってくれる友人がいなくなってきているということを指摘した。遠くから通勤しているという理由があるため、友情を失ったというような精神論に陥ってはいけないが、人間関係の希薄化がケンカを減らせる作用はここでも確認できる。
 最近では、知らない同士が、肘をぶつけ合って屋台で飲むのではなく、明るくきれいで、十分なスペースがあり、隣席とは壁や衝立で仕切られたところで飲む、それも非常に少人数で飲むように飲み屋が変わってきている。店の方は、別にケンカ殺人の防止策をとっている認識はなく、客が、隣席とのかかわりを嫌うようになっているというマーケティングに過ぎないと考えられる。スペースのあるいい店で安く飲めるようになったとすれば、ここでも豊かになったことでケンカが減り、ケンカ殺人も減るということが起きていることになる。
(p.95〜96)


アーキテクチャと言えばそれまでの話だし、経済的に豊かになったからと言えばそれまでの話。
「最近の子は喧嘩しないから人間関係が希薄化している」と産経抄あたりが言いそうだし、
「飲ミニケーションが死語だから人間関係が希薄化している」とか編集手帳は言いそうだ。
もう一度書くが、今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄である、とは言えない。
喧嘩しなきゃ深まらない人間関係は、メアド交換しなきゃ深まらない人間関係と同じだ。
酒がなきゃ成立しない人間関係は、ニンテンドーDSがなきゃ成立しない人間関係と同じだ。
ネット社会ごときで人間関係が希薄になる奴は、最初から希薄なだけだ。そういうものだ。
posted by 手の鳴る方へ at 04:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

グレン・グールドのTwitter

宮澤淳一 『グレン・グールド論』(春秋社)
39393757.jpg


1964年6月1日、グレン・グールドはトロント大学から名誉博士号を授与される。
その答礼として、通常なら演奏をするところなのだが、グールドはある講演を行った。
ほんの一握りの大学関係者を前に為されたその講演のタイトルは「電子時代の音楽論」。
その中でグールドはバックグラウンド・ミュージックの可能性について話している。
次の引用は、その講演の冒頭部分についての宮澤淳一の解説である。
(引用文を含め、今回の記事全体は、宮澤淳一『グレン・グールド論』(春秋社)による。)


ここでのバックグラウンド・ミュージックとは、「家庭や自動車内のスピーカーから流れ出る音楽、コマーシャル映像に伴う形で編成された音楽、レストランで会話の切れ目を埋めるために[・・・・・・]有線放送から流れてくる音楽」など、電子メディアによって生み出され、日常生活の私たちを囲むあらゆる音楽を指す。これを「音楽に対する私たちの鑑賞力や理解力や情熱の体系をそっくり弱める感覚攻撃」だと批判する向きに対して、グールドは正反対の立場を表明する。これらの音楽は「私たちの鑑賞力や理解力を弱める」どころか「恩恵」である、とグールドは擁護するのである。「内省的態度」の聴取を主唱する音楽家らしからぬ発言かもしれない。(p.39)


中島義道が聞いたら、そんなもん「感覚攻撃」以外の何モノでもないわ! とか言いそうだが、
それはいいとして、グールドはこの後、演奏会を批判し、音楽の匿名化等について触れる。
そしてその後に、もう一度、バックグラウンド・ミュージックについて話を振り戻す。


電子時代になると、音楽には、私たちが日常生活を送る中で言語が担っているものと同等の、即時的、口語的、実用的な特徴が備わると私には思われます。音楽に関してそうした慣れ親しみやすさの度合いがそこまで達成される唯一の条件は、音楽があらゆる方向へ拡大していき、どんな時期、時間、様式であろうと、音楽の基本的な流儀、特徴、癖、慣習的な仕掛け、統計的に頻度の高い表現――要するにクリシェです――が、聴くものすべてにとって即座に親しみのある、認識できるものになっていることにほかなりません。ある語彙(音楽的語彙であれ、言語的語彙であれ)が備えるクリシェの特徴を大量の人が認識できるようになるとき、個々の聴き手がそうしたクリシェの供給過剰になることに配慮する必要はあまりないという気がします。むしろ正反対です!(p.45〜46)


