2008年03月03日

毒餃子 No Shelter

たまにはワイドショー的な時事ネタを。中国の毒餃子の話。

この事件って「誰かが毒を食品に混入した」っていうのが本質だから、
反日感情で日本料理店が襲撃された事件や、企業ぐるみの食品偽装の事件なんかよりも、
むしろ98年に起こった、林眞須美の「和歌山毒カレー事件」に似ている気がする。

反日感情でなくとも、頭のおかしい人が、何らかの動機や衝動で食品に毒を入れるっていうのは、
別に中国でなくても日本でもあり得る話で、もっと言えば町内会の催事の中ですら発生する。
どこで餃子に毒が混入されたのかはまだ断定できないのかもしれないけれど、それが中国だとしても、
中国の林眞須美が日本の不特定の食卓へ危害を加えたとすれば、それはそれで不愉快な話だ。

そしてこの実情を鑑みて、輸入食品を疑ったり、あるいは流通を疑ったりするのは面倒臭い。
食品偽装の事件でもそうだが、この件の場合も、根本的に商品や人を疑うのは不可能だ。
日本=信用できる、中国=信用できない、という線引きは、便宜的にのみ有効なだけで、
それが神話なのは昨年〜今年の食品偽装のケースで、嫌になるくらいわかりきったことだ。
海外の国営会社・新興会社も、日本国内の老舗も、このケースに関しては似たようなものだった。

とは言え、対処法としては、その程度の線引きをするくらいしか他に方途が無い。
食品への毒の混入を本気で危惧するなら、84年に起こったグリコ・森永事件の時のように、
小売店に商品が並んだ段階で毒を入れられるケースや、それこそ「毒カレー事件」のように、
小売店から購入、調理後、野外テントの下で毒を入れられる可能性まで考慮しないといけない。
そして逆説的に言えば、そこまで本気で考える人こそ頭がおかしい。


流通過程を全て可視化することは、個人では不可能だし、行政にも限界がある。
生産・加工・流通のシステムの変更だけでは、林眞須美的な人物には対応できない。
グローバル社会の個人はもっと優しく、道徳的になるべきだ、という啓蒙にも意味が無い。
だから結論としては、考えるのをやめるか、「めんどくせぇ!」と怒るしかない。
ただしその怒りには全然何の意味も無い。誰かが何とかしてくれることも恐らく無い。
その怒りには、世界のどこかに暮らしていて、何かの拍子に毒物を手にしてしまい、
いつかあなたと関わるかもしれない、林眞須美的な人物から身を守る効果は皆無だ。

だからなおさら面倒臭い。大真面目に考えれば考えるほどアホ面になってしまう。

社会学者のウルリッヒ・ベックは『危険社会』(法政大学出版局)の中で、
チェルノブイリ原発事故事故等、環境問題の延長線上で、今の時代には、
どんなに豊かな権力者であろうと、安全圏も保護区も無い、と述べている。
食品についても、現代の豊かな日本人には、安全圏も保護区も無いと言える。

そういえば Rage Against the Machine も、frontline は至る所にあって、
身を隠すシェルターもここには無いと歌っていた。あれは何年前だっただろうか。
市民としての闘争も、グローバル経済の中にありつつも、国と時代が違えば様変わりするものだ。
posted by 手の鳴る方へ at 10:06| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

公務も住民がするという発想

トイレ清掃は市職員で、年間6百万円の節約…兵庫・三木
2008年2月25日(月)21:06 YOMIURI ONLINE



一週間前の記事を今更。
業者に頼まず、自分のことは自分ですれば安くつく、という話。
トイレ掃除って、如何にも反省してます、本気です、みたいな感じで、
「私は生まれ変わった」アピールとしてはアリガチだ。何でだろ。


サービスを受けることを止めれば、その分だけ費用が浮く、というのはごもっともで、
この記事の話は、地方公務員がサービスを受けることを止めた、って話だけど、
そもそも行政サービスだってサービスだ。その受益者は言うまでも無く住民だけど、
「自分のことは自分でするのが当然」と息巻くのなら、住民も自分のことは自分でするべきで、
プロフェッショナルを雇う金が惜しいのなら、自分達でするのが筋と言うものだ。

