2010年03月24日

ヴァイマールの亡霊

柴田寿子 『リベラル・デモクラシーと神権政治』 (東京大学出版会)
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サブタイトルには「スピノザからレオ・シュトラウスまで」とあるが、
幾つかの論文を一冊にした本で、本書には他にもシュミットやアレント等への言及もある。
ちなみにシュトラウスはヴァイマール期の思想家でユダヤ人。1932年にアメリカに亡命。


リベラルだとかデモクラシーだとか、響きのいい言葉を口にしてウットリする連中がいるが、
その内実をよくよく考えてみれば、諸手を上げて称賛できるようなモンでもねぇよって内容。
この本には、レオ・シュトラウスが国外に持ち出したヴァイマールの亡霊が憑依している。
普遍主義によって排除され、モダニズムの礎石として埋葬されたその亡霊の名はユダヤである。


ナチス前夜、ヴァイマール共和国には、リベラル・デモクラシーが実現しつつあるように見えた。
それはドイツのユダヤ人を政治的に解放・同化して、法的平等をある程度まで達成したものの、
その政治体制は全体主義思想に対して無力であり、その後に続く殲滅計画にも無力であった。
シュトラウスによれば、そこにはリベラル・デモクラシーの根本的、致命的な脆弱さがある。


シュトラウスの分析によれば、まずリベラリズムとは国家と社会を分離し、国家という公的領域の縮小化と社会という私的領域の拡大化をめざす考え方である。その結果、公的領域においては法によるリベラルな原理が保証されるが、他方、自由とされる私的領域を規制する原則はなく、リベラルな原理に反する差別が容認・保護される。リベラリズムにとって宗教を公事とすることは自由の抹殺であるが、かといって宗教を私事とするかぎり、ユダヤ教やセミティズムを寛容に容認するのと全くおなじように、反セミティズムをも寛容に容認することになる。結局リベラル・デモクラシーは、反セミティズムに反対する公正・正義といった準拠点をもちえず無力である。
それゆえさらにシュトラウスによれば、リベラル・デモクラシーはユダヤ人問題に対して無力なだけではなく、その悪化をもたらすことになる。そもそも普遍主義的でリベラルな個人主義と固有性をもつコミュニティは矛盾し、リベラル・デモクラシーは人間という普遍主義的な原理に基づきユダヤ人全体を保護するという目的のもとに、ユダヤ人コミュニティの固有性にたいする暴力的な破壊をもたらす。
(p.43)


リベラル・デモクラシーは価値中立的であろうとするため、啓示宗教のような固有性は、
例えば政教分離の中で綺麗に排除される。政治には“理性的な”自由があるべきだからだ。
『神学政治論』の中で、スピノザが神学・聖書の価値を福利厚生的なものとして認めつつ、
一方で政治の場を、自由な言論空間として確保しようとしたのと構図は似ていると言える。
(が、聖書も理性も重要だと考えている点で、スピノザのモダニズムは私達のそれとは異なる。)
啓示宗教はこのプロセスの中で漂白され世俗化される。と言うより、あらゆる個別性が、
剥離し、リベラル・デモクラシーの中でフラットに扱われた挙句、宗教も倫理も喪失する。
「色んな考え方があるよね」的な馴化の果てに、煽られた反セミティズムが暴走し始める。


シュトラウスは、啓示と理性、宗教と哲学には、そもそも共約可能性が無いと言いたいのだ。
世俗的理性の見地から啓示宗教を批判したところで、それは宗教対立の亜種でしかない。
そしてそれを踏まえて、リベラル・デモクラシー内での共存可能性を問い質すべきなのだ。
(スピノザと同じくシュトラウスも、宗教と哲学はどっちが偉いか、みたいな議論はしない。
二人とも、理性や真理だけで社会も人間も動いてねぇよ、という当たり前の発想をしている。)
また、ユダヤ人はヴァイマールの最中、公私の両領域に引き裂かれたのだとも言いたいのだ。
数千年もの間、この「ユダヤ人問題」は、西欧の他者理解の重大問題として推移してきた。
西洋の二本の柱、ギリシアの懐疑とイスラエルの信仰の捩れの中にユダヤ人の歴史もあり、
リベラル・デモクラシーは、そんな歴史の刃先として現れ、ジェノサイドを招き寄せた。
その矛先はイスラームやマイノリティ文化へと向かいつつあり、ずっと前に紹介したのだが、
シャンタル・ムフの『政治的なものについて』にそこら辺の事情は詳しく書かれてある。
西洋が設えた公共空間から宗教は撤退する。それが爆弾を抱えて戻ってきたのが9.11だった。
その後のアメリカの行動がネオコン的と称され、ネオコンはシュトラウス的だと称されたが、
それは大きな誤解である。ヴァイマールの亡霊が疑うのは、そこにある普遍主義なのだから。
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2010年03月21日

『デモクラシーとは何か』

ロバート・A・ダール 『デモクラシーとは何か』 (中村孝文 訳 岩波書店)
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作者はアメリカの超有名な政治学者。「ポリアーキー」という概念の生みの親でもある。
民主主義研究に成果があり、この本は初心者向けに書かれた平易なデモクラシーの解説書。


民主主義とか共和制とかよく耳にするけど、北朝鮮や中国だって共和国らしいし、
日本国内でも、よく「民主主義オワタ」だとか「民主主義の危機」だとか言われるよね。
ヒトラーを生んだのも民主主義って言うし、そもそも民主主義って何を意味しているの?
この本ではそんな問いに答え、その歴史や種類、利点、必要条件などが解説されている。

民主主義の歴史は2500年に及ぶが、2500年前の民主主義と近代民主主義は大きく異なるし、
同時代の民主主義であっても、国の規模によってその体制にはバリエーションがある。
古代アテネの自由人/奴隷の社会構造を前提とした民主主義はもちろんのことだが、
19世紀以前の民主主義は、基本的には制限選挙下の代表デモクラシーだったと言える。
近現代における文脈で重要となるのは、非制限選挙による民主主義であるワケだから、
理想的なデモクラシーを指す言葉としてポリアーキーという新概念が導入される。
ダールによれば、ポリアーキーの要件は、
@選挙によって選出された公務員
A自由で公正な選挙の頻繁な実施
B表現の自由
C多様な情報源
D集団の自治・自立
E全市民の包括的参画
であるとされる。これで言うと、ファシズムは民主主義から生まれた政体ではあるものの、
それ自体は決して民主主義的では無かったと言える。そもそもダールの説明によれば、
20世紀において、民主主義体制が崩壊し、全体主義へと転落したケースは70を越える。
20世紀は民主主義にとって興亡の世紀、そして最終的に耐え抜いて生き残った世紀なのだ。