そして後に続けてグールドはこのように宣言している。


音楽の世界に、絶えずクリシェを参照できる背景を供給することで、想像力豊かな芸術家――あるいは、電子時代ですから、正確には、想像力豊かな芸術家集団と呼ぶべきかもしれません――の活動の場である前景が、はるかに際立つようになるのです。電子時代は、陳腐なものからとてつもない超越を必ずや達成してくれるでしょう。(p.46)


引用ばかりになってしまったが、私がTwitter のタイムラインをだらだらと眺めていて、
ふと何気なく思い出したのが、『グレン・グールド論』のこの一連の内容だった。
バックグラウンド・ミュージックとは、大衆、それにグールドのTwitterではないか?
それが音楽にとっての「恩恵」であり、人々の音楽を変え、音楽の環境を変えたように、
TL上に流れるtweetsも、何かにとっての「恩恵」であり、何かを変化させるのではないか。
Tweetsをクリシェ(決まり文句・常套句)と称するのはさすがに抵抗があるけれども、
宮澤淳一が以下のように解説し、あるジャンルの断片とその編成、浸透が語られるとき、
私達の前に現れてくるその「前景」、「超越」には、一体何という名が付けられるのだろうか?


スピーカーから流れ続けるその音楽は、古今のクラシックの有名曲やその自由な編曲・改作、あるいは、それらを模倣した様式や語法のクリシェを用いたオリジナル曲から、場所・時間・用途にあわせて「編成」された「響き」である。電子テクノロジーの発達のおかげで日常生活の中に浸透したそうした「陳腐なもの」(common place)を「背景」(background)に、〈聴き手=消費者〉を含めた多くの参加者による現代の「芸術家集団」は創作を行い、「前景」(foreground)を描き出す。(p.47)
posted by 手の鳴る方へ at 07:30| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

『グーテンベルクからグーグルへ』

ピーター・シリングスバーグ 『グーテンベルクからグーグルへ』
(明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳 慶應義塾大学出版会)

76641671.jpg


副題は「文学テキストのデジタル化と編集文献学」。
グーグルのことになんか触れてないので、内容的には副題の方がしっくりくる。
それと、訳者の明星聖子の後書きの内容は面白い。いつか新書あたりで書いて欲しい。


私達は自分の手にした本が、その本の内容に関して絶対的であることを疑わない。
しかし実際は作者のメモ、手稿、草稿、初版本とそれ以降の本、翻訳、海賊版には違いがあり、
さらにそこには植字工のミスや意図的な変更、注釈者、出版者、編集者の何らかの介入があり、
さらに編集者によって介入されたテキストによって作者がさらに改変したテキストがあり、
他人がテキストを変更して、それを元に戻せたのに作者が介入しなかったテキストがある。
また、書かれたテキストには書かれて読まれた当時の文脈があり、それはともすると重要であり、
それらを踏まえての批評家の批評があり、後世の編集者の介入や編纂、簒奪、再現等もある。

文学研究とは制度と言える。編集文献学はその制度の設計、交通を担う学問と言える。
上記の錯綜する諸事実と取り組みつつ、理想的な文献研究の制度を開発するのがその役割だが、
ここにきて学問的な知識の集積場所、文献学の舞台が、印刷版から電子版へと移行しつつある。
その影響は大きく、上記の諸事実との関係も大きく変わるだろうということが述べられている。
研究者達はそのことについて、失うものは少なくない、とは言いつつも好意的のようだ。


