2008年12月16日

ネコナデ

ネコナデ(漫画 KUJIRA 原作 永森裕二 竹書房)
81247011nekonade.jpg


リストラを断行する、鬼のような人事部長が猫を拾い、愛でたり困ったりする話。
TVドラマや映画にもなったらしい。以下ネタバレあり。


この本の中でリストラとは、「会社で世話をしますよ」と言っておきながらそれを後年、
会社の都合で反故にする行為のことで、主人公のオッサンは、会社の尖兵としてそれを担う。
「世話を辞めた」と言うのが彼の仕事で、その彼が猫の世話をし始めるのがプロットとしてイイ。

猫を拾って「本当はイイ人」みたいな展開は、昔ならリーゼントの、一匹狼な不良の役目で、
そこで捨て猫に投影される心情は、Stray な、「お前も一人なのか」的なモノだったけれど、
時代がクサクサしてくると、会社の方針に疲れたオッサンがその大役に抜擢されてしまう。
そこに投影されるのは「頼りにされること」だったり、「面倒を見ること」の真剣さで、
逆に言えば「面倒を見ない」という不条理との格闘でもあるワケで、世も末な感じはする。


主人公は最終的に、猫を世話することで自分は変わったと思い、リストラを全部済ませると、
自分自身も会社に辞表を提出し、自宅に戻る。漫画の方では、本編はそこら辺で終わっている。
これは、「パンとサーカス」という言葉があるけれど、現代人を政治的・社会的に盲目にするなら、
猫を一匹、街に放せばそれでどうにかなるようだ、と言いたくなるくらい救いようの無い話だ。
猫一匹で社会の不条理から身を逸らせることができて、汚れ役を忠実に、健康的にこなし、
不満もやや解消され、それなりに満足して、自分は変わったと思えることができて職を辞す。
それでは残った会社が結局は一人勝ちだ。読後感はイイが、事態はそれほど改善していない。

何かそれが悪い、みたいな書き方だけど、個人的には、「世の中は変わるべきだ」とか、
「今の社会は狂ってる」とか言う連中よりは共感できる話だし、主人公についてもそう思う。
大の大人が猫一匹で変わったり、不条理を耐える力を貰ったりするのは滑稽なんだけど、
そういう閉じた、視野の狭い生き方をきちんと肯定できる世の中は、そこそこ正しいはずで、
大上段に振りかぶった「救い」なんかより、この「救いようの無さ」の方がマシだと思うのです。
posted by 手の鳴る方へ at 06:54| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月11日

本に帯はいらないと思う

現世に、不要なものは多々あれど、本の帯ほどむつかしきものはなし。

本屋や本棚の構造によっては、あれって不覚にもビリビリになるじゃないですか。
本棚から抜くときはそうでもないけど、戻すときにうっかりすると破れるじゃないですか。
背表紙を向けているにしろ、表紙を向けているにしろ、ギチギチに差し込まれた本棚に、
本の帯みたいな、防御力の低い、ペラペラした弱卒が入り込むと返り討ちに遭うんですよ。
しかもあれって商品なのか販促なのか、ちょっと微妙なところがあるじゃないですか。
販促なら破っていいワケじゃないし、どちらにしろ買う前に破ると罪悪感があるわけですよ。

何が言いたいかって、本の帯って本屋の構造に適してないんですよ。
大きな本屋なら、ゆったりしたスペースに本も置かれているからいいですよ。
街中の、中規模の、如何にも老舗っぽい本屋なんかを御覧なさいよ。
狭いスペースに本を大量に詰め込むから、密度が高いんですよ。押し合いへし合いですよ。
そこの本棚の隙間には、帯どもの無残な残骸が転がってますよ。ツワモノどもが夢の跡ですよ。
特にムックって言うんですか? あの手の本についてる帯の死亡率は高い気がします。

あと、あれって何て言うんですかね? 平積み? 本を水平に積み上げて売ってるヤツは?
あれならいいんですよ。無駄な圧力をかけてないから、帯に優しい親切設計ですよ。
でも棚に差すともう駄目なんですよ。帯は。もうフルボッコで涙目状態なんですよ。
「次に生まれてくるときは、『うずくまって泣きました』的なポップになりたい・・・」って、
きっと千切れてしまった帯達はそう思ってますよ。帯は広告戦争の最大の犠牲者ですよ。


本の装丁で有名なクラフト・エヴィング商會って人達の作品は、帯も含めて一つの作品で、
私は嫌いではないんだけど、一方で「それはどうなんだ?」という作品もある気がします。


クラフト・エヴィング商會『ないもの、あります』(筑摩書房)
48087332.jpg


この本の帯に見える部分は、実はカバーの裏側。つまり一枚の紙を折り畳んでいる。
表(写真の上半分)がクラフト素材で、裏側(写真の下半分)が白い紙。
どうせこんな「作品」と呼ばれるような装丁の本は、街の本屋には置いてないだろうけど、
それにしたって防御力の低い帯が本体と一体化しているなんて、もうね、悪夢ですよ。
切ったら血が出る髪の毛や爪みたいな怖さがある。そこは分離可能にしとけよ、と。
買っても怖いから、きっと本棚に差し込めない。鞄に入れるのも怖い。額に飾るしかない。
発想は面白いし、綺麗な本なんだけど、本棚の構造を前提にするとこれは無いんですよね。