公務員批判をする人達は、だから「自分でやるからお前ら失職しろ」って言えばいい。
でもみんな仕事や自宅警備で忙しいし、世の中の仕組みのことなんて知らないから、
どちらにしろ税金で自分以外の誰かを雇うしかないし、人を雇うなら雇うで、
それなりに優秀で公平なプロを雇った方がいいから、結局は公務員なんだろうけどね。


昔、友人が南フランスの片田舎、人口300人程度の村を訪ねたときの話だけど、
村の首長が元商社ウーマンで、その人だけが専門的な(副業のない)行政官で、
それ以外はと言えば、例えば副首長でも「現役の」工業デザイナーだったそうだ。
つまり専任の行政官がいなくて、ピザ屋のオッサンとかが交替で数時間だけ公務を行っていた。


こういうアマチュアニズムが日本で根付くことは難しいだろう。
威勢はあっても責任感の無い公務員批判だけが空転している。


ちなみに、アマチュアやNGOが頑張っても、フランスの地方自治はもの凄い効率が悪い。
フランスにある自治体の9割が人口3000人以下で、市町村議員は全国に50万人近くいるらしい。
(国家公務員も多いはずで、「ロシア赤軍に次ぐ雇用主」とフランス政府は揶揄されていた。)
人口が1人とか0人(歴史的に価値のある地名だから)って自治体もあるくらいだ。

どうやら民主主義のベースとして、市町村はローカルレベルで細分化されるべきだ、
みたいな風潮があるらしい。大陸型の中央集権に対するカウンターなんだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 09:44| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月28日

マガジンとサンデーが新誌発行

マガジンとサンデーが新誌発行 創刊50年に向け協力
2008年2月27日(水)21:26 KYODO NEWS



これがもしもジャンプとサンデーの合同による新雑誌だったら、
雑誌名が「脳噛探偵コナン」になって、確実に朝目新聞でネタにされてたよね。
指先が何だかよくわからない形状に変形して、それで毛利探偵の脳髄にダイレクトに
イビル・麻酔薬を打ち込んで、主にテグスを使った巧妙なトリックを解決するんだろうね。
「ジンなんてコードネームは中二病っぽいデース。こんな黒服クソ食らえデース」
とか言い出してマインドコントロールしたり、東京を大洪水で沈めたりするんだろうね。


これがジャンプとマガジンの合同による新雑誌なら、「さよなら銀八先生」ってタイトルで、
たまーにイイこと言うんだけど、基本的には世相を切りまくったり、担当やアシをいじったり、
「ジャンプとマガジンが合同で新雑誌をやったって、売り上げとか伸びるワケないじゃん」
とか、
「そうです! 銀行しかり、自治体しかり、時代はまさに合併ブームなのです!」
って感じのことをキャラに言わせるような、メタレベルなネタをしたりするんだろうね。
それで単行本では作者が病的な発言を繰り返したりするんだろうね。


某月某日新宿区某書店にて――
「銀八先生」第一集を手に取り買おうとしている天使ちゃん2人の会話。

「これさー、地獄少女の和服描く資料に使えるかな?」

お買い上げありがとうございます。
これからも私どもはお客様の地獄少女本の資料になるべく
スタッフ一同一層の作画努力をし、
精進していく次第でございます。
チーズ蒸しパンになりたい。



みたいな感じの鬱陶しい手書きの紙ブログが。
いや、もちろん見たいですけどね。



あと、どうせならヤングマガジンとヤングサンデーも合同で新雑誌を作ればいいよ。
タイトルは「頭文字Dr.コトー診療所」とかにして、離島の峠道の5連続ヘアピンカーブで、
日に焼けた老人相手にガードレールターンを決めるヒューマンホスピタルドラマがメイン。
自分でも何を言ってるのか、もう、ビックリするくらい全然わからないけど。

ついでに少女漫画のりぼんとなかよしも合同で新雑誌を作ればいいよね。
漫画の内容はともかく、雑誌の厚さの9割が付録なヤツを作ればいいよ。
いっそのこと10割が付録になってもいいんじゃない?

