2009年11月24日

リップマンの『世論』

ウォルター・リップマン 『世論(上・下)』(掛川トミ子 訳 岩波文庫)
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社会はとても広くてとても素早く変化するため、誰もその全貌を見た者はいない。
人々はほんの一瞬だけ、そのほんの一部を垣間見ることが出来るに過ぎないので、
社会を思い通りに変化させたり、社会の総体を推し量ったりするのはとても難しい。
もしも社会が狭ければ、かまどの炊煙が夕餉時に立ち上っていないから税を免除しよう、
と言ったような、直感的で、メディアを介さないような政策判断も出来るかもしれない。
が、現代では、このような仁政は理想でもないので、炊煙に代わり世論が政治の参考となる。


変化するうえに巨大な社会を、全体として把握するのは困難で何よりも面倒臭い。
社会の構成員はもはや同質ではなく、幾つものコミュニティが勝手な思惑を抱いている。
だから目に届き難い雑多なことは、類型を指し示す、特徴的なイメージで把握される。
社会の中の物事は生成変化するが、頭の中の、物事に関するイメージはあまり変化しない。
と言うより、本人に変える意志がなければ、イメージはずっとそのイメージのままであり、
ステレオタイプとは、この類のイメージが、多くの人々に共有されている様子を言う。


もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、次の二つのうちいずれかが起こる。当人がもはや柔軟性をなくしているか、あるいはなにか強烈な利害関係があるために自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合になっているような場合、彼はその矛盾を規則にはつきものの例外であるとして鼻先であしらい、証人を疑い、どこかに欠点を見つけ、矛盾を忘れようとつとめる。しかし、当人がなお好奇心が強く開かれた心の人であれば、その新しい経験はすでに頭の中にある画像の中にとり込まれ、それを修正することが許される。(上巻 p.136)


と、そう言われるように、ステレオタイプは広大な社会の穴を埋め、空転する憶測でもある。
そもそも人の目の届く範囲には限りがあり、人の目が見ようとするモノにもまた限りがある。
アリストテレスによれば、機能する民主主義の限界は、そこに住む人達の視力の限界であった。
仁徳天皇の仁政の範囲が、山上で目に映った、その風景に限られていたのとそれは似ているが、
リップマンは、「シカゴ市民は往時のアテネ市民と同じ視力しかないのに、はるかに遠くまで見聞きすることができるようになっている。」(下巻 p.255)と述べ、民主制に決して悲観はしていない。
リップマンが死んだ後、メディアは一層発達し、人々はますます遠くまで見通せるようになった。
現代の社会や政治が陥っている齟齬と、その齟齬を修正する力は、同じ根を共有している。


すなわち自治を行う人びとが、情報機関を発明、創造、組織して自分たちのきまぐれな経験、偏見の外へ踏み出そうとしないところに〔病巣の〕源がある。政府、学校、新聞、教会は、民主主義のあきらかな弱点、たとえば、はげしい偏見、無気力、重要だがつまらないことへの反発からきた、些細ながら好奇心を唆るものへの偏好や、枝葉のことや不完全なものへの欲求に対して、あまりにも主導性が乏しい。それは彼らが信頼すべき世界像のないままに行動せざるをえないからである。これは民主主義の根本的な欠陥であり、その伝統にもともとつきまとっている欠陥である。そして、ほかのすべての欠陥も、原因はこの欠陥にさかのぼると、私は思う。(下巻 p.222)


この引用した前のページで、新聞は暗闇を照らすサーチライトに喩えられている。
情報の世紀の中にあっても、新聞に限らず、メディア一般なんてその程度のモノなのだし、
それらに過度な責任を押し付けるのも、リップマンが弁護するように、お門違いなのだろう。
最終的にモノを見て考えるのは、何だかんだ言って、メディアでは無く個々人なのだから。
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2009年11月23日

『ヤシガラ椀の外へ』

ベネディクト・アンダーソン 『ヤシガラ椀の外へ』(加藤剛 訳 NTT出版)
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コーネル大学教授で専門分野は東南アジア。名著『想像の共同体』の作者として有名。
大学人、研究者としての自身の「幸運な」半生を、日本人の若者向けに語った本で、
訳者の加藤剛も、訳者の枠を超えて日本の大学教育の歴史、学問領域について語っている。

アンダーソンは1936年生まれ。父親はアイルランド人、母親は中流階級のイギリス人。
雲南(昆明)で生まれ、ヴェトナム人の保姆(保母)に育てられ、思春期に至るまでに、
カリフォルニア、コロラド、独立アイルランド、イングランドと、色々と転居している。
21歳でコーネル大学のティーチング・アシスタントととなり、全キャリアを同大学で過ごす。

本の内容は、大学やフィールドワークの思い出(巻末の人名索引がスゴいことになってる)や、
大学の学問領域(ディシプリン)解説、アメリカの大学事情や時代背景との絡みも面白い。
タイトルの『ヤシガラ椀の外へ』は、学問領域や国境、言葉、時代を越境し続けた作者からの、
狭い場所に引き篭もってないでもっと視野を広げてみなよ、というシンプルなメッセージだ。