つまりですね、本の帯っていらないと思うんですよ。
帯にこだわるなら、本棚をどうにかしないといけないはずなんですよ。
今の本屋は帯達が生き残るには過酷過ぎるんですよ。現代の蟹工船ですよ。
資本主義ってヤツは、人間の血を啜るだけでは飽き足らず、本の帯まで供犠に付すワケです。
こうしている間に犠牲者は増えてるんですよ。政治は何をやってるんですかね。
posted by 手の鳴る方へ at 07:07| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月05日

重荷を降ろしつつある旧メディア

diamond0812.jpg


今週の「週刊ダイヤモンド」は、新聞・テレビ業界にも改革が不可避だという内容。
再編、淘汰、構造改革と、他の分野に対してはやたらに喧しかった大メディアも、
ここにきて広告収入が減少、紙代の高騰、活字・テレビ離れも顕著という現状で、
とうとう自分の体にメスを差し込んで、最後の護送船団の忌み名も返上するような感じに。
あの天下の朝日新聞も、中間連結決算では初めて赤字を計上。通念でも赤字の見通し。
あのTBSも昼ドラをやめる、みたいなことを言っているようで、TVや新聞の風景も、
いい方向か悪い方向かは別にして、今後大きく変わっていくことでしょう。


で、ポストTV・新聞には当たり前のようにネットが君臨するんだろうけれど、
ネットの住民がTVや新聞の記者よりも優秀であり、倫理的であるとかというと、
まぁ見た感じではそうでもなくて、個々の情報発信者は当然、偏向しているわけです。
それはTVや新聞の記者が、ネット住人一般よりも倫理的で優秀なワケでもないのと同じで、
構造と言うか、メディアが変わるだけで、そこに携わる人間の性質は同じだと思うワケです。
それを踏まえ、ネットが今後、ジャーナリズムという分野をどう煮詰めるかは興味のあるところですし、
オールドメディアとなったTV・新聞がどう変わるかも、興味のあるところではあります。
「週刊ダイヤモンド」の記事を読む限りでは、過去のしがらみや膿や陋習を払い落とし、
無駄な重たい荷物を降ろせば、大衆の王様の地位くらいは死守できるような気はします。
そんな地位に果たして価値があるかどうかはまた別の話ですが。


新しいメディアの出現はしばしば古いメディアを解放して創造的努力に向かわせる。古いメディアはもはや権力と儲けの権益に奉仕する必要がないからである。エリア・カザンはアメリカの演劇界についていう。
「一九〇〇年から二〇年をとってみよう。演劇は全国にわたって盛んだった。競争相手がなかった。興行収入は莫大なものがあった。(略)そこへ映画がやってきた。演劇はよくなるか、滅ぶかのどちらかになった。そしてよくなった。あまり速くよくなったので、一九二〇年から三〇年にかけて、それが認識されなかったほどである。」
『マクルーハン理論』 大前正臣・後藤和彦訳 平凡社ライブラリー p.175〜176)



TVや新聞は終わった、的な論調が散見されますが、大抵のメディアは生き残ってます。
演劇もラジオも映画も本もレコードもCDも、古くはなってますが、終わってないですしね。
んで、TV・新聞の重たい荷物の一つに、商業主義への偏重があると思うワケです。
トヨタの奥田相談役から「マスコミに報復としてスポンサー引くぞ」とか言われて、
反発するどころか全力で腰砕けになっているようでは、やはり心もとないワケです。
お金は大きな権力を産む一方で、桎梏も産むわけで、その桎梏でグダグダになるようなら、
そんなものは喜んでネットにでも投げ与えてやればいいんじゃないでしょうかね。
ネットがその中でどうするか、どうなるか、検索サイトやブログ、2ちゃんねるがどう変わるか、
重荷はどう変化し、どう配分され、どのような権力を生み、どんな言説を作り出すか、
それをオールドメディアはどう報道するか、できるか、というのも面白そうな話です。
posted by 手の鳴る方へ at 10:12| Comment(5) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

『ガストロノミ』

ジャン・ヴィトー 『ガストロノミ』(佐原秋生 訳 文庫クセジュ)
56050921gasutoronomi.jpg


ガストロはギリシア語で「胃」のこと。
それに「〜の法、〜の習慣」という意味のノミアを足してガストロノミ。
ガストロノームといえば美食家。海原雄山(北大路魯山人)みたいな人のこと。
とは言え、個人的には、現代の日本で一番のガストロノームは小泉武夫だと思う。
この本を読む限りでは、ガストロノミとは芸術家というよりも研究者だと思った。
ちなみに作者のジャン・ヴィトーは、胃腸専門のフランスのお医者さんだそうだ。


