2008年11月10日

『学問とわれわれの時代の運命』

カール・レーヴィット 『学問とわれわれの時代の運命』 (上村忠男・山之内靖 訳 未来社)

カール・レーヴィットは20世紀のドイツの哲学教授。
哲学者と言うよりも、偉大な哲学教授と紹介するのが相応しいと思う。
この本には晩年に書かれた、ヴィーコとウェーバーに関する論文二本が掲載。
それらを一言で言い表すのはなかなか難しいが、例えば。


「文化とは、――とヴェーバーは定義する――世界に生起するできごとの無意味な無限のうち、人間の見地から意味と意義とを付与された有限の一切断部分である」と。これとまったく同じ立場のとり方はディルタイにおいても見出される。かれがつぎのように言うときにである、すなわち、「われわれは世界から生のなかになんらの意味をも運び込んではいない。意味と意義とは人間および人間の歴史のなかで初めて成立するのだという可能性にわれわれは開かれている」とである。この二つの文章には、暗にこういうこと、すなわち、自然の世界は理性を備えた人間の所産ではないのであるから宇宙や自然にはロゴスはないのに対し、すべての文化は人間によって人間のために作られたものであり、それゆえにただわれわれにとってのみ意義ある制作物である、ということが述べられている。(p.104)


再評価はされているのものの、未だにマイナーな哲学者のヴィーコの基礎命題は、
「真なるものはすなわち作られたものである」(verum ipsum factum)というもので、
この命題を前提に考えると、人間が作っていない自然には、真なるものは存在し得ない。
つまり自然科学は成立しない、と、そう言っているのではなくて、生のままの自然ではなく、
計量・実験の中で自然を人間化(機械化)した上で、仮にそこから何か成果が生じたとすれば、
それは自然ではなくて、ウェーバーの定義する意味での文化(西洋文化)であるということ。

ヴィーコによれば、数学や論理学は、人間でも完全に真なるものを導き出せる学問である。
その理由は、幾何学はそもそも人間精神の産物だからである。人間が原因だからである。
ざっくり言えば、幾何学は人間が紙の上に鉛筆で点や線や面を描くことが始源だからである。


幾何学上のことがらをわれわれが証明するのは、われわれがそれを作っているからである。もし自然学上のことがらをわれわれが証明できるとしたならば、われわれはそれらを作っていることになってしまう。(p.15)


ガリレオは「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」と言ったらしいが、
このセリフの持つ魔術によって、人間の歴史はゴトゴトと音を立てて回り始めた。
ヴィーコならここで、「人間は数学の言葉で自然という書物を書いた」と言うかもしれない。
主語が「人間」である分、こちらの方が実は学問的には誠実で、事実に即していると思われる。
(そういえばマクルーハンもラジオや映画と同じように、数字をメディアとして扱っていた。)


不可知論的に見えるヴィーコの論旨にも、実際には神の存在が自明の理として横たわっている。
ところが時代が下り、ウェーバーの生きた頃になると、神様が色々な理由で死んだことにされた。
世界の中に秘密めいたものは何も無くなり、人間の作ったものしか転がっていない有様となった。
そのような時代の中、少なくともウェーバーの学問は、ひたすら人間的であり続けようとする。
学問はあらゆるものから呪術を漂白し、幻想を砕き、超越性を廃して、残余物を人間の下へと返す。
大きな物語は学問によって率先してバラバラにされ、風景は「あっけらかんとした」ものとなる。
かつて真理や実体を追い求めていた学問は、誠実さの行き着く先で、それらの虚構を破壊するのだ。


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施川ユウキ『サナギさん』の一巻の中に「街の中にあるものは何もかも人間が作ったもので、
家も車も電柱も、元々は作った誰かの頭の中の脳ミソのブヨブヨした部分にあったんだよね」
的な話をしているシーンがあって、そこから「文明の中で普通に暮らしていくということは、
そういう無数の他人のブヨブヨした脳みそに間接的に触れ続けるってことでよく考えるとキモい!」
という話に繋がるんだけど、この思考の筋道は、学問によって脱魔術化され尽くした世界の、
「あっけらかんとした」態度、「学問とわれわれの時代の運命」なのではないかと思います。
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2008年09月16日

『政治的なものについて』

シャンタル・ムフ 『政治的なものについて』(酒井隆史 監訳 篠原雅武 訳 明石書店)
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サブタイトルは「闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築」。

世の中には色々な人がいて、自分とは考え方が全く異なる人々もいるワケで、
そういう人達と一緒に共同体を営み、共に生きるためには、政治が必要だよね。
政治とはザックリ言えば「物事を決める」ことで、十人十色の考え方がある中で、
独裁者がビシッと決定したり、民主主義でバシッと決めたりするのが政治だよね。
「政治的なもの」とはつまるところ、この意見の相違、もっと言えば対抗関係で、
狂ってもいなければ道徳的な病気でもないけれど、それでも分かり合えない者同士が、
対立しつつもなお物事を決め、決定されてもなお対立していられるのが政治なんだよね。
それはカール・シュミットが言うように、「われわれ/彼ら」の対立項を前提にしている。
だって、みんな同じだったらそもそも全てが自明裡に進むし、何も決定する必要もないものね。