で、話はスゴイ変わる。
『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞を受賞した水村美苗が、同賞の受賞コメントの中で、
アンダーソンの『想像の共同体』に触れ、「英語で書いてあることに無自覚」と述べているが、
無自覚な理由はこの本に書かれてある。「翻訳されることに無自覚だった」と言う方が正しい。
『想像の共同体』が書かれた1983年当時、ナショナリズムの著作は、主にイギリスで出版され、
主にイギリスで論争が行われていた。その論争に学術的でない文章で横槍を入れようとしたのが
『想像の共同体』で、アンダーソン本人は、当たり前なんだけど、言語に関しても鋭敏である。
例えば学者として、現地語に堪能になるほどその地域に愛着を持ち、肩入れする危険性を語り、
学術領域のみで流通しがちなジャーゴンの使用が、その学問を閉鎖的にする呪縛であると言い、
他国語で読むことで他者を発見し、学問が始まるという、トドロフの啓蒙的な話もしている。
また、インドネシアの華人が書いた多言語的な本を、復刊するようなこともしていたりする。

(ちなみにアンダーソンの母親は、イギリスの西の果てでしか流暢に話されていなかった、
消滅しかけのアイルランド語ではなく、既に消滅しているラテン語を息子に学ばせている。
それは優秀なパブリック・スクールや、いい大学に入るための受験対策だったらしい。
これはアンダーソンが小学校時代の頃、アイルランドのウォーターフォードにいたときの話で、
このときに「ラテン語に恋をした」と、のたまってしまうアンダーソン先生マジ格好イイ。)

ついでに『日本語が亡びるとき』に即して言えば、アンダーソンはこの本の最後の方で、
グーグルのような検索サイトが、アメリカ語の跋扈を許すことになることを危惧しており、
ドイッチュの「権力とは耳を傾ける必要がないということだ!」という言葉を引用する。
アメリカ語は権力だから、他の言語の事情なんか知らないし、興味ないよ、ということだ。

この『ヤシガラ椀の外へ』は、訳者との共同作業で、日本のみで出版されたのだけど、
その内容と水村美苗の『日本語が亡びるとき』や受賞スピーチとは、どこか交差している。
日本語で書くと言うことは、国際社会の批判に晒されない場所で書くということでもあって、
小説は百歩譲ってまだいいとしても、学問の分野ではそれはヤシガラ椀の中に篭ることだ。
アンダーソンはこの本によって、日本の若者、特に研究者に、〈現地語〉から脱しなさいよ、
でも〈普遍語〉をあまり過大視しなさんなよ、と、そう言って背中をポンと叩いているようだ。
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2009年11月22日

『ヨコハマ買い出し紀行』

ヨコハマ買い出し紀行(1)(2) 新装版 (芦奈野ひとし 講談社)
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月刊アフタヌーンで連載していた漫画の復刻版。通常版はとても手に入り難かった。

いい意味でも悪い意味でも使われることがあるらしい、「雰囲気漫画」って言葉だけど、
この漫画の場合、いい意味で、しかも最高峰の、類無き、雰囲気だけの漫画だといえる。

登場人物の周囲は、時間的にも空間的にも、基本的にのほほんとした雰囲気なんだけど、
「優しいことばかりじゃなかった」時代を経た、銃の携帯も不自然ではない世界観が背後にある。

この漫画が「雰囲気だけ」なのは、単刀直入に言って世界がとっくに滅んでいるからで、
滅んで、元に戻れないところまで閾値を振り切ってしまった、そんな世界だからだと思う。
比喩で語れば、華やかな遊園地があり、そこにある全てのアトラクションの電源が落とされ、
日は沈み、音楽が止み、入り口が閉じた後の、帰り道の人間達の「何事も無さ」に似ている。
本当に楽しいことも、本当に悲しいことも全部終わってしまった後の、デストピアのような風景。
後は明日を待ち、次の時代の到来を待つだけの、空白のような、周縁に位置する時間の中で、
金網の向こう、シルエットだけになった観覧車のように、過去や「ターポン」は眺められ、
老いた世界がベッドの上で見るような、あるいは見たいと思うような人の遣り取りがある。


まぁ、とかなんとか大袈裟なこと書いてますが、普通に面白い、肩の全く凝らない漫画です。
三巻ももうすぐ出るようです。あるいはもう出ているかもしれません。
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2009年11月20日

それは戦友の愛なのではないか

週刊誌の「AERA」の終わりの方に「はたらく夫婦カンケイ」というコーナーがあって、
週毎に、働く夫婦の写真と経歴、二人の文章、出会いから結婚に至るまでが掲載されている。
夫婦の職業は様々で、共に農家だったり、夫が会社を立ち上げて、妻もそこで働いていたり、
妻がマーケティング会社の代表取締役で、夫が商社のサラリーマンだったり、まぁ色々ある。
本人達の思惑が多分に込められた(と私が勝手に思ってる)写真の構図が多様で面白い。