アスパラガス料理はワインよりも水が推奨されるとか、
山鴫にはとりわけブールゴーニュの赤ワインがイイとか、
伊勢海老はメイン州産よりブルターニュ産が好まれるとか、
古代ローマ人は寝椅子で身を起こした姿勢で食事をとっていたとか、
帆立貝を香草と混ぜる場合、味を台無しにしないように気をつけろとか、
コリアンダーやエストラゴンは、分量を間違えると胸をムカムカさせるとか、
昔の欧州では、牛は都市や城館で食べられ、豚は田舎で食べられたとか、
予言でおなじみのノストラダムスは、『ジャム概論』って本を書いていたとか、
理想的な会食者の数は、カントが表明したように3人以上9人以下であるとか、
アヴィニョンの法王(ヨハネ22世)は、白しか着ず、白しか飲食しなかったとか、
編笠茸とトリュフはアルポワのイエローワインと同じくらいポムロールとあうとか、
山羊のチーズは、ロワールの白ワイン(シュナン種・ソーヴィニョン種)とあうとか、
ルネサンス期の托鉢修道会は、それぞれドライフルーツと関連付けられていたとか、
もう、こういった具合の薀蓄がたくさん。というか、薀蓄しかないと言っても過言ではない。
イライラするんだけど、材料や地名や銘柄が列挙されるのは、読んでいると軽くハイになる。


われわれの野菜籠は、かつてのグローバリゼーションから生まれた、真のモザイクである。(p.50)


グローバリズムは別に20世紀に始まった現象ではない。それは常にあった。
料理はその中で様々に混ざり合い、改良され、進化し続けて来たと言える。
食文化は、その土地や国の固有性であると同時に、姿を変えた異文化でもある。
例えば和食のテンプラは、1600年頃にポルトガル人宣教師が大坂に持ち込んだ。
それを日本人が自分達の好みに合うように修正して、それが現在にまで至っており、
20世紀後半、ヌーヴェル・キュイジーヌの料理人によって逆輸入されることとなる。
モロッコ料理のパスティーヤも、元々はポルトガル人が持ち込んだモノだった。
また、古代ローマ時代、アピキウスのレシピの五分の四には異国の胡椒が使われている。
新世界が原産のトウモロコシは、家鴨や鵞鳥を強制飼育する際の餌に利用されているが、
それによってフランスの食文化には欠かせないフォアグラの生産が成り立っている。
トマトはメキシコから持ち帰られた。地中海料理には欠かせないものとなっている。
唐辛子はコロンブスが持ち帰った。インド料理や韓国料理に頻繁に使用されている。

モザイクを描いているのは食材だけではない。街に軒を構える料理店もモザイク状だ。
作者のヴィトーは、パリの真ん中にアフガニスタン料理店ができたと驚いてみせる。
資本と物珍しさが絡み合い、異国の家庭料理店が国境を越え、現れては消えていく。
食文化は国際政治と無縁だと言わんばかりに、人類の体内を駆け巡っている。
聖書に書かれていないという理由で、西洋社会の中で忌避されていたじゃがいもも、
生産の容易さも手伝って、その後時代を経るにつれ、西洋料理に確固たる地位を得た。
反グローバリズムでも武士道精神でも反米思想でも共産主義でも、コーラは美味しい。
軽薄な観念が差異を強調するその胸元で、胃袋は異文化の食べ物を歓待してやまない。

キリスト教の七つの大罪の一つである大食(gula)は、いつの時代もウヤムヤにされてきた。
ガストロノミは普遍的であると作者は言う。それは国や時代を超え、宗教や慣習を越えてしまう。
posted by 手の鳴る方へ at 08:27| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月03日

インドという新しい思想

約6億7000万人の有権者を抱える、世界最大の民主主義国家インド。
2045年には人口が14億に達し、しかもその半分、約7億人が25歳以下という若いインド。
人口の8割がヒンドゥー教徒だが、1億3800万人(世界3位)のムスリムも抱えているインド。
(この数は、1947年にイギリス領インドから分離独立したパキスタンのムスリムよりも多い。)
2400万人のキリスト教徒、1900万人のシク教徒、800万人の仏教徒、420万人のジャイナ教徒、
そして7万人のパールシー(ゾロアスター教徒)を含むその他の宗徒660万人を抱えるインド。
実際、ムスリムの大統領、シク教徒の首相、キリスト教徒の与党党首を戴いていたインド。
中間層の経済力が飛躍的に上昇し、単純なウィスキー消費量でアメリカを抜いたインド。
アメリカの人口の2パーセントを占め、アメリカの財の8パーセントを所有する在米インド人。
5大国以外には核不拡散の方針だったアメリカに、軍事用核施設保持を容認させたインド。


