2010年04月20日

地方分権に思うこと

2010/4/7 全国知事会PT/社会資本整備推進へ提言案/地方重視の事業評価へ転換を
【建設工業新聞 4月7日 記事掲載】



地方分権(民主党の用語で言えば地域主権か)は、行政サービスに競争原理をもたらす。
家父長的な中央官僚の支配から脱し、地域住民の意思によって政治が動き、生活が変わる。
何が必要で何が不要か、どの程度必要か、税金はどの程度、どんな形式で支払えばいいのか、
大きな地方政府か、それとも小さな地方政府か、これらのことが実験的に決まっていくだろう。
公務員の仕事は住民(スポンサー)から査定される。こいつらの仕事には税金を払う価値があるか?
こいつらに金を払うくらいなら、別のより良い行政サービスに税金を投入すべきではないのか、
あるいはもっと税金を安くした方が効用はより良くなるのではないだろうか、と言った具合に。
公務員は、「必要だから必要」という理屈で、住民と対峙することはもう恐らく適わないだろう。
彼らは住民を説得しなければならない。自身の提供するサービスの価値を証明しなければならない。
選ばれなかったとしたら、それは単純に言って自分達のサービスが悪いのが悪い、ということだ。


住民は主に政治家を通じて自分達の生活の基盤を変えていく。必ずそこには失敗があるだろうし、
「負け組」となる自治体も10や20は出てくるだろう。それでもこの潮流自体は間違ってはいない。
地方分権は近代の延長線上にある。団体自治は自立の別名であり、それはまだ完成していない。
「自分達にはできなかった。律することができなかった」と言うのは、失敗してからでもいい。
それならそれで、この国の形、方向性は、それなりに説得力のある筋道をつけられるだろうから。


その具体的な規模や形は未だ不明確だが、地方自治の見通しはどうであれ明るくは無い。
少子高齢化に加えて種々の制度疲労、ボトルネックとなるばかりの政治、マスコミ、裁判所、
そんな中で、衰退しつつある国の富を分け合って、さらに生んで増やすのは至難の技だろう。
必要とされている行政サービス、例えば福祉・教育・年金・医療・障害者支援・労働行政・
交通・経済対策・生活保護・文化事業等々は、パイを奪い合う形で縮小するより仕方ない。
必要な行政サービスが削減され、わりとガチで不便な時代がじきに到来するかもしれない。
バスは来なくなり、医者が消え、最低賃金は底なしに下がり、ゴミは回収されないかもしれない。
それでもそこに何らかの正しさがあるとすれば、それは住民が選んだ結果だ、ということだろう。
最悪なのは、住民がそうとは知らず、必要な行政サービスから税金を削り取られることであり、
その行政サービスの意図、重要性を知らないままに、自分の首を絞める政策を支持することだ。
そしてそうなるべきでないと謳うのが、未だに現れて来ない、近代人の自主独立性だった。
問われているのは「新しい公共」などではない。それは原理原則としてのラディカルな「公共」だ。
posted by 手の鳴る方へ at 20:00| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

政治は決定する

デフレ脱却にお金の循環が必要=菅財務相 2010年 04月 12日 17:07 JST

さらに、「場合によっては、増税をしても景気は悪くならず、逆に使い道を間違わなければ景気はよくなるということを部下に検証させている」と発言。しかし、「(政治家は)増税すると選挙に負けるというトラウマがある。この問題を選挙の争点として語る限りは(実現できない)」と述べ、国会などの議論を通じて与野党が認識を共有することが不可欠と強調した。


経済学にあまり詳しくないらしい、管直人・経済財政担当相の言い分を真に受けても仕方ないが、
<増税しても使い道間違わなければ景気にプラス>という発想は、政治家として致命的だと思う。
ここで語られている「間違いのなさ」は、政治的な正しさではなくて、客観的な正しさであって、
みんなが幸せになり、不満も少ない税金の使い方(それに徴収の仕方)の正解を意味している。

端的に言って、そんな理想的な一致点は恐らく無いし、あったとしても人間にはわからないだろう。
「私に税源と足場を与えよ。されば日本の景気を良くしよう」といった類のパロディならまだ面白い。
仮にそんなアルキメデスの足場があったとして、学者やスパコンがそれを導き出せるとしたら、
私達はその時、もはや政治も政治家も必要としないだろう。だから政治家として致命的だと言う。
スパコンではなくて管直人のみがその足場に立てる、現代の預言者ですから、的な話なら別だが、
実際はそんなことはあるワケがない。どちらにしろ凡人が政治を動かし、オロオロするしか道はない。


そもそも政治は、凡夫としての人間が、物事を決定するために用意した制度ではなかったのか?
正不正について意見の分かれる者同士で、それでも生きていくために政治はあるのではないのか。
民主制も君主制も、そのプロセスの正しさ、根源、根拠の正統性を担保に決定を行ってきたけれど、
それは客観的な正しさをついに知りえず、政治に導入できなかった故の苦肉の策ではなかったか。
そんな政治に携わり、大臣にまでなっている人間が、客観的な正しさを口にするのはズレている。
「使い道を間違えない」なんて言葉を使い、正解を希求する政治をもはや政治とは呼べない。
暗闇へと飛躍する不条理が欠けた政治、理性の断絶の無い政治になど名を与える必要はない。
何を残すべきか潰すべきかわからない、意見が分かれている中で行わざるを得ない事業仕分け、
例えばそれこそ、政治家が確固として存在し、政治的な決定の現れる場所なのだ、と私は思う。
posted by 手の鳴る方へ at 19:33| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

