2008年06月25日

司法がよくパチンコしてる人

丸田隆 『裁判員制度』 ( 平凡社新書 )
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チームJ 『日本をダメにした10の裁判』 ( 日経プレミアシリーズ )
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来年の5月21日から始まる予定の裁判員制度のこともあってか、
むしろ映画『それでも僕はやってない』や「国策捜査」関連の反響の大きさか、
本屋に行けば日本の司法を扱った入門書、新書が盛りだくさんな昨今。
裁判員制度の是非から司法の内部事情、そもそも裁判って何ですか?
最高裁って何者? 等々、バリエーションある品揃えだ。っていうか汗牛充棟?

「21世紀の我が国社会において、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過渡の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を熟成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民が法曹と共に司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる」(『裁判員制度』p.95)


というのが裁判員制度の本来の主旨らしい。
裁判員を強制されて何がどう能動的なのかイマイチよくわからないけれど、
この新制度のお陰で、国民の司法への関心が高くなっているのは確かな模様。
というか、新書コーナーに裁判員制度や司法の批判本が溢れかえっている時点で、
国民と司法の関係は「太く広く」なっていると言ってもいいんじゃないかと思う。
新書にもなってない、今後もなりそうもない分野ってのはまだ幾らでもあるしね。
(ブログ界隈の盛り上がりはイマイチ欠けているけど、多分そんなものだろう。)

今回の裁判員制度は「司法は他人事じゃない」と国民に広く思わせた時点で、
あるいは司法を批判する土壌を与えた点で、キャンペーンとしては成功している。
(そう考えると権力ってスゴイね。「主体的に」国民を司法と結び付けるんだから。
ネグリのマルチチュードって言うのは、こういうことの真反対なんだと思いますよ。知らんけど。)
今までの国民の関心度が、立法>>>>行政>>>>>>>>>>>>>司法だとしたら、
最近の関心度は、立法>>>>行政>>>>>>>>司法くらいにはなっていると思う。
シティボーイズで例えるなら、立法が大竹、行政がきたろう、司法がよくパチンコしてる人だ。
この3人の間にはそんなに実力差は無いはずだし、誰が誰より偉いということも無いはずなのだが、
ケレン味のある大竹(立法)ばかりが目立ってしまって、メディアで取り上げられてしまう。
だから出版業界は『日本をダメにした10の斉木しげる』とか、そういう新書を書くべきなのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 07:05| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月21日

あぐらをかく女性

70分DVD付き 体の中からキレイになる 龍村修のヨガ教室 (ムック)
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キレイになるヨガ vol.2 [DVD付] 白夜ムック (ムック)
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健康だとか、美容だとか、ヨガとかピラティスの話をしたいワケではなくて、
あぐらをかいてる女性って、あれ? 結構イイんじゃない? と言う話。


座り方一つ見てみても、私達の身体は文化や慣習の影響を露骨に被っている。
あぐらのイメージは、椅子に座っていない、と言う程度の乱暴な意味で日本的で、
身体が弛緩し、リラックスしている点で、また、礼儀作法のコードから外れている点で、
私的かつ家庭的、逆に言えば非公共的・非形式的な空間・状況を示唆している。
そして何よりもあぐらは男性的(というか無骨で権威的な家父長のイメージ)だ。

で、例えば漫画表現として、コミックの表紙で、ヒロインがあぐらをかいている場合、それは

@ その子がボーイッシュであることを示している。
A その子が闘う女性であることを示している。
B その子が型破りな性格であることを示している。
C 設定上、ヒーローとぶつかって「私があいつであいつが私で」状態になっている。

ということを表現している可能性が高くて、まぁまだ他にも色々あるだろうけど、
どちらにしろそれは「男性的な女性」を示す記号、演出としての座り方なんじゃないか。


という文脈を踏まえてですね、ヨガやピラティスの雑誌・ムックの表紙の話なんです。
上の2冊の表紙のモデルは、ヨガっぽいあぐらをかいているワケなんですが、違和感が無い。
違和感が無いどころか、健康的で、美的で、つまるところエステティックで格好イイ。
あぐらをかく女性のイメージって、思いもかけずポジティブだなぁと個人的に思ったのです。
もちろんそこには男性的な無骨なイメージ、ましてや家父長のイメージはありません。
政治的な意図もありません。男性社会を糾弾するフェミニズムの姿はここにはありません。

このように座る女性が、女性として表象されるようになったのは、多分、比較的新しいことで、
男のあぐらが、絵巻物レベルの時代にとっくに表象されていたのとは対照的だと思うのです。
勝手な推測をすれば、例えば雑誌のグラビアページの中にあぐらをかく女優が現れたのは、
バブル期以降、ナチュラルメイクが主流になった90年代後半なんじゃないかと思います。
あぐら=自然体=ナチュラル=ナチュラルメイクが主流となった90年代後半、です。
資料的な裏づけが何一つなく、こんな適当なことを言ってます。誰か調べてください。


【 6月22日 追記 】
眞鍋かをりのココだけの話 (ココログブックス)
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あぐらの女性が表紙といえば、これを忘れてた。
ちなみにこの本が05年9月の発売。もちろんヨガとは関係ない。
そして違和感もない。自然体が魅力の女優らしい表紙ですよね。
上でも書いたけれど、あぐらはプライベートな空間を示唆しますから、
(名目上は)私的なブログ本の表紙であぐらをかくのは正しいはずです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:39| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 (P・T・アンダーソン監督 2007年 アメリカ)
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たまには映画の感想。