で、そこに掲載されていたある夫婦を見て思った、というワケでも別にないのだけど、
現代において夫婦と言うか、伴侶と言うか、配偶者と言うか、パートナーと言うか、
その内実が大きく変化しているのではないかと、そんなことをぼんやり考えている。
まず、「AERA」のこの連載に出てくる夫婦を、「夫婦」と呼ぶことに違和感がある。
彼ら彼女らの言葉や写真から滲み出ているのは、より良い人生への真摯な努力であって、
「素晴らしい人生を送るため」や「もっと良い人生を築くため」という功利的な理由で、
お互いを必要としているような感があって、ここで「功利的」という言葉を安易に使うと、
また余計な誤解をされそうだけれども、彼ら彼女らがその関係の中で賭けようとしているのは、
愛だとか金銭だとかの三文芝居的なものではなくて、自分自身の人生なのではないだろうか。
それを踏まえた上で、初めて愛や経済や家庭やらが言葉にされ、繋がっているのではないか?

ぼんやりとした考えをぼんやりとしたまま書いたので、ぼんやりとした文章になっているが、
喩え話を持ち出すと、生きるということはよく言われるようにサバイバルみたいなもので、
私達はどこかの戦場の最前線で、結構ヒリヒリとした現実と交戦していると言えなくもない。
不況や政治や国際情勢の影響で、より良く、あるいは普通に生きるのすら難しい昨今だが、
人生をサバイバルする戦略の一つとして、例えば理解し合えて、自身を成長させてくれて、
一緒にいると安心できるようなパートナーを、側に置くことはとても有効なことだと思える。
一緒に戦えて、より長く生き延び、戦局を優位に進められる仲間の存在はきっと心強い。


現代人はその身をサバイバルに投げ込まれている。それこそ生まれて死ぬまで最前線生活だ。
「はたらく夫婦カンケイ」に垣間見える関係は、夫婦というより、共に戦う戦友のように見える。
現実を生き延び、サバイバルを潜り抜け、お互いの心身を休める居場所としての戦友関係だ。
思えば夫婦という関係性と、戦友という関係性は、一体どちらがより強く堅いのだろうか。
後者だと即断したくなる。そこにある夫婦の愛は、比喩が雄弁に語る戦友の愛なのではないか?
posted by 手の鳴る方へ at 05:42| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

ファッションの語る言葉

メンズナックルキャッチコピーまとめ


「メンズナックル」と言えば――いまさら解説も紹介も不要に違いないけれども――、
ガイアが俺にもっと輝けと囁いたり、鳥人拳だったり、マッド・ロックの伝道師だったり、
孔雀は堕天使の象徴だったり、伊達ワルだったりで、とても有名な男性ファッション雑誌。
「俺たちゃ無敵のXYZ」だとか、「ある意味、俺がホスト界のスペードのエース」だとか、
わかりそうで、でもよく考えればやっぱり意味がわからないキャッチコピーが大好きです。

この類の、後発のニッチ狙いの雑誌は、手探りで独自の文化を築き上げなければいけません。
もっと細かく言えば、扱うファッションを言語化し、ボキャブラリーを練る必要があります。
個性のマス・プロダクトを築くためには、モデルやブランドと同じくらい言葉が大事なのです。


ちなみに、普通の先行しているファッション誌なら、その煽り文は極限まで洗練化されており、
材質や形状、色、柄、ブランド、状況、ステータス等々、語彙も一般的なものが占めています。
彼らは奇を衒う必要も無いし、変に自分自身を意識することもない位置で仕事をしています。
正統派のフォーマルなファッションなら、それを語る言葉も正統派で一向に構わないからです。
例えば(手許にどういうワケか女性誌しか見つからないので)女性誌の煽り文を例にとれば、


ミリタリーショーパンはざっくり
ニットとアースカラーのグラデが命

リゾート風サンドレスは
+ベストでタウンユースに変身

夏の大人カジュアルは
クラシカル女優がお手本



と言った具合に、見事な様式美、機能的な美文を見せてくれます。役目を全うしてる感じです。
この傾向は「小悪魔ageha」や「POPTEEN」等、フランクな雑誌でもあまり変わりがありません。
文章は確かにざっくばらんで馴れ馴れしい感じにはなりますが、言葉の使い方は同じです。
女性誌に話が移行してますが、例えばこれが「Gothic & Lolita Bible」ならどうでしょう。
その名の通りゴスロリのファッション雑誌です。煽り文を幾つか引用してみましょう。


茨の森で待ち構えているのは、リスの国の女王様。
「この森を無事に抜けたいのなら、
岩トカゲのしっぽと、雪うさぎの前歯、
上質なドングリを帽子いっぱいに集めてきなさい。
かわりに、この森の出口の地図をあげましょう」

