2008年03月26日

ナースと美学

「芸術作品を理解するとは、それを買うことである」というアルヌルフ・ライナーの賢明な箴言に人々が従うようになって以来、芸術の方は何の苦労もなく生き延びてはいるが、芸術に関する理論たらんとする美学は、ほとんど誰も気づかぬままに、その生を終えた。
(N・ボルツ 『グーテンベルグ銀河系の終焉』 識名章喜・足立典子 訳 法政大学出版局 p.156)


LOUIS VUITTON やマーク・ジェイコブスのやっていることはこういうことなのだと思った。
芸術品とは商品のことだ。そして芸術品の使用価値とは、その作品を理解することだ。
そして芸術作品を理解するとは、それを買うことだから、交換価値こそが芸術の使用価値だ。

LOUIS VUITTON と、村上隆やロバート・ウィルソンとかのコラボレーションは、
商品と芸術品の区別なんかもう無いよ、ってことを面白おかしく示唆している。
まぁ、こんなことは今更、もったいぶって言うほどのことでもないのだけれど。


去年の10月、LOUIS VUITTON はグッゲンハイム美術館でリチャード・プリンスとのコラボを行った。
エキシビジョンは彼の作品の一つ、「ナース・ペインティング」からインスパイアされている。
それは看護婦がヒロインのロマンス小説、その表紙をスキャンして、それに絵の具を塗った作品群だ。
例えば7点の子がナース服を着ることにより、10点になるというのはあまりにも有名な話だが、
さらにその服がシースルーで、なおかつLOUIS VUITTON のバッグまで持っているとなれば、
それはもう10点どころじゃない。スカウターが壊れる戦闘力だ。地球ヤバイ。

Paris - Louis Vuitton - Fashion - Wallpaper.com
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ちなみに、地球ほどではないけれど、芸術と袂を分かった美学もヤバイ。
ワイマールにバウハウス(Bauhaus)が開校した1919年以降、生を終えたらしい美学は、
いわゆる芸術家達よりもむしろ、優秀なインダストリアルデザイナー達の庇護下にある。
美学は現在、美術館の中よりも、コマーシャルや日用品、都市計画の中に多く散見される。
椅子やケトルが美学と手を組んだとき、芸術家とデザイナーの区別は無意味となり、
「アート」や「アーティスト」という言葉の外延は途方も無く広がってしまった。
「アーティスト」と「自称アーティスト」、例えば「アート」と「FUMIYART」の区別、
そんなことまでも曖昧になっている。―― もちろんそれは歓迎すべき愉快なことだけど。
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2008年03月21日

ネグリが来ない

「〈帝国〉」の著者ネグリ氏、来日を延期
2008年03月20日13時18分  asahi.com



延期と言うか、主催者サイドの言い方では「中止」。

直接の理由は入国に必要な書類を揃えるのが間に合わなかった、ということらしいが、
革命を謳うポスト近代左派の哲学者が、サミットを控えた国に入国し損ねたワケで、
この、漫画と言うか、冗談みたいな顛末に、不謹慎ながらニヤニヤしてしまう。
三寒四温の季節の中に、一瞬だけ政治の季節が混じって消えたようなサプライズだ。


ネグリ『さらば、“近代民主主義” 政治概念のポスト近代革命』(杉村昌昭 訳 作品社)

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帯には「ネグリ初来日記念!」とあり、訳者もあとがきの最後で来日について触れている。
残念ながら今季の日本に「春一番」(p.20)は吹かなかったが、きっと次があるだろう。

ネグリのやろうとしていることは、―― いま現在の世の中には政治的問題が色々あるよね、
社会主義が失敗して「歴史は終わった」とか言われているけど安心するのはお門違いで、
例えばグローバリズムや資本主義や民主主義なんかで問題が山積しているのが実状だよね。
それらを批判する言葉や、現実に蠢いている運動を適切に言い当てる言葉がないから困るよね。
だから新しい、ポスト近代的な、政治的ボキャブラリーについて真剣に考えようじゃないか、
そういう用語を得ることによって、我々は新しい活動を行えるのだ―― ということだと思う。
その新しい用語が、(手垢のついたように見える)マルクスっぽいワケも本書に書いてある。


「下から上への、自由と平等のためのラディカルな絶対民主主義」(p.166 要約)って言葉は、
もちろん反サミット・反グローバリズム活動に対して使っても良さそうなセリフなんだけど、
政治や政治活動から距離を取りたい日本のノンポリとしては、ネグリの用語(ツール)は、
ネット上の集合知や2ちゃんねる、ニコニコ動画の説明に使ったほうが面白そうに見える。

権力(生権力)は上から下へと行使され、フーコー的には内外からも行使される、って現状は、
何も官僚制やグローバリズム、白色テロ的な側面だけに限定されているわけでもないだろう。
上から餌(金や名声)をぶら下げられても、「そんなエサには釣られないクマー」と身をかわす、
そういう態度を知っている連中は、思ったよりも現状批判的、革命的な気もするのだけど。
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2008年03月14日

『まぐれ』

ナシーム・ニコラス・タレブ 『まぐれ』(望月衛 訳 ダイヤモンド社)を読む。

通称「ノーベル経済学賞」を受賞した二人の学者がLTCMというファンドを設立した。
彼らは自分達が市場のことをわかっていると思っていたし、みんなもそう思っていた。
ところが彼らはアホみたいに損をした。彼らのポジション(仮説)は間違っていたのだ。