原作はアプトン・シンクレアの『Oil!』。20世紀初頭、山師のダニエル・プレインヴューは、
野心家の牧師、イーライ(ポール)・サンデーの情報を元に、西部の片田舎で油田を掘り当てる。
油田開発の中で連れ子が事故に巻き込まれて聴力を失ったり、弟と名乗る見知らぬ男が現れたり、
塞ぎこんだ息子が事件を起こしたり、その後で息子を騙して自分の仕事場から追い出したり、
パイプラインを海まで通すため、嫌々ながらにイーライの属する宗派に入信したりする。

それらは要するに富を得るための行為で、言ってしまえばエゴの産物なのだけれど、
例えばプレインヴューが連れ子を平気で仕事の犠牲にしたのかと言えばそうでもなくて、
(自分が追い出しておいて)再会時には嬉しそうに(殴りかかる子供を)抱きしめたりするし、
商売敵の何気ない一言を、息子の教育に対する侮蔑ととらえ、ネチネチと攻撃したりもする。


アンダーソンの映画には家族(あるいは家族的な集まり)がモチーフとしてよく現れるが、
この映画でも、この父と子の関係だけでなく、突然現れた弟との関係、会ったときの遣り取り、
そしてその後の待遇からしても、主人公が家族を軽視しているワケではないことがわかる。
プレインヴューはエゴイストの野心家で、ポジティブに言えば正しい個人主義者なのだけど、
家族や血縁に対する憧れというか、それについての価値に対して、低い評価はしていない。

にも関わらず、プレインヴューは弟や息子と袂を分かち、最後は一人になってしまう。
それらは決して他の誰かに殺されたわけではないし、自然災害によって奪われたわけでもない。
家族の価値を重んじる、他ならぬプレインヴュー本人によって、憧れつつも手放されるのだ。


若い牧師のイーライも、プレインヴューと同じように野心家で個人主義的に描かれる。
イーライのその信仰心には偽りが無い。狂信的な「演技」で多くの信徒を獲得し、
プレインヴューすら利用して、成り上がりと言う名の布教活動を進めて行く。

プレインヴューが家族に惹かれるように、イーライはキリスト教右派的な神に惹かれている。
そして、プレインヴュー同様、イーライもまた富についての執着を見せるのだけど、
それゆえに自身の信仰心に背くようなことをしていまい、自分でヒドく傷ついたりする。
具体的に言えば、プレインヴューの石油利権欲しさに「自分は偽の預言者で神なんかいない」
的なことを言わされる。結局は謀られたことがわかって、自分のしたことに動揺する。


プレインヴューもイーライも、自身のエゴイズムのため、自身の憧れを放擲してしまう。
家族も信仰心も、個人主義の前に手段と化して、光り輝きながら手許から滑り落ちるのだ。
そして自ら手放しておいて、そのことについてヒドく傷つき、悪態を吐いたり泣いたりする。
繰り返すが、それらは本人にとって重要なものなのだ。にもかかわらず、彼らは守らない。

彼らの手許に残ったのは富か、あるいは借金だろう。それに地位や名誉もあるだろうか。
それは彼らがそれなりの真剣さで望み、残るべくして手許に残ったもののはずだ。
そして実際に、この映画のラストには、彼らの手許に残ったものが転がっている。
富の象徴である豪邸の、その内部のボーリング場の中に、個人主義者が転がっている。

幕引きの中、ブラームスの協奏曲は、その光り輝きそうにない個人主義者の代わりに鳴り響く。
あるいは、個人主義者達がサヨナラを告げた、全ての光り輝くもののために鳴り響くのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 06:50| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月24日

『生態と民俗』

野本寛一 『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』(講談社学術文庫)

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環境破壊という言葉があるけれど、それは別に近現代に始まったことではない。
『もののけ姫』なんかに顕著なように、近代以前から人々は環境を破壊してきたが、
破壊しつつも昔の人たちは、近現代人とは全く異なる態度で環境と接してきた。
古来から人々が、環境とどのように折り合いをつけて生きてきたのかを知ることにより、
現代的な問題としての環境問題について、民俗学は一石を投じることができるかもしれない。
そこには環境民俗学という新しいアプローチの仕方があり得るかもしれない、という内容。


私の田舎は四方を山に囲まれていて、五十年前までは山でマツタケが普通に取れていた。
戦前には天皇家の関係者がマツタケを狩りに、わざわざやって来たほどの産地だったけれど、
燃料がコクバ(松葉)からガスに変わってから、コクバが根本に積もり、日が届かなくなり、
マツタケも採れなくなってしまったらしい。(原爆のせいで採れなくなったって人もいるが。)

サブタイトルにある「相渉」とは、環境が対象化されていないような人と環境との関係で、
人は環境の外に、自立的に、本質的に無関係なものとして存在しているワケでは無いし、
環境も人や人の暮らしの外に広がっている、何か別の「モノ」としてあるワケでも無い。
マツタケはコクバを拾う人為(生活の中の営為)が消えると同時に自然から消えたが、
それはつまりマツタケが人と環境とのコラボレーションであるということを意味している。
環境から自立(自律)していない人間がその環境を守り、畏敬するのは当たり前の話だが、
近現代人は自立(自律)しているということを自明の理としているから、まぁ、困るよね。