アマルティア・セン 『議論好きなインド人』 (佐藤宏・栗屋利江 訳 明石書店)
75032795gironsukina.jpg


NHKスペシャル取材班 『インドの衝撃』 (文藝春秋)
16369610indono.jpg


哲学でインドと言えば、龍樹(ナーガールジュラ)や古代仏教が真っ先に思い浮かびます。
ヒンドゥー教の宗教書も、例えば井筒俊彦大先生が『意識と本質』(岩波文庫)の中で、
聖典の『バガヴァド・ギーター』について述べてましたね。まぁ、難しいんですけどね。
他には「これに比べればマキャヴェッリの『君主論』などたわいのないものである」と、
ウェーバーが評価したことで有名な、紀元前四世紀の『実利論(アルタシャーストラ)』、
最近ではポストコロニアムの文脈でのスピヴァク、サイードの『オリエンタリズム』もそう。
また、ガンジー主義や「カーマスートラ」等も、哲学の俎上に乗りそうなテーマではあります。
これらはつまるところ本や聖典、偉人譚であるワケで、本を読むのも哲学のウチだけど、
今のインドはどうやら哲学というか、政治学的に見ても面白い感じに生成しているようです。

センの分厚い本は、要するにインドは伝統的に多様性の国だよ、と繰り返し伝えています。
インド国内のヒンドゥー至上主義も、海外のインド=ヒンドゥー教って視線も嫌だそうです。
NHKの本も、最後の一文を「衝撃の深層は、インドの多様性の中にある。」とシメていて、
私みたいなポストモダンオタクが大好きな「多様性」が、今のインドにはあるらしいのです。


多様性や寛容という価値は、如何にも西洋的で、民主主義も所詮は西洋産だと言われるけれど、
センに言わせればそれは違う。センは本の中で、繰り返しアクバルという名の王について語る。
アクバルは紀元後1600年頃のムガル帝国第三代皇帝で、この君主は、政教分離的な制度を築き、
信仰の自由を認め、色々な宗教の美点を繋ぎ合わせた神聖教(ディーネ・イラーヒー)という
新宗教を興した(短期で失敗したが)。この君主が南アジアで、「何人も宗教を理由として干渉
されてはならず、だれもが自分に好ましい宗教を選び取ることが許されるべきである」と述べ、
ヒンドゥー教、ムスリム、キリスト教、パルーシー、ユダヤ教徒、それに無神論者までもが、
アクバルのもとでの対話の準備に勤しんでいた頃、ローマではジョルダーノ・ブルーノが、
汎心論的世界観を説いた異端のかどで、公の場で火あぶりにされていた。(p.140〜141)


プラトンや聖アウグスティヌスが孔子以上に寛容で、かれほど権威主義的でなかったと示す証拠はほとんどない。アリストテレスはたしかに自由の重要性について著述したが、女性と奴隷はその関心の範囲からは除外された。他方、ほぼ同時期、アショーカ王は、そのような排除を行わなかった。私が信ずるに、自由と寛容を支える基本的な思想は1000年にわたって西洋文化の中核にあったもので、アジアにとっては異物であるという主張は、完全に否定されるべきものである。(p.242〜243)


ここでセンは、私達アジアの文化はスゴイと偏狭なコトを言っているのではない。
アジアの文化を、彼ら西洋の文化から守れ、我々の文化は彼らの文化から独自であり、
彼らの近代性からも自由である、と、そんなことを言いたいワケでもない。全くない。
思想一般について、純粋に西洋的であるとか、インド的であると単純に言うことはできない。
センの関心はむしろ、開かれた、まさに彼が嫌うインドのステレオタイプであるところの、
カオスな、統一感のまるで無い多元主義へと向かっている。センは閉じることを危惧する。
外界から閉じることで純粋であろうとしたり、孤立主義を是とすることを危惧している。
センは人間や思想が国境を越えるグローバリズムを善しとし、「議論好きなインド人」の、
その開放性、理性に基づいて他者へ向かう志向性を善しとする。この汚染=混合的な傾向は、
セン本人よりも、彼が頻繁に引用するタゴールの方がより顕著かもしれない。例えば、


インドと言う観念は、おのれ自身の集団を他者からわけ隔てようとする根強い意識に反する。(p.132 p.214)

人間の手による生産物は何であれ、私たちが理解し享受するなり、たちまち私たちのものになるのです。それらの起源がどこであろうと。他の国々の詩人や芸術家を、私自身のものと認められるとき、私は、私の内なる人間性を誇りに思います。(p.214)

かれ〔タゴール〕は、『人間の宗教』のなかで、かれの家族が「三つの文化、すなわちヒンドゥー、モハメダン[イスラーム]、イギリスの合流」の産物であるとしています。(p.577)


と、いう部分。タゴールは20世紀のアジアの知識人として非常に興味深いですね。
中島岳志あたりがタゴールの本格的な本をうっかり書いたりしないですかね。
日本の保守の嫌う中国が、民主主義制度が不十分で思想的に家父長的・排他的だから、
それと対照的なインドは保守にはウケがいい、というかネタになると思うのだけど。
一方で、左派の明石書店がこういう本を出すあたり、やはりインド再評価の時ですよね。
posted by 手の鳴る方へ at 10:38| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月18日