多くの政治学者は、寡頭制や君主制にも政治体制としての利点を見ることに吝かではない。
例えばシュンペーターは、フランスの政教分離はナポレオンの強権がなければ無理だった、
民主主義的に決めてたらあんなモンどうにもならねーよマジで、とか言っていたりする。
それでも時代を経るごとに民主主義が広がり、政治倫理と化しているのは、ダールによれば、
民主主義には説明責任があり、人間性を開花させ、国をより繁栄させ、私的自由を保障し、
政治的・本質的な平等を保護し、その他諸々で、ワリのいい「賭け」だからだとされる。

政治学者お墨付きの「賭け」であるけど、「賭け」だから100年に70回ほど負けたりもする。
文民による軍と警察のコントロール、近代的な市場経済の発展による中産階級の勃興、
それに過度に多元的な文化でないこと(つまり有権者にある程度の同質性があること)等、
幾つかのポイントが押さえられていれば、民主主義は興隆し、「賭け」に有利となる。
ここで、有権者の思想・宗教・民族・イデオロギーがバラバラで多元的な文化はヤバイよ、
そもそも民主主義が成立しないよ、と、民主主義の権威が述べていることは注目に値する。
まぁ、その例外として、オランダやスイスやインドに紙面を多く割いてもいるのだけれど。


他にも、民主主義と資本主義は、喧嘩してるけど結婚生活をやめない夫婦みたいなものだ、
資本主義は有権者の生活を豊かにし、諸々の政治活動にとってプラスに働くこともあるが、
その一方で格差を広げ、政治の分配機能を脅かし、アジェンダ設定にも差別が出ると語る。
どうであれ、資本主義は非ポリアーキー体制とは決して相容れないのだと述べている。


こうして見てくると、二一世紀に繰り広げられるかもしれない歴史劇の最後で最大の見せ場は、中国の非民主的な体制が、市場経済の生み出す民主化の流れにどこまで逆らい続けることができるかどうかという点になるだろう。(p.234)


中国が民主化の流れに逆らうのはまだこれから、21世紀の後半からになりそうだが、
個人的には如何にして中国が、ITを駆使してデモクラシーに抗うかにも興味がある。
中間層となった13億人の民主化への志向を、果たしてどこまで制御できるだろうか。
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2010年02月15日

今村仁司の『仕事』

今村仁司 『仕事』 (弘文堂)
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ヨーロッパの伝統においては、労働は宗教的、神話的、道徳的な蔑視の対象であり、
自由な人間のすることではない、非人間的、周縁的、低俗なものとしてイメージされていた。
一方、近・現代の労働観では、働かないことがむしろ悪徳、後ろめたいことに分類されている。
だが、古代においてそれは善であり、「労働からの解放」として理想的な評価をされていた。
観想、宗教的瞑想、余暇こそが、人間本性と結びつけられた、人間らしい行為だったのだ。
無論、それらが奴隷制や劣悪な差別を支えとしていたことは考慮しておかなければならないが、
現代の私達の労働観が、それなりに擬似的な普遍性しか持っていないことは明記してもいい。


ここに見える古代と近・現代の労働観の転倒現象は、ウェーバーの『プロ倫』にあるような、
近代化の流れの中で生じたものだと言えるだろう。脱魔術化、脱宗教化、合理化の流れの中で、
都市の周縁に位置していた商業は、都市の中核を担う要素として把握されるようになり、
「最も卑しい」とされた労働行為は、人間社会を組織する中心的な価値として理解される。
また、科学者や技術者は産業と合流し、魔術師と同格だったその社会的地位を向上させ、
一方で、精神活動すらも「労働」「生産」という概念で語られてしまう時代が到来する。
学問や観想すらも労働であり、生産性を求められるというから、まさにプラトン涙目w である。


古代的な労働観は、産業革命や近代化を経て19世紀まで残り続け、20世紀になっても、
例えばバートランド・ラッセルあたりが「労働とか大概にしとけよ」と言っていたりする。
そこにある価値観は何かと言えば、「労働は人間的自由を喪失させる」という直観であった。
労働と言うのは生きていくために避けられない、自然的必然性に拘束された活動であって、
それに縛られている限りは自由でない、人間にはもっと大切なことがある、という意見は、
甘い、空想的な意見ではあるけれど、そこにはそれなりの説得力があるように思われる。

私達現代人は、その意味で総奴隷化されている。かつては一部の人間だけが奴隷だったが、
現代では全ての人間が労働者という名の奴隷である。余暇ですら、私達は消費するしか能がなく、
かつて永遠の相を帯びていたあらゆる耐久財は、「労働‐消費」の刹那性の陥穽へと落ち込む。
ハンナ・アレントが『人間の条件』の中で語った「労働」「仕事」「行為」の分類も、総労働化し、
「仕事」の美学も文化性も、「行為」の政治性・公共性も、労働的なものとして消費される。
そしてそのような状況で語られる、「労働の尊厳」だとか「労働は生きる意味」という観念は、
資本主義的だろうと社会主義的だろうと、現代の奴隷制を支えるイデオロギーでしかない。


「労働の尊厳」は、資本主義という労働社会を確立するための物質的力を発揮した。ウェーバーが言うように、「労働の非人間性・無意味性」を隠すためには「尊厳」という宗教的光明をさえ必要とした。資本家も労働者も同じイデオロギーに浸されることで資本主義的労働社会が成立する。そのイデオロギーが単なる空虚な観念でなく生産力の上昇に貢献したことは確かであるが、そのことと労働の不自由性=奴隷性とは別のことである。現代でも、カピタリストとソシアリストとを問わず、「労働の尊厳」を強調することが根強く生きのびているが、俗耳に入りやすいがゆえに、この労働イデオロギーは全般的労働奴隷性を強要することに貢献してしまう。現代の社会思想の根本問題の一つは、労働が根本的に奴隷的であることを直視し、それを美化する労働表象をできるかぎり解体することである。(p.194)