民俗学は対象化されていない環境とその眼差しを扱う。それは多義的なシンボルに満ちている。
その意味での環境は、恩恵を与えると同時に害を為し、実用的であると同時に説話的に解釈される。

例えば鹿と日本人の関係は古来からあったが、その関係は一義的なものでは全くなく、
『万葉集』に歌われた鹿を見れば、色々な用途へと利用されていたことがわかる。

大王にわれは仕へむ わが角は御笠のはやし わが耳は御墨の坩 わが目らは真澄の鏡 わが爪は御弓の弓弭 わが毛らは御筆のはやし わが皮は御箱の皮に わが肉は御膾はやし わが肝も御膾はやし わが※は御塩のはやし 老いはてぬわが身一つに 七重花咲く 八重花咲くと・・・・・・ (本書 p.138 ※はにくづきに玄)


鹿の有効面を見れば、他にも、その脂や生血や胎児の黒焼きは婦人用の妙薬として、
角は削って熱さましの薬にしたりイカ釣りの疑似餌に、肩甲骨は占い(鹿卜)に、
また、その足の筋を糸がわりに、飼い犬の傷口を縫合したというケースもあるらしい。

また、鹿には稲を食う害獣の側面もあった。
にもかかわらず、一方で子鹿の白い斑(カノコマダラ)が稲=米と見立てられ、
害獣のはずの鹿やその鹿鳴が、豊作を願う呪術的な儀礼と結び付けられたりもしている。
ここにある二律背反は面白い。その一方が説話的な因果関係なのも興味深い。

本書では鹿だけでなく、鼠やハブや猿にまつわる二律背反も紹介されている。
人と動物との関係は本来こういうもので、そこには様々な感情が渦巻いている。
人と環境との接点に、この渦巻く感情を再発見することは重要だと思われるが、
そのためには具体的な生活の立場から環境問題を考えなきゃいけないワケで、
都市化された生活環境の中でそれを考えるのは難しい、というか無理な話だ。
posted by 手の鳴る方へ at 02:23| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月03日

おっさんと電子楽器

「よそはよそ、うちはうち」



「あれ、このギター弦張ってないや」
「自分の人生を振り返ってみたら珍プレー特集になった」
「明日が仕事なんて気のせいだよ」
「じ、地震か!?」「ただのアル中だよ」「なんだそうか(ホッ)」


等々、名言が多いことと、一人称が「オイラ」の初音ミクで有名な作者の新作。
今回も「出てねー腹なんて背中と一緒だ」など、声に出して読みたい美しい日本語が満載。

曲調はギターが印象的。Primal Scream やDr.Feelgood なんかを連想させる。
寡聞ながら、意外とこういうストレートな曲調のVocaloid は少ない気がしますし、
ましてやこういうおっさん視点の内容を歌うVocaloid はいない気がします。
簡単に言えばこの作者の場合、曲も、それに絵にしても、初音ミク=作者ですよね。
初音ミクのキャラクターを無視して、同人誌的な文脈で作ってないのがイイです。
“調教”の上手さから言っても、恐らくこの人は古参のDTMer だと思うんですけど、
そういう人がキチンとインターフェースまで含めてVocaloid で創作しているのは面白い。
何よりどの楽曲も格好イイ。通奏低音としてある「適当でいいじゃん」って雰囲気も好き。


NHK‐BS2に「ザ☆ネットスター」という、色々と自重しない番組があって、
さっきも何気なく見てたら東浩紀やキョン子が出てて普通にビビッたんだけど、
以前、この番組のゲストの白田秀彰が、80年代、シンセサイザーで遊んでいた連中が、
21世紀に入って初音ミクでここまでの規模のムーブメントを起こせたことに感動した、
みたいなことを言っていて、そういう気持ちは何となく分かる気がするのです。

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話は少し変わって、某所でこういう写真を拾ったんですよ。
この写真は素晴らしいよね。わかる人だけわかってくれればいいけど。
どこかのおっさんが酒呑みの歌を初音ミクに歌わせて、ネットで披露して、
白田秀彰が「彼らDTMer はここまで到達することが出来たんだ」と言うのって、
つまりはこの写真のような文脈、大袈裟に言えば音楽史の文脈があるワケで、
20世紀後半から21世紀に至る中で、電子楽器の世界はここまで変化したのかと思わせる。
ここまで大衆化、とまではいかなくても一般化したのは素晴らしいことだと思うのです。

だからこの写真はもっと評価されてもいい。何よりねんどろミクが可愛すぎるし。
で、時代の転換点を示唆するこの写真はとてもエポックメイキング的なので、
ここのサイトをお借りして、音楽雑誌「PLAYER」の表紙みたくしてみました。
顔が隠れたり、赤地に赤いフォントで最悪ですけど、冗談でいいからやってくれねーかなー。


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posted by 手の鳴る方へ at 06:46| Comment(3) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月29日

個人と旗

今更ながら長野市の聖火リレーの話。

2008年4月26日7時26分47秒ライブログ‐Stickam
http://www.stickam.jp/video/178130158



Stickam というサイトでフリーランスの記者をしているtaca という人のライブ映像。
映像がしばしば途切れているが、時間は08年4月26日の朝方。場所は長野駅西口近辺。
内容はご覧の通り。taca 氏もボヤいているが、飲食店や近隣住民の皆さんには同情する。