それとか、「本当にあった愉快なみこすり半劇場」とかね。
「岩谷テンホーのまんがタイムきらら」とかね。
どっちも同じようなモンなんだけど。


というかサンデーとマガジンって購読者層が被ってるんだから合同でやっても意味ないよね。
メガミマガジンあたりと合同で、ヒロインの水着ポスターとかを付録につけた方がいいよね。
あるいは購読者層を限定して、Lidre出版と合同で、ボーイズラブの新雑誌を出したりね。
内容によってはどっちも作者から刺されると思うけど、ジャンプに勝つにはそのくらいしないと。


で、サンデーとマガジンが共倒れしたところを、チャンピオンが光の速さで売り上げを伸ばします。
(※このブログは「チャンピオンは少年漫画雑誌のチャンピオン」を合言葉に活動しています。)
posted by 手の鳴る方へ at 05:15| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

猥褻(専門家御用達)

男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分


第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い――などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。 (記事より引用)


上記写真集は,縦31.2p,横30p,ハードカバーによる装丁で
384頁,重量約4kgに及ぶ大型の本であり,その価格は当初1万6800円とさ
れていた。
 A社は,上記写真集について全国紙の朝刊第1面に販売広告を掲載するなどの販
売促進活動を行い,上記写真集に関する紹介文や書評が全国紙や写真専門雑誌に掲
載されたこともあって,平成7年1月1日から同12年3月31日までの間にこれ
を書店販売,通信販売等の方法により合計937冊販売した。
(判決文より引用)


堀籠幸男の反対意見の中に、『チャタレイ夫人の恋人』事件の判例に触れている部分があって、
つい最近それに関する本を読んだ者としては興味深かった。


法律についてはド素人なんだけど、今回の判決とチャタレイ事件の際の判決を比較して考えると、
『チャタレイ夫人の恋人』のケースは、発売された昭和25年4月中旬から同年6月下旬までの間で、
上巻約8万冊、下巻約7万冊の売上。この勢いに勝る英文学は、最近ではハリー・ポッターくらいだろう。
で、『チャタレイ』は、当時の新聞や雑誌の書評、投稿欄で物議を醸した文句なしのベストセラー。
つまりそれだけ人目に付きやすい、ということでもあり、そこら辺が被告人側に不利に働いていた。
第一審の中でも、「自分の子供には読ませたくない」的な見地で、検察側の証人に立つ者が多かった。
また、判決理由の中にも、例えば、


今の高等学校の生徒には本書の描写がよくわからないので全体を読まないで、初に読んだ生徒が印をつけておいて性的な興味だけで性描写の所だけを時間中に机の下でゴソゴソと読み廻すという心配がある。(伊藤整『審判』下巻p.327)


とあるように、『チャタレイ婦人の恋人』は紙一重で猥褻本とは言えず、
英文学の研究者にとっては価値のある本だと裁判所は認める一方で、
一般人にしてみればその思想は伝わり難く、誤解されやすいとも述べている。
そして誤解される環境を不用意に招いたから、刑法第175条に違反、有罪。


今回のメイプルソープの件では、高校生が机の下で廻し読みするには大きすぎるし重すぎる。
そもそも900冊強しか売れておらず、新聞の投稿欄に「けしからん」的な意見も出ていないだろう。
何より値段が専門書のそれだ。完全に「写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し」ている点で、
啓蒙的で、一般大衆を想定していた『チャタレイ婦人の恋人』とは状況が異なっている。


猥褻性の判断には、表現の内容そのものも重要だが、出版の規模、方法等も重要なように見える。


性行為を扱った論文はワイセツ文書ではないが、これを日刊新聞に掲載したという理由で有罪としたものがある。またある芸術作品を美術館では観覧する人の範囲が限られているから展覧してもよいとしながら、その複製の頒布を罰したものがある。(『裁判』下巻 p.343)


とは、伊藤整『裁判』の終わりで、団藤重光がドイツのビンディングという刑法学者の、
「相対的ワイセツ文書」という考え方を紹介している部分からの引用だけど、
堀籠幸男の反対意見(同じ写真が使われていながら、前回、平成11年のケースは駄目で、
今回のケースはOKって変じゃないか?)も、この「相対性」によって説明されるのだろうか。
前回のケースでは、写真集ではなくて写真家の回顧展のカタログ(記事中に写真あり)が問題だった。
カタログなら一万円もしないし、高校生が机の下で廻し読みをする恐れがありそうではあるが。
posted by 手の鳴る方へ at 07:03| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