ゴキゲンな日には、
黒猫みたいに
タンゴを踊るの♪
お気に入りの服は、
上手に踊れる魔法の道具の1つなの☆

しかし悲しいことがひとつ。
薔薇少女達は
たくさんの薔薇を食べなければ
動くことが出来ません。



どう見てもポエムです。そもそも、誌面の作り方からして煽り文であるよりはポエムなのです。
本来なら煽り文が入る場所に、連作ポエムがデカデカと挿入される誌面構成となっているのです。
一番目のヤツなんかは、ウサギの前歯を所望するあたりに残酷な童話の世界が垣間見れますね。
きっとリスvsウサギで、クイーンオブメルヘンアニマルの座を争っているに違いありません。
ちなみに「Gothic & Lolita Bible」の中身が全部こんな感じというワケではありませんし、
ゴスロリ誌一般がこんな感じってワケでもありません。ポエムは他の雑誌でも見受けられます。

で、ご覧の通り、「Gothic & Lolita Bible」にはイメージ先行の煽り文が多用されています。
そのイメージとは、キーワードを挙げれば「童話」「西洋」「ウィッチクラフト」等でしょう。
「メンズナックル」と同じように、イメージが先走りすぎて意味不明だったりもしますが、
このようなゴスロリ誌の言葉や誌面作りは、これはこれで洗練されているようにも思えます。


メンナク系やゴスロリ雑誌には、ファッション“を”語る言葉が希薄であると言えそうです。
むしろファッション“の”語る言葉があり、その言葉で、ストリートにイメージを招くのです。
それらの雑誌の煽り文は、モデルその人というより、ファッション自体が発した言葉なのです。
つまり、ガイアだとか黒猫のタンゴとかの語彙は、皮膚の上に憑依した霊の語る言葉であって、
それを着ている人間の言葉では必ずしもないのです。ゴスロリ少女はゴスロリに身を包みつつ、
結構、「お母さんに素麺買って来てって頼まれたー☆」とか生活臭のある言葉を吐くものです。
メンナク系のモデルだって、DQNや厨二病は少数派でしょうし、鳥人拳の達人も皆無でしょう。


ゴスロリやメンナク系の想定する世界を、「共同幻想」と言ってしまえばそれまでですが、
現代においても、幻想を作るというのは、最高にクリエイティブな仕事に違いないのです。
今までになかった幻想を作りつつあるという点で、私はそんなファッション誌を応援したいです。
雑誌業界はますます低迷していますが、雑誌“の”語る言葉もまだ大丈夫だと言いたいのです。
posted by 手の鳴る方へ at 23:06| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

『高校球児ザワさん』

『高校球児ザワさん』(三島衛里子 小学館)
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男だらけの野球部に女が一人でいたら周りの人はどう思うか、って話。
スポ根や部活動漫画というより、周囲の反応を記した観察記録みたいな漫画で、
主人公の「ザワさん」自体は、見られて反応される対象として描かれている。
チームメイトやクラスメイト、観客など、周りの人間のリアクションがメインで、
観察記録とはザワさんの記録ではなく、周囲の人間の、反応パターンの記録だ。


予想できる通り、ザワさんに接した人間のリアクションは、半分くらいがエロい。
「男だらけの体育会系部活動に女が一人」なんてエロ漫画のテンプレもいいとこだ。
「目隠ししてプロテイン」とか、もっと身も蓋も無いエロゲ的な描写もあるけれど、
もう半分はエロくなくて、キチンと部活動や青春を送っている描写もあったりする。


恐らく、現代人がザワさん的な相手に見せるリアクションのパターンはそれほど多くない。
作者の想像力は十人十色のリアクションを思いつくだろうが、その想像力の限界が、
すなわち現代人の想像力、ザワさんを前にしたときの想像力の限界ですらあると思う。
2巻にして既にエロい話が目立つのは、作者のマンネリなどでは決してなくて、
それがザワさん的なモノに接した際の、一般的な現代人の発想のテンプレだからだ。
そして一般的な反応だからこそ、そのテンプレは繰り返し描かなければならない。
描かなければ逆に嘘になる。チームメイトの猥談や困惑や妄想は特にそうだろう。

これが例えばマリナーズのイチローのニュースを見聞きした人々の反応なら、
漫画家はどの程度のパターンを想像して話数とすることができるだろうか。
それは何を考えることができるか、何を真っ先に考えてしまうかのテストでもある。
問われているのはステレオタイプと、そこからズレる現代の想像力に違いないし、
大仰なことを言えば、そこから生じた成果は、現代を映す鏡ですらあるだろう。
一人の作家が脳髄を振り絞って考え出した様々な反応のパターン数は、
現代人の反応パターンをほとんど網羅すると思うのだけど、どうだろうか。
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2009年06月06日

『千と千尋の神隠し』〜放棄について〜

語り尽くされた感があるけれど、千とカオナシのスタンスの違いは面白い。
例えば「千は全部捨てる。カオナシは全部拾う」と言ってみるのはどうだろう。
「千は後先考えず捨てる。カオナシは後先考えず拾う」と言ってみるのは。

千は油屋で働いているときに、催吐剤としてのニガ団子を手に入れた。
最初にまずその半分を、銭婆の呪いにやられて、のた打ち回るハクに与え、
「本当は両親にあげるつもりだった」もう片方を肥大しきったカオナシに与えた。
4枚綴りの電車のチケットも、帰りの分を無視して全部使い切ってしまった。
カオナシが出した黄金は手にしなかった。宮崎駿作品の真っ当なヒロインらしく、
「私の欲しいものは、あなたには絶対に出せない」と、申し出を拒否していた。