FREE TIBET を掲げつつ群集から離れた場所にいた、名古屋からきた青年の所在の無さがイイ。


26日の長野市には、マスコミがお茶の間の大衆に配信する聖火リレーの言葉があって、
その周辺に、まとまりの無い、街宣右翼等と中国人留学生の、対立する言葉があった。
彼がその場にいながら馴染めなかったのは、その、大声でがなり立てる三種類の言葉で、
自分の思いをそのシュプレヒコールに重ねられなかった、彼の寄る辺の無さは面白い。

taca 氏の一連の映像の中には、鳥葬見学で世話になったチベットの友人と連絡が取れず、
(FREE TIBET ではない)チベットの旗を持って善光寺へ向かう途中のおっさんがいたり、
「紅は控えめが美しい和の心」と書いたプラカードを掲げて歩くおっさんがいたりして、
彼らは駅西口からは距離のある場所にいたんだけれど、信心や美意識がある人は格好いい。
冒頭にいた名古屋から来た青年が、駅前の組織的なアンチ・チャイナに幻滅しているのは逆に、
このおっさん達は組織とそもそも縁がない。彼らは群れる意味すら見出さないだろう。
(「紅は〜」の意味は、taca 氏にすら届かなかったみたいだけど、面白いと思いますよ。)


逆に、スーチー女史の写真を掲げたビルマの方々は、積極的に大きな言葉に思いを重ねていた。
反共ってだけで街宣右翼なんかと思いが一致するなんて不愉快だ、と思うかもしれないけれど、
彼らがそこに活路を見出したのには十分な正当性があるし、スーチー女史とFREE TIBET の旗が、
記号的に同じ意味を持つ限りにおいて、拡声器の近くでその写真を掲げる合理性もあると思う。

これと似たような構図は、聖火リレーの終了後に、改めてコース上を走った欽ちゃんにもあって、
欽ちゃんも「平和の祭典」という、マスコミの大きな言葉に積極的に思いを重ねようとしている。
それはTVの中の偶像が、偶像として、いつもの五輪をお茶の間に届けようとしたようにも見える。

私はマスコミの言葉も街宣右翼の言葉も、ついでに言えば中国当局の言葉も下らないと思うし、
大きな言葉に自分の思いを重ねるなんて止めてしまえよ、馬鹿馬鹿しい、とも思うけれど、
そういう、自分の思いと同じとは限らない言葉の中でしか生きられないこともあるのも確かで、
欽ちゃんにしても、街頭の市民と触れ合いたかったという思いには恐らく善意しかなくて、
その個人的な善意を生きる前提に「平和の祭典」という大きな言葉が必要だったから困る。
ましてや街宣右翼の言葉に乗っかったあのビルマの方々を下らないと言うのは明確に間違いだ。


冒頭の名古屋の青年は、街宣右翼の方を見ながら、もっとバラバラでもいいのに、とか、
組織的に抗議活動をやらなくてもいいのに、という思いをボソッと吐露していたけれど、
自分の思いを群集に重ねられない彼のその身振りは、中国当局の言葉に思いを重ねるしかなく、
嫌でも組織的にならねばならず、動員されなければならなかった対岸の留学生批判でもある。
というか彼ら留学生は全くバラバラではなくて、行動もインタビューの返答も似通っていて、
もちろんそれは面白くも何ともないんだけど、一人くらい中国国旗の下をこっそり離れて、
個人的な思いと、旗が象徴するイデオロギーとの落差に戸惑う人はいなかったのだろうか。
名古屋の青年が当然のように掴んでいた他者との距離感を、誰も測らなかったのだろうか。


あと、あの日の長野市内には、他にも小規模なFREE TIBET のグループがいたはずだから、
名古屋の彼がそのうちのどれかと合流できていればいいなと思ったりもします。
posted by 手の鳴る方へ at 08:31| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

『新現実 Vol.5』 〜雑誌の売り上げ〜

『新現実 Vol.5』(大塚英志 太田出版)
『「公共のことば」は断念すべきなのか』

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大塚英志と柄谷行人の対談。

昔々「季刊思潮」という雑誌がありまして、二、三年、全8号で終わってしまったんですが、
その編者だった柄谷行人によれば、1号は3000部から始まり、8号は5000部まで伸びたそうです。
ちなみに「季刊思潮」の後にできたのが「批評空間」という伝説的(やや誇張あり)な雑誌で、
対談相手の大塚英志は昔、「批評空間」なんて版元の太田出版の、『完全自殺マニュアル』や
『バトル・ロワイヤル』みたいな本が売れて、ゆとりができたから成立してるだけじゃねーか、
ということを01年(「批評空間」の第二期)の頃に言ってまして、面白いと思ったことがあります。

対談を読む限りでは、出版社に頼らず自前で作った第三期の「批評空間」は評価しているようです。
まぁ、自前を評価するなら、ネットでブログを書くのが手っ取り早いのに、とも思いますけどね。
しかし、大塚英志は意識的に(知識人として?)ネットの「他者」になろうとしている感があるし、
柄谷行人の方は、久し振りに読んだけど、積極的に何かをするような感じじゃ無くなってました。