さよなら人材

中吊り広告で木村拓哉が「日本でできることはやり尽くしたよ」とか言っていたらしい。
ある人はそれで、「同じことを多くの企業家も考えているに違いない」とTweetしていた。
木村拓哉の上記の発言は、日本を捨てるとかそういう話とは絶対に直結しないはずだが、
それにしても、面白いことが出来る優秀な人々や、これからやろうと思っている人達にとって、
今の日本の現状はさして魅力的ではなく、底が見えてしまっている状態なのかもしれない。


近頃、週刊ダイヤモンドが、オタキング岡田斗司夫へのインタビューをWEBで公開している。

「FREEの正体 0円ビジネス大解剖」
http://diamond.jp/go/ct/free/okadatoshio.pdf


その中で岡田斗司夫は、最近の2ちゃんねるが面白くないことをこのように語っている。
2ちゃんの劣化は、それまでに存在した面白い連中の上位25%が他の所に移動したからだ、
それは優秀な上位25%の子供が私立中学に通い、私立中学に行けない残りの連中が、
「吹き溜まり」と化した公立中学に集まり、教育が成立していないのと似ている気がする。

ネット上の面白い連中は2ちゃんねるからMixiへと移動し、今はTwitterへと移動している。
そして今年の夏には、さらに敷居が高いfacebookへと移動するだろうとこの話は続いている。
そこにある、軸が移動する原理について、岡田斗司夫は以下のような説明をしている。


ネットにおいては。面白くて、注目されてて、評判が高かったり評価されている人、まあ「評価経済」「注目経済」っていい方もできるんですけど、そういうポイントを持っている人というか、資産といってもいいですね。そういう資産を持っている人がどこに流れるかで次の中心が決まり、そしてそういう人たちがごっそり抜かれることで前のメディアがいたたまれないほどさびれていく。


数年前のひろゆきの「ああ,居着かせちゃだめなんだ」のインタビューを思い出すが、
この種の話をネットだけでなく国やら社会やらに広げて考えると、最初の話に繋がる。
ネットとは違い、悪ユーザーが良ユーザーを駆逐する、みたいな属人的な話ではなくて、
VCが成立せず、優秀な人材が腐るのは、もっと社会構造、政策方針の問題なのだろうが、
起こっている現象は似通っている。人材の流出に加え、海外からの人材流入にしても、
最近は12万人前後で伸び悩んでいる。(12万人という数字自体は30年前の6倍だが。)


民主党や舛添氏が主張する移民に関しても、今後の「日本と移民」についてイメージするに、
日本の国土の中で移民と日本人が衝突する、治安が悪化する、みたいな話になるよりも、
日本人が海外で移民として働き、その先で辛い思いをする、頑張ってのし上がり名を上げる、
という話の方がリアリティがあるし、喫緊の関心事となるべきだと思う。個人的にはね。
保育園に通う私の姪っ子も、将来は後者のような生き方、海外で移民として生きる気がする。
日本はもう駄目だ、絶望しかない、という話じゃなくて、そういうのが普通になってるし、
今後ももっとそうなるだろうという話をしている。ただ、こういう話をすることによって、
日本国内の移民問題をウヤムヤにしようとしている、という意見には反論できそうにない。
日本人の海外移民とあわせて考えた方が、視野は広くなるよ、としか言い返せないと思う。


少子高齢化に加えて人材流出というのは、国家にとっても致命的な展開だと思われるが、
今のままだと「日本でできることはやり尽くしたよ」と言う人間を引き留めるのは難しい。
木村拓哉は日本でもまだ十分に稼ぐことができるだろうが、そうでない人を留めるのは難しい。
友人と、ほりえもんって海外に移住できないらしいね、という話をこの間したのだが、
「優秀な堀江貴文を日本から出さないことで日本の公益に強制的に貢献させる合法的な手段」
みたいな陰謀論になって、まぁ馬鹿話なんだけど、そういう発想が出てしまうくらい難しい。
これって法的にも世間的にも捻れていて、自分達の中からそういう発想が出てきたことが、
なんかもう嫌になる。何が嫌なのかは、今はまだあまり言葉にできないのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 20:12| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月09日

ドキュメンタリーの撮り方

ドキュメンタリー作家募集。
「僕たち」が想像もしないような「あいつら」の文化が世の中にはたくさんあります。
その文化をビデオカメラで撮影し、編集し、一本の映画にするだけの簡単なお仕事です。


「僕たち」を煽情する映像を撮れば撮るほど、「僕たち」の癇にさわればさわるほど、
「僕たち」はその映画を見るため映画館に足を運び、お金を落とすことに躊躇しないでしょう。
「僕たち」の人口は多いので、あなたが思うほどこのビジネスチャンスは狭くないのです。