自分の仮説が正しいだなんて、おこがましいと思わんかね? という内容の本。


アルファブロガーの池田信夫が面白いって言ってるけれど、本当に面白いし読みやすい。
ちなみに池田先生は、数学的な傾向の強い計量経済学を机上の空論だとよく言っている。
この本の内容もまさにその通りの内容。計量経済学? ハッ、っていうこのスタンスだ。

池田先生は生物学的な方法論で、経済学の科学性を改善しようと思っているみたいだけど、
経済学って今までも、私が在学中だけでも心理学とか数学とかと付き合っていて、
その前は哲学と付き合っていたって言うし、基本的にフワフワした浮気性な学問だ。
ここに来て次は生物学とお付き合いですか。上手くまとまるといいですよね。


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「市場が三ヶ月で20%以上下げたことはない」としても、そのサンプルに意味は無い。
それに基づくポジションが上手くいっているのは、依拠する仮説が正しいからではない。
「まぐれ」だ、と作者は言う。そして仮説が反証され、まんまと大損をしたトレーダーは、
「自分の仮説は正しかったが、運が無かった」「むしろ市場が正しくない」とか言い出す。
この状況は、「ヒュームの問題」と呼ばれている考え方でアプローチすることが可能だ。

帰納法を巡る「ヒュームの問題」とは、有限個の証拠(この湖の白鳥はみな白い、等)から、
それを元手に全称命題(「全ての白鳥は白い」)を正当化することについてのまっとうな疑義。
「今までもそうだったから、これからもそうに違いない」という、あまり科学的でない信念が、
ここでは問題視されている。それは未だ無い未来が、過去と似ているに違いないと思っている。
もちろんタレブはそのことを問題視する。過去のトレーディングの成績は関係ないと言う。



話はトレーディングから変わるけど、ファイヤアーベントは『知についての三つの対話』の中で、
ヒュームの問題は定言命法的なお伽噺で、科学の現場とは無関係だと言っている。


「すべてのカラスは黒い」が非常に美しくかつ調和に満ちた体系にぴったり合っていれば、白いカラスがいようが、科学者はそれを保持し、もっとこと細かに改良しようとすることもあるよ。
(『知についての三つの対話』 ちくま学芸文庫  p.177)


科学者だって人間だ。トレーダーのように自分の仮説に拘泥したりもするだろう。
自分の仮説にそぐわない実験結果が出ても、それを偶然の産物、ノイズだと思うだろう。
ある種の金融経済学者が、自分のポジションが正しく、市場が間違いだと思ったように。
このような演繹的な態度の中に、ヒュームの哲学的な懐疑主義の占める位置はあまり無い。
加えて、このような科学者のメンタリティは、科学の反証可能性(ポパー)とも相容れない。
白いカラス(反証)がいても、「カラスは黒い」と科学者は主張するかもしれないからだ。
ファイヤアーベントはポパーに恨みでもあるのか、彼を形式的衒学者と呼んでいたりもする。
タレブはポパーの影響を認めつつも、単純にポパー的なスタンスは取っていないように見える。
それはファイヤアーベントとは異なるが、合理性に対する、一歩引いた謙虚な態度のようだ。
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2008年03月09日

独創と模倣、あるいは肺腑に積もる音楽



この人はトップクラスのミク使いだと断定できる。異論なんか無いだろう。
他の曲もイイ。もちろん他の人の全てのVocaloid 作品を見たワケじゃないけど、
私の中でのVocaloid 最高傑作は、この人の『銀輪は唄う』だと思っている。

ブレスだとか、バックコーラスだとか、絶賛の言葉を並べるとキリが無い。
へこんじゃったときは、本当にへこんじゃったように発声している。
その一方で、この人の初音ミクは「機械のように」も歌うことができる。
人と機械、声と音の境界線を、テクノポップと共に軽々と越境している。


この人にはもう一つ、越境の悪意がある。コンテンツに引かれた独創と模倣の境界線の越境。
この人は模倣であることを隠そうとしない。受容された他人の音楽があからさまに顔を出す。
それは作者一流の遊び心であり、原曲に対する敬意であり、まさにおっさんホイホイであり、
要するに「ここはa-ha の Take On Me だね。懐かしい」とか言って遊ぶためのとっかかりだ。


独創とは「他人の真似をせず、自分一人の考えで物をつくり出すこと」だそうだ。
「独創」や「才能」という言葉は、作者・作品の固有性・唯一性を謳ってみせるが、
この言葉があなたの前に現れたら眉に唾をつけた方がいい。それは形而上学的だ。

現実世界に生きる人間はみな、ある種の環境の中におり、そこから逃れている者はいない。
人間の欲望は常に既に他人の欲望であり、模倣である。作品もその影響を逃れてはいない。
作品と人間との総和である文化そのものですら、民族固有の独創が生んだわけではない。


衣冠束帯や十二ひとえや長い髪というごとき趣味の変遷は、ただ模倣から独創に移ったというだけのものではない。寝殿造りや仮名文字の類は、咀嚼や独創について最も有力な証拠を与えるものとせられているが、しかし仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教わった建築術による日本式住宅の完成である。すなわちこれらの変遷は外来文化を土台としての我が国人独特の発達経路と見られるべきである。固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。この見方は外来文化を生育の素地とする点において、外来文化を単に挿話的なものと見る見方と異なっている。この立場では、日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものである。(和辻哲郎 『古寺巡礼』)