あと、大塚英志が02年に『群像』で「不良債権としての文学」というのを書いたとき、
文壇や論壇は採算がとれてねーじゃん、出版者の他の部門の売り上げに寄生してるじゃん、
しかもお前らそれで当たり前だとか思ってない? 死んじゃえよそんな文学なんざぁ、
って啖呵をきってボコボコに叩かれたんだけど、その後にラノベブームが捏造されたり、
綿矢りさが華々しくデビューした、という史実があって、これも面白いと思いました。
まぁ、思い出したから書いただけで、柄谷行人とは何の関係もないんですけどね。


日本雑誌協会
http://www.j-magazine.or.jp/data_001/index.html



ちなみに最近の雑誌の発行部数はここで見ることができます。
例えば、前に論壇誌の特集をしていた『論座』で20,433部だそうです。
イロモノ雑誌の王様、『ムー』は69,865部だそうです。ここは笑うところです。
他にも、『月刊アスキー』で53,909部、『メガミマガジン』で64,391部らしいです。
あと、『文藝春秋』や『潮』の発行部数が桁違いなのは、個人的に軽く絶望します。
ちなみに、売れなくなったと言われる『週刊少年ジャンプ』は2,778,850部だそうです。

あれですよね。文芸誌や思想誌って売れてねーですよね。
現実の十倍は余裕で売れてると思ってた時期が私もありました。
あるいはネットの興隆の中、善戦してると言った方がいいんですかね。
posted by 手の鳴る方へ at 08:36| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『新現実 Vol.5』 〜工学化〜

『新現実 Vol.5』(大塚英志 太田出版)
『「公共性の工学化」は可能か』

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大塚英志と東浩紀の噛み合ってない対談。
この二人のスタンスを分かりやすく概説しようとすれば、
例えば以下のアルフレッド・ホワイトヘッドの言葉は役に立ちそうだ。

われわれは自分たちが何をしているのかを考える習慣を培養しなければならないというのは、あらゆる教科書や高名な人たちの演説で繰り返し述べられている陳腐な文句であるが、完全に間違っている。その正反対が真実である。われわれが考えることなしに成しとげることができる重要な作業の数を殖やすことによって、文明は前進するのである。


私にはホワイトヘッドの難しい本なんて読めないので、これは孫引き。
引用先はF・A・ハイエクの論文「社会における知識の利用」(p.70)から。
(田中真晴・田中秀夫 編訳『市場・知識・自由』に収録 ミネルヴァ書房)

ホワイトヘッド(ハイエク)からの引用の前半が大塚英志のスタンス。後半が東浩紀。
ちなみに後半の考え方は、対談のタイトルにある「工学化」っぽいね。


大塚英志が柳田国男を持ち出して、近代をもう一度ちゃんとやり直そうぜ、と言うとき、
それは現代人を近代的な主体に仕立て上げ、彼らの合意形成の中で、社会なり秩序なりを、
今よりも出来のイイモノにしようぜ、ということを言っている。大まかに言うとね。
だから国とか民族とかに思いを重ねたりせず、もっと他者とコミュニケーションして、
知や言葉を引き受けて、パブリックな人生観や共通語の主体として振舞おうぜ、とも言う。


で、東浩紀はそれに対して「え〜でも面倒臭いし」と言う。大まかに言うとね。


引用したホワイトヘッド(ハイエク)の後半部分は、読む人によっては危うさを感じさせるだろう。
見る人が見れば、そこにポピュリズムやファシズムの真っ暗な影だって見てしまうに違いない。
大塚英志もそこに危機感を抱くはずだ。逆に東浩紀はそういう感度とは縁がないように見える。
例えば(p.105)

ひとりひとりが欲望だけで動いていても、結果としてどう公共性が発生するか、ということを考えています。


これなんかは如何にも、ハイエクやフリードマンの自由主義っぽい考え方のように見えるし、
欲望が暴走しているネットの、話の通じなさを肌身に沁みてわかってる知識人のセリフっぽいが、
その少し後で大塚英志が以下のように言うとき、やはり会話が噛み合っていないことが露呈する。

大塚 そこが違うんだよね。私的な価値観の総体として社会という枠組みができあがるとすれば、そこで自分の隣の人間との価値観の利害を調整していくことの先に公共性があるという意識をもちうるか、それとも普遍化できないから成りゆき任せでいいと考えてしまうか。(p.108)


ここで東浩紀が考えていたのは、恐らく、「考えることなしに成しとげる」方法であって、
「普遍化できないから成りゆき任せでいい」というネガティブなイメージではないのでは?
「普遍化できないけど、だからこそむしろイイ」という道筋はここに描けないのだろうか。
柳田国男とは異なる、「共通語なんか無いけれど、それでも何とかなる」という可能性、
「分かり合えないし、合意も妥協も成立しないけど、まぁいいじゃん」という可能性は。
(つまり個人的には、大塚英志のユートピア的な近代って鬱陶しいなぁ、と思っているワケで)
例えば東浩紀は後の方、p.131 で、

ぼくが思うのは具体的なことです。一般に、世界から切り離されたという感覚が、ある種の抽象的な思考とか、他者への寛容さを育てていくんです。


と述べているように、普遍化できない、バラバラにバラけてシラけてしまった世の中で、
「それ故に」ファシズムやポピュリズムから距離を取るような筋道は無いのだろうか。


問題なのは「考えることなしに成しとげる」ことについての評価の違いなのだろうと思う。
そういう「見えざる手」が、市場以外の、言論や思想の世界についてもあり得るのだろうか、
無いなら無いで作ることはできるのだろうか、ということも踏まえて、問題なのだろう。