1960年代くらいまでは、文献編集者達も、所謂その言葉の意味どおりの「決定版」、
客観的な文献研究の最上の成果、プロジェクトの終わりを高らかに宣言する研究結果、
そんな学術編集版を志向していたけれど、最近はさすがにそんなことも言わなくなった。
編集とは主観的な批評行為であり、編集者(研究者)の志向性によってそれは編みこまれる。
彼らは資料から転写し、編集し、註をつけるだろうが、そこにはある意図が横たわっており、
別の意図(それは有益であり有意義であるかもしれないのに)は無視されて隠れてしまう。
だから文献編集者はそのことに自覚的になるべきだし、その意図の説明はしておくべきだし、
異なり、対立する編集方針の生まれる余地を常に残しておくべきなのだ。作者はそう語る。

学術編集と言うか、制度設計の方向性は、一つの目的だけを絶対視する閉じた以前の方向から、
複線的で開けた、将来の研究者達に依存することも多いだろう、歓待的な方向へと変化した。
そして電子版のナリッジサイトや編集システムは、印刷媒体よりも有効にそれを達成する。
それは分量的な制限を取り除き、ハイパーテキストによる参照、インデックス化も容易にする。
何よりPCさえあれば世界中からアクセスすることも可能であり、情報は簒奪されることもなく、
利用者(専門家から学生、一読者に至るまで)の自由なコントロールにも応えることができる。
電子テキストは、一つの意図によって致命的に隠されることもなく、電子の中で貯蔵される。
それは長きに渡って多くの人達によって管理され、新しい何かを産む土壌であり続けるだろう。


それでも問題は山積しているようで、その問題に頭を抱えている文章の方が多いくらいだ。
それどころか学術編集そのものに挫けている様子も無きにしも非ずで、訳者の後書きといい、
それは彼ら特有のメンタリティなのかもしれない。もう一度言うがこの後書きはとてもいい。
主観的でしかない人間風情が、客観性や学問の理想をどうして実現することができようか、
でもやるんだよ、やるしかないだろ、みたいな態度が全編に渡って展開されている稀有な本だ。
posted by 手の鳴る方へ at 10:56| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

『らいか・デイズ』

むんこ 『らいか・デイズ』(芳文社)
83226799.jpg


4コマ漫画雑誌で連載中の4コマ漫画だったはず。4コマ漫画の見本で筆頭という印象。
勉強はできるけど不器用でウブな(死語)小学6年生の日常を描いたり描かなかったりする。


今のところ9巻まで出ているんだけど、小学6年生のまま、正月ネタを4〜5回は繰り返している。
これは漫画にはよくあるループで、キャラクター達はつまるところ永遠に小学6年生のままだ。
が、担任が結婚して子供は生まれるわ、一度も出てきてないキャラが死ぬわ、生理が始まるわ、
ブラジャーはつけ始めるわ、産休の代理で新しい先生がやって来て、帰って、また戻ってくるわ、
そういう出来事はきちんと用意されていて、クラスメイトや両親や親戚やその他大勢の中で、
子供達はきちんと成長していますよ、的な、「4コマなのにいい話」的な傾向がとても強い。

永遠の小学6年生達が登場人物で、舞台も学校、家、町内、両親の田舎でほぼ占められている。
たまに一人で田舎に行ったり、遠くの図書館に行ったり、海や別荘やらには行っているけど、
閉じた環境が大半で、それでもなお成長というものが図らずも前面に出てくるのは面白い。

成長のイメージとしては、例えば教養小説(ビルドゥングスロマン)のようなモノがあって、
子供が旅の中で色々な人々と触れ合い、移動する距離が遠くなり、出来ることが増えていき、
肉体的にも心理的にもタフになり、やがて大人になっていく、みたいな流れを辿るのだけど、
この『らいか・デイズ』には、教養小説的な移動や成長、肉体強化、メンタル面の向上等、
その手の経験値アップはほとんど見当たらない。貧乳は貧乳だし、料理下手は下手のままだし、
テストで97点は97点だし、泣き虫は泣き虫のままで、つまりあるキャラはそのキャラのままで、
この手の漫画では当たり前なんだけど、初期設定のまま、変化というものが排除されている。