雰囲気。それは自分以外の何かから生じている広がりだ。あるいは比喩的な意味での音楽だ。
人はその音楽を、家族やTVや街角から耳にして、意識的にしろ無意識的にしろ心を奪われる。
やがて好き好んで繰り返し聴くようになり、指でリズムを刻み、運転中に口ずさむようになる。
その音楽を心地よいと思い、長い時間を共にする。真剣に考えたり、その思いを口にしたりする。
例えばそんな彼がDTMを熟知し、初音ミクで歌を作ったとする。それは一体何の産物なのだろう。
その作品は彼の「才能」から生じたのだろうか。そんな言葉を使う必要がここにあるのだろうか。
むしろその作品は、作者と音楽が長い時間を共有した中で生じた、思考の産物なのではないか。
人と音楽、つまり人間を包み込む雰囲気との間に生まれた、2人によく似た嬰児なのではないか。


模倣は独創の母である。唯一人のほんたうの母親である。二人を引離して了つたのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会へようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがへのない歌を模倣するに至る。これは日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、かういふ言葉も逆説めいて聞える程、独創といふ観念を化物染みたものにして了つた。(小林秀雄 『モオツァルト』)


独創なんて無い、と言っているのではない。模倣でない独創は無い、と言っている。
小林秀雄や和辻哲郎だけでなく、この類の物言いは少し探せば幾らでも見つかる。

「日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものである。」
和辻哲郎はそう書いたが、このことは文化一般にも言えるだろう。ニコニコ動画にも言える。
ニコ動の文化は外来文化の中から生じたものだ。一見そう見えても、無関心やアンチの産物ではない。
外来文化には豊富なコンテンツがあり、眠っている。例えば80年代前半のテクノポップがそうだ。
それらの文化には既得権益があり、情報技術の発展から目を逸らす権利者によって守られているが、
ネットの住人はそんなコンテンツを空気のように吸っているし、空気のように吐き出してもいる。
その呼吸によって生き延びるのはコンテンツの権利者ではない。少なくともそんな時代ではない。
現世の彼岸で繰り返し蘇り、新たに生まれ変わるのは、気息としてのコンテンツとその雰囲気だ。
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2008年03月07日

『「国語」入試の近現代史』

石川巧 『「国語」入試の近現代史』(講談社選書メチエ)

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「教養」だとか「文は人なり」だとか「美感」だとかが、受験教育の言説として現れ、
試験官サイドの、あるいは時代のヘゲモニーに都合のいいように組み替えられていく。
学問は多少なりにリゴリズム(厳格主義)であるべきだが、読解にはそれがあり得ない。
で、受験生はその時代の中で、思ったよりも恣意的に国語を教育させられている、という話。


普通、文章は読むものだけど、国語の授業の文章は読まされるものだった。
しかもクラスのみんなで、誰かの音読に合わせて読み進めるから始末が悪い。

例えば授業が始まり、出席番号6番の男子が指名される。今日は不幸にも6日だからだ。
やがて教室にボソボソと声が響く。それは教科書の45ページを読み進めている。
出席番号15番の男子は、そこは授業が始まった直後に、個人的に読み終わっている。
というか、今やっている作品は、既に読み終わっている。なかなか面白かったと思う。
それは白樺派のある有名な作者の作品で、彼は前に、同じ作者の同じ作品を読んだことがある。
そのときは面白く無いと思ったけれど、授業でじっくり読まされるとまた違って見えた。
彼は今、教科書の118ページの韓非子をじっくり読んでいる。次に指名される可能性も低い。
また、彼の後ろの席の男子は、国語の教科書に隠れて次の授業、数学の宿題をやっている。
経験上、国語(ただし古典・漢文を除く)は勉強しなくても、そこそこいい点が取れるからだ。
窓際の席、出席番号7番の男子は、一応45ページを開いている。もちろん真面目だからではない。

やがて出席番号6番、本日の不幸な男子はノルマを終えてホッと肩の力を抜き、席に着く。
先生は教卓に、チョークで汚れた手をついて言う。「3月×3月で9、それに6日を足して15・・・」
韓非子に読み耽っていた出席番号15番の彼は、先生の導き出したその数字にギョッとする。
「次、次はどこから読むの?」
助けを請うて振り返った彼の視界には、何故だろう、多角形に見当違いな補助線が引かれつつある。

出席番号15番の男子は黒板の方を向き、ゆっくりと立ち上がり、こう思う。
「3月と3月をかけたら341日です。それに6日を足せば347日です!」
そう、彼はインド式計算をマスターしていたのだ! ボケッとすんな! しばらく立ってろ!!


何の話だっけ?


普通の読書は読解したり誤解したり、翻訳したり、暗記したりするものだけど、
国語の試験は読解させられたり誤解させられたり、翻訳、暗記させられたりするもので、
しかも匿名の出題者(つまり問題文の作者ではない)の思惑に従ってそうさせられるものだった。
それは受動的で受容的な読書で、求められるリアクションを上手く演じることが肝要だった。
昭和12年の参考書『解釈学を基底とせる現代文の新解釈』にはこんなことが書いてあったそうだ。


国語受験は決して断片的な語句の解釈でもなく皮相的な換言でもない。それは広い教養と不断の準備を背景とし、自我の全幅を数葉の答案に傾注して、敬愛する志望学校教官の厳正なる裁断を待つ所の人格的試練であり、紙上の人物考査である。(p.102 石川巧による傍点は省略)


学問や教育(ましてや最高学府以前の教育)が受動的で受容的なのはごもっともだが、
だからと言って言葉や読書が、本質的に無条件に受動的で受容的であるワケではなくて、
ここらへんの議論は本書の第4章に、論理主義/心理主義の対比で扱われている。