地方自治は未完のプロジェクト

米軍機移転容認へ 井原氏を小差で破る 出直し市長選 岩国市長に福田氏
西日本新聞 2008年2月11日(月)17:10



国とは違う存在としての地方が、「自らを治める」から地方自治と言うワケだけど、
多くの地方自治体は国からお小遣いを貰っており、それに多くを依存している。

今回のように、航空基地周辺の平穏や、街全体の安全を欲することは実に正当だが、
主張する相手側に補助金を人質に取られ、生殺与奪の権を握られていては仕方ない。
経済的に自立できていないのに、団体自治を自負し、自治体と称するのは矛盾だ。

ここにある構図は、国(中央)を家父長、地方を子供とするパターナリズムだ。
要するに力のある大人が、自立していない子供にお小遣いをあげている構図だ。
福沢諭吉は自立について、「自立とは他人の世話厄介にならぬこと」だと述べている。
福沢のこの論は、団体ではなく、近代的な一個人を念頭に置いて書かれたことであるが、
国と地方の構図に、福沢のこの論をあてはめて考えるならば、地方自治は自立していない。


唯酋長なる物、独りよく其時勢を知り、恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し、一種族の人民を視ること一家の子供の如くし、之を保護維持して、大は生殺与奪の刑罰より、小は日常家計の細事に至るまでも、君上の関り知らざるものなし


上記にリンクを貼った記事の中に、「アメとムチ」というフレーズがあるが、
「恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し」とはまさしくそのことだ。
このような自立を阻む「恩威情実の政」こそ、福沢諭吉が忌避しようとし、
その代表作、『学問のすゝめ 』の中において排撃しようとしていた当のものだ。


其恩威の何事たるを詳にし、受く可らざるの私恩は之を受けず、恐る可らざるの暴威は之を恐れず、一毫をも貸さず一毫をも借らず、唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し


ちなみに前に紹介した『市場・道徳・秩序』(ちくま学芸文庫)の中で坂本多加雄は、
この文中の「一毫をも貸さず一毫をも借らず」をキーワードに、福沢諭吉の論を進めている。
何の貸し借りもなければ、自分の道理に基づいて、正々堂々と自論を展開することが出来る。
そこにこそ近代人としての倫理があるし、「恒産なくして恒心なし」という言葉も意味を持つ。

自身の道理を世間に通したいのならば、まずは経済的に自立することが求められている。
国に借りがある地方自治体は、逆に言えば、正しいと信じる自論をまともに展開などできない。
「唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し」と福沢は明確に述べているが、
現代の地方自治体は、そもそもそれが成る前提が成立していない。それは子供のままだ。


今回の選挙で民主政治は達成されたかもしれないが、近代そのものは相も変わらず未完のままだ。
posted by 手の鳴る方へ at 01:14| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

民間や国の債権回収事業

地方税滞納者に戸別訪問、静岡で全国初の広域連合設立へ
2008年1月5日(土)03:04



地方税とは別物だけど、国民年金保険料の徴収には民間業者が関わっている。
公務の一部を民間に委ね、経費削減と効率化を目指す、いわゆる市場化テストの一環だ。

去年の十月、社保庁の年金収納促進事業の落札結果が発表されている。
落札額は全国で総額約62億円。三年間の事業期間なので、約20億強/年となる。
年金を払って無い人や事務所(気持ちはわからんでもないが)に対する催促のため、
これだけの出費が国から落札業者へと流れるワケだけど、この額はスゲーお買い得だ。

国民年金の未集金は三年で時効になる。その額は5年前の時点で既に8000億円近い。
社保庁に対する不信が慢性化している今、その額は一兆円を確実に超えているだろう。
その1割を回収するだけで単純に1000億円の収益になる。国のコストとしては格安だ。
ちなみに06年度、厚生年金を支払っていない事業所1万3711社に対する、
委託業者の加入催促の成功率は17.7%で、2424社の加入に成功している。

この事案では、回収率を上げればインセンティブが発生する仕組みになっているから、
そもそも市場化テストが本来目指しているところの、債権回収の効率化も期待できる。
静岡の広域連合ではどうなっているのだろう? 従事者はほぼ公務員のようだけど。
というか、記事を読む限りでは、地方税徴収も民間でできないことは無い気もする。
広域連合化という発想は面白いけど、地方税の滞納は全国的で恒常的な問題なのだから、
一つの県レベルでそういうことをやっても、民間の地力には太刀打ちできないのではないか?
posted by 手の鳴る方へ at 06:45| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月26日