市場システムが神の手だとしても社民的政策の併用が必要なように、考えないで済む完全なシステムはありえないし、少なくともテクノロジーでは解決しない。(p.142)


というのが大塚英志の解答で、「公共性の工学化」は無理じゃね、ということらしい。
大塚英志は対談の中で何回か、そういうシステムはリヴァイヤサンになるとも述べている。
システムそのものに対しての批判的な視点が求められており、この解答には説得力がある。
posted by 手の鳴る方へ at 08:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

Sheryl crow 〜 幾山河越えさり行かば寂しさの…… 〜

Sheryl crow は現代アメリカの女性シンガーソングライターの筆頭。
単純な善意とアリガチな正義の歌をしばしば歌う。
(一番新しいアルバム『 Detours 』は社会派が鼻につく。)
あるいはシンプルかつ私小説的な愛の歌を歌ったりする。

Detours
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曲調は聴き易く無駄の無いカントリーミュージックが基調。
しかしその歌詞の世界は、安心感のある郷土のイメージからはほど遠い。
そこにあるのは安穏としたアットホームな雰囲気とは正反対の世界観だ。
アコースティックギターを手にし、都市に暮らす現代の女性シンガーは、
その身分に忠実に、自分が根無し草であることを根拠に、率直に歌っている。


彼女の歌の中の人物は、家族やカントリーの庇護の外に突っ立っている。
そこは安住の場所ではない。もはやない。故に彼女は否応なく移動する。
彼女は移動の中に生きる。まさに『 EVERYDAY IS A WINDING ROAD 』だ。
シェリル・クロウの歌は移動の歌だ。不在の終点を目指す旅の歌だ。

彼女はゴミゴミしたモーテルやハイウェイの傍ら、まばゆいネオンの街中、砂漠、
移動中の車の中、目の前を通り過ぎる風景の中、客のいないバー、見知らぬ街角で歌う。
相手を間違えた恋愛・結婚から離れたい、終わりたいと不満を口にし、次のドアを開ける。
過去を嘆き、時間には限りがあると言い、次の恋愛を探すために移動しようと思い、歌う。

そして正真の愛を求め、ベッドで一人寂しくならないような土地を求めてヒッチハイクする。
彼女はそれが生き続けるための術であることを知っている。デビューシングルでそう歌う。


So run baby run baby run baby run
Baby run
From the old familiar faces and
Their old familiar ways
To the comfort of the strangers
Slipping out before they say
So long
Baby loves to run

           (RUN,BABY,RUN)



彼女は走るのが大好きらしい。
世界との関係がプッツリと切れた後、彼女は次の定住先を探すのだろう。
見慣れた世界から見知らぬ世界へと、口元に笑みを浮かべ、コインを握り締めて移動する。
その徘徊するスピードの中で、太陽を浴び、お喋りし、しっかりするのは難しいと物思う。
それがシェリル・クロウの歌だ。彼女にとって街や部屋は走行の通過点に過ぎないのだろう。

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

と、若山牧水はこのような歌を残した。その詩境は不思議とシェリル・クロウの歌詞世界と合っている。
それは近代が懐に隠し持ち、今も持ち続けている生の寂しさなのだろう。
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2008年04月15日

『大衆の反逆』

オルテガ・イ・ガセット 『大衆の反逆』 (神吉敬三 訳 ちくま学芸文庫)
ortega_rebelion.gif


19世紀ヨーロッパの自由主義的叡智が築きあげた物質的・社会的組織は、
人々に対し、歴史上類を見ないほどの恩恵、スケールの大きな生を与えたが、
20世紀の大衆は、忘恩にも、それを当然の、自然的な社会環境として認識し、
天真爛漫に、過去の規範を無視し、古典主義を排除し、慢心した生を送っている。

そういうのってどうなの? お前らもっとちゃんと生きろよ、という話。

「恣意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(p.88)
オルテガはこのゲーテの言葉を引用しつつ、自らに多くを求める貴族を持ち上げる。
それは現状に満足し、権利だけを主張し、受動的に生きる平均人(大衆)とは違い、
好き勝手に生きることを潔しとはしないし、自分自身の迷宮に迷い込むこともない。
彼らは自分を越える大きな何か、現状や国家の彼方にある秩序・精神に奉仕することを好む。
それこそが社会を前へと推進させ、ヨーロッパを大衆の反逆から死守する精神であり、
貴族の責任(Noblesse oblige)である。社会は真の貴族によって新たな歴史を刻みつける。


実家にパラサイトしているフリーターの身分としては、こういう本を読んでいると、
大地に頭を埋め込むタイプの土下座をしなければならないような気になってくる。
それはまぁいいとして、2次大戦前、1930年のスペインで、オルテガが描いた社会認識は、
時代と場所を超えて、21世紀、極東の島国の状況に違和感無くあてはめることが出来る。


ただ、現代に「真の貴族」とか、ノブレス・オブリージュとかはどうだろうね。

彼らは、現実を、自己自身の生を直視しないようにするために思想を用いているのである。それは、生とはさしあたって、自分が迷いこんでいる混沌だからである。人間はそれに気づいてはいるが、その恐るべき現実に直面するのが怖く、そこではすべてのものがきわめて明確になっている思想という幻影の垂れ幕でその現実を覆い隠そうとするのである。自己の「思想」が真正なものでないことには無頓着で、自己の生から自己を守る防空壕、現実を追い払う案山子として用いるのである。(p.224)