また、物語のクライマックス、銭婆の所からの帰り、ハクが名前を思い出した後、
千が12匹の豚の中から、物語冒頭で豚になった両親を探し当てるシーンがあるが、
そこで千はどの選択肢も選ばなかった。12の可能性を全て捨ててしまったと言える。

私はこのシーンが大好きだ。物語の最中に、何のフラグも立ってないはずなのに、
決定的な場面で選択肢の中に答えが無いことを言い当てる、その正しさが好きだ。
「正しさ」とは、決定的な場面で、目前の選択肢の中に答えが無い、という点で、
そこに答えが無いのなら、ならば選ばないことが正しいのだ、という程度の意味だ。


世の中を見渡せば、「この中に、本当に痩せるダイエット方法がある」とか、
「この中に、本当にあなたを幸せにする生き方が、価値観がある」とか、
「この世の中には、赤い糸で結ばれた、あなたに相応しい伴侶がいる」とか、
「本当の進路、職場、老後がある」とか「本当の政党、政策、思想がある」とか、
「食べ物がある」とか「安全がある」とか「教育方法が」とか「正しさが」とか、
挙げればきりが無いくらい、正しい道筋を示唆する情報で満ち溢れている。
私達は個々人の関心に従ってそれらの情報や実物やらを生業として手にするし、
場合によっては個人で情報や実物を作り出し、発信してみたりすることもある。
私達には個人的な欲望や、社会的な責任感・使命感が多少はあるに違いなくて、
経済も政治も法律も教育も、どれも全て決定することで未来へと繋がっている。
「答えが無いから選ばない」的なスタンスでは社会も個人の人生も成り立たない。
(逆に言えば、答えが無くても選んでしまえば何とかなる。「答え」涙目wwwww)
非決定をあえて語るのは、せいぜいが真摯な宗教者か変人の哲学者くらいのもので、
この『千と千尋の神隠し』が、物質文明を説教しているように見えるのも、
登場するキャラクターや世界観のためというよりは、この宗教性のためだと思う。


決定的な場面で選択肢の中に答えが無いから選ばない、という生き方は不可能だ。
私達はどう頑張っても、自分達は千よりもカオナシに似ていると結論せざるを得ない。
物語の中の千の生は、その労働と時間を費やして得るものはとても少なく、
与えられても拒み、せっかく手にしたものがその手からこぼれ落ちるのは早い。
意志しつつ放棄し、関心を持ちつつ放棄することで、生はゼロへと近似する。
「ゼロになる体 満たされてゆけ」と心地よい主題歌は歌っている。
空の容器に水が入るように満たされるのではない。ゼロそのもので満たされる。
それはつまりは死ということであり、千は死ぬことによって元の世界への道を開く。
彼岸で死ぬことで、振り返ってはならない道を通り、此岸へと戻ることができる。
放棄することの極北がここにある。それは本来性へと帰還する道なのだ。
物質文明は人間にとっては彼岸であり、あの世である。カオナシは本来性を喪失している。
と、この口調は、「死後の世界が真の世界である」とホザく宗教とよく似ている。
宗教は悪くない。このような言葉を宗教に任せきりにしていた非宗教の怠慢だ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

『英国王 給仕人に乾杯!』

『英国王 給仕人に乾杯!』
(イジー・メンツェル監督 2006年 チェコ/スロヴァキア)
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背の低い野心家の給仕人が、1930年〜1960年代のチェコを生きる話。

この時代の、ドイツとソ連に挟まれた国を舞台にしているものの、
主人公が戦火に巻き込まれていないため、直接的な戦争表現は無い。
内容はむしろいい歳をぶっこいた、名も実もある良識ある大人達の乱痴気騒ぎだ。
町のカフェでの名士の馬鹿話、ブルジョワの暮らすチホタ荘での豪奢な暮らし、
ホテル・パリでの女体+食事、これらが楽しそうな雰囲気と共にスクリーンに現れる。
そして戦争(最大の乱痴気騒ぎだが)が始まると、ナチスの優生学研究の名の下に、
給仕人かつチェコ人の主人公は、全裸のアーリア人種の女性達の世話をする。
「何も見るな。何も聞くな」「すべて見ろ。すべて聞け」という給仕人の心得を、
見習いの頃に教わっていた主人公だが、ここでは積極的に全裸の女性達に無視される。


映画では、彼が乱痴気騒ぎの「おこぼれ」を貰う場面が多々ある。
それは女であったり、金であったり、勲章であったり、高額な切手であったりする。
切手は彼の妻がユダヤ人から回収してきたもので、それら僥倖は歴史の気まぐれで、
彼の足元に投げ出された硬貨のようなものだ。彼はそれを拾い、財を成し、投獄される。