初音ミクの「舎利禮文」

【初音ミク】舎利禮文【オリジナル曲でお経カバー】



戸川ミクは聞いたことがあったけれど、向井ミク(初音秀徳)までいるなんてスゴイ。
とは言え、この曲に関しては、むしろイースタンユースっぽいと個人的には思います。
奈良美智は工房の中で、大音響のイースタンユースを聞きながら絵を描いたらしいけど、
それと似たような感じで、初音ミクが手拍子に合わせてお経を唱えるのはありそうな話です。
ポップなモノがどんどんポップじゃなくなっていき、体臭が漂ってきそうな感じがしますね。
そう考えてみれば、ポップなアートやカルチャーは、もうどこにも無いのかもしれません。

んで、初音ミクが誕生してから丸一年が経過。チヤホヤされる季節が終わり、
好きな人が好きなように曲を作り、リスナーの支持を得たり得なかったりして、
小さいけれどそこそこの規模のアヘン窟(褒め言葉)が乱立しているのが現状です。
ニコ動の有名どころのDTMer や、有名な絵師、歌い手が動けば試聴数は増えますが、
ヒットメーカーとしてのVocaloid は影を潜め、知られざる名曲ばかりが山積しています。
そんな大多数の、お気に入り数1000以下の楽曲の中にVocaloid の本質はあると思います。
予想外の量の多様な関心に沿って、色々なテーマがVocaloid によって歌われてきました。
個人的には「ハト」や「サイハテ」のお陰で、聞いていた音楽の狭さに気付かされました。
この一年間で、あらゆるテーマが網羅され、音楽として表象されたことは評価されるべきです。
ある文字列を見せられて、それが実はVocaloid の楽曲のタイトルでしたと言われても、
私達は喜びこそすれ、もう驚くことはないでしょう。「舎利禮文」だってそんな曲の一つです。
そう言えば、Vocaloid は万物を掬い上げて音楽に変えるから、どことなく大乗仏教的ですよね。
あらゆる物事は俗塵の中で、Vocaloid に歌われる日を待ち焦がれているのかもしれません。
posted by 手の鳴る方へ at 06:04| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月13日

21世紀の移民問題

天沼香 『故国を忘れず新天地を拓く』(新潮選書)
10603615.jpg


サブタイトルには「移民から見る近代日本」とある。こっちの方がタイトルっぽい。
戦前の日本人移民がどのような背景のもとに出国したか、当時の知識人達は何を述べたか、
日本や受け入れ先の国は、20世紀の大変動の中で何をし、あるいは何をしなかったか、
移民達の顛末はどうなったか、生活の基盤を得た後で、彼らは何を思っているか、という話。
エピソードと歴史的な話が混在して、無知で初心者な私でも面白く読むことができました。
例えば作者が「外国人労働者」や「新移住者」という名称を忌避しているあたりがそうで、
「移民」という言葉の持つロマンティズムが、日本や移住先の国の都合で蹂躙されてきた、
という筋書きが見えなくもないけど、そういうイメージ戦略はとても重要だとも思います。


現在、海外在住日系人は270万人、在日日系人は37万人と言われている。
少子高齢社会に加えて人口減少が予測されている21世紀の日本は、国策として、
入移民政策について本腰で考えなければならないし、そうせざるを得ないだろう。
移民問題は決して古い問題では無く、かつての日本を見る限り、入・出移民双方にとって、
この国の移民政策は十全とは言えなかったし、その傾向は現在にも尾を引いているようだ。
作者はあまり触れていないけれど、マスコミの認識も相当低いと言わざるを得ないよね。

これは知識人に関しても同様で、今後、日本に外国人労働者と言う名の移民が入ってきた場合、
現在の労働環境は大きく変わることになる。かつての日本人移民がホワイト・プアの仕事を奪い、
彼らからの差別に苦しんだように、日本へ来る移民も、日本人の仕事の幾分かを奪うだろう。
その際、労働弱者を御神体に掲げるフリーターズ・フリー界隈の言論人は何を語るのだろう。
というか、何を語れるのだろうか。これは言論左派にとって一つの大きな試練石になるだろう。
同じ社会的弱者として、「共闘」の御旗のもとに、今まで通り国や経営者を叩くだろうか。
それとも歴史を繰り返すように、ジャパニーズ・プアは移民達に敵意を向けるだろうか。

ボリビアには日系人コロニーが幾つかあるが、その内の「オキナワ村」と本土の村との間には、
さしたる繋がりがなく、異国の地でお互いに助け合うどころか、反目し合う場面もあるそうだ。
お互いの言語を解し、そう遠くない場所に、同じ移民としてコロニーを築き上げたというのに、
本土と沖縄の出自の違いで、そのような弱者同士での差異化、断絶が生じてしまったらしい。
1871年、明治新政府による廃藩置県により、沖縄は鹿児島県に強制的に編入させられたが、
作者によれば、そこから始まる捻れ、心理的な距離感が移民達の距離と化しているそうだ。
と、移民同士でも「共闘」しないケースもあるワケで、労働問題を飯のタネにしている連中は、
果たして有効な、多少はマシな提案をすることができるだろうか。私は無理だと思います。