トヨタ、17年ぶり新工場

トヨタ、17年ぶり新工場 仙台近郊で自動車組み立て
2007/10/23 18:19 【共同通信】


周到な誘致戦略奏功 宮城にトヨタ車工場 発展税で優位に
2007年10月23日火曜日 【河北新報ニュース】



労働集約的な仕事が国内回帰しているようです。
「ものつくり日本」の再評価とか、円安傾向とか、
中国等、アジア新興国での人件費の上昇とか、
新技術による組み立てラインの簡素化、自動化、
それによるコストの低下とかが背景にあるようです。
2、30年前と比べて車両工場用地は半分で済むらしく、
技術革新、イノベーションの賜物といったところでしょうか。


誘致先の大衡(おおひら)村は人口約5500人の、宮城県唯一の村だそうです。
とは言え、村というイメージから程遠い、「第二仙台北部中核工業団地」という
大仰な通り名で知られているようです。どうであれ、地方の勝ち組です。
あと、大衡村のHPは、意匠は別としても、シンプルで見やすくていいです。
ちなみに、24日の時点でカウンターは約10万8000でした。


この誘致に積極的に動いたのが、村井嘉浩宮城県知事。
元自衛官だそうで、今回の誘致に際し、セントラル詣でを繰り返したそうです。
営業の基本ですけど、都道府県のトップがそういうことをやるのは珍しいみたいで、
東国原宮崎県知事とは違う形で、リーダーシップを発揮したようです。


7月には、一定規模の企業の法人事業税に5%超過課税し、企業立地奨励金の財源をねん出する「みやぎ発展税」の導入を発表した。

 「地域を冷え込ませる」という批判もあったが、発展税導入を急ぐ知事の姿勢は強硬だった。「発展税で他県にひけを取らぬ立地奨励金交付が可能になったことが優位に働いた」と県幹部。知事の言動には「発展税=セントラル」という図式が見え隠れしていた。



河北新報ニュースのこの記事を見ると、知事の本気度が覗えます。
大企業中心主義っぽくてヤな感じですけど、地場産業にしたって、
税収が満足いくものでなければサポートもできないワケですから、
地方再生の戦略としては、長いスパンで見ても正解だと思います。

今後も都道府県の間で、このような誘致合戦が続くことでしょう。
トップと企業誘致担当者の力量が問われています。
posted by 手の鳴る方へ at 01:38| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月17日

地域再生と限界集落

地域再生などを掲げた地域活性化統合本部が、今月の9日に発足。
福田首相が本部長。元岩手県知事の増田寛也総務相が副本部長。
従来の、公共事業というドーピングに頼らず、地方の発展を模索するようだ。
自民党の農業政策も舵を切るようだし、ふるさと納税も具体化に向かっている。


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樺嶋秀吉『自治体倒産時代』(講談社+α新書)によれば、
現在、地方自治体が熱心に取り組んでいるのが、「IJU(移住)ターン」という、
都市住民の呼び込み策で、その具体的なターゲットは、
700万人とも言われる、退職して余裕のある団塊世代だそうだ。


例えば青森県の試算よると、首都圏など県外に住む県出身者の約10%(4000人)が配偶者を伴って県内に移住し、八五歳まで二六年間暮らした場合、地方経済へのプラス効果は約二三五五億円になるという。(p.110)


この最後の数字からは、市町村の医療費負担や介護保険給付費負担額が差し引かれている。
しかも約10%がUターンするという見込みにもそれなりの根拠があるらしい。
単純計算で、年間約90億の経済波及効果があるということになる。皮算用だけどスゴイ。
ちなみに県の人口の45%が集まる青森市の地方税収入(平成17年)が約349億円。

こうして見ると、地方にとって700万人の団塊世代は金鉱のようだ。
また、彼らの多くは、やや高齢なのがネックだが、優秀な人材でもある。
生活者としての役割も期待されるところが大きいだろう。


一方、地方の過疎地では「限界集落」の問題に頭を悩ませている。
Wikipediaの記事によれば、2000年の時点で中国地方に限界自治体が1ヶ所、
07年10月1日の記事によれば、同地方の限界集落は2270ヵ所ほど存在している。