この話が具体的に、リアルに問題になるのは、恐らくベーシックインカム論の中でだろう。
政治家や批評家の中には、ベーシックインカムに肯定的な人が相当数いるように思われるが、
そこで「労働の尊厳」や「労働者の連帯」や「労働意欲の後退」という言葉をよく耳にする。
今後、ベーシックインカムが社会的な議論になるとすれば、そこで考えておくべきなのは、
「労働そのものに価値がある」的な意見の具体性・公共性、「労働」の意味ではなかろうか。
ここまでの論旨から言えば、そんなもん無えよ、というのが私の言いたいことなのではあるが。

今村仁司のこの本のタイトルは、『労働』ではなく『仕事』である。
この本は総労働化した社会を、「労働の仕事化」へと繋ぐ形で結ばれている。
この「仕事」とは、アレント的な「仕事」だろうが、簡潔に書かれすぎてて不明瞭だ。
ともあれ、「労働は人間的本質である」という観念を解体し、人間をより自由にするために、
ベーシックインカムという制度が、「労働の仕事化」に協力できることはあるかもしれない。
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2010年02月14日

『福祉と正義』

アマルティア・セン、後藤玲子 『福祉と正義』 (東京大学出版会)
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アマルティア・センの論文と、センの研究領域内で語られる後藤玲子の論文からなる一冊。
ロールズ批判から日本の生活保護への進言、カントの不完全義務、世代間の公共性問題など、
内容が主軸もないままに理論から応用、さらに別の理論へと拡散しており、とっつき難い。
それでもあえて一言で言えば、「開かれた政治・開かれた社会」についての本だと言える。
『グーテンベルクからグーグルへ』が、文献学の開かれた制度設計に関する本だったように、
この本は、政治や社会という制度を、開かれたものとして設計する筋道について考えている。


センが専攻とする社会的選択理論は、革命的な経済学者ケネス・アローが発展させた理論で、
ざっくりとその業績を説明すれば、「理想的な投票制度は無い」ということを明らかにした。
政策決定は、民主的でありつつ、個々人の多様な選好を集計して合理化することができない。
センの社会的選択理論における功績は、アローのこの不可能性定理を継承・発展させつつ、
アローも前提としていた近代経済学そのものへの批判、検討可能性を示した点にある。

そのセンの業績の、主要なものを解説すれば、近代経済学のタームである効用(utility)から、
福祉(well-being)への転換、その福祉を保障する潜在能力(capability)という概念を設定、
これによってより客観的(と言うより脱自己中心的)な評価、そして公共的な討議を可能とし、
人々の社会性や主体性を同時に尊重してみせる、という筋道を理屈の上で立てた点にある。

補足すれば、潜在能力とは、経済・学校・医療制度等によって社会的に保障される個人の能力で、
それらの(法的・道徳的)制度に不備があったり、そもそも公共的に認知されていないならば、
社会は、あるいは国際社会は、福祉の観点から何らかの対応を迫られるし、迫られるべきである。
そして何が保障されるべきか、誰が保障されるべきか、それを制度化する義務を誰が負うべきか、
誰の自由が実現され、誰の自由が制約されるのか、誰がそれらを決定するのかという問いがある。
それら困難な問題は、公共的理性に基づいて討議し、精査、識別されるべきであると考えられる。
「開かれた政治・開かれた社会」はこの場面において要請される。要するに、みんなで決めよう、
という小学校の学級会レベルの話を、全身全霊で――個々人の自由に配慮し、合理的であり、
民主的であり、なるだけ最善の決定であり、その「最善」とは何かについても思慮深くあり、
アローが示した公共的投票の限界を存知しつつ、「みんな」の範囲を不当に制限しないように、
そしてそのときに言う「不当」とは何かも考えつつ――やっているようなものと言えなくも無い。


これらのことを投票だけに押し付けるのが、そもそも無茶振りとも言える話なのであって、
現代の民主主義を、投票のような単一の制度的特徴へと還元すること自体が不穏だと言える。
民主主義において熟慮されるべきなのは熟慮そのものであり、道徳哲学や政治哲学が希求する、
公正としての正義は、開かれた制度設計に関する視線なくしては語ることなどできないのだ。
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2010年02月13日

『30年代の危機と哲学』

M・ハイデッガー他 『30年代の危機と哲学』 (清水多吉・手川誠士郎 編訳 平凡社ライブラリー)
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近代化したヨーロッパが、世界大戦やら資本主義の矛盾を経て、1930年にまで至った頃、
その近代を支えている、ヨーロッパが生み、培ったはずの客観主義・自然主義・自然科学が、
実はヨーロッパを、その大学を、精神を、民族を、文明を、危機に陥れているんじゃないか?
と、ドイツの知の巨人達(フッサール、ハイデッガー、ホルクハイマー)が主張したって内容。
もっとみんな本気で哲学を学ぼうぜ、人間について考えようぜ、という愚痴っぽい話でもある。


「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と、
カントの墓には刻まれてあるらしいが、フッサール達哲学者の危機感の根本は何かと言うと、
この前者の、天体の動きのような客観的合理性が、後者の道徳法則を飲み込むという自覚にある。
この「内なる合理性」の危機、人間精神の危機が、即ちヨーロッパの危機として認識されている。
科学至上主義は我が上なる星空だけでなく、我が内なる道徳法則にすら影を落とそうとしている。
そんな「外面化」された合理性にしゃしゃり出て来られると、ヨーロッパが衰亡するだろうよ、
人間や文明をそんな視点で語られたらたまったもんじゃないよね、と、まぁ、そういう認識だ。
訳者の一人の手川誠士郎が、とても勉強になる「あとがきにかえて」の中で述べているように、
「学問の危機とは現実を離れて存する純粋理論がそれ自体で超越論的に機能するところにある。」
この言葉自体は、科学至上主義だけではなく、フッサールの純粋理論にも向けられた言葉だけど、
この躓きの石の上に、アドルノやハーバーマス達の次世代はポストモダンの言説を築き上げる。
だからこの本の内容自体は、ポストモダンが繁茂するための苗床のようなものだったのだろう。