個人的な感想としては、人は受験の文章は受験の文章として読解するけれど、
それ以外の文章はそれ以外の文章として、漫画は漫画、攻略本はそれとして読むから、
「入試問題を解くようにしか文章を読めなくなっている」的な意見は、受験を過大評価していると思う。
受験の国語なんて、実際に読み書きする国語の一部分だ。優秀な人ほどそのはずだ。
谷川俊太郎の詩は、教科書にある場合と、ハードカバーにある場合とでは別物だし、
最近では、受験で扱われた哲学の文章で、こういう面白い試みをやっている新書もある。


入不二基義 『哲学の誤読』(ちくま新書)

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こういうのを読むと、哲学って面白いよね、素敵だよね、って改めて思います。
ちなみにどちらの本も、同じプロジェクトから作られたもののようです。
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2008年02月15日

もう一度、『リバーズ・エッジ』から

友人宅で『リバーズ・エッジ』(岡崎京子 1994年)を読んだ。(7ヶ月ぶり2回目)


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あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠の中にたたずみ続けるだけだ。



この作品は、普段生きている日常がフィクションであると告発しているように見える。
噂話に花を咲かせ、志村けんのTV番組を見て、釣りをし、黒板に落書きをする日常。
しかし、その足元を一枚めくれば、白々と骨を覗かせて朽ちる、匿名の死体が横たわっている。
日常の空騒ぎは、死というリアリティから目を逸らす。しかも誰もそのことに気付いていない。
死という事実、消失点を目の当たりにして、あらゆるフィクションが形骸化してしまう。
平穏で能天気な日常には根拠が無い。それは簡単に崩れ落ちても仕方のないモノなのだ、
という内容の小説や漫画や映画は幾らでもあるし、これからもきっと作られ続けるだろう。


『リバーズ・エッジ』には、いじめや同性愛や拒食症や猫殺しや放火やドラックや殺人がある。
当世風に言えばケータイ小説と同じくらい、登場人物達は転がり落ちるように傷付いていく。
日常を優しく包む物語、フィクションに彼らはもう騙されない。騙されたくても騙されない。
その代わり彼らはヒドイ目に会う。ヒリヒリとした現実に触れて、色々と取り返しがつかなくなる。
彼らは騙されない。「本当」を知った若者は、書き割り化した世界の中で永遠に佇み続けるだけだ。


ここで言う「本当」とは、「あなたは本当の愛を知らない。心から人を愛したことが無いでしょ」と、
とある小娘Aが、したり顔でケータイ小説の批判者に向けて反論する場合の「本当」と似ている。
それは日常の薄っぺらい愛なんかじゃ無く、一切の騙しがない、真の愛のことらしい。
あるいは新聞の社説や投稿欄で、経済至上主義、競争社会を快く思わない論説員や一読者の、
「そろそろ日本も本当の豊かさについて考え直すべきだ」と言う場合の「本当」と似ている。
それは日常の薄っぺらい豊かさなんかじゃ無く、一切の騙しがない、真の豊かさのことらしい。
あるいは「本当の日本人」とか、「本当の友情」とか、「本当の国際平和」とか、まぁ色々ある。

彼らも書き割りと化した愛や豊かさの中で、佇んだり反論したり新聞に投書したりしている。
しかし恐らく、実際のところ、彼らは「本当」の愛や豊かさなど御存知ないだろう。
彼らは現今の愛や豊かさに不満があり、それに対するアンチとして「本当」と口走る。
それは正しい意味でのフィクションであり、彼らは安穏と、湯に浸かるようにそれに騙される。





話は変わって、こんな流れの後で、『あずまんが大王』(あずまきよひこ)の話。

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「割り箸をきれいに割れたら大学合格」というおまじないが4巻の後半部分にある。
しかもそれが頭の悪い(語弊アリ)クラスメイトが勝手に考案したおまじないで、
こんなモノはもちろん安いフィクションで、その御利益に根拠なんて微塵も無い。
おまじないの類は根拠薄弱なのが普通だが、このケースは輪をかけて人を馬鹿にしている。
それはビックリするくらい薄っぺらくて、騙されるのに気が引けるくらいキッチュだ。

が、それでも、受験する親友達のため、一人の登場人物は買ってまでして箸を割り続けてみせる。
これは時間の無駄だし、資源(割り箸)の無駄だし、つまるところやるだけ無駄なのだけど、
彼女は真剣に割り続ける。4コマの内、4コマ全部を使って割り箸を割り続けている。

ここにあるのは騙されることに対する覚悟で、フィクションに対する笑っちゃうような真剣さだ。
根拠が無いとか、能天気とか、本当でないとか、騙されているから駄目とか、そういう問題では無い。
『リバーズ・エッジ』とは違い、彼女は騙される。書き割りの世界の中、全力で騙されようとする。


『あずまんが大王』が、その後の萌え4コマ漫画の端緒となったという史観があるらしいが、
恐らく多くの萌え漫画は、キッチュでチープな、人を馬鹿にしたようなフィクションだろう。
しかしそれらにオタク達は真剣に、全力で騙される。4コマの内、4コマ全部を使って騙される。
何故ならその方が面白いからだ。たとえ真理だとしても、死と向かい合うのなんか真っ平御免だ。
それはオタクだけに限らない。日常がフィクションだとすれば、それば全ての人に該当する。