ドキュメンタリーとは「あいつら」の文化を撮影して、「僕たち」からお金を貰うことです。
世の中には差異なんていくらでもあります。それを巧みに見つけ出し、批判するお仕事です。
差異のギャップが大きければ大きいほど、ドキュメンタリーの破壊力、価値は高まるのです。
それは啓蒙であり、事実の伝達であり、問題提起であり、ときには異文化理解でもあります。
映像によってその差異は時に埋められ、時に強調され、時には更に断絶することもあります。
「僕たち」はそれを正当に評価する能力があり、正当な対価を払う能力があると自負します。

マイケル・ムーアという映画マンは、自国の「異常な」文化を撮影することを好んでいますが、
彼はあえて隘路を通う変態です。彼は共和党を内なる他者として見ることに慣れているのです。
彼は「僕たち」の中に「あいつら」を見出す天才、「僕たち」の差異をえぐり出す天才です。
しかしそのことにより、ムーアの「僕たち」からの評価は真っ二つに割れているのも事実です。
ドキュメンタリーに国境はありませんが、国境を跨いだ方が差異は多く見つかるのは自明です。
それに国境を跨いだ方が、「僕たち」の怒りに触れないだけ楽です。ここだけの話ですがね。
ドキュメンタリーはビジネスです。予想できるリスクをそれでも取るなら、覚悟が必要です。


皆様からの素晴らしい作品を、我々は心よりお待ちしております。
posted by 手の鳴る方へ at 09:50| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

自分のことは自分で決める!

たくさんあるTV雑誌を前に、老婦人が店員にこう尋ねていた。
「この中で一番、文字が大きく書かれた本はどれ? 私は目が悪いから見えないの」
店員は困った顔つきで適当に選んだ雑誌をペラペラとめくっていた。

例えば店員がそこから、客観的に見て一番文字が大きい雑誌を選んだとしても、
それが老婦人に読めるかどうかはわからない。何故なら視覚は主観に属するからだ。
逆に、文字の大きさが三番目の雑誌を選んでも、老婦人は読めてしまうかもしれない。
そもそも「私の目で読めるかどうか」という選択を他人に任せているのがおかしい。
その雑誌が読めるかどうかは、実際に自分の目で見て判断すればいいのだから。


この話自体も今年の6月頃の話なんだけど、3〜4年前にも本屋でこんなことがあった。
30代くらいの男性が、小さな男の子を連れて、店員にこのように尋ねる。
「この本は『6歳以上対象』と書いてあるが、4歳のウチの子でも読めるだろうか?」
それに対して中年の書店員はこのように言う。
「お子さんが読みたいと言っているのなら、読ませてあげて問題はないですよ」
実際に、子供はその本を読みたがっていたから、父親(多分)はその本を購入した。

何が言いたいかって、「対象年齢が○歳」という表記は、作り手の大体のイメージなワケで、
それを鵜呑みにして、子供が欲しがっている本を買うのを躊躇うなんてのはどこかおかしい。
主観的であるべき判断基準が、客観的に見える規範の側へと無自覚に横滑りしている。


自分のことは自分で決める、あるいは複数形にして自分達のことは自分達で決めるのは当然で、
こうして当然というのは簡単なんだけど、自分のことを判断するにも想像以上にいい加減で、
岡目八目、なんて言葉もあったりするし、ましてや自分達のことを決めるとなると大変だ。

ここからが本題で、福山市の「鞆の浦埋立て架橋計画問題」は現在進行形で迷走していて、
行政が説明し、お互いに話し合い、挙句に選挙を行ってもまだ住民の意見が分かれている。
そして2007年、工事反対派が広島地方裁判所(福山市から西に約90km)に差し止め訴訟。
で、裁判関係者が鞆の浦を二時間ほど視察したり、過去の判例を持ち出したりして原告勝訴。
また、イコモスと言う偉い環境団体のトップが飛行機で来日、一時間半ほど街並みを視察。
で、予定された都市計画は破壊的だし、ここの景観は世界遺産級とかなんとか言う。

自分達のことを自分達が決められないからって、余所の街の裁判官や余所の国の専門家、
余所の都道府県に住む映画監督に、自分達が生きて暮らす場所の運命を預るのはおかしい。
それらは確かに制度化されており、権威があったりするものだけど、そこに生きる人にとって、
そんなものは幼児雑誌の「対象年齢が○歳」という一文とさして変わるものではないはずだ。
繰り返すけれど、「私の目で見えるかどうか」を他人の判断に委ねるのがおかしいように、
「私達の暮らしが良くなるかどうか」を、そこに住んでも居ない他人の判断に委ねるのは変だ。
世界遺産だとか自然環境だとか歴史的遺産だとかも、生活を無視して金科玉条にするのは変で、
そういうことを言えば客観的な意味や価値があるように見えるし、実際そうかもしれないけど、
そこに住んでも居ない、数時間視察しただけの連中が箔をつけるためにそう言うのは嫌らしい。
それは冒頭の老婦人に対して、「表紙が福山雅治ですよ」とか「講談社の雑誌ですよ」とか、
彼女に読めるかどうかとは無関係なことを言っているのと似たようなものじゃないのか。
posted by 手の鳴る方へ at 07:43| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