話はやや変わるけど、「西洋」「近代」「学問」「哲学」「古典」というこれらの言葉は、
私達日本人が思っている以上に、密接に絡み合い、分けて考えられない概念のようで、
近代の危機、なんてものは今の日本にもある話なんだけど、だからって哲学とか古典とか、
その類の学問がクローズアップされることは余り無い。新書が売れる程度でしか、無い。
近代を耐え抜き、近代人を鍛錬する「古典」、そんな発想がデフォルトな西洋が羨ましい。
日本の文系学問が軽視されてるのは、この種の発想が欠けてるからでもあるのだろうなぁ。
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2010年01月23日

『偶像崇拝』

M・ハルバータル、A・マルガリート 『偶像崇拝』(大平章 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「その禁止のメカニズム」とある。
タルムードやミドラッシュ(旧約聖書についての古代ユダヤ人の残した注釈)、
カバラ思想、マイモニデスなどのユダヤの哲学者達の書き残した言葉を手がかりとして、
微に入り細に入り、ユダヤ教の偶像崇拝のメンタリティを解き明かそうとしている。


偶像崇拝の問題は、神を表象できるか、代理できるか、みたいな形而上学的なものではなく、
もっとシンプルな道徳の問題、具体的には夫を裏切って浮気する妻の姦淫の問題である。
イスラエルは神に選ばれ、その神との間に婚姻関係(契約)を結んだ妻としてイメージされる。
エジプトからの脱出は結婚物語の一部として語られ、関係は一夫一婦制の模範として描かれる。
そのイスラエルが、ワケの分からないバールだとかを崇拝するとき、それは性的な罪となり、
夫以外の男(それは夫よりも下らない男に違いない)への売春、色目という隠喩で語られる。
そして姦淫が禁止されるのと同じように、偶像崇拝は――何より性道徳的に――禁止される。


ここまではまだ分かり易い話なのだけど、例えばこの神とイスラエルの夫婦関係という隠喩、
それ自体が神を人として扱っているから、それだって偶像と言えるんじゃねえのかおいコラ、
という議論だってあり得るし、言葉で「神」とか言うのは偶像(表象代理)じゃないのかとか、
言葉で「神の手」と言うのはいいとしても、像や絵で神の手を形作るのが駄目なのは何故かとか、
契約の函やケルビム(天使)が、神の換喩として用いられているけどそれはいいのか、とか、
異神を崇拝するのは姦淫でいいけど、正しい神を間違った仕方で崇拝するのはどうなのかとか、
そういえばエジプトの王は当時は神扱いだから、それとの政治的な絡みで偶像崇拝を語れるし、
ローマの支配下に置かれた際、ユダヤ人がローマ皇帝に税金を支払うのは、異教徒の偶像に、
供え物をするのと同じじゃないのか、それも偶像崇拝に該当するんじゃないの? とか等々、
そういう偶像崇拝に関する議論、解釈の歴史的な流れが延々と、引用豊富に解説されている。

信仰心の薄い人間からすれば、こいつらまぁ長年に渡ってよくやるわ、と思う以外に他ない。
この本のまとめを乱暴に、一言で言えば「偶像崇拝は魔術で私的で非絶対的価値の信仰」だ。
つまりその具体的な内容は、軽薄には語れない。それは肩透かしだが実に正当な結論でもある。
あと、こんな具合に書けば如何にも普遍的に読めるけど、ユダヤ教自体のそれはそうでもない。
繰り返すけど、偶像崇拝の禁止は、神に選ばれたと自称する妻としてのイスラエルの道徳で、
そもそもからして、特定の共同体、その生活に深く根を下ろしている類のメカニズムなのだ。


(ちなみに、上の方で神が人の形なのはどうなの、みたいなことについて少し触れたけれど、
全能の神を人の形としてイメージすることは、昨日触れた汎神論者のスピノザが全否定し、
イェヘズケル・カウフマンという有名が学者が肯定したことだった。カウフマンにしてみれば、
神を抽象的なものとして考え、そこから個性・意志を抜き取ることは異教的な考え方だった。
スピノザにしてみれば、抽象的な神概念は聖書の語るモノでは全くなく、哲学の領分であり、
イスラエルの信仰は民衆のための信仰で、抽象的・観念的・エリート的なモノでは無かった、
というその点で、カウフマンもスピノザも一致している。スピノザは異教徒にされ易い。)
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2010年01月22日

スピノザの『神学・政治論』

スピノザ 『神学・政治論(上)(下)』(畠中尚志 訳 岩波文庫)


スピノザは、幾何学のような正確さで神の存在を証明したと思った17世紀オランダの哲学者。
神は永遠で絶対だから形なんかねえよ、だって形があるってことは有限ってことじゃん、
だから旧約聖書で神様の姿が描写されてるあれは違うんだよ、神即自然なんだよ、な?
とかなんとか言ったから、当時の神学者や世間一般からフルボッコに叩かれたKYな人。
しかも、哲学者として味方をしてくれると思ったデカルト主義者からもフルボッコで、
無神論者とかレッテルを貼られて罵倒され、いったいどうなってるんダ・ヴィンチ、な人。


西洋にはキリスト教と哲学の二本の柱があって、この二つはお互いに微妙な関係にある。
詳細は省くけど、哲学の懐疑とキリスト教の信仰は、そもそもからして相反しており、
しかもそれでいてどちらも真理を語ろうとする、そんな中で西洋の歴史は紡がれてきた。
巻頭の訳者解説や、上野修『スピノザ』(NHK出版)がとても詳細に説明しているけれど、
スピノザがこの本でやろうとしたことは、哲学と信仰の分離、役割分担の取り決めであり、
市民社会を閉じた神学者の信仰、知見から解き放とうとする政治的な試みでもあった。

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聖書の中に神という言葉があるけれど、それを哲学的な神と解釈するからおかしなことになる。
そこに書かれてある神は、預言者達の知的レベルによって表象された、真理ではないものの、
とても有意義な何らかのイメージである、そういう論旨でスピノザは話をグイグイと進める。
スピノザは聖書や神学を神への服従や隣人愛の物語と考え、真理は哲学の領分だと考えている。