恐らく地域再生、都市再生の流れの中で、幾つかの限界自治体、限界集落も、
田舎暮らしに憧れる団塊世代の獲得、定住化を狙っているだろう。

ここからは私の私見なのだけど、限界集落の延命は政策的に大前提なのだろうか。
少子高齢化の流れの中で、日本の人口は引き続いて減少傾向にある。
限界集落を財政的に延命維持しても、20年後にどうなっているかは心もとない。
また、交通の便が悪く、コンビニもなく、ブロードバンドも整備されておらず、
それならまだしも介護施設や病院、学校、警察、行政機関からも遠く離れた場所で、
自然に囲まれた分、災害の危険も多い中、あえて生活を続ける理由は何だろうか。
そこが安らげる故郷であり、家や土地に愛着があるのはわかるけれど、
そのために国が、都市から徴収した税金を大放出するのはどうなのだろうか。

要するに、限界集落に生きる人達にとって最善なのは何だろうか、と言いたい。
持病や介護の心配から、街へ移住したいと思う人はいるような気がするのだけど。
行政がすべきことは、集落の延命ではなくて、と言うか必ずしも延命ではなくて、
そこに住む人達の生活のサポートなのではないのか。
例えば希望者の畑など不動産を機関が買い取り、その資金と年金を元手に、
病院や介護施設が近くにある(空き家なことが多い)公営住宅へ引っ越してもらう、
なんてことは駄目なのだろうか。集落の死期を確実に早めるけど、駄目なのだろうか。

人口減少社会の中では、ヒト・モノ・カネは集約した方がいいと思うのだけど。
他人や都市と離れて生きるには、色々と高くつく時代に入っていると思うのだけど。
posted by 手の鳴る方へ at 08:06| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月27日

食料自給率100%

民主党:新潟で「次の内閣」会議 地方重視の姿勢アピール
毎日新聞 2007年9月21日


06年度の日本の食料自給率は39%で、13年ぶりに40%を割り込んだ。
05年に政府が出した、新食料・農業・農村基本計画によれば、
2015年には45%にする目標らしいけれど、前途は多難のようだ。


そもそも何で食料自給率を上げる必要があるのだろうか?
たまたま見つけた、香川農政事務所のHPにはこのように書かれてある。

世界人口の増加や、天候不順・気象災害がもたらす農産物の被害、世情不安による輸入停止等、将来的にみた場合、今までどおりの食料輸入を続けることができない可能性もあります。
そのため、日々の生活の中で欠かすことのできない食料は、自分の国の中でできるだけ多く生産し(=食料自給率の向上)、輸入や備蓄と適切に組み合わせることにより、安定的な食料供給を目指す必要があるのです。



話はやや変わり、江戸時代は鎖国中だから、当時の日本の食料自給率はほぼ100%だった。
で、100%だったのに、江戸時代には4度にわたり飢饉が生じ、多くの人々が死んでいる。
ところが一方で、米をそれほど生産していない都市部の米倉には、それなりの備蓄があった。
飢饉の犠牲者の多くは、江戸や大坂などの都市部ではなく、地方の農村の百姓だったワケだ。

このトリックは簡単で、多くの餓死者が出たのは、農村の食料自給率がほぼ100%だったからだ。
自分の田畑が駄目になり、他との金銭的な意味での交通も断絶していると、人は簡単に餓える。
一方で、当時の江戸や大坂の自給率は、北陸や東北などの農村に比べて当然低いのだけど、
例えば西日本が冷夏で駄目になっても、東日本から輸入するルートがあったため、
つまり、当世風の言い方をすれば、リスクを分散させていたので、餓えることはなかった。


食の安全保障という文脈で、自給率100%の話題が出る場合、それは、
「財産は自宅の金庫に入れておくのが一番安全だ。銀行はいつ潰れるかわからんから」
と言っているのに似ていて、実はそれほど正しくもないし、ベターですらない。
リンクは貼らないけど、アルファブロガーの池田信夫も書いている通り、
自給率よりも、普段から、他国との間に輸入ルートを確保しておく方が重要だ。
要するに流通を確保する方が問題で、「地産地消」という地方自治の言葉を、
国全体の食の安全保障に対して使用するのは誤解を招くもとになるだろう。


上で触れた香川農政事務所が正しくも書いているように、
「輸入や備蓄と適切に組み合わせることにより、安定的な食料供給を目指す必要がある」
というのが今後の農政の課題となるだろう。問題は安定的で、安全な食料供給のはずなのだ。