それでもなおそこに成長と呼べるものがあるとすれば、それは何だろうかとなるワケだが、
漫画表現における成長とは、必ずしも身長の伸びではないし、スキルアップでもないし、
移動する距離が伸び、見知った人が増え、今まで見えなかったモノが見えてくると言うような、
視野の拡大、世界の広がりというワケでもないし、通過儀礼というワケでも必ずしもない。
確かに新しい必殺技の習得や覚醒、ある種の親殺し、親離れ、そして教養小説的な旅物語は、
成長を分かりやすく、視覚的に読者に教えてくれるものではあるし、それはそれでいいけれど、
『らいか・デイズ』的な漫画には、もう少し別な成長の描き方、考え方があるように思われる。


前フリが長くなったが、例えばこのように言ってみるのはどうだろう。
成長とは無自覚なままに、ゆっくりと、自分自身へと収斂していく様のことなのだ、と。
コマを重ね、ページを積み上げ、巻数を増やしていくその中で、『らいか・デイズ』は、
登場人物たちを磨き上げ、ときには削ぎ落としつつ、より彼女ららしさへと近付けていく。
そこにあるコマは、新しい世界を開示し、その時間を過去や未来へと延長することもあるが、
登場人物たちは、未知の力や風景、敵へと分け入っていくよりもむしろ、既知へと擦り寄る。
時間の停止したその既知の中で、子供達は容姿やスキルはそのままに成長することが出来る。
だから『らいか・デイズ』的な物語は、物珍しいビルドゥングスロマンでもあると言える。
それは何者かになるのではなく、他ならぬ自分自身へとなるための、成長の物語なのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:12| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

アメリカ時計産業の興亡

香山知子 『ウオッチ・アド 広告に見るアメリカ時計産業興亡の軌跡』(グリーンアロー出版社)

アメリカの時計産業の歴史を、広告から読み解こうとする本、というか資料。
産業というものが如何に興り、如何に巨大化し、如何に歴史に巻き込まれ、衰亡したのかの話。
この世の春を謳歌したある一大産業が、時代の流れの中で見事に消滅したことが描かれている。


アメリカの2大メーカーであるウオルサムとエルジンの生産量を見てみると、1880年にはウオルサムが150万個、エルジンが70万個、1900年にはウオルサム900万個、エルジン900万個、1930年にはエルジン3300万個、ウオルサム2700万個である。またダラーウオッチの主要メーカーであるインガソルでは、1900年に600万個、1930年に7400万個を生産し、ダラーウオッチに代表される廉価時計の人気がうかがえる。(p.3)


20世紀初頭の混乱や大不況をモノともせず、アメリカの時計産業は発展していったけれど、
日本の真珠湾攻撃によってアメリカは2次大戦へ参戦。時計メーカーも工場のラインや職人を、
マリン・クロノメーターや軍事時計等、軍需産業へと大幅に転換せざるを得なくなる。
本土の国民に向けての製品供給が枯渇する中で、スイスの輸入時計に市場シェアを奪われ、
技術開発にも溝を開けられた中で、戦後、新技術を苦心しつつ導入、自らでも開発するが、
スイスとの貿易交渉に失敗(40年代)、クオーツによる日本企業の躍進(70年代)もあり、
アメリカでの時計生産は完全に凋落、多くのアメリカ時計メーカーは姿を消していった。
例えば上の引用中にあるウオルサムは、1981年に日本企業の平和堂貿易に買収され、
エルジンは1966年に消滅、インガソルは1922年に買収後、そのブランドを51年まで持続、
そして現在は、もはや唯一のアメリカ時計企業とも言えるTIMEXへと継承されている。