例えばスピノザは、聖書で「神」という単語が強調の意味で使われてることを主張する。


かくの如く、常ならぬ自然の業が神の業と呼ばれ、常ならぬ大いさの木が神の木と呼ばれるのであつて見れば、創世記の中に於て、極めて強い極めて大きな人間たちが、それが不信心な盗人であり姦淫者であるに拘はらず神の子と呼ばれてゐるのも少しも不思議でなくなる。古人は凡そ人が依つて以て他の人々を凌駕する所以のものを何でも神に関係せしめるのが習ひであり、これはひとりユダヤ人に止まらず異教徒たちもさうであつた。例へば(略)ローマ人に在つてさへもかうしたことが極めて普通に行はれた。例へば精巧に作られた品がある場合、それを彼らは神の如き手に依つて作られたといふやうな表現をする。これを若しヘブライ語に直さうとすれば、「神の手もて作られた」と言はねばならぬ。(上巻 p.77)


昔のローマ人も「神パピルスwwwwwww」とか「神職人ktkr」とか言ってたと思うと感慨深いが、
スピノザにとって聖書とは真理の書ではなく、このような比喩と謎のイメージの群であった。
彼はそういう史的物語として聖書を高く評価する。民衆の理解力に沿う、経験的なものとして、
人々に服従と敬神を教示するという点で、聖書を、言わば社会的、福利厚生的に評価する。
ただしだからと言って、聖書そのものへの信憑性が、人間を幸福にするワケでは全くないし、
そこに書かれてある諸々の奇跡が、現実に起こったことであるなんてことは絶対に認めない。
認めないが、その意義は認めているわけで、ここら辺のスピノザのバランス感覚は絶妙だ。
神の正確な知識なんて信仰には不要だし、神を誤認してもそれは冒涜じゃないとすら彼は言う。


だから神が(略)自らを預言者たちの表象像や先入的意見に適応させたことも、又信心深い人々が神について色々違つた意見を抱いたことも、少しも不思議ではないのである。更に又聖書の諸巻が至るところ神について極めて不適当な語り方をし、神に手、足、目、耳、精神、場所的運動等を帰し、その上又心の激情(嫉妬、慈悲等々の)を帰し、最後に又神をばキリストを右にして天の玉座に坐つてゐる裁き主として描いてゐるのも不思議ではない。聖書の諸巻はつまり民衆の把握力に応じて語つてゐるのであり、聖書は民衆を学者にしようとしてゐるのではなくただ、従順な者にしようとしてゐるのである。然るに世上一般の神学者たちは、神に帰せられたさうした諸性質が神の本性と矛盾することを自然的光明に依つて知つてそれをすべて比喩的に解釈しようとつとめ、之に反して、彼らの把握力を越える事柄は之を文字通りに受け入れようと力めて来た。だが若し聖書の中に見出されるこの種の事柄が皆比喩的に解釈され・理解されねばならぬとしたら、聖書は大衆乃至無教養な民衆のためにではなくて単に識者たちのために、殊に哲学者たちの為に書かれたことになるであらう。(下巻 p.125〜126)


スピノザの神はスゴイので外部なんか無い。だから自分の外部を見るための目なんか無い。
また、自身が全ての中心なので、感情なんてワケの分からないモノにも振り回されない。
そして聖書の神は、預言者達にそんな事情は教えていないし、語ることを求めてもいない。
聖書の神が求めているのは、神への愛だとか、服従だとか、隣人愛だとかの生活方式であって、
それさえ個々人に備わっていれば、聖書解釈なんて勝手気侭でいいとすらスピノザは語る。


こうしてスピノザの語る哲学・真理は、神学が吐き出すドグマから巧妙に分離され、
さらに返す刀で、民衆の信仰を、哲学的で無意味な論争からも解き放つ筋道をつけた。
『神学・政治論』はさらに、聖書や歴史を絡めて国家論へと話が進んでいくのだけど、
そこら辺はもう私の手には負えない。固有名詞とヘブライ人の歴史がワケわからん。

スピノザの聖書解釈はスタンダードでは無いけれど、画期的で革新的で、何よりも面白い。
当時のキリスト教会からすればKYな奴だったのだろうけど、実はイイ奴だったのは読めば分かる。
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2009年11月27日

『知識・信仰・懐疑』

カール・レーヴィット 『知識・信仰・懐疑』(川原栄峰 訳 岩波書店)


ヨーロッパの精神には互いに矛盾する二つの源流、ギリシャとイスラエルがある。
前者は西洋哲学、後者はキリスト教をしてヨーロッパ精神を支える柱となったけれど、
学問たる哲学と、宗教たるキリスト教との間には、越えがたい深い断絶がある。
断絶があるけど繋がってて、繋がってないという意味で繋がってるとも言えるよね、
まぁ、そこら辺が西洋哲学の分かり難いところかもね、という入門書的な一冊。


懐疑的に哲学するとは求めること、問いつつ探求することをとおして可能な答えの周囲を回ることをいうのであって、啓示された真理を確信することではない。キリスト教的思惟とは信仰を基礎にして考えることであるが、ほんとうに信じている人はけっきょくもはや求めることをしない。その人は神の言葉と神の語りかけとの中に自分を自由にし救済してくれる真理を見いだしているのである。もちろんその人とて、この真理をくりかえし新たに信じなければならないのではあるが。信仰がはじまるところでは、ソクラテス的懐疑的な意味で哲学することはやむ。真理を見いだしてしまえば、探求的な懐疑の求めるというはたらきはやむからである。(P.48)


古代の哲学は懐疑を旨とし、エピステーメーとドクサ、哲学者とソフィストを区別する。
そこで人が本当に哲学的に考えるのなら、聖書に書かれてあることは真理と断定できない。
聖書の神はいるともいないとも言えないし、それ故に絶対視・特別視することもできない。
が、つい最近まで、ヨーロッパの多くの哲学者は、当たり前のようにキリスト教徒でもあった。
無論それは彼らの思想が短慮であったり、キリスト教徒としてインチキであったことを意味しない。
単純に言って、彼らは、キリスト教の教義だけが、人間や世界の摂理の本質に迫っていると、
そう確信していただけの話で、信仰と懐疑の間に横たわる矛盾と格闘しなかったワケでは無い。

アウグスティヌスは真実を求めて哲学の門をくぐり、幻滅して門を出た後に信仰の徒となった。
彼は「私が信じているから神は存在しており、神が存在しているから私はそれを信じる」的な、
この循環的な信仰の基礎付けの存在をはっきりと認めつつ、信仰の知について熱く語っている。