だから、それは「自分の国の中でできるだけ多く生産」することには必ずしも繋がらない。
そもそも、天候不順や気象災害のリスクは、日本国内にもあるワケで、
だから問題なのは、自国でどの程度まで生産しておけば大丈夫そうか、という点で、
それは無論、ただちに自給率100%という解答を導き出すものではないし、
現行の過保護な農業政策を肯定するものでもない。
物事には費用対効果というものがあり、リスクの分散にもそういう思考は必要だ。
補助金さえ大盤振る舞いすれば、「できるだけ多く生産」することは可能だが、
野党も与党も、自給率100%という錦の御旗を掲げてやりたい放題するのは勘弁願いたい。
posted by 手の鳴る方へ at 00:55| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

表紙を替えて新規の その2

人気漫画、米科学誌表紙に=日本人研究者論文、イメージ化−「ジョジョ」荒木さん
時事通信社 2007年9月7日(金)01:30



記事を読んでテンション上がった。ジョジョ関係ないのに表紙て。
投稿者が何で科学雑誌の表紙を決めたりできるのか知らんけど、
なんかもう何でもありな世の中だ。最高だ。瀬藤准教授GJだ。
CellのHPにある表紙をよく見ると胸に「SCRAPPER」って書いてあるしw

「Cell」のHome page

このジャパニーズ・マンガの勢いがあれば、
来月あたりの「VOGUE」の表紙は矢沢あいになってるし、
「The Economist」の表紙を「ナニワ金融道」が飾る日も近いよね。
「PLAYBOY」は鳴子ハナハルあたりになって「快楽天」と区別が付かなくなってるよね。
日本の雑誌でも、来週あたりの「現代農業」は「もやしもん」になってるし、
「小説推理」の表紙にコナンや金田一少年が出ててもおかしくないよ。
アグレッシブに攻めて「魔人探偵脳噛ネウロ」でもイイと思うよ。羊頭狗肉とはこのことだけど。
「ROCKIN’ON JAPAN」もそろそろ「デトロイド・メタル・シティ」を表紙にすべきだよね。
「諸君!」もイメチェンして、久米田康治の櫻井よし子やローゼン麻生を表紙にすればいいじゃん。
「日経WOMAN」も「働きマン」にすればいいじゃん。どっかの女性誌が本当にやりそうだけど。
逆に来週の「少年ジャンプ」の表紙は本物の海賊とかにすればいいよ。
入荷時点で、すでにビリビリになってたりすればリアルで面白いんじゃない?
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2007年09月01日

犠牲者の市場

韓国、身代金200万ドル支払いか 人質解放
asahi.com 2007年08月31日03時01分



1999年度にノーベル平和賞を受賞したNGO「国境なき医師団」で、
長期(1982-94)に渡って理事長を勤めていたロニー・ブローマンは、
『人道援助、そのジレンマ』(高橋武智 訳 産業図書)でこんなことを語っている。


犠牲者とは、彼らをめぐって取引やかけひきがおこなわれる市場でもある――市場ですから当然、市場の法則も、乱高下も、公開買い付けも、指導者もついてまわります――という事実を知らないとしたら、世間知らずのそしりを免れないでしょう。(p.57)


ブローマンの論旨は熱っぽいが、政治の渦中で、如何にして人道を達成できるかについて、
リアリズムに徹しつつクレバーに語っており、とても好感が持てるものが多い。
ここで語られている犠牲者とは、内乱によって住処を追われた戦争難民のことだが、
戦争や内乱に限らず、平時の犯罪、自然災害の犠牲者一般に対しても該当する。

政府が国民の生命身体財産を守るのは当然だが、人道支援となると話は別で、
国家主体で人道援助を行うのは「新聞が首相官邸で製作されているようなもの」だ。
犠牲者の市場を巡って何が行われているかというと、ブローマンの言葉を借りれば、
「イメージ戦略」「映像による証拠」「アリバイ」等、国家の宣伝戦略が行われている。
政治的な弱者は、独裁者やテロリスト、国際社会とそのメディアに利用されるが、
その生活が改善することはほとんど無い。それは単に消費されるだけの商品だからで、
その市場にある幸せとは、売買する連中の幸せであって、商品は常に蚊帳の外だからだ。


今回の件のキリスト教系団体は、いわば韓国からタリバンへの輸入品であった。
韓国から材料を無料で入手して、それは本土内で人質に加工され、輸出品となり、
(記事によれば)200万ドルの対価を支払って、韓国政府に買い取られた。
こうして見ると、何と言うボランティア精神だろう。タリバンの自立に貢献している。
タリバン株式会社の主要産業が人質となり、国際社会が不当な関税を設定したり、
輸入禁止にして経済摩擦を引き起こす、なんてことも起こるかもしれない。