東アジアの100冊

「東アジア100冊の本」選定 白川静さんの「字統」など(47NEWS 09.10.29)



日本、中国、韓国、台湾、香港が集まって東アジアの本を100冊選んだらしい。
日中韓から各26冊ずつ、台湾から15冊、香港から7冊、計100冊をチョイスした結果、
日本からは廣松渉や白川静、河合隼雄、多木浩二などの有名どころが選ばれた模様。

で、「東アジアの100冊」に選ばれた日本の書物26冊が、09年11月上旬時点のAmazon.comで、
どの程度レビューをされているのか、調べて書き置いておこう、というのが今回の試み。
同じ本が同じ会社、違う会社から何冊か出版されている場合、レビュー数が多い書を優先。
面倒臭いから、各個にリンクを貼ったり、紹介された本の表紙を載せたりはしません。

------------------------------------------------------------


・佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社 1965年 中公文庫 2005年)
中公文庫版のカスタマーレビュー(3件) 星5つ

・丸山眞男 『講義録 第6冊・第7冊』(東京大学出版会 第6冊 2000年 第7冊 1998年)
カスタマーレビュー 第6冊、第7冊ともに無し

・吉本隆明 『共同幻想論』(河出書房新社, 1968年、角川文庫 1982年)
河出書房新社版、角川文庫版のカスタマーレビュー(16件) 星4.5
16件のレビューは26冊の中で最多。さすがに一世を風靡した本だけはある。

・石牟礼道子 『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫 1972年 2004年)
2004年度版のカスタマーレビュー(9件)星4.5
ちなみに1972年度版のカスタマレビューは2件 星5つ

・石母田正 『日本の古代国家論』 (岩波書店 1971年 2001年)
カスタマーレビュー 1971年版、2001年版ともに無し

・松下圭一 『都市政策を考える』(岩波新書 1971年)
カスタマレビューどころかAmazonの検索にヒットすらしない。
出版元の岩波書店HPの検索にも書名が出てこないという悲哀っぷり。

・廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房 1972年  講談社学術文庫 1991年)
講談社学術文庫版のカスタマレビュー(2件) 星5つ
廣松先生は再発見、再評価の機運が高くていいと思います。

・宇沢弘文 『自動車の社会的費用』(岩波新書 1974年)
カスタマーレビュー(6件) 星5つ

・山口昌男 『文化と両義性』(岩波書店 1975年 岩波現代文庫 2000年)
1975年、2000年版のカスタマーレビュー(1件) 星5つ
私はこの本から山口昌男のファンになった一人です。

・河合隼雄 『影の現象学』(思索社 1976年 講談社学術文庫 1987年)
講談社学術文庫版のカスタマーレビュー(10件) 星4.5
星2つや星3つもあるが、レビュー内容は辛口でもない。

・梅棹忠夫 『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫 1976年)
カスタマーレビュー(2件) 星5つ

・網野善彦 『無縁・公界・楽』(平凡社 1978年・1987年 平凡社ライブラリー 1996年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(8件) 星5つ
レビュー内容もやたらと熱いのばかりで好印象。

・西郷信綱 『古典の影』(未來社 1979年 平凡社ライブラリー 1995年)
未來社版、平凡社版ともにカスタマーレビュー無し

・佐竹昭広 『万葉集抜書』 (岩波書店 1980年 岩波現代文庫 2000年)
どちらにもカスタマーレビュー無し

・鶴見俊輔 『戦時期日本の精神史』(岩波書店 1982年 岩波現代文庫 2001年)
岩波現代文庫のカスタマーレビュー(2件) 星5つ

・藤田省三 『精神史的考察』(平凡社 1982年 平凡社ライブラリー 2003年)
平凡社ライブラリー版カスタマレビュー(2件) 星4.5

・前田愛 『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1982年 ちくま学芸文庫 1992年)
どちらにもカスタマーレビュー無し。
レビューは無いけれど、色々なところで引用されているのをよく見る本です。

・中井久夫 『分裂病と人類』(東京大学出版会 1982年)
カスタマーレビュー(5件) 星4.5

・井筒俊彦 『意識と本質』(岩波書店 1983年 岩波文庫 1991年 ワイド版 2001年)
文庫版カスタマーレビュー(10件) 星5つ
この人が選ばれない「東アジアの100冊」のなんて意味が無い。
あと、こんな難しい本に10件もレビューがあることにビビる。

・白川静 『字統』(平凡社 1984年 新装普及版 1999年 新訂版 2004年 新訂普及版 2007年)
新装普及版(1999年)のカスタマーレビュー(7件) 星4.5
「東アジアの100冊」でこの人がいないのも嘘だよね。

・二宮宏之 『全体を見る眼と歴史家たち』(木鐸社 1986年 平凡社ライブラリー 1995年)
木鐸社版は検索にヒットせず。平凡社ライブラリー版にはカスタマーレビュー無し
個人的に樺山紘一とダブってどっちがどっちかわからなくなることがある。