パスカルは数学的な知見を有する物理学者であり、哲学者であり、キリスト教徒でもあった。
彼は『パンセ』の中で、人が本当に理性的なら、理性で掴みきれないことが多々あるのだから、
人は理性を捨てなければ理性的とは言えないと述べ、懐疑の限界と信仰の知を語っている。

キルケゴールは自身を「キリスト教的ソクラテス」と自称し、懐疑と信仰を絶望で繋いだ。
(ちなみにレーヴィットは、「キリスト教的哲学」とかマジであり得ないと述べている。)
キルケゴールの懐疑は古代哲学の懐疑ではなく、キリスト教的、実存的な懐疑なのだけど、
均等化される西洋に抵抗し、一般性を廃する「単独者」として、知を脇にそっと置き、
普遍性と似ているようでその実は全く異なる永遠性、啓示としての真理について思索した。

他にもカントは、哲学の懐疑論と宗教の独断論の中間に活路を見出し、哲学的に処理したし、
ヘーゲルは知識と信仰を、絶対者の中では同一だと言うことで、その対立を弁証法的に解消した。
そして無神論者であるはずのあのサルトルですら、その実存主義はキリスト教的だと言える。
サルトルは、その哲学を実存と共に始めたが、それはキリスト教的な神学から出た考え方である。
ギリシャにおいて実存は自明のことであり、神については主にその本質が問われていたが、
キリスト教は、創造物は神の意志によって無から生み出されたと語り、それに驚愕してみせた。
そして16〜17世紀の天文学などの進展により、創造物の世界と人間との関係が素っ気なくなり、
人間は意味も無くこの宇宙の片隅に放り出された、というような偶然性の経験を経たワケだが、
サルトルの実存主義は、その西洋の経験に答えるかたちで、かつての神の創造説を差し引き、
神の代替として実存を担保にして、決断主義的に、そして効果的に、哲学的なことを語る。
サルトルの発想そのものはトマス・アクィナスと結構似ていると、そうレーヴィットは述べている。


このような良質な本が昭和34年に翻訳され、200円で売られていたことに感動する。
レーヴィットの本は復刊するなりして、もっと手に入りやすくなればイイと思います。
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2009年11月21日

『近代の再構築』

J・A・トーマス『近代の再構築』(杉田米行 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「日本政治イデオロギーにおける自然の概念」とある。

丸山眞男によれば、日本の政治は自然に依存する道を選んだため、主体的になれずにいる。
明治以降の政府や知識人達は、決定論的な自然の権威や威光をしばしば利用し、思想化した。
一般的に、近代とは脱自然化した状態であり、自然は近代の背後に押しやられた存在と考える。
つまり自然とは反近代であり、デカルト的な人間モデルを用いるのなら、それは野蛮であり、
人間の自由を抑圧する何かであり、過去であり、東洋であり、要するにアンチ人間的である。

丸山眞男は故に、日本は西洋みたいに近代化してないよね、残念だよね、みたいなことを言うが、
西洋が培ってきた近代/自然の関係だけが近代の形態ではないよ、近代の形態は幾つかあって、
その中でイデオロギー的な自然の取り扱い方も自ずと異なってくるよ、というのが本書の内容。

もっとざっくりと言うと、明治以降、日本の政府や知識人達は、近代化に着手する中で、
近代化の不和とも取り組むことになったんだけど、その不和に対応するために、つまり、
真の近代国家にならんとするがために、自然に依存する道を辿ったんだよ、という話。
丸山眞男は日本の近代化に不満があったかもしれないが、あれはあれで(これはこれで)、
キチンとした近代化のプロセスだったと言えるんじゃないかなぁ、そもそも丸山先生は、
明治期以降のイデオロギー的な自然概念を毛嫌いし過ぎてるよね、という挑発でもある。


自然という言葉自体は明治期以前からあったけれども、西洋文化を翻訳・摂取する中で、
それは政治行動の絶対的な規範、混沌とした時代の中でも信頼できるツールと見做された。
しかしその中身は曖昧であり、知識人達は、その政治概念としての潜在力を模索することとなる。
自然は、旧幕府、新政府、民権派にとって、新時代を語るのに具合がいい言葉に思えたが、
それ故に、自然という概念を巡って、明治期初期に激しい論争が繰り広げられることとなる。

明治時代前半の頃は、ハーバート・スペンサーの社会的ダーウィニズムが隆盛を極めており、
「一八七七年から九〇年の間に日本ではスペンサーの著作は少なくとも三二回翻訳され」ていた。
初期のスペンサーは、人間が進化すれば、個人がお互いの利益を犯さずに完璧に共存できるし、
究極的には政府なんて不要になるし、世の中が均衡状態になって安定するよマジで、と言う。
明治初期の自然論争の担い手とされた加藤弘之と馬場辰猪は、このスペンサーに精通していた。
加藤は(反体制派・民権派から転向し、)寡頭制を支持し、エリートや政府のために発言した。
自然の目的と人間の目的は必ずしも一致しないので、エリートが操縦桿を握るべきだと彼は言う。
自然の用意したユートピアと、人間の望むものは違うため、加藤はエリートの寡頭制を肯定する。
一方の馬場は、逆に、自然の進化、その帰結としての民主化、そして安定化を疑わなかった。

どちらにしても、彼らの論点は自然、しかも社会ダーウィニスト達の言う「自然」であったが、
「彼らの論には、『人間』という言葉はあっても『国家』という言葉はなく、『世界』という言葉はあっても『政府』という言葉はない」ために、明治政府はむしろ自然概念について語ることを避けていた。
大日本帝国憲法や教育勅語には、自然についての言及、自然の権威を借りる表現は一切無い。
スペンサーのユートピア的なイデオロギーは、明治以降の政府・官僚のお気に召さなかったし、
全く均衡していない当時の西洋列強の立ち振る舞いは、楽観主義そのものに疑義を差し挟んだ。
要するに、スペンサーの思想には実用性もなければ説得力も無いと、そう判断されたワケで、
明治末になると、借り物の、普遍性を装う自然概念を、日本文化に内在化する試みがなされる。
西洋的普遍性を映し出す鏡だった自然は、日本人のアイデンティティを映す鏡へと姿を変えた。
日本人と自然との関係、日本人の感性を表現するものとしての自然は、この時期に再発見され、
愛国心や国民性、天皇や家族観との接合、自然概念の中央集権化(地方の風土の軽視、抹消)、
土地資源利用の官僚主義化、つまり近代的な自然観が形成され、そして一部は今にまで至る。