例えばこういう箇所にしても、21世紀の今となっては、思想なんてただのフィクションである、
それを生きることと現実を生きることは違う、という主張はありがちで、今更な話でしかない。
そもそもオルテガの後に現れた現代思想には、現実に垂れ幕をするような老婆心などありはしない。
オルテガが「真の貴族」という言葉で、混沌とした現実を受け入れ、招き寄せようとしたように、
現代の思想は案山子とは反対に、貴族よりは謙虚な身振りで、現実を歓待しようとしている。


かつては「真の貴族」に見えた生き方も、今ではフィクションのようにしか映らないだろう。
というかそれは、残念ながら「キャラクター」の類型の一つのようにしか見えないに違いない。
そもそもオルテガの言う「真の貴族」は、漫画の主人公の類型をイメージするのが分かり易い。
困難を乗り越え、運命を切り拓き、逆境に立ち向かい、不可能を可能にする少年漫画の主人公は、
つまり大衆に埋没せず、物語を起動し、推進し、煽動し、奉仕し、神としての作者に従っている。
オルテガは真の貴族の例としてシーザーを挙げ、ページを割いてその栄光を熱っぽく語っているが、
私たちは同じようなテンションで、『ONE PIECE』の主人公について熱く語ることができるだろう。

逆に言えば、もはや「真の貴族」は物語の中にしか存在の余地がない、とも言えるかもしれない。
現実世界には作者なんてモノはいないし、共有すべき物語・歴史・世界観すら欠けている。
貴族はその中で、一体何の歴史を更新するのだろう? 誰の、どこの、何の社会の歴史を?
貴族の言葉も大衆の言葉も区別がつかないだろう。貴族自身にも区別がつかないに違いない。
本当の生だとか、本当の言葉なんてセンチメンタルなものは、もはやJ-POPの中にしか居場所が無い。
貴族が歴史を切り拓くなんていうのも、オルテガがいう意味での思想の垂れ幕でしかなくて、
貴族という思想は、ある種の混沌と対峙する一方で、大衆という混沌からは眼を逸らしている。

そのような貴族のフィクションに生きることは、今も昔ももちろん間違ってはいないけれど、
歴史の不在、共通項の欠如を踏まえない、その不可能性に無頓着な貴族趣味はただの悪趣味だし、
その手の悪趣味は、ネットの中にも外にも掃いて捨てるほどに蔓延っているから始末が悪い。
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2008年04月08日

論壇とブログ

斉藤環はBlogってデッサンに似てね? と言っている。

つまり、「書籍」あるいは「テキスト・アーカイヴ」を完成した絵画作品になぞらえるなら、Blogこそは、永遠の未完成形として増殖を続ける知的デッサンにほかならない(略)。
(斉藤環  『メディアは存在しない』 (NTT出版) p.139)  


世の中に何かが起こると、次の瞬間には多くの感想・評論が即興的にネット上に書き込まれる。
それはブログだけでなく、2ちゃんねる的な大型掲示板やMixiのようなSNSも含めての話で、
それが(今更そんなことを言うのも恥ずかしいが)「ウェブ2.0」時代のありふれた現状。
デッサンは完成品ではなく、それに至る以前の手と思考の運動、模索、出来事の痕跡で、
デッサンによって、デッサンの中で、対象や、対象のマチエールを発見したりもする。
デッサンは書籍や論文、文芸誌や論壇誌に掲載される読み物と、概念上は区別されている。


ずーっと前にネット上で話題になった本に『必読書150』(太田出版)というのがあって、
「批評空間」の偉い人達が、「これを読まなければサルである」ってアジった本なんだけど、
ブロゴスフィアのリアクションは、私が見た限りでは反感の方が多かった気がする。
反感の内容は、教養主義・権威主義・古典主義への真っ当な拒絶感で、さもありなんだ。

権威や教養が希薄な中で、それでも日本のブロガー達はデッサンをシコシコと描いている。
ただ、それは「希薄」であって「皆無」ではない。必要ならば彼らは古典を読むだろうから。
読んで面白ければ次も読むだろう。暗中模索しつつ、手探りで、書架から本を抜き出すだろう。

それなのに、ああそれなのに、偉い人達にはそれがわからんのですよ。
『必読書150』(p.22)で、師曰く


渡部 (略)当初はこの本の巻末付録に、せいぜい現代の日本の小説しか読んでない人のための「道しるべ」のような一文を添えようかと考えました。村上龍が好きならば、必ずサドもセリーヌも読めるはずだ、とか。『エクスタシー』からはバタイユ、『共生虫』からはモンテーニュ『エッセー』の「人喰い人種について」の章を経てレヴィ=ストロース。『希望の国のエクソダス』の遠いネタ本は、本人も読んでないだろうけれど、トマス・モアの『ユートピア』やラブレーの『パンタグリュエル』に出てくる「テレームの僧院」であるとか。柄谷さんもいってるように、村上春樹の曽祖父は国木田独歩で、『一九三七年のピンボール』の「僕」のようにベッドでカントも読めるはずだといった、まあ、詐欺すれすれの道案内ですけれど、結局やめました。そこまで親切にすることはないですよね。