フィクションにとって大切なのは、それが嘘だと告発することではない。それはもう終わっている。
大事なのはそのフィクションに対し、どこまで大真面目に生きることができるかということで、
もっと言えば、そのフィクションがどこまで信頼できるか、どこまで考え抜くことができるか、
騙され続けるに値するか(信憑性があるか)、自分に嘘を付き通せられるか、ということだ。
騙されることは騙されないことよりも難しいし、青年が何にも騙されないことを誇るのは小賢しい。




『リバーズ・エッジ』に出てくる拒食症の女の子は、河原の死体を見ていると落ち着くと言った。
彼女は全てのフィクションから身を引き剥がし、眼前の死と向かい合い、閉じ合っている。
その丸まった背中の後方で、フィクションとフィクションがお互いに「本当」を主張し合い、
萌え漫画やそうでない漫画が溢れ返り、TVや雑誌が日常を煽ったり再構築したりしている。
笑っちゃうような真剣さで、「萌え」だとか「愛」だとか「安心」だとか「環境」だとか「革命」だとか、
そういう類のお喋りが飽きもせずに繰り返され、痩せこけた女の子の背後で消費されていく。
このような現代を軽佻浮薄と呼ぶのは簡単だ。そしてそれは余りにも簡単すぎて馬鹿みたいだ。
それよりもむしろ真剣にフィクションに騙され、人生を片時でも預けてみせる方が難しい。
そういう真剣さや難しさこそ、寄る辺無い現代人の、なけなしのリアリティなのではないか?
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2008年02月08日

伊藤整の『裁判』

伊藤整 『裁判 上・下』(晶文社)


 裁判(上巻)       裁判(下巻)
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戦後間もなく、D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』の完全版を出版したところ、
それが刑法第百七十五条の猥褻文書販売に当たるとして、訳者と出版者が訴えられた。
その訴えられた当人の一人、訳者の伊藤整自身による第一審(東京地裁)のノンフィクション。
AMAZONのカスタマーレビューには、流行りの「国策捜査」と繋げてある評があるけれど、
伊藤整自身は、彼の人柄なのだろうけど、裁判官や敵であるはずの検察・検察官に対し、
特に悪くは書いていない。もちろん検察側の論旨・理屈には何度も突っ込んでいるけれども。


第一審の裁判の顛末は、伊藤整には無罪。出版者には罰金25万円。本書の内容はここまで。
ちなみにこれに検察、被告人双方が控訴。高裁の判決は伊藤整にも罰金10万円という内容。
最高裁へ上告するものの、昭和32年、上告棄却。有罪判決は覆らず。

下巻の帯で池澤夏樹が語り、本文中でも裁判官達が自覚しているように(下巻p.272)、
この判決や裁判内容自体が、その後の人々、歴史によって裁判されることになる。
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』自体は、現在では普通に読むことが出来る。
内容も言うほど過激ではない。他に出版されている、ある種の雑誌の方がまだヒドイし、
この点は裁判当時から所謂「カストリ雑誌」との比較が成され、証拠としても用いられている。



で、何で今更こんな本を読んだかというと、岩手県で蘇民祭のポスターがセクハラで駄目だ、
みたいな騒動があって、セクハラと言うか、猥褻ってどう扱われてきたのか気になったから。


<知りたい!>何がセクハラ?蘇民祭 けがれなき奇祭、岩手で13日夜〜14日朝
2008年2月7日(木)15:03



上の記事の中で、住職が「祭りの本質や信仰とは全く関係ない興味本位の人が増えるだけ」
と言っているが、この傾向は50年前の『チャタレイ夫人の恋人』事件でも問題視されている。
思想や伝統なんかより、ただエロい部分に目が行き、それだけで良しとする出歯亀根性のことだ。
というか、それが有罪判決の一つ、この本が猥褻文書となり得る可能性の遠因となっている。
(例えば下巻p.309 猥褻感は読者と書物並に環境の関数であるという部分等。)


現代の状況を性の解放とか、表現の自由って素晴らしい、とか言うのは間違っていない。
逆に性の氾濫とか、セックスビジネスの行き過ぎとか、そう不平を言うのも間違っていない。
ただ、現在のそういう状況と、ロレンスや翻訳者の思想とは、逆の、正反対の方向を向いている。
商品価値としてのみ裸体が流通する時代には、性に対する誠実さは軽んじられるほか無いし、
劇薬として扱われたロレンスの思想も、毒に浸ったような現代では、逆に鎮痛剤のように映る。

現代に救いがあるとすれば、性についての一般性を、簡単に概観することができる点だろう。
本書の最後では、団藤重光の言葉が幾つか引用されてあり、そのうちの一つにこう書いてある。
ちなみに団藤重光は刑法の専門家。語学に秀で、31歳で教授、後に最高裁判事になったスゴイ人。


「裁判所では多数の証言を聞いたが、どうも専門家や名士が多すぎたように思う。むしろ一般の、そこいらにいる人たちの感じを聞くのが本当だったであろう。(p.344)


現代日本のブロゴスフィアは、「一般的な」猥褻がどの程度かを測るには都合がいいと思う。
大抵は偏っているんだけど、それでも検索して総覧して見れば、専門家の偏向よりはマシだろう。
『チャタレイ』事件の当時、このようなメディアがあれば、裁判の結果は違ったかもしれない。
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2008年02月03日

cocomono mamani

cocomono mamani(ココモノママニ)


アクセサリや靴下を扱っているブランド。
そのアクセサリの多くが真珠(バロックアコヤ)を用いている。
卓上ライトや風船、がま口、トラックと真珠が組み合わされているデザインは面白い。