あと、2ちゃんレベルの議論では、フランスの暴動の例がよく引き合いに出されている感じですが、
移民に関しては、ネットやこの手の学術書よりも、海外の映画の方がタメになる気がします。
圧倒的な社会的弱者であり、下手したら言葉も通じない、プロレタリア以下の棄民としての移民、
周縁的で実存的なその生が、国や社会状況によって振り回され、ズタズタに傷つきやすい移民。
ケン・ローチの最新作もイギリス移民の話ですしね。まぁ、私の地元では上映しないんですけどね。
この手の文化的な地域格差はホトホト嫌になります。ユーロスペースとか全国展開しねぇかなぁ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:15| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月21日

市場から顔を背けない農村

横石知二 『そうだ、葉っぱを売ろう!』(Softbank Creative)
79734065.jpg


四国の山間部の町が、葉っぱを売るビジネスでスゴイ頑張ったという話。
内容については細かく触れない。どうせみんな知ってるだろうし。


思ったことを2つ。

まず1つ目。主に都市部に住むのであろう、五体満足な20代〜30代の若者どもが、
街頭で「生きさせろ!」と叫び、明日への希望も無い(らしい)ことを訴える一方で、
四国のド田舎では次世代のため、80代という高齢のお婆さんがモミジの苗を植えている。
そのモミジの苗は数十年後には葉を茂らせ、その葉は子や孫がつまものとして市場に出荷する。
都市の若者には明日の生活すら見えないらしいのに、田舎の老婦は十年以上先を見据えている。
何だこの顛倒ぶりは、と思うワケで、個人的にはこれを今の日本社会のせいにはしたくない。

仕組みと発破をかける人物さえいれば、高齢化の進む田舎でも市場で戦っていけるのだから、
「生きさせろ!」と言っている若い連中には共感できない。また、それをネタにして、党派的に、
市場主義やらグローバリズムを叩こうとする連中にも共感できない。というかイラッとする。
市場は残酷で人を人として扱わない、みたいな話は如何にもそれっぽい話なんだろうけれども、
この本の上勝町のケースを見る限りでは、むしろ市場と接することで華やぐ人生も普通にある。
恐らく人類史上でも、このような、市場と人間の華やかな関係は連綿と続いていたはずなのに。

「生きさせろ!」の連中には横石知二氏がいないのだ、いるのはゴスロリの似非知識人だけだ、
(あるいは秋葉原で無差別殺人を行い、結果的に政治を動かして派遣労働を変えた奴しかいない、)
と、そう言えばそれまでなんだけど、口を開けて公務員の活躍を待つだけ、ってのはどうなのかね。


2つ目。農村、というか過疎地を経済や市場主義の外側に置こうとするのは明確に間違っている。
市場主義は人間疎外の原因であり、非本来的な生き方であり、マネーや会社中心の場所であり、
工業化・都市化は自然を破壊し、生命の基礎部分である食料を農村に頼っているから正しくない、
農村はそんな乾ききった関係とは別の仕組みで動いている、人間の本来的な生き方がある ――
という類の、農村=プライスレス的な視点をまず放棄するべきだ。山下惣一氏とかは特に。

都会からのIターンやUターン組、老後を田舎で送ろうとする年金生活者達も重要だろうが、
過疎化を防ぐ最も効果的な処方箋は市場化だ。活気があれば人もモノも金もメディアも集まる。
中央省庁からのドーピング的な公共投資、補助金援助は根本的な問題解決にはならない。
村が都市と肩を並べるためには、市場を否定して甘美な田園風景の幻に引き篭ることではなく、
たとえ過疎地であり、高齢者の町であったとしても、市場で名を馳せることが肝要だと思います。
そのとき初めて都市は内面的に相対化され、村の新しい価値観が現れるのだとも思います。


要するに経済って大事だよ、蔑ろにすればいいってもんじゃないよ、と言いたいだけです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:53| Comment(3) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月31日

『聖☆おにいさん』

中村光 『聖☆おにいさん』(講談社)
06372720.jpg

パロディには政治なり映画なり野球なり医療なりドラクエなり、必ず元ネタがあるもので、
その元ネタがネタとして潤沢で、なおかつ大勢に周知されていればいるほど、
パロディとしては面白く、かつ評判になり易いと思うのです。

で、これは仏教とキリスト教のパロディ漫画。世界最強の元ネタだ。何と言うか、ズルい。
スクウェアとエニックスが発売した全てのゲームを元ネタにして漫画を描くようなもので、
データベースとしては最強だし、ブッダとイエスが一緒にいるだけで破壊力は五倍増し。
これに勝る元ネタは、多分もう現実世界しかない。でも、それって普通の漫画だよね。
だからこの漫画はズルい。何より二人の着ているTシャツの一言ネタが一番ズルいと思う。
「知らない×3」とか、自虐的だろ。(一コマだけ何故かブッダがこのTシャツを着ていたが。)