こういう笑えない事態は、人質本人達の無垢な善意とは関係なく発生する。
それは悪魔に魂を売った政治に巻き込まれ、市場の法則によって処理されるだけだ。
ブローマンの論旨は、このエコノミーを脱臼させるような方向で、果敢に進んでいく。
「だから民間人は引っ込んでろ。国に任せとけばいいんだ」という話では全く無い。
人道と民間人の可能性、非打算的な精神を彼は信じているし、そういう人ほど、
この本にあるような犠牲者の市場について、真剣に考えるべきなのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 05:42| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

絶対平和主義を少女趣味と言うけれど

久間防衛相、講演で「原爆投下、しょうがない」
2007年06月30日22時23分 ( asahi.com )



ヒロシマ・ナガサキのような絶対平和主義は、外交のリアリズムの前に無力となる。
戦争は絶対悪である。人類最大の犯罪である。それは当然であり、前提ではあるけれど、
そのことがただちに、狡知に満ちた駆け引きの世界にまで適用されるワケではない。
国際政治に限らず、今も昔も、政治的なものは常にヘゲモニー闘争であると言える。
常態として利害が対立し合い、負の歴史の中に立ち現れた現代の国際社会にとって、
平和の二文字は真理であるけど、その真理は手にした者の安全を必ずしも保障しない。
真理は自分自身で、政治の中に立ち位置を見出し、主導権を握らなくてはならない。
そのとき真理は、現代のカリクレスによって、不当にも議場の隅に追いやられるかもしれない。

だからヒロシマ・ナガサキ的なものは、政治の中では微妙な立ち位置を占める。
それは人類普遍の真理であり、政治の目標とする目見麗しい理念ではあるけれど、
それにも関わらず、と言うかそれゆえに、その理念は決して鵜呑みにされることはない。


恐らくヒロシマ・ナガサキは、この先もずっと、政治的には敗北を重ね続けるだろう。
国際社会の思惑は、極東の小さな二つの都市とは別の次元で動き続けている。
だから、この二都市の絶対平和主義は無意味なのだ、ということにはならない。逆だ。
だから、この二都市の絶対平和主義は、国際社会で半永久的に訴え続けるに値する。

ヒロシマ・ナガサキは、国際社会の中で、堂々とマイノリティーであることができる。
そもそも被爆体験のある都市自体が、今の段階では、国際的に見て特異であるし、
今の世の中で平和都市を世界的に自称している、そのこと自体が既に異常なのだ。
しかも少数派であるにも関わらず、その主義主張にはそれなりの普遍性がある。
現実に被爆して死んでいった者達の声を代弁し、現在に知らしめているという正当性もある。
この自己定立を自らで放棄する理由は無い。政治的にも、それ以外の理由でも、無い。

今のヒロシマ・ナガサキが主張する平和主義は、誰が見ても理想が高すぎる。
だが、広い世界の中で、二都市くらいこういうことを訴え続ける街があってもいい。
最近は大学を中心に、もっと現実的なアプローチも試みているようで、いい感じだ。

外務省:紛争地域などの復興支援に携わる人材育成事業


「祈る平和から創り出す平和へ」ではなくて、本当はこの二つは同時にあるべきなのだろうが、
そこにあるバックボーンは基本的に変わっていない。これは地方都市にとっては強みだ。



久間防衛相の失言は、選挙を控えたこの時期に、年金問題で与党に逆風の吹く最中で、
大臣のポストにある人間、しかもよりによって長崎選出の政治家が言うことではなくて、
メディアにまんまと足元を掬われるその迂闊さ、自己管理の不徹底さが下らない。


少女趣味と揶揄されている絶対平和主義ではあるけど、それは少女を軽んじている。
というか、それは成人男性を過信している。
無思慮に本音をぶっちゃけた久間防衛相は成人男性だ。
自分の政治生命をムザムザと危険に晒す人間が、現実的な政治に携わり、
国民の生命を守る防衛省のトップに立っていたなんて悪い夢のようではないか。

これって少女趣味といい勝負だと思うのだが。
どちらもリアリズムの前に潰された、潰されている、という意味で。
posted by 手の鳴る方へ at 01:09| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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