以上から、丸山眞男が言うように、日本の政治と自然の関係は伝統的な宿痾とは言えないし、
日本の自然概念は、前近代的な装いのものでもない。むしろそれは20世紀の産物ですらある。
「自然とは過去の遺物ではなく、根本的に再構築した考えの連続」(p.305)だと作者は言う。
世界遺産やら、環境問題やら、地方自治体の既得権やらが蔓延る21世紀日本の自然概念も、
伝統や普遍性、地域性、ツーリズムを語る言葉の中でゆっくりと生成変化していくに違いない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

メディアと時代のスピード

SMAPの草なぎ剛が、最近やたらと雑誌の表紙に登場していて、
あの全裸事件はもう完全に過ぎ去ったことになってるらしい。
地デジのキャラクター、というか大使にも復帰したらしいし。

新聞やTVに限らず、メディアは国民に情報を提供する役割を担っており、
現代の問題点を表象し、その時代の時代性を知らしめるためにありそうなもんだけど、
表象するスピードが速すぎて、逆に歴史と言うものが失せている気もする。

先週のニュースが今週のニュースで押し流され、昨日のニュースが今日のニュースに、
今朝のニュースが夜のニュースで押し流されてしまうような表象の速度の中で、
情報の受容者が、そのスピードから果たして何を得ているかと言えば心もとない。
実際の所、手許に残っているのは個々の事件ではなく、それらの断片ですらなく、
事件が重なり合い、猛烈な速度で過ぎていったそのスピード感だけではないのか。
情報の量こそが目に見える時代の速さだとすれば、ネットもその流れの加速に加担し、
ノイズもいや増し、参照点となり、寄って立つべき時代性は一段とかき消されている。


われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物となってしまったことを考えてみるだけでいい。ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的体験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことにある、と言いたくもなるだろう。このように、メディアの情報機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。
(室井尚 「「歴史」は誰のためにあるのか?」 「現代思想」1986 11 p.97)


と言ったのは1983年の時点でのフレドリック・ジェームソンという哲学者だが、
当時以上に現在は、過去も現在も未来もフラットに流れ去り、忘れ去られている。
忘却こそがメディアの役目というのなら、草なぎ剛の事件の一連の表象具合は、
なるほどメディアの役割が忠実に果たされた結果であると言えなくも無いし、
それを恒久的な変化(アイドル→容疑者→アイドル)と呼ぶならそうなのだろう。

歴史はもはや意味を成さない。現代のスピードの中でその首はへし折れて消えている。
現代人にとって歴史とは、人生の縦糸でもなければ横糸でもない。なんでもない。
草なぎ剛が生まれ変わったとされるスピードよりも、現代の変化するスピードは速く、
私達はそんな新しい時代に対応するため、即座に健忘症になって情報を更新する。
歴史とは最初から喪失された記憶、忘れたままの記録、鏡に漠然と映る像なのだ。

ノルベルト・ボルツは『意味に餓える社会』の中でこんなことを書いている。


われわれは、満たされた時間のもろもろの意味素形なしに――歴史の目標も終点もなしに、救済も進歩もなしに、伝統という指導像なしに、経験という基礎も由来という支えもなしに――やっていくことを学ばなければならないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 23:26| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

パレスチナ、下顎、耐えるということ

大阪の団体、村上春樹さんに「エルサレム賞」辞退求める
2009年2月10日(火)20:38



村上春樹の受賞とは全然関係のないことを書いてます。


アウシュビッツ(それにベトナム)の後で詩を書くことは野蛮らしいが、
現在進行形でフルボッコなパレスチナの中、そのパレスチナと同居する世界の中で、
小説を書いたり、それを読んだり、賞をあげたりすることも野蛮なのだろうか。

「現実的なものは理性的である」という虚言が虚言として退けられ、
目の前の世界を美しいものとして肯定することも困難になって久しい。
原始時代のような「サバイバル」が、文明の中で当然視されたとき、
文明は野蛮と、モダンは原始時代と肩を並べている事実に直面する。
作家でなくとも、その程度のことは中学生でも薄々分かっていることだが。


大学にいた頃、テレビで見たパレスチナの初老の詩人は、
自分達の住む町のことを「上顎の無い頭蓋骨」だと詩に書いた。
テレビカメラは詩人を映し、黄ばみ、角が削げ落ちた建物が点々と佇立する町を、
恐らく丘の上からパンで撮影していたが、その町並みは如何にも下顎に見えた。
とっくの昔に白骨化して、人知れず1000年ほど経過した老人の顎の骨に見えた。

パレスチナには下顎しかない、という語りには喪失感がつきまとって離れない。
そこに主要部分は無く、その空いたスペースには青空が詰め込まれている。
目も鼻耳も失って、頭蓋骨は世の理不尽に奥歯を噛んで耐えることも出来ない。
奥歯を噛みしめる、というのは、耐えるという受動的な行為の中の能動性で、
それならば弁証法的な契機もあるのかもしれないが、パレスチナにその契機は無い。
彼らが世の理不尽に耐えているように見えるのは、「天井のない檻」の名に相応しく、
他に行く場所がないからにすぎない。それは「耐えている」と呼ぶのも憚られる。


その空虚さを埋めるのは食べ物ではなく、文学なのだ、と言ってみるのもいいし、
戦地でベケットを演じてみたり、名作をアフリカに届けてみたりするのもいいけど、
ここで語られている文学なるものは、パレスチナに広がる青空みたいなもので、
要するに上顎の代替物にはならないし、青空は足りているのだから余計ですらある。
そもそも、そんないい加減なことを大言壮語する奴を信用するのはとても難しい。
演劇や文学を不毛の地に持ち込む態度、「芸術は素晴らしいYO!」という態度、
世界に生じつつある現実を「それでもなお!」とか言いながら肯定する態度、
そのような、富める芸術家・文学者達の心理は、端的に言って鼻につく。
「それでも頑張って生きていこう」的なことを歌うJ-POPくらい鼻につく。