この歴史の悪い冗談の中、英国王給仕人をしていたというホテル・パリの給仕長は、
ナチスに従わなかったとか、多分そういう理由でホテルから連れて行かれてしまう。
同じ頃、熱烈なヒトラー信者の女性と付き合っていた主人公は、彼女と結婚するため、
アーリア人女性を孕ませるのに相応しい遺伝子かどうか、優生学的な検査をする。
で、ヌードピンナップでオナニーをするわけだけど、その部屋にはラジオがあり、
そこからは、空気を読まずに、「ナチスの反逆分子」の名前が読み上げられている。
画面にはトラックから降りる若い男達と、降りた先で銃をもてあそぶ兵隊が映る。
主人公はその放送が流れる部屋の中で、優生学的な検査のための精子を搾り出す。
そしてやがて、太った看護婦の手伝いもあり、カップの中に精子が溜まっている。

ナチスに連れ去られたあの偉大な給仕長・英国王支給人に乾杯するその杯の中には、
恐らくこの精子が入っている。乱痴気騒ぎの極地で、優生学だけが杯を満たすのだ。
人間の尊厳も美酒も人生も何もかもが、アホみたいな騒擾の中で姿を消してしまう。
優生学研究所は、戦争が進む中で、全裸の負傷兵がノロノロと行きかう療養所と化す。
優生学すらも最後には残らない。2月革命により、主人公の「おこぼれ」も没収され、
栄誉ある勲章も、やがては山羊の肩にかけられて土に汚れるままになってしまう。

時代の馬鹿騒ぎが歴史を紡ぐのなら、歴史とはそもそもコメディのようなものだ。
この映画の最後は、ビールのCMのような科白で幕を閉じる。
幕引きに相応しい美しい言葉は、杯に精子が満たされた時に死んだのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

「小悪魔ageha」が面白い

小悪魔 ageha (アゲハ) 2009年 03月号
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発行部数が30万部ほどの、キャバ嬢御用達の雑誌。ファッション中心。
なのにティーンズのコーナーによく置かれているのは気のせいではないはず。

今月発売の3月号を数ページ開くと、女の子44人が見開きで合掌している。
飯島愛の追悼らしくて、文芸誌なら作家が死ねば文章で追悼するのだろうが、
そんな言葉を持たない「小悪魔ageha」は、着飾った子達を黙祷させて追悼する。
モデルや編集者個々人による飯島愛談義もない。(接点が無かったのだろうか。)
そもそも44人の女性が黒服で合掌して並べられているというのも妙な構図で、
例えばこの眼を閉じて顎の前で手を合わせている姿を、44体、木彫りの像にして、
歌舞伎町のビルの一室を買い取ってその壁や廊下に等間隔に並べてみれば面白い。
漁師や農家が、近くの山や神社で仕事の安全や大漁・豊作を祈願をするように、
キャバ嬢にも、自身の職の安泰を願う、聖域のようなものがあってもいいと思う。


「小悪魔ageha」という雑誌は、そこそこ売れているのにやっていることが面白い。
例えば今月号の表紙には、デフォルトとなっているキラキラした文字でこうある。


生まれたときから
日本はこんな感じで、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛するもの、
買ったもの、
着てるもの
オール407コ!!!



「そして」の前後の文が繋がってないのはご愛嬌に違いない。
『女はなぜキャバクラ嬢になりたいのか?』(三浦展 柳内圭雄 光文社新書)を
意識したような、そんな社会の眼差しを先取りして大急ぎで内在化したような、
雑誌のターゲットとは違う層、というか社会一般に語りかけている感じがイイ。
この今月号の表紙の一文は、他の雑誌で例えるなら、「ゆほびか」の表紙に、


人の欲望には
限りがないから
インチキだろ
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
お薦めする、
簡単ダイエット、
簡単開運法
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「ザ・テレビジョン」の表紙に


地デジ化を
進めなきゃいけないのに、今さら
不況だからどう
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
愛して欲しいもの、
買わせたいもの、
流行らせたいもの
オール407番組!!!



って書いてあるようなものだ。「週刊新潮」の表紙に


真実とか嘘とか
そんなものに興味ないのに
社長にも責任がある
とか言われても
よくわからない
そしてこの2月、私たちが
スクープした記事、
パパラッチした記事、
捏造した記事
オール407コ!!!



って書いてあるようなものだ。「潮」や「パンプキン」の表紙に(以下割愛)。


と、このように、「小悪魔ageha」のスタンスは面白いし、誠実ですらある。
ちなみにこの雑誌、メンヘル的な特集を組んだ先月号の表紙も変わっていた。


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泣いている表紙は女性誌では稀有。そもそも涙は雑誌の表紙を滅多に飾らない。
(最近の例では、映画雑誌の小栗旬や、引退セレモニーで泣いた清原くらいか?)
その先月号の内容はまぁ、ありがちな不幸自慢なんだけど、キャバ嬢の口から、
「本当は『フルーツバスケット』の本田透みたいな子になりたかった」とか、
そんなことを言われたら私なら確実に食いつくと思います。2時間くらいガッツリと。
本田透に憧れるというのは、実はそれほどイイ傾向ではないんですけどね。
それはいいとして、こういう特集がなされるのも、雑誌としてスゴイ誠実です。
彼女達キャバ嬢は、勝間和代的な女性の陰画だと、読んでいてそう思いました。
「小悪魔ageha」は、カツマーを敵視しつつ、女性のボトムアップに貢献すべきです。
雑誌として下流に片足を突っ込んでいるのは、当人達も自覚しているはずですから、
三下のオピニオン誌どもが党派性にまみれている横で、頑張って欲しいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:57| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