・多木浩二 『天皇の肖像』(岩波新書 1988年 岩波現代文庫 2002年)
岩波現代文庫版カスタマーレビュー(3件) 星4.5
ちなみに岩波新書版のカスタマーレビュー(2件) 星4.5

・伊谷純一郎 『自然の慈悲』(平凡社 1990年)
カスタマーレビュー無し

・ノーマ・フィールド 『天皇の逝く国で』 (みすず書房  大島かおり訳 1994年)
カスタマーレビュー(4件) 星5つ

・市村弘正 『小さなものの諸形態』(筑摩書房 1994年 平凡社ライブラリー 増補版 2004年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(1件) 星4つ
あと、Wikipediaに、「市村弘正」の、項目が、無い。

・林達夫 『精神史』(平凡社ライブラリー 『林達夫セレクション 3』 2000年)
カスタマーレビュー無し

------------------------------------------------------------

東アジアの歴史や思想が、これらの書物、学問の言葉で語られるのが理想なのでしょうが、
「現代の古典」とか言ってるけど、おい、あれか、戦前の書物はタブーなのか、とか、
岩波的な教養、知識人が2000年以降もまだ有効だと思っているとしたら甘くないか、とか、
あの著者がいない、あの本が無いのはおかしい、多木浩二なら他にあるだろ、とか、
これじゃあ東アジアどころか日本の戦後思想の地図も書けないんじゃないの、とか、
そもそも東アジアや100冊の括りに意味があるのか、とか、思うことは多々あるでしょう。
綺麗にまとめようとすれば、この選定の歪み自体が、東アジアの歴史の一部なのです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:28| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

平成二十年二条河原落書

このごろ都に流行るもの 用品高騰 謀古紙
召人橋下「クソ教委」 田母神 海賊 自由チベット

中山大臣迷い者 アラフォー大賞 モナ二岡
本領離るる蘇民祭 番組辞めたる細木嫗

『相棒』 JAPAiN せんとくん 下克上するまんとくん
企業堪否沙汰もなく 漏るる人あり内定者

居慣れぬ監獄 詐欺の小室
持ちも慣らわぬ聖火持ちて 代理が歌う珍しや
管理職なる店長は 我も我もと見ゆれども
好まなりける偽りは 愚かなるにや劣るらん

麻生総理の言い間違い 豪雨 楊逸 クズ汚米
四川の土地の大地震 『蟹工船』の再出荷
下衆上臈の際もなく 大阪で燃えるビデオ店

今年時価総額上げず 引くに引きえぬ市場者
落馬G1で勝りたり
誰を師匠となけれども 遍く流行るオバマ節 事新しき風情也

与党野党をこき混ぜて 一座揃わぬ日銀人事
在々所々に裏サイト 勝者になれぬNOVAウサギ
譜代非成の差別なく GM往昔の世界なり

支持を沈めし角界の ウザい旧式の掟により
只品有りし力士も皆 なめんだらにぞ今はなる

朝にバナナを食べながら 「羊水腐る」倖田來未
謝罪に及ばぬ事ぞなし
させる修養無けれども 過分に昇任するものあり
定めて損ぞあるらんと 仰ぎて信をとる教師

天下統一珍しや
御代に生まれて様々の 事を見聞くぞ不思議共
京童の口すさみ 十分の一ぞもらすなり


おそまつ
posted by 手の鳴る方へ at 09:13| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

今更「ピカッ」の話

時事ネタとしても古いし、当事者が謝罪したから、事件としてはもうどうでもいいんだけど。

広島上空に「ピカッ」の文字
(中国新聞ニュース 08/10/22 )


「被爆者の気持ち理解してなかった」 「ピカッ」で一問一答
(中国新聞ニュース 08/10/24 )



この件に対して、公共空間で表現するアーティストは対話の努力をすべきだとか、
美術館の学芸員も立ち会っていたのなら、世間に対して説明責任があるだとか、
ヒロシマへの理解を欠いている、広島市民の感情を逆なでしている、だとか、
被爆者の思いを差し置いて表現する平和の訴えに意味があるのか、だとか、
もっと市民と歩み寄るべきだった、だとか、色々と言われていた様子で。

要するに「悪いのはアーティストの方です。説明責任を果たして無いし」という、
そういう、昨今たまに見かける論調(説明責任を果たせ!)で終わりそうな気配。
つまりヒロシマは、結局終始一貫してこの件を異物として捉えたワケなんだけど、
この手の論調が隠してしまうのは、もう一方の側にもあるはずのresponsibility で、
ヒロシマの側の、この件に対する応答はこんな拒絶反応で良かったのだろうか?
新聞も識者も団体も、何だか審査員のようなスタンスでケチをつけてるようで、
「ヒロシマを取り扱った芸術作品としては落選です、もっと勉強しましょう」と、
そんな上からの目線、絶対的で不動の立場から作品を取り扱うのはどうだったのだろう?