最後の一文にカチンと来るが、というか、この本は全編通じてカチンと来るのだけれど、
それはいいとして、意味不明の理由で知識人が道案内の地図を出し惜しみしている間に、
ネット上には幾らでもその手のサイトが現れて、無名の親切な読書家が需要に応えている。
極上の教養を持つ知識人は、並の教養を持つ無名の紳士によってムザムザと役目を奪われ、
ブログや2ちゃんねるは、それなりに、知識人よりは、学問の裾野の拡大に貢献している。
デッサンを描くスピードで様々な内容の道案内がなされ、エピゴーネンが同類を生んでいる。
それでも山積されたデッサンの束は、いつか知識人の住まう象牙の塔を越えるかもしれない。


ネットの住人が『必読書150』に敵意をむき出しにした気持ちはよくわかる。
それはTVに対する感情と同じで、オールドメディア、旧体制のクセに偉そうだからだ。
もしもネット言論という、幼稚でウソ臭いものを大真面目に発展させていく気があるのなら、
『必読書150』的なモノを、ネット住人は仮想敵としてデッサンしていくことになるだろう。
ただ、それなりのケーキを作るためには、小麦粉や卵や砂糖が不可欠なように、
世の中についてそれなりに語るためには、カントやマルクスやフロイトは不可欠で、
勢古浩爾が幾ら皮肉を言っても、デッサンの動きの先には古典の見本があると私は思う。
だから知識人とか大学人は、もっとブログを書いて偉そうに啓蒙すればいいとも思う。


雑誌はデッサンに近い完成品という、なかなか骨の折れる仕事を求められているはずだが、
どこかの週刊誌みたいに、ネット上のデッサンをかき集め、補正だけするようでは落日も近い。
時流に沿った言論は、もはやネットにアドバンテージがある。出版社はその後を追うだろう。
ならばいっそのこと時勢とは一線を画した、法政大学出版局みたいな硬派を気取ろうか?
書籍とはそもそもそういう役割を期待されている。雑誌だって似たようなものだろう。
しかしブロゴスフィアにも硬派な言論はあり、凡庸な問題提起では競合してしまうだろう。


今月号(5月号)の「論座」の特集「ゼロ年代の言論」に眼を通す限りでは、
論壇の若い世代は、今の時代に紙媒体で活動することについて自覚的になっている。
知識人/無名の紳士、完成品/デッサン、書籍(雑誌)/ネットという構図の中で、
それでもあえて(「あえて」だ!)前者を志向することの意義が語られている。


あと、どうでもいいけど、最近の「論座」は頑張ってる感じがしてイイと思う。
何に比べて頑張っているかと言うと、例えばこういう雑誌と比べて頑張っている。
御用文士をかき集めて、しょーもないワイドショーみたいなネタをわざわざ雑誌でやる。
地元のゼネコンに仕事を与えるために、いらない公共事業をやってるようにしか見えない。
文春が出す、100人くらい動員したこの手の臨時号は読んでて辟易します。立ち読みだけど。
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2008年03月28日

colour

CMと美学の話をしようと思ったけどやめて、色って綺麗だよねって話。

sony bravia (bouncy balls)



ソニーのTV、BRAVIAのCMのうちの一つ。Jonathan Glazer って人の作品。
流れている曲名は“Heartbeats”。Jose Gonzalez という人が歌っているバージョン。
もっと高画質で見たいなら、ニコニコ動画のプレミアム会員にでもなればいいと思うよ。




んで、下は、二年前くらいにTrekEarth で拾った、確かデンマークかどこかの写真。

29.00378.jpg


ここに写っているのは、たまたま街中のオープンスペースに居合わせた個別の一市民に過ぎない。
グリッド状に並ぶテーブルの色はランダム。そこにいる人の位置も、その向いている方向も、
年齢も、椅子の色の組み合わせも、材質の違う床の比率も、どれも不均衡なんだけど面白い。

色の力は個別の空間同士を結びつけるだろうが、そこには強制力も粘着力も抵抗力も引力も無い。
それはトリコロールでは無いし、虫を呼ぶ花の色彩でも、マタドールや信号機の赤でも無い。
それでも、ある人がカメラのレンズをこの空間へと向けて、シャッターを切った気持ちはわかる。
色の傍に人が立っている。あるいは色と色の間に人がいて、腰掛けたりしているのは端的に面白い。

色は面白い。それは単なるテーブルの色だが、単なる色でも面白い。と言うか、単なる色がイイ。
とりわけモザイク状の色は、花畑でもステンドグラスでもbouncy balls でも、見ていて面白い。

これは都市計画の産物なのだろうか。それともショッピングモールやホテル資本のそれだろうか。
どちらにしろ色彩は、もはや画家の筆先のみに宿るのではない。それは画家の専売特許ではない。
ありがたいことにそれは街並みの中に広がっている。テレビのCMやPVの中に無料で広がっている。


ちなみにこの写真の対極にあるのが、日本の学校の味気ない教室だろう。
同じ規格の、大量生産丸出しの、厚い木の板と板金を組み合わせたシンプルな机。
そして同様な椅子。それが教室の前方、権威ある教卓に向かってズラッと並んでいる。

感受性が豊かになるとか、心理学的に教育にいいとか、そういうのはどうでもよくて、
学校の机もパステルみたいに色とりどりにして、ランダムに配置すれば面白いのに。
同じ色同士で派閥が出来たり、色で差別することを覚えたり、目がチカチカしたり、
ピンクの机になって不登校になる男子とかが出るかもしれないけど、それはそれで。
posted by 手の鳴る方へ at 02:35| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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