『それでも町は廻っている』

石黒正数 『それでも町は廻っている 5』(少年画報社)
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原作者のいる作品が一番面白くないという珍しい漫画家の新刊。


日常を描いているようで、時々、異星人とか変な水棲生物とかが出てくる。
登場人物達はそれらの手前で、背を向けて、無意識にスィッと日常へ引き返すし、
幽霊や異星人や水棲生物が別段、今後の展開の重要な伏線になるわけでも多分ない。
それらはケレン味のある見た目とは裏腹に、日常を変えることを期待されていない。
むしろ日常はそれらが不在である間に、不在であることを原動力として動いている。
事件や異物や秘密など、劇的なものの非現前こそが実は日常なのだという発想は、
よく考えれば怖いのだけど、この漫画の日常は多分、それらに巻き込まれはしない。
それはコメディだからとか、お気楽だからとか、主人公が女子高生だからではなくて、
現に「それでも町は廻っている」から、それが自然・本性(nature)だからだと思います。
って、あまり上手くないオチですね。25点。



しかしこの作者は、雪女の話にしても、亀井堂のねーちゃんが出てた話にしても、
『それ町』と『ネムルバカ』の主人公の名前にしても、そういうのが好きみたいだね。
尾谷高校とか、河井荘とかね。比音小学校って名前にも何かあるのかもね。
posted by 手の鳴る方へ at 10:26| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芸とTV

あらかじめ言い訳しておくと、内容とまとまりの無いことをダラダラ書いてます。
しかも、ここ数ヶ月、お笑い番組どころかTVを見ていない人間が書いてます。





「何故TVはこのようなコンテンツを作ってこなかったのだろう?」と、ふと思った。
「このような」とは、漫才という形を保ちつつ、舞台上に急に扉や電話が現れたり、
別撮りの、目玉のオヤジや魅魔様やテレサや骸骨が、要するに舞台上の漫才師以外が、
漫才の中に、編集の時点で意図的に差し挟まれる、そういう作り方のことを指している。
このコンテンツの目新しさは、Sims2の多様な表現とか東方とかそういう話ではなくて、
漫才なのに演者や舞台が、コンテンツの中で要素の一部と化している、という点にある。
で、TVなら、この類のコンテンツだって簡単に作れるはずなのに、全く試みられていない。
TVのお笑いコンテンツで人間が不在なのは、「オー! マイキー」くらいしか知らない。
まぁ、「オー! マイキー」はむしろ静止画の紙芝居(特に電脳紙芝居)の系譜っぽいが。


TVでやっている漫才番組は、演芸場でできる漫才と同じモノをお茶の間に届けている。
TVの前にいる視聴者と、客席で観客の見ている漫才の内容は、名目上は一致しているし、
番組製作者は、舞台の上に現れる芸や芸人が、コンテンツの中心となることを疑わない。
編集で添加されるのは笑い声やテロップ、客席や司会者、審査員の様子くらいなもので、
他の番組に比べたら、編集の手をなるだけ介在させないことに意識が向けられている。
それはほぼプレーンなまま、分かりやすく料理風に言えば「素材の良さをそのままに」
お笑いコンテンツが制作されている。舞台の上は隠れる場所がないし、隠す誰かもいない。

と言うことは、漫才コンテンツの関係者は、舞台上に生じる演芸の空間だけで、
お笑いのコンテンツは完成し得るし、現に完成していると考えていることになる。
つまりTVのこの発想は、演芸場の発想とほとんど同じであると言ってもいいはずで、
TVと芸の関係を否定的に考えることは、間接的に「舞台的なもの」も否定している。
松本人志がいくら「TVではもう勝負できない」とボヤいて映画を撮ったところで、
あるいは日刊ゲンダイがいくら「『M-1』は芸人を育てない」と非難したところで、
漫才、あるいは芸人は、TVよりも大きな舞台を見つけることは決してできないし、
今のTVでは人間不在の、冒頭の動画のようなコンテンツは主流にはなり得ない。

ところで考えるに、何故、主流にはなり得ないのだろうか?