そもそもヒロシマの絶対平和という思想が、国際政治の中では異物でしかない。
ヒロシマの反核も、反原発も、武力の放棄だとか平和憲法の尊守にしたところで、
「国際政治を取り扱った思想としては落選です、もっと勉強しましょう」と、
そう言われるだけならまだマシで、失笑され黙殺され続けた経緯があるにも関わらず、
自分達も似たような態度で、実践された作品を品評しているのがとても気にかかる。
世界の中の異物として、「国際社会の側もヒロシマの思想に歩み寄って欲しい」と、
政治のプロからすれば滑稽かもしれないけれど、きちんと言いたいことを聞いて欲しいと、
そのように熱望したことはなかったのだろうか。多分そんなことはないはずなのだが。


まぁ、世の中そういうもんだ、甘くはないよ、と言えばそれまでの話だし、
冒頭でも書いたけど、本人達が謝っちゃったんならどうでもいい話ではある。
ちなみに私は10月21日の正午ごろ、たまたまこの「ピカッ」の現場にいて見たのだけど、
別に不快な印象は持たなかった。これが本物だったら確実に死んでたなぁとは思った。
空に「海」と描けば街が海底に沈むのと同じように、広島市の空に「ピカッ」と描けば、
そこは一面の廃墟になる。それはこの街のイマジネーションではなく、現実なのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:32| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月28日

もはや路上からは何も生まれないって?

ゆず生誕の地「横浜松坂屋」が10月に閉店解体-144年の歴史に幕
ヨコハマ経済新聞 (2008年6月24日)


加太こうじか誰だったか忘れたけれど、確か「黄金バット」関係の人間が、
昭和末期、「もはや路上からは何も生まれないだろう」としたり顔で言ったらしい。

そのように言った人間の脳裏には、恐らく昔の路上の雑多とした光景があったはずで、
それは香具師やチンドン屋、紙芝居等の大道芸人が、許可無く商売を始めるような、
そういうエネルギーが路上から消え去ったということを言いたかったのだと思う。
昭和30年代の地域新聞や町内会報を見ていると、ゴミをポイポイ路上に捨てるなとか、
勝手に路上に商品を広げるなとか、酒を昼間から飲むな、売るな、自粛しろとか、
路上には「古き良き日本」の美しい光景が広がっていたようで、これがやたらと面白い。

「路上からは何も生まれない」と語った人が予想していたかは知らないけれど、
日本の、特にデパートなんかが建っているような一等地の路上は、夜の顔を持つようになる。
人通りの絶え始めた21時頃になると、どこからかギターを片手に若者が集まり、
降りたシャッターの前で歌声を披露したり、押し黙ったままギターを弾いたりしている。
四国かどこかで、スティールドラムをズラッと並べて演奏していた奴も見たこともある。
他にも夜の路上には、リフティングの技を披露する者や、スケボーの練習をする者が表れる。
いまだに相田みつを的な書やイラストを描いたりするのにはさすがに辟易するけれど、
そこには消尽されるエネルギーがあり、都市の空白へと潜り込もうとする力が蠢いている。

路上文化という意味では、ゆずの登場とその後の堅実な活躍は一つの成果だったに違いない。
だから、「もはや路上からは何も生まれない」と言い放った昭和の言い分は間違っている。
もっと大仰なことを言えば、つい最近も、ゆず以上に大きな成果が路上からは生まれていて、
ガムテープで描かれた新しいゴシック体の、いわゆる修悦体なんかは路上の寵児だと思う。
この字体の誕生で、平成の路上文化は、偉そうな顔をしがちな昭和の顔に冷や水を浴びせた。
こういうことのできる人間がいる限り、老舗デパートが時代の流れの中で閉店しようとも、
路上はずっと表現の場としてあり続けるだろうと思います。
posted by 手の鳴る方へ at 07:16| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月29日

Proof!

「日教組強いと学力低い」中山説、調べてみれば相関なし
2008年9月27日(土)03:01  asahi.com
http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY200809260383.html?ref=goo


メディアはきちんと数字を提示して、それなりに大臣の発言を批判してますが、
組織率が高いからって必ずしも組織が強いとは限らない(逆もしかりな)ワケで、
また、学力とは学力テストの成績を意味していない、ということもあるかもしれなくて、
元大臣の方にも論拠くらいあるだろうから、「確信犯」だとか意味不明なことを言わず、
それはそれでキチンと議論をするなり、自説の根拠を提示して欲しかったと思います。

しかし、「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分の学力は低い」とか、
「民主党が政権を取れば、日教組、自治労の支援を受けているので、日本が大阪府みたいになる」
って、他府県を馬鹿にてレッテルを貼るようなことを、国の代表が平気で口にするのはどうなの?
ましてや愛国心を語る彼が、他県民の郷土への自尊心を貶めて何のつもり? って思いますよ。
ずっと前、長崎県選出の政治家が「原爆はしょうがない」って発言をしたときも思ったけど、
自民党の愛国心って何なの? 国民には愛郷心が無いから何を言ってもイイとか思ってない?
少なくとも、彼ら国会議員を支える都道府県や市町村の、いわゆる支部レベルの支援者は、
私の身近にも多くいるから知っているつもりだけれど、常識のある好々爺・好青年ですよ。
彼らは良くも悪くも愛国者ですし、保守、自民党こそが日本を良くできると信じてます。


【Top Gear】 大臣にインタビュー (字幕)