月並みな言い方だが、宝石は自然の生み出した芸術品で、それだけで価値があるらしい。
人間の手による研磨、カッティング等は、その美しさをより顕然化するためだし、
鉛ガラスや樹脂、ある種のオイルによるフラクチャー処理、放射能処理にしたって、
市場価値を上げるという下心はあるものの、美しさを際立たせるための方便だ。

が、価値のあるモノを、価値のあるモノとして所有することにはさして意味が無い。
シンプルなソリテールリングは確かに美しいだろうけれど、言ってみればそれだけの話で、
あるいは「お金持ちですね」と思うくらいで、身に着けている本人の美醜は変わらない。
宝石の可能性を、その程度の範囲に貶めているのはきっと良くないし、そもそも面白くない。

もちろん宝石にしたって、ソリテールリングやパヴェセッティングだけではなくて、
トンボや花、枯葉の形に宝石を敷き詰めたり、スカラベの形を模したりしたモノがある。
だた、その宝石のデザインは、もしかすると画一的で貧しい内容だったかもしれない。
それは伝統的で、貴族的で、西洋的で、自然へと偏向し過ぎていたかもしれない。
リンゴをウサギの形に切り、ウインナーをタコの形に切り、それ以外がなかったように、
それはあまりにも凡庸で、発想を広げる努力を怠っていたかもしれない。


だからcocomono mamaniのようなデザインは、宝石の、真珠の可能性を広げることができる。
それは小手先の子供騙し、表面的なことのようにも見えるけれど、真珠を裏切ってはいない。
デザインはともすると薄っぺらいけれど、そこにこそモノの本質があるのが現代の現代性だ。
それは宝石の大衆化なんてものではないし、もちろん自然の生んだ芸術作品への侮蔑でもない。
プラチナの玉座の上にうやうやしく鎮座させられ、自身の退屈さに欠伸をしていた宝石は、
風船や蛇口から流れる水玉へと姿を変えられ、イメージの中、生き生きとしているように見える。


というか、単純に面白いよね、コレ、と言う話。
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2008年01月27日

『みなさん、さようなら』

久保寺健彦『みなさん、さようなら』(幻冬舎)


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第一回パピルス新人賞受賞作。
作者は69年生まれ。この本がデビュー作で、
別の作品でファンタジーノベル大賞優秀賞も受賞している。何かスゲー。

久し振りにハードカバーの小説を買ったけど、とても面白かった。
ある理由で団地から出られなくなった主人公の、13〜30歳までの話。
団地内で肉体を改造して、手に職を得て、彼女とセックスをしたりする。

コミュニティの構成員は老いていき、数を減らしていく中、主人公はよくやっていた。
彼をあそこまで成長させた団地の地力も、年を経るにつれてグダグダにはなるものの、
「自己完結」の「狭い世界」の中で、ある年代までは十分に役割を果たしていたと言える。
主人公自身も、構成員に対して(しかも外国人の女の子!)積極的に世話を焼いてみせる。

が、現代のパトリオティズム(郷土主義)は、こんな感じに挫折せざるを得ないのだろうとも思った。

匿名的な大都市に暮らす者の多くは、デラシネ(根無し草)状態で街を徘徊するだろう。
一方、団地に暮らす者は、その根をはった大地が枯れていくのに耐えていかねばならない。
不本意であれ望んでであれ、そこに根をはった者は、団地と一蓮托生か、仮の宿と割り切るか、
あるいはこの本の主人公のように、後ろ髪を引かれながら出て行くかを決断しなければならない。

最後は結局、繋がりが切れた状態の、個人主義的なモノへと団地は回収される。
そのとき、人にとって、団地とは「遠くにありて思うもの」にしかなれない。
人間が根をはる規模として、多くの団地や郷土は狭すぎるし、弱すぎるのだろう。
それが国レベルの共同幻想、抽象さであれば、まだ誤魔化しが利くのだろうけれど。
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2008年01月24日

『ムラは問う』

『ムラは問う 激動するアジアの食と農』(中国新聞「ムラは問う」取材班 著 農文協)


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中国新聞で連載されていた、農業に関するルポルタージュの書籍化。
限界集落の問題と食料問題について、反グローバル、反FTA的な見地から斬り込み、
グローバル化に押し流され、危機に瀕している日本のムラの可能性を模索している。

地方紙ならではの密着した、具体的な内容には好感が持てるし、
限界集落の生活がどういうモノなのか、その深刻さの程度はよくわかる。
素直に読めば、経済至上主義って駄目だよね。大切なモノを失うよね、と思うだろう。


ただ、そこに描かれているのは、(見た目だけ)非経済的な物事に対する過渡な期待感・信頼感で、
典型的な、それこそ明治の頃から言われ続けているような、没人格的な経済に対する拒否意識だ。
この問題は、グローバル化を是が非でも悪役に仕立て上げないと話が進まないらしい。
日本の中山間地の農村は、世界市場に入り込むことを端から諦めているようだ。

彼らは言う。経済が人心や環境を破壊している。日本は世界から水や食べ物を奪っている。
だからたとえ効率が悪くても自給率を上げ、自分の国で作った、安全な食べ物を食べよう。
農村は素晴らしい。美しい自然、収穫の喜び、ゆっくりとした時間の流れ、土に向かう生活、
日本の原風景、人との深い付き合い、伝統、本当の豊かさ、瑞穂の国、棚田、地産地消、etc・・・。

そこではチープな記号が経済的に(非経済的にではない。全く無い)消費されている。
ムラの生活に憧れる人にはそれでもいいだろう。そういう需要があるのはよく理解できる。
しかしその他大勢の消費者や納税者はどうだろう? 農村の生活は一種の贅沢品だ。
そこに行政がいつまでも世話をし、お金を分配するなんてことはどうなのだろうか?
単に死期を遅延するだけの、高額な延命治療を施す価値はどのくらいあるのだろう?