幾らでもマニアックなネタは作れるだろうけれど、今のところは常識の範囲内で回している感じ。
アガペーとか聖骸布とかシュワッキマッセェリ〜が一般常識なのかどうかは微妙ですけど。
あと、モーゼは「モーゼさん」と他人行儀に呼ぶのに、大天使は呼び捨てなイエスが面白い。
ちなみにブッダはちゃんと「ミカエルさん」ってさん付け。そりゃ余所様の大天使ですからね。
預言者ヨハネも同じように、どちらからも「ヨハネさん」と、さん付けで呼んでもらえてました。
そりゃイエスにすれば洗礼を受けた師匠ですし、ブッダにすれば余所様の預言者ですからね。
さらに言えば、アナンダはどっちからも呼び捨て。そりゃたかが十大弟子ですもんね。
でもスジャータはイエスからもブッダからも「スジャータさん」。何だその距離感は。
posted by 手の鳴る方へ at 07:17| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

文学のイメージとしての童話・童謡

友人と話していて、たまの「さよなら人類」の話になった。Wiki によれば1990年のリリース。
友人曰く、「これほど詩的な歌詞も珍しい」そうで、言わんとすることは何となく分かる。
実際に歌詞を見てもらえば分かるけれど、明らかにJ-POP とは世界観も語彙も異なる。
「イカ天」の審査員として、大島渚は、「童話の単純さと恐ろしさがある」と評し、
丸山圭三郎も、谷内六郎の絵や北原白秋の「雪のふる晩」を連想したと語っている。
個人的には中原中也の「骨」なんかを連想します。自意識の乏しい中原中也っぽい。

要するに「さよなら人類」って文学の香りがするよね、と言いたいワケです。
ここで、逆にJ-POP には文学が無い、と十把一絡げに断言するのは随分乱暴な話で、
例えばかつてNHKの「人間講座」で、詩人のねじめ正一が詩の講義をしてたんだけど、
その最後で椎名林檎の歌詞(確か「歌舞伎町の女王」)をテーマに取り上げてまして、
J-POPにだって詩や文学の臭いを漂わせているモノは結構ある気がするんですよ。


で、ここでふと思うのが、今こうして詩だとか文学だとか口走っているんだけど、
「さよなら人類」にあって多くのJ-POPに無いと思っている文学の正体って何だろう?
もっと言えば90年代以降のトレンディドラマ、小室プロデュースの楽曲、ジャニーズ一般、
「浜崎あゆみの歌詞」から派生したような今のケータイ小説の、文学性の「無さ」って何?
ケータイ小説が文学じゃないと思ってる人は多くいるだろうけれど、君らの考える文学って何?
と、そんな話になったワケです。今更文学もねーだろバーカ、と思わなくも無いですけど。


漠然とした話だけど、J-POPは「さよなら人類」的な詩情、童話の恐ろしさを冷静に切り捨てて、
資本が大々的に絡んだ恋愛至上主義へと突き進む。何も90年代に始まったことじゃないけど。
で、「歌って踊れる」チャラい音楽が席巻し、その後から浜崎あゆみが98年にデビューし成功。
詩情に欠けた浜崎あゆみの歌詞の世界から、ケータイ小説的なものが現れたとして、これも成功。

J-POP は恋愛を歌わなければならない。その中心には抽象化された個人を据えなければならない。
「私」や「あなた」や「彼」や「彼女」のいない歌詞世界は、J-POP にあって存在が難しい。
ちなみにこういう「個人」不在の、非J-POP系の歌が何と呼ばれ、イメージされているかと言うと、
童謡の延長線上にある、NHKの「みんなのうた」として認識されやすいのかな、とも思う。
まぁ、初音ミク楽曲の、「みんなのミクうた」系のオリジナル曲を見てそう思っただけだし、
これにしたって「みんなのうた」にしたって、恋愛を歌った歌なんて幾らでもあるけど。

ちなみにケータイ小説は、見事に人間中心の物語だけど、大抵の小説は人間が中心です。
「あまりにも人間とその運命しか描かれていない」って言えないこともないけど、
ケータイ小説と普通の小説の差異を、必死に探して必死に主張するのは下らないよね。

J-POP は童話や童謡の世界観を切り捨てた。それでJ-POPに連なるサブカルを非文学だと言う。
と言うことは、文学の香りの正体は童話や童謡じゃねぇのか、と、そういう仮説も立てられる。
NHKで放映されていたアニメの『電脳コイル』なんかも、随分と評価が高かったようだけど、
あれにしても「童話の単純さと恐ろしさがある」物語で、迷子論として語ることだってできる。
宮崎アニメの文学性もそんな感じがしないでもない。文学的なのかどうかは知らんけど。

と言うか、非J-POP的なものはとりあえず文学・詩的だと思ってる節がある。個人的に。
そもそも童話・童謡って何? という話は難しい。童話や童謡は何を語っているのだろう?
ちなみに童謡・童話は決して「子供騙し」なのではない。子供騙しなのはJ-POP の方で、
相手が欲しているモノを、相手が欲しているパッケージで目の前にぶら下げるのが子供騙しだ。
それをもって「商業的」と呼ぶのは構わないけど、大抵の文学だって商業的だからね。
posted by 手の鳴る方へ at 05:48| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月11日

谷崎潤一郎の『文章読本』

谷崎潤一郎 『文章読本』(中央公論社)
51B9BJAX64L__SL500_.jpg


作者も冒頭で述べているように、散文を書くための文章読本。
小説を書きたい人よりも、プレゼンの上手な文章が書きたい人向き。
あるいは政治のマニフェストを、もっと巷間に知らしめたい人向き。