話はスゴい変わるんだけど、というかまたニコニコ動画ネタなんだけど、これは面白いね。
政治家やマスコミの言葉ってとても大事だよね、と思います。何よりオチが素晴らしい。
反復される“proof”や“prove” の一言と、このユーモアがどうして日本にはないのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 08:33| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月27日

民需の外の軍需

橋下知事「一緒に自衛隊体験入隊を」幹部「死んでしまう」
2008年6月18日(水)10:02 asahi.com



この記事を見て思ったのが、軍事ケインズ主義。
軍事ケインズ主義は、武器等の軍需品に政府支出を行うことを公共事業とし、
資本や人間の貴重な時間を、軍隊的なモノへと積極的に投下する主義主張のこと。
日本でのケインズ主義は道路等のインフラ整備を対象とすることが多いけど、
その税金のバラ撒きを、ミサイルやら常備軍やら核兵器開発やらに対して行うのがそれ。

発表当時は絶賛されたものの、後になるに従って半笑いで評価されるようになった名著、
『通産省と日本の奇跡』を書いた政治学者のチャルマーズ・ジョンソンは、近著の中で、
アメリカの現在まで続く軍事ケインズ主義は、もうとっくにダメだと書いている、らしい。
具体的な例や数字を省いてその理由を列挙すると、以下のような感じだ。
(『世界』4月号 「軍事ケインズ主義の終焉」川井孝子・安濃一樹 訳)

・軍隊に金をかけたことで、国家の長期的な繁栄に欠かせない投資を蔑ろにしてきた。
そのため、限られた人材と予算が、福祉や教育、民需の拡大に十分に配分されなかった。
・そもそも軍需産業は民需産業を圧迫し、経済を弱体化させることとなった。
・優秀な研究者が生産性の無い軍事製品の開発へと回され、民間は頭脳を失った。


人間の時間は有限で貴重なモノだし、税金だってきちんとした用途で使われないと困る。
40歳のおっさん公務員に腕立て伏せや匍匐前進をさせて、その間も税金で賃金が支払われて、
それでどの程度国民にペイされるのだろう。政治的な見世物としてもいかがなものだろうか。
軍需産業が必ずしも民需産業に良い影響を与えず、むしろ悪い影響を与えているように、
文民である大阪市職員が、自衛隊の中で非文民の真似事をしてどういう効果があるのだろう。
これは徴農制とかワケのわからないことを言っている東国原宮崎県知事にも同様に該当する。
公務員に生産性のある仕事をさせるなら、求職者にその仕事を回した方がまだ有意義だし、
精神論を叩き込むのなら、仕事の終わった後、公務員各人がマナー教室へ通うだけで十分だ。
というかですね、既存の人材を有効活用して、もっと個々の能力を高めるような環境を作って、
公務員に蔓延しがちな非効率を削るのが橋下・東国原知事の仕事なはずなんですよ。
公務員には公務員の仕事をフルスロットルでさせてあげて下さい。それが一番効率的なんです。
posted by 手の鳴る方へ at 01:35| Comment(1) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

キャッチャー・イン・ザ・ライク

絶望文学集 〜キャッチャー・イン・ザ・ライク〜

 こんなインチキな話は人生長しといえども、そうそうしょっちゅう聞けるものじゃない。もし君がサンデー編集部を知っていたら、君だってやっぱり僕と同じように訴訟を起こしていたと思う。だってあいつらときたらどいつもこいつも仕事をしないんだ。いや、まじめな話。そりゃいまにして思えば、最初の担当や二代目の担当はちゃんとやってたと思うよ。言いたいことはあるけれど、初代と二代目はほかのとんちきな連中に比べればまだいいやつらだった。

 僕が参っちゃうのは、三代目の担当が平気で遅刻をするってことさ。これってあんまりじゃないか。女の子がデートの待ち合わせに遅れるっていうなら、ましてやその女の子が目が覚めるようなルックスだったら、僕だって文句は言わないよ。「私、遅れなかった?」って聞かれても「ぜんぜん」と答えるだろうね。でもさ、漫画家と編集者の関係っていうのかな、それってデートとは違うじゃないか。担当が決めた締め切りギリギリにカラー原稿を仕上げたっていうのにだよ、それを取りに来ないってのはおかしな話で、しかも「いつでもいいだろ」ときたもんさ。もうびっくりだね。そういう態度ってないだろうよ。ほんとに冗談抜きで。

 四代目の担当に至っては、相手の手の指を四十本くらいぼきぼきと折ってしまわないような握手じゃないと女々しいと考えるような、よくいるタイプの一人だった。やつは担当替えの当日から僕にガンをつけてくるんだよ。そういうことをされると滅入るよね。
「なぜ、替わる担当替わる担当、喧嘩を売ってくる必要があるのだ?」と僕は尋ねた。するとこの手のやつらは、ヘラヘラしてこう言わなくちゃいけない決まりになってるんだ。「僕は編集部の中でも怖い編集といわれていてね」とか「僕はKと仲がよくってね」とか。自分たちがどれくらい漫画家を馬鹿にしてる人間かをわからせるようにさ。そういうのってまぁ、逆にこっちが笑っちまえることではあるんだけどさ。