詩や文学が、もはや易々と現実的なものを肯定したりできなくなったとしても、
取り巻く状況について言及すること自体は、まだ無効化されてはいないだろう。
そもそも、町を下顎に喩えたあの詩を、アドルノは野蛮だとは考えないだろう。
詩人が町には上顎が無いと語ることで、うっすらと見えてくるパレスチナがある。
アドルノが問うたのは、そのような欠如した、肯定できそうにない現実であり、
白リン弾やらテロリズムを語る新聞の、その散文では届かない現実だったはずだ。
そのような状況を知るということ、言葉で把握し、たまに思い出すと言うこと、
そういうのはある種の、文学的な知恵であり、知恵であるなら力でもあるだろう。
肯定することも耐えることもできない理不尽な現状を、詩を通じて把握することで、
そこに初めて能動的な力が生じるかもしれない。ほとんど戯言のような話だが。
posted by 手の鳴る方へ at 08:39| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

ホッブズの『市民論』

トマス・ホッブズ 『市民論』(本田裕志 訳 京都大学学術出版会)
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次期アメリカ大統領は、今までのユニラテラリズムの反省から国際協調路線を取るらしい。
軍事力とドルのハイパーパワーを背景に、自分達好みの理念を世界中に撒き散らしていた、
あの無邪気な盟主アメリカは、子ブッシュともども過去の一ページになるような気配で。

9.11以降のアメリカで主導権を握っていた(もはや死語だが)ネオ・コンサバティヴの源流には、
レオ・シュトラウスという学者がいて、シュトラウスの源流にはホッブズとシュミットがいた。
強い、ホッブズ的なイデオロギーが、ブッシュと一緒に歴史の舞台から一旦退くこの端境期に、
今まで翻訳の無かった『市民論』が出版ということで、紹介する意味はあると思うのです。


人間は秩序の中でしか生きることができない。法は尊重され、人々を好き勝手にさせてはならない。
人間には確固とした基盤、ユラユラと揺れたりしない、安定した社会が必要不可欠なのだ。
ホッブズは社会契約論者で、契約以前の自然状態は「万人の万人に対する闘争」である。
そんな中では人間はまともに生きていけない。故に彼は秩序が必要であることを強調する。
自然状態は「弱肉強食」よりも性質の悪い状況で、弱肉強食なら強い奴が常に勝つワケだけど、
強い奴だって別に無敵なワケではなく、寝込みを襲われ、権謀術数で殺されたりすることもある。
故にそこに上下関係は生じない。シマウマがライオンを殺すことだってあり得るような状況だ。
ホッブズによれば、自然状態では、誰もが殺し、殺され得るという理由で、人類はみな平等なのだ。


ところで、あなたの目の前に天秤と分銅が用意され、「この天秤を安定させろ」と言われたら、
多くの人は左右の皿に同じ重さの分銅を乗せるだろう。それで天秤の左右は釣り合うからだ。
しかしホッブズはそうしないかもしれない。彼は片方の皿に全ての分銅を乗せるかもしれない。
皿は片方に大きく傾いているものの、他の天秤とは異なり、多少の振動や風では微動だにしない。
ユラユラ動く他の天秤を横目に、ホッブズは「皆の天秤は安定していない」と言うかもしれない。

ホッブズは議会民主制や貴族制を軽視することは無かったが、群を抜いて王政を支持していた。
王は議会のような集合体ではなく、一人である。この最高権力者が、多数派の権利のために、
社会秩序にとって必要なこと全てを決定し、権威でもって意見の対立、論争に終止符を打つ。


最高命令権の特徴は、法を制定したり廃止したりすること、戦争と平和を決定すること、あらゆる争論を自分自身で、もしくは自分が定めた裁判官を通じて取り調べ、そして判決すること、あらゆる高級官吏・顧問官を選任すること、これらのことである。(p.150)


ついでに言えば、聖書をどう解釈するかの解釈権も、この王の権威の下に委ねられている。


ホッブズによれば、善悪・正不正・徳不徳の判断を個人に委ねることは秩序にとって致命的である。
ある人が「善」と判断したものを、他の人が「悪」と判断した場合、そこに不和は避けられない。
ましてや王がある事例に対してAと判断し、その旨を社会全体へ公布したにもかかわらず、
個人が勝手に自分の判断でBと判断し、規範とするとなれば、彼は秩序の敵と判断されるだろう。
善悪や正不正は市民法の問題であり、市民法は自然法とは異なり社会秩序の内にしかあり得ない。
個人にすれば「AではなくてBが真理なのではないだろうか」と思うくらい良さそうなものだが、
正しさの基準がそもそも最高権力者である王や議会にある場合、その問い自体が無意味なのだ。

ルソーならここで「一般意志」というワケのわからないフレーズが出てくるのであろうが、
ホッブズの語る人間達には、そんな予定調和的で、超越的な一致点は存在する余地がない。
ホッブズの語る社会の構成員は本質的にバラバラであり、群集(multitudo)であり、
そのバラバラな連中を鋲止めするために、王や議会の権威が原暴力として用意されている。
ホッブズ的臣民は、一般意思的な真理にではなく、権威に集い、権威の作る法に従っている。

色々な意見を認め、様々な党派を認めるような社会秩序がホッブズには我慢ならないようだ。
ましてや手前勝手な聖書解釈や自称預言者、教会に従わない異教徒、無神論者など論外だ。
多様性とは危ういバランスで安定を保っている、両皿に分銅の乗ったあの天秤のようなものだ。
それは相対的で、如何にも寛容な社会だが、妬みや野心でいつバランスを崩してもおかしくない。
社会秩序が崩れ、合一が砕かれると、人間にとって最悪なあの自然状態が首を擡げるだろう。
それは絶対に避けなければならない。ホッブズの立場は、「私は混乱よりも不正を選ぶ」と語った、
ゲーテのあの立場に近いように思われる。少し前のアメリカもそんな感じではなかっただろうか?

と言うか、全ての社会秩序が不正、隠匿された暴力で成立しているとすれば、
ホッブズやネオコンの立場は可視化されているだけまだ誠実なのかもしれなくて、
国際協調主義の名の下に、結局は今まで通りグローバル社会を管理するとなれば、
単に戦略が変わっただけで、状況はさほど変わっていないのではないだろうか?
ブッシュからの解放で、世界はどの程度、寛容になれるのだろうか。よくわからない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:08| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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