70年代の日本のクオーツ革命は凄まじく、アメリカだけでなくスイスの時計産業も壊滅させた。
「1970年から1985年の間に、時計関連会社は1620社から600社となり、3分の2近くが」消えた。
スイスの場合、アメリカと違って、現在ではその時計産業も盛り返し、その地位も磐石に見える。
それは例えば、オメガ、ロンジンを中心に結成されたSMHと呼ばれるコングロマリット(85年)や、
早い時期からの水平分業化(スイス時計のムーブメントの多くは日本企業製)等に見て取れる、
生き残り戦略の巧妙さであって、不況や戦争ではなく戦略ミスが産業を滅ぼすのだと痛感する。
未だに「モノ作り」とかホザいている例の国は、スイスではなくアメリカの轍を踏むだろうし、
その後のアメリカが2次産業から3次産業に移行し発展したことを考えれば、むしろそれでイイ。
アメリカ本土で時計が作られないことを、いま生きている私達は誰一人として困っていない。
上に名のあるTIMEXも、名前だけはアメリカの時計会社だが、組立工場は国外に散在している。


と、エコノミックなことばかり言ってみたけれど、この本自体はエコノミックでは無い。
インガソルの「1ドルを有名にした時計」等のコピーや、戦時中の広告は普通に面白い。
例えば1943年、ハミルトンの広告


この風変わりな大地は単調に地平線へと広がっている。風が吹くと、波のなかで流れができる。この果てしない無の空間で迷うことは死を意味する。
砂漠を行く戦車が船と同じように太陽と星と、そしてマスター・ナビゲーション・ウオッチと呼ばれる特殊な時計装置を使って進行方向を定めるのはこのためである。これは戦車士官が砂漠での進行方向を見つけるために頼りとする装置のひとつだ。戦車の揺れ、粉々の砂、最高気温華氏140度という気温にもかかわらず、ハミルトンのマスター・ナビゲーションは何ヶ月にも渡って信じられないほどの安定した時を刻み続ける。ハミルトンで働く人々は政府のためにこのような精密な時計装置を作ることができるのを誇りとしています。そしてこれは民間用のハミルトンをほとんど製造できないということでもあります。しかしこの経験が「鉄道時計の正確さをもつ時計」という評判以上のものを戦後に約束しているのです。ハミルトン・ウオッチ・カンパニー、344アベニュー、ランカスター、ペンシルヴァニア
(p.36)


戦時中の時計会社の広告は、売るためではなく、売れないことを釈明するための広告だった。
性能や「〜御用達」という下りは、いつの時代のどの場所でも同じような文句なのだけど、
「商品が供給できないけれど、どうか忘れないで下さい」というこの広告の思いは痛切だ。

戦時中の時計広告の中には、例えば「戦場となったジャングルで敵の日本兵が身に着けた
時計がうるさいから場所がすぐわかって奴らをご先祖様のところに送ってやったぜヘヘへ、
でも俺が身に着けていたハーベルの腕時計はとても静か。妻からの最高のプレゼントです」
だとか、「戦場にいる愛するあなたへのクリスマスプレゼントとしてハミルトンの時計を
贈ろうと思ったけれど、ハミルトンも戦場に行ってしまったわ。だから私は愛するあなたの
ために戦時国債を買っておきました」みたいなものもあって、こういうのは大好きです。
ちなみにハミルトンは1974年に、スイスの時計メーカーグループによって買収されている。
ハーベル(Harvel)は不明。戦時中に湧いて出た便乗組、泡沫企業として紹介されている。

この本にはもちろん戦時中以外の広告もたくさん掲載されている。そしてそれらも面白い。
ただ、もう既に絶版しているようだから、古本屋でしか手に入らないだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 09:51| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