芥川賞作家の藤沢周が前にどこかで書いていたんだけど、藤沢周は、
文章を書くときはページの中のひらがなとか漢字の割合に気を使うらしくて、
そういうのって、小説だけの話じゃなくて、ブログにも当てはまる気がします。
パッと見で、漢字がズラズラ並んでいると何となくスルーしたくなります。
思想書だったら慣れたモノだけど、ブログで漢字だらけなのは未だにキツイ。
自分の書いた文章ですら、そういう文章は読んでいて面倒臭いし。
あと、2ちゃんのコピペとかでもキツイのがある。例えばこんなの。


578 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2008/07/10(木) 08:31:25

  ◆小泉内閣の失政により、日本の内需はガタガタの状態

「小泉構造改革」の結果、総中流社会は崩壊して貧困層が拡大した。
日本経済は縮小して税収は激減、財政赤字はさらに悪化して赤字国債は700兆円をも突破した
多くの中小零細企業が倒産し、失業者、フリーター、ニートが増え、自殺者は年間3万人を突破した。
犯罪も激増し、かつて最も安全な国だった日本は先進国最悪の犯罪社会となった。
対米盲従歴代の内閣で最もアメリカに忠実で、「小泉構造改革」は、「日本を米国政府好みの国に改造する」ための改悪である。
政策は「丸なげ」と言われてたが、対米追従と軍国化への道は確実に進めた。諸政策は「要望書」のデッド・コピーとされる。
郵政民営化も米国の要請日本国民の財産である350兆円の郵便貯金と簡保資金がアメリカのハゲタカファンドに狙われている。
米国政府は3回にわたり「要望書」で正式に日本に郵政民営化を求め、小泉内閣はこれを受け入れた。
郵政民営化法案の内容と2004年度の年次改革要望書の内容が酷似している。ブッシュ大統領との密約もあったとされる。
いずれにしろ、内需が壊滅状態になっており、景気後退は著しいものになることは覚悟しなければならない。



これを名のある学者や新聞が書いたのなら読むけれど、名無しの文章ならまず読まない。
2ちゃんの文章は三行が基本。あと、これを紹介しつつ、私はこの中身を読んでないからね。
と言うか、パッと見で何となくわかる文章だよねコレ。

『文章読本』も、文字の概念的な側面だけでなく、というかそれは二の次で、
視覚的・聴覚的な側面をとても重要視していて、小説家と言う人たちは、
こういうことを考えて、繊細な感覚でモノを書いているのかと感心します。
とは言うものの、内容自体は「分かり易く書け」とか「偉そうに書くな」等、
アリガチな内容で、読みやすい文章読本なら、きっと他に幾らでもあります。

あと、日本語はおしゃべりに適さないとか、「巧言令色鮮矣仁」とか、
そもそも日本人は寡黙を良しとするとか、国民性として沈黙するだとか、
そういう今も変わらぬ保守派にアリガチなことも谷崎潤一郎は書いている。
弁論術が発達してないだけで、おしゃべりに向かない言語とは言い過ぎで、
今にして思えば、沈黙を良しとするのは家父長的な古典的エリート層だけで、
もちろんそこには戦前、あるいは戦後の文人も含まれているんだけど、
それ以外の人達は結構おしゃべりだったんじゃないか、という気がする。

この手の話になると当然のようにエリート論や大衆論になるよね、そういえば。
posted by 手の鳴る方へ at 05:04| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月05日

「コーラ的なもの買ってきて」

バイクのメンテナンスをして貰っている最中、何気なく店内にあったバイク雑誌を手に取ると、
そういう雑誌にも読書欄というか、質問コーナーというか、そんなページがあるらしくて、
そこに『「コーラ的なもの買ってきて」と頼まれたけど、何を買えばいい?』というのがあった。

この「コーラ的なもの買ってきて」という指示を、高校の頃から私は後輩に出してきた。
それはワザとそういうことを言ってみせて、相手がどういう反応をするか、何を買ってくるか、
そういうことに興味があるからで、悪く言えば彼らの人柄を見積もるつもりでよく利用した。
私の記憶が確かならば七人に言っている。後輩や部下から見れば碌な奴じゃない。


「コーラ的なもの買ってきて」という命令と、それを受けてのリアクションは、
言語ゲームや人間関係のディスコミュニケーションの本質をそこそこに照らし出す。
基本的にこの問いに正答は無い。せいぜい指示する私がガッカリするか、面白いかだし、
これで私がガッカリしたからといって、相手の能力が低いことが証明されたわけでもない。


目上の立場であるAが、1000円札を出して、地位的に弱い立場のBに上記の命令をする。
Aの目的はコーラ的な何かが欲しいわけではなく、この問いにBがどう動くかである。
発話前後の文脈はとりあえず無いものとして、考えられるパターンは幾つかある。


@ Bはこの問いの真意(自分はAに試されている)に気付くか否か。

続きを読む
posted by 手の鳴る方へ at 07:28| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。