「日本に農業が存在しなければならない理由は何ですか」(p.216)


あるシンポジウム会場で、一人の女性がこう質問したそうだ。
とてもシンプルな問いだ。この本は全体として、この問いに答えようとしている。
ちなみに、私はそんな理由は無いと思う。どうせ理由なんか後付けに過ぎないのだから。
理由があろうがなかろうが、市場経済が必要ないと判断したものは必要ない。

「わたしのほしいものをください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう」

これはアダム・スミスという偉い人が、『諸国民の富』という本の中で述べた言葉だが、
このドラスティックな利己主義、自己愛(self-love)こそが、近代以降の市場社会の礎だ。
その影響下で、そんなコミュニケーションを拒絶しているフリをして、ムラは小声で言うだろう。
「わたしのほしいもの(集落への定住、住民税)をください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう」
美しい自然や伝統、田毎の月、蛍の光、土と触れ合う生活を「あげましょう」と言うだろう。
一定数の日本人はそれを欲しいと言うだろう。しかし世界の市場は見向きもしないだろう。
ムラの生活は不便だから、ムラの生産物はお値段が高いから、それぞれいらないと言うだろう。
だからムラはグローバル化に唾棄し、FTAを嫌悪し、世界市場への参入を諦めている。


この本のタイトルは『ムラは問う』だったが、これは必ずしも正確な表現ではない。
「日本に農業が存在しなければならない理由は何ですか」と消費者・納税者は問うている。
「わたしのほしいものをください、そうすればあなたのほしいものをあげましょう」
――この関係の中にあなたはそもそも入ることができますか? 経済的に自立できていますか?
と、地球を包み込む経済は声無き声で、しかし全世界の、あらゆる片隅に向けて問うている。

問われているのはムラだ。答えるべきなのもムラだ。
正確には「ムラは問われている」のだ。
posted by 手の鳴る方へ at 06:12| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

VOCALOIDを「調教」する?

随分前に一部で流行ったらしい話題。
「このミクの調教は完璧」とか「作者の調教スゲェw」とか「神調教」みたいな感じで、
ニコニコ動画のVOCALOID 関連のコメントには、「調教」という言葉が使われることが多い。

VOCALOID はDTM 製作のためのアプリケーションソフトウェアだが、
初音ミクという女の子(その他諸々)が歌っている、という外見を僭称しているため、
基本的には機械であるにも関わらず、生物に対して用いられる言葉が使用されている。


「女性を調教する」というと、渡部淳一や『マイ フェア レディ』等を連想させられるが、
ニコニコ動画の場合は、むしろエロゲー、エロ同人誌的な発想でこの言葉を使っているのだろう。
エロ同人誌的な文化が、ストレートに表現されてしまうあたりは日本のネット環境らしいが、
もちろん、ここにフェミニスト的、優等生的な見地から不快感を示すのはさほど間違っていない。

あと、VOCALOID は扱いが難しいため、じゃじゃ馬を調教するというニュアンスもあるだろう。
VOCALOID 楽曲の作り手とすれば、実感として、こっちのニュアンスの方が強いかもしれない。

このような、扱いの難しい機械をじゃじゃ馬に例えることはさほど珍しいことではない。
例えば宮崎アニメの『紅の豚』では、なかなか離陸しない、言うことを聞かない飛行機に対し、
「お前(フィオ 設計士の女の子)みたいなじゃじゃ馬だ」という言葉を使っていたはずで、
「じゃじゃ馬」という言葉には、おてんばな女の子のイメージが強く込められている。
つまり結局、ここでもイメージとして現れてくるのは女性なのだけれど。


イメージの世界は類似によって基礎付けられ、自身を産出している。
それは常に不整合、不一致であり、歪んでいるが、その歪みこそがイメージの本質だ。
その点でイメージ(Bild)は、写像(Abbild)やモデル(Vorbild)とは異なっている。
馬と女性、扱いの難しい機械がゆるやかに連結し、従順さを求められる存在として浮かび上がる。
従順さを求めるのは主人としての男性性(男性ではない)で、言うことを聞かないそれらに対し、
彼らは文字通り鞭を入れる。ただし機械に鞭を入れる人間はいないだろうし、もっと言えば、
「馬を調教する」は正しいが、「バイクを調教する」という日本語には違和感がある。
何故ならバイクは機械として、燃料切れや壊れていない限り、常にハンドルを握る者に対して、
あるいは自然の摂理に対して従順だからで、そこに鞭の強制力の入る余地はないからである。
思い通りにならない機械をシバくとき、それは八つ当たりでなければアニミズムでしかない。


機械の場合、Training(訓練・調教)させられるのは常に人間の側、つまり主人の側だ。
歌の下手糞な初音ミクがいた場合、下手糞なのは初音ミクではなくてその作者のはずだ。
ならばVOCALOID に対して「調教」という言葉を使うのは、恐らく、本来ならば間違っている。
それは機械としてのVOCALOIDを捨象しており、事実を正確に言い当てることを放棄している。