小箱とたん『スケッチブック』

小箱とたん 『スケッチブック』(マッグガーデン)
90192650.jpg


高校の美術部が舞台だけど、あるあるネタと昆虫ネタが中心な漫画。
登場人物の自意識の無さはむしろ小学生かと思うくらいだが、高校生。
人間パートは4コマ漫画、猫パートは普通のギャグ漫画という不思議な構成。
数年前にアニメにもなってたようで、今のところ、漫画は6巻まで出ている。


同じ作者の『スコアブック』という、野球漫画の面を被った動物漫画が顕著なのだけど、
(どのページをめくっても野球のアイテムと動物が当たり前のように揃って描かれてる)
動物がしゃしゃり出てくると、この作者は何故か4コマの枠をはみ出してしまうようで、
逆に言えば、そこに出てくる人間達にとっては、4コマが一番居心地いいのかもしれない。
確かに、あるあるネタや昆虫ネタ、変な日本語のネタなんかは4コマあれば足りるワケで、
カミキリムシ限定しりとりなんかでも、8コマあれば相手がキレるのには十分過ぎている。
漫画に出てくる登場人物の青春が、そもそも如何にも4コマ的な断片でできているのがイイ。

「彼らの青春は4コマ漫画みたいでした」って言うと、どういうイメージなのか分かり難い。
恋愛や部活動や学問と格闘することもなく、休憩時間中、ずっと机に伏せているワケでもなく、
モテないことを僻むのでもなく、「何が勉強だ」と嘯くのでもなく、孤独なワケでもなく、
そこそこに同性にも囲まれ、異性にも囲まれ、どうということのない関係を築いていて、
家族や友人や先生といった人間関係に深く悩むのでもないような、そんな「真っ当」な青春。
学校生活を舞台にした4コマ漫画は枚挙に暇ないが、私のイメージはそんな感じだろうか。
このように書くと何も残ってないように思えるけど、もちろんそんなはずはなくて、
そこには物語になり損ねた無数のエピソードが、霧のように不確定なまま漂って残されている。


あっちむいてホイ
だけで
部活の時間が終わった日
帰り際に部活に
うちこむ運動部の姿を
見たときの
なんともいえない気持ちといったら・・・



例えばこういう不毛さは不毛さそのものがエピソードで、不毛でない学校生活なんて嘘です。
『スケッチブック』の美術部は、居心地がいいけど不毛な場所のようで(特に先生には)、
文化系クラブの見せ場のはずの文化祭では、絵を飾りつつその横で焼きそばを作ってたりする。
焼きそばはあんまり売れなかったし、美術部のアイデンティティも丸つぶれのはずなんだけど、
主人公は「部長の作った焼きそばはまぁおいしかった」と、そう独白するだけで後に残さない。
この手応えの無さ、深刻に考えない感じは逆にリアルで、リアルだから4コマ以外では語れない。
霧のような密度のエピソードは、4コマ程度のパッケージでないと逆に拡散して不明瞭になる。
あるあるネタというジャンル自体が、そもそもそういう類のモノのようにも思える。


と、まぁ、いつものように漫画ごときに、見当違いなことを小難しくホザいてますけれども、
私はこの漫画に出てくる根岸という男が大好きなんですよ、要するに。そう、要するに!
この漫画の女性は全員がアンチヒロインな性格で、根岸と彼女らの普通の関係が好きなのです。
『スコアブック』に8ページほど、『スケッチブック』の非4コマな漫画が載っているのだけど、
根岸+女の子三人で、日曜にツチノコ探しに出かけたのに、現場で女の子なんかガン無視して、
全力でツチノコを追うこの男はもうね、素晴らしい。そもそも8ページあるこの漫画のオチ、
最後のコマは、ツチノコに間違えられやすいトカゲの簡単な解説でしれっと終わっていて、
この作者は常道から逸れることを素でやってのけているから、もっとやればいいと思います。


小箱とたん 『スコアブック 小箱とたん作品集』(マッグガーデン)
86127427.jpg

posted by 手の鳴る方へ at 05:13| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。