TVの根源にあるのは不特定多数の、つまり大衆の耳目を集めるタレントで、
タレントの定義をせずに話を続けるけど、硬派なドキュメンタリーや教養番組を除いて、
TVのコンテンツの中心には必ずタレントがいなきゃいけないことになっているらしい。
それはTVが黎明期に舞台演芸や映画から引き継ぎ、独自にも成熟させたシステムで、
タレントのことを大衆は話題にするし、タレントを軸にマーケティングは動いている。
上の日刊ゲンダイの記事も、悪意を持ってみれば、芸人のスキルアップの話というより、
M-1で優勝したコンビがカリスマ的なタレントにならないからマーケティング的に辛い、
量産型ばかりでは昨今のTV離れの戦局は打開できないよ、と言っているように見える。

仮に冒頭のような漫才を生身の人間で作ろうとすると、芸人はコンテンツの一部と化し、
編集作業の中で、彼らはスタントマン的な匿名の誰か、諸要素の一つに成り下がってしまう。
今でもTV番組には「再現VTRにでてくるどこかの劇団の役者」みたいな存在が不可欠だけど、
それは、舞台の上にいる間は確実に主役である「使い捨て芸人」よりも過酷かもしれない。
少なくともタレントという見地からすれば、「使い捨て芸人」の方が知名度は高いだろうし、
TVがタレントを求めている限り、安上がりとは言え芸人をそんな役割には貶めないだろう。


冒頭の動画を漫才と呼ぶとすれば、それは舞台的=TV的な発想とは違う視点で作られた漫才で、
舞台上にあった“芸”そのものが変質している。この動画にとって“芸”とは何なのだろう、
というか、そもそも“芸”はあるのか、それはそもそも必要なのかという次元の話なのだが。
ここで身も蓋もないことを言えば、“芸”という誰も定義しない何かが不在でも問題はなくて、
自分が知っている言い回しやキャラ、アニメのワンシーンがそこにあれば十分に満足できて、
それらがTVタレントの代わりに、ネットの中で多くの人々の耳目を集めつつあるのではないか。

まぁ、この結論は度し難いくらいありきたりなんだけど、改めて確認しておきたいところです。
posted by 手の鳴る方へ at 08:47| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

鉄の檻の中で妄想する保守

佐伯啓思 『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬社新書)
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私は自分のことを思想的に保守派だとは思っていないし、感化されたこともそれほどないし、
今いる日本の保守言論人の七割については馬鹿だと思っているけど、保守思想自体に恨みはない。
と言うか結構好きなのです。気楽だからブログではポストモダンばっかり紹介してますけど。

日本の保守派は、戦後の日本は狂ってしまったとか、東京裁判で日本人の本質が失われたとか、
そういう風に言いがちだけど、個人的に思うのは、敗戦で狂ってしまったのは単に保守、
保守という言論だけで、日本の大多数の人々は、別に東京裁判にも戦後云々にも興味は無い。
それを指してマインドコントロールだとか平和ボケとか頽廃とか言うのは別にいいけれど、
日本国や日本人を直そうとする前に、保守はまず自身の言葉を反省しろよ、と常々思ってます。


保守の課題として、現代の頽廃、近代化の弊害をどう乗り越え、改善するかという点があるが、
その語り方のパターンは、この本に限らず、大抵は精神論やアイデンティティ論になりがちだ。
近代はウェーバーが言うように「鉄の檻」で、そこから出る術はどうにも見つかりそうに無い。
だからそれを超克しようとする者は、精神だけでもなんとか檻から解き放たれようとするわけで、
武士道とか「無私」とか大伴家持とか「滅びの美学」とかが持ち出され、そして単に消費される。
それらは自由や民主主義をフィクションだと告発し、その欺瞞を気持ちよく暴くのだろうけれど、
「ひとが欺瞞をあばく(デミスティフィエ)のはいっそうよく欺くためなのだ」(p.250)と、
例えばクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房)には書いてあったりするワケです。

つまり、それら保守的な言説も、自由や民主主義と同様、所詮はフィクションとしてしか現れない。
神が死に、大きな物語が消滅した時代の中で、個人と化したデラシネ達が権威不在をいいことに、
底の抜けた社会をフワフワと漂いながら、武士道スゲーとか、特攻隊に思いを馳せるのですが、
その手の保守的な思想によって、現代の抜けた底が埋まったり、根無し草に根が生えるわけでは無い。
「日本の思想だから日本人や日本国には根付くはずだ。本物だ」と言えそうではありますがね。


以前ブログに今村仁司の言葉を引用したけれど、物質に対するそれら精神の対比そのものが、
デカルトから始まる近代の思想構造の枠内にあることは、もう一度改めて言っておいてもいい。
精神論やアイデンティティ論は、檻から出られないから手遊びに行われる妄想のようなもので、
超克の不可能性、大前提として底が抜けていることを、保守の言論人は常に確認して欲しい。
と、偉そうなことを書いているけれど、ここを押さえないと宗教と同じになってしまうのです。
あるいは近代以前に逆戻りと言う、出来もしないフィクションを主張することになるのです。
だから保守の言論というのは、本気で取り組むと結構シンドイはずなのです。これは嫌味ですが。


あと、宗教用語の「無私」という言葉を、思想やらイデオロギーに利用するのはいいけれど、
そもそも「個」して存在している現代人が、帰依もしてないのに「無私」と口走っても仕方ない。
本の中で紹介されていたニーチェも、西洋の中にニルヴァーナ思想が広がるのを危惧しています。
近現代人の仏教的「虚無」への誘惑は、別に今更始まったワケでもないということです。

ここまで書いて気付いたけど、いつもと同じようなことを書いてますね、私。保守の話なのに。
posted by 手の鳴る方へ at 08:37| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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