だからか、「調教」という言葉を使う場面で「調整」という言葉を選んでいる人もいる。
(と言うか、「調教」という鬼畜なフレーズが嫌で「調整」と言っているのだろうが。)
「初音ミクを調整する」と言うとき、それはVOCALOID の初音ミク的な側面を捨象しているが、
それがDTM のアプリケーションソフトであることを思い出せば、この言葉使いは意外と正しい。


とは言うものの、この言葉使いは、果たしてどの程度正しいのであろうか?
VOCALOID の初音ミクが現れたとき、その女性的で、じゃじゃ馬的で、機械的な側面を直観して、
ニコ動の住人は、その偽悪性も荷担して「初音ミクを調教する」というフレーズを発明した。
果たして「調教」とは、機械を擬人化(女性化)した、という意味での隠喩なのだろうか?
むしろ「初音ミクを調整する」という言葉使いの方が比喩表現だ、という可能性はないのか?
(ところで比喩表現は、比喩で無い表現に比べて正確さに欠ける、というのは本当だろうか?)
と言うか、「調教」にしたところで、VOCALOID に対して使われる場合、どの程度正しいのだろう?
「調律」という言葉もある。これは楽器に対して使用されるが、VOCALOID は楽器なのだろうか?

例えばある存在が楽器であり、扱い難い機械であり、女性でもある場合、
つまり、それが多義性のベールに包まれて、イメージを像として特定できない場合、
あるいはイメージを特定することに対し、党派的な問題があることを自覚している場合、
果たしてそこに当てはまる適切な言葉、誰もが共有できる名前はあるのだろうか? 
「初音ミク」や「VOCALOID」という言葉が招き入れるイメージとは何なのだろう?
posted by 手の鳴る方へ at 07:52| Comment(2) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月10日

『市場・道徳・秩序』

坂本多加雄『市場・道徳・秩序』(ちくま学芸文庫)を読む。


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福沢諭吉や中江兆民など、明治の思想家4人に関する経済と道徳、政治の本。

「恒産なくして恒心なし」(経済的に充実しなきゃ道徳的には生きられない)
という孟子の言葉を一つの軸に、西洋から輸入した市場制度をどこまで認許するか、
それによって恒産がなったとして、そこに現れる恒心とは何か、武士道精神か、
儒教の「孝弟仁愛」か、新しい道徳観か、それともそもそも道徳は現れないのか。
実際に世の中を見渡せば、人心は荒廃し格差は広がっているように見えるがどうか。
政治家や官僚における恒産はどうか、剛毅な者がいなくなったが、彼らの恒心はどうか。
と、言ったような内容を、もの凄い緻密さで描き出している本。間違いなく名著。
07年に買った文庫の中では一番面白かった。サントリー学芸賞受賞作は大抵面白い。


例えば、今の時代って経済優先で人心は荒廃して情に疎い世の中になっているよね、
それってとてもマズイよね、我利我利亡者って駄目だよね、という意見はよくあって、
それに対して、いやいや、市場原理に任せていれば万事OKッスよ、という意見もある。
で、西周という偉い人が、市場や欲望を肯定する立場からこんなことを言っている。


人苟モ道徳ヲ脩メムト欲セバ己ガ三宝ヲ貴重スルニ始マルナリ(p.90)


三宝とは「健康、智識、富有」のこと。健康や金が無きゃ道徳的になんてなれるか、ということ。
富有という言葉が入っているように、この考え方は物質的な私欲を満たす市場主義と相性がイイ。
福沢諭吉や田口卯吉もこんなスタンスで恒産を捉えている。福沢の場合は、恒産=自主自立だ。
で、それに待ったをかけるのが、伝統的に寡欲主義な儒教の立場(天皇の侍講、元田永孚)や、
経済にノータッチだけど、日本の人倫を守っていたという自負がある武士(民権派)の立場。
また、そこに平民主義の(青年期の)徳富蘇峰や、社会主義者で「志士仁人」を謳う幸徳秋水、
ルソーと同じく資本主義なんて畜生の世界ですよと、市場や欲望を無闇に受け入れなかったけれど、
結局「恒産たらず」により挫折した、東洋のルソーこと中江兆民なども現れてスゴイことに。
このグルーヴ感は結構スゴイと思う。何と言うか、テンションが上がる。


明治の思想なんて21世紀の今になって読んでも仕方ない、と思ったら大間違いで、
資本主義が過ぎて道徳がぶっ壊れたとか、パイオニアがいないとか、官僚が憎いとか、
武士道スゲーとか、お金儲けは程々にしとけとか、今と似たようなことしか言っていない。
個人的には、21世紀の日本には全国民的に恒産が足りており、人の市場に対する態度が、
ボードリヤール風に言って欲求充足から欲望の充足へと移行した点が明治と異なっており、
だから逆に、明治の人々の、政治家や官僚と恒産の関係についての真剣さが新鮮に見えた。


それでも武士道や平民主義、社会主義なんて今の時代にやっぱり関係ないじゃん、死語じゃん、
それって思想や観念の化石じゃん、と思うかもしれないが、それは明確に間違っている。


思想的努力とは、「伝統」によって既定された認識や理解の枠組のなかに、新たな地平を切り開く可能性を探求することを意味する。(p.283)


作者がこの本で行っていることは、まさにこういうことに他ならない。
思想や観念は博物館に陳列された、現在では無用な紡績機のような遺物ではないし、
ましてやそれを紡績機に貶めるような知識人、伝統を墨守するだけの良識派なんて愚の骨頂だ。


作者の坂本多加雄は02年に癌で死去。享年52歳。
posted by 手の鳴る方へ at 03:41| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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