 とにかく僕はこの四代目担当者と一緒に仕事をしてきたんだけど、この男のひどいところは、僕に自宅のFAX番号を教えないってことだ。きっと君にだって教えないはずだ。聞けば「自宅のFAXは壊れている」、百年経っても「まだFAXは壊れている」と、そう言うだろう。FAXってのは壊れてて当たり前なんだ、お前のところのFAXは壊れてないのかい、そりゃすごい、ところでそれはほんとのFAXかい、へぇへぇそうなんだと、そんな調子のいいことを言って漫画家を滅入らせるのがやつらの生き甲斐なんだから。まったく編集ってのはこんなインチキなことを平気な顔でやる連中なんだ。あいつらの頭の中には「自宅に仕事を持ち込むな」ってことしかないんだよ。千ドル賭けたっていい。

 この担当編集とはいろいろあった。右手の骨を折って、連載を休載したのもこの時期だった。同じミスが続き、机を思いっきり殴ったら、拳の骨が右手の皮膚を突き破ったんだ。まあ今にして思えばずいぶん愚かしいことをしたわけだ。こんなことがあると、だしぬけになんとなくナーバスになる。というか、もともとかなりナーバスな性格なんだよ。このときに「もうサンデーでは駄目だ、小学館では仕事は無理だ」と、そのくらい言ったっていいんじゃないかと僕は思ったんだ。
 でもさ、「金色のガッシュ!!」には楽しみにしている読者がたくさんいる。そうなんだ。僕の描いた漫画を読んで面白かったときに、きちんと面白いと言われたりすると、僕はとても嬉しくなるんだよ。たいていの読者はとてもきちんとしているよ。ほんとの話さ。

 僕は期限をきめて、それまでは「金色のガッシュ!!」を描くことにした。その後にやってきた五代目の担当者もひどいやつで、蓮根なみの間抜けだった。誤植を注意したら逆ギレするようなやつで、とにかく社会人としての常識が無いやつなんだ。嘘いつわりのない話。この手の連中ってさ、僕は世界の果てまでめげちゃうんだ。もうどう仕事をしていいのかわからなくなる。そのうち、電話も会話が終わると、僕にわかるように受話器を叩きつけるようになった。そういうのを耳にすると淋しくて、じっとり落ち込んじゃうんだ。


 ようやくサンデー本誌の連載が終わったと思い、これまで預けてたカラー原稿の返却を求めたら、「数枚、原稿を紛失してしまっています」だなんて、やんなっちゃうよね。漫画の原稿ってのは、漫画雑誌の編集者にとってももっと貴重に扱われていたはずなんだ。それがここまでひどい扱いになっている。まったくどうしてみんな、人の大事なものを台無しにせずにはいられないんだろう。
 僕は小学館の責任者のもとに行ってこう言う。「オーケー、あのカラー原稿を返してくれよな」と。でも原稿を紛失したその編集はたぶん、なんのことだかわけがわからないという声で、こう言う。「カラー原稿って何だよ?」ってさ。で、僕が何をするかというとだね、たぶん二度と小学館での仕事は受けないということを口にすると思うんだ。相手が「どうせ口だけだ」と思ってるのを改めさせるためにね。で、僕が何か辛辣で嫌みなことを口にするとだね、編集長はさっと椅子から立ち上がって、自宅に詰め寄ってくると思うんだ。そして言う、「ファンも待ってるし、またサンデーで連載をお願いしたいね、あーむ?」ってさ。僕は机を右手で叩いて編集長に怒鳴りまくる。本当は右手で叩いちゃだめなんだ。手に怪我したときのことはさっき話したよね。ようするに連中は最後まで僕に対して喧嘩を売っていたわけなんだよ。

 君が漫画制作の現場を知らないものとしていちおう説明しておくと、漫画家と編集者は対等のつきあいをすべきなんだ。仕事仲間だもの。そりゃあときにはうんざりされられることもあるけどさ、そういうことばかりでもない。なんていうか、尊敬ってやつがなきゃだめなことってあると思うんだ。正直な話。原稿を紛失したところで「どうせ紛失したって、原稿料払い直せば事は済むんだろ?」みたいな、そういうことを言う連中とは、なにがあろうと、たとえ死の瀬戸際に立たされたって、一緒に仕事なんかしたくないんだよ。ましてや保証金とかいうわけのわからないお金でうやむやにされるなんてまっぴらだし、僕がそれを受けいれることで、へんてこな前例を作られるくらいなら死んだほうがましってもんだ。それにさ、お金って嫌だよね。どう転んでも結局、気が重くなっちまうだけなんだから。


 なんだか話しすぎたけど、とにかく僕は訴訟を起こそうと心を決めたわけだ。このくらいしないと連中にはわからないのさ。嘘じゃなくて、神にかけてそう思うよ。君がなにを言ったところでさ、あいつらは動かないんだよ。とんでもない話だよね。でもまあともかく、結果はどうであれ僕はさっさと小学館とはお別れする。こんなところでうろうろしていたくなかったからね。ほかの出版社からのオファーならきてないこともない。ほんとだよ。別れ際にはなんて言おうか。「ぐっすり眠れ、うすのろども!」ってのはどうだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 01:26| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。