ところが、政治を対抗モデルで語るのは古い、という考え方が世の中にあるんだよね。
それによれば、敵対性は抹消され、誰も排除されない、敗者不在の政治があり得るらしい。
確かに、党派性なんか虚構ですよねー、みんなコスモポリタンの「われわれ」ですよねー。
ウヨサヨのイデオロギーとか民族とか、性差とか宗教とか国籍とかも古臭い虚構ですよねー。
だってそれって情念的で不寛容で非理性的ですもんねー。個人主義的じゃないですもんねー。
「右とか左とか、もう古い。これからの時代は和なのです。和っ!」って、
窪塚洋介もウヨ映画の試写会で言ってたよ。マンションからダイブする前の話だけど。
つまり、みんなが合理的なコミュニケーションを実践すれば、意見の相違もきっと一致するし、
みんなが理想的な解決法も見つかるよね、だって人類皆兄弟だし、宇宙船地球号の一員だし。

こういう潮流に異を唱え、政治の中に「政治的なもの」を呼び戻そうと言うのがこの本の趣旨。
ハーバーマスやネグリ、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが槍玉に上げられている。


政治から情念を除去することを望み、民主主義政治が、理性、慎み、合意といった観点からのみ理解されるべきであると主張する理論家は、政治的なものの力学を理解していない。(略)政治にはつねに「党派的」な次元が備わっており、それゆえに政治に関心をいだく人びとは、現実の選択肢を提示する政党のあいだで選択が可能である必要がある。だが、これこそがまさしく、「党派なき」民主主義を賞賛する現代の趨勢に欠落している事柄なのだ。いまや支配的な、合意を至上とする政治は、たとえいろいろな場所でいやというほど聞かされるにせよ、民主主義における進歩をあらわしているとはとうていいえない。(P.49)


ここで言われている情念とは、宗教とか民族、国家に対する愛着の総称のようなもの。
2000年、ある欧州の一国の総選挙で、右翼ポピュリズム政党が議席をそこそこ獲得した際、
EUの14カ国は外交的な制裁に乗り出し、民主主義を守る名目でその国を村八分状態にした。
また、そのような政党を支持したその国の国民に対しても、脱ナチ化していないと非難した。
この事例だけでなく、欧州はしばしば、この手の右翼ポピュリズム政党の台頭に怯えている。
ムフに言わせれば、ネオナチ的な政党が支持される背景には、まさに現代欧州に広く流布し、
党派を否定する、対抗無きネオリベラル的な政治環境があるのだが、彼らはそれに気付かない。
党派的な選択肢の無さが、不愉快な政党の支持へと繋がるのだが、彼らはそれに気付かない。
「政治的なもの」の否定が情念を呼び戻し、「政治的なもの」の否定が、道徳的にその情念を排除する。
その一人よがり、自業自得、マッチポンプに欧州のネオリベラル派は気付かないのだ。


この構図は、国内政治だけでなく、国際政治において、より深刻なかたちで見受けられる。
ブッシュ大統領の「自由で文明化された我々/自由の敵」という構図や、アルカイダのテロは、
欧米的な価値観しか存在し得ない国際社会の、オルタナティブの不在が招いた産物であり、
リベラルな普遍主義だけが真実で唯一の政治システムであるというリベラル派の思い上がり、
特にソ連が崩壊してからの一人勝ち、一極支配の唯我独尊が招いた産物であるとムフは主張する。
そこでは西洋的なヘゲモニーが、非西洋的なスタンスをあらかじめ政治から、道徳的に排除する。
その非西洋的な主張は、非人間的だとして、人類の共通利益に反するとして排除されるのだ。
ゆえに国際的な対抗関係は、闘技的な関係を持てずにいる。特殊な西洋が普遍の名で支配する。
この「政治的なもの」の否定ゆえに、人々は西洋的な世界の中に爆弾を抱えて突っ込むこととなる。


既存の秩序を根底的に否定する言説と実践が増殖しているそもそもの理由は、グローバリゼーションのネオリベラルなモデルのヘゲモニーに挑戦する政治的回路が欠落していることにあると考えるべきなのだ。(p.123)


非西洋社会に残されているのは、経済的に発展するために西洋化し、文化的に絶滅するか、
自身の文化に拘泥して物理的に死ぬかの二者択一である。爆弾は第三の道として仕掛けられるが、
そのことにしても、政治の中に西洋化、リベラル民主主義化以外の選択肢がないことが問題なのだ。
非(反)西洋的な主張でも、正当と認められるような政治的な回路が求められているとムフは述べる。
啓蒙を語るトドロフがヨーロッパを疑わなかったのに対し、ムフは疑うところから始めている。
西洋的な「人権」ばかりを自明視し、当然廃止すべき方向で死刑制度を語るトドロフに対し、
ムフは「人権」はリベラル民主主義の中心概念であり、西洋の制度を前提としていると述べる。
さらにボアヴァンチュラ・ド・スーザサントスという学者の言葉を借りつつ(p.185〜187)、
「人権」概念が西洋文化の押し付けの道具とならないよう、「人権」概念も多元化すべきであり、
「人権」概念が、人格の尊重を機能とするならば、その方法は他にもあるはずだとも述べる。

世界の一部、多極の内の一極として語られる、ムフのヨーロッパ像にはとても好感が持てる。
前にも書いたけど、分かり合えることが素晴らしいなんてのは悪しきメルヘンですからね。
対抗関係が持続しつつも、それでも政治的な決定には従い、同じ共同体で生きる方がイイし、
殴り合いで決めるよりも、直接なり間接なり、投票用紙でムリヤリ決めた方がイイですものね。
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2008年08月27日

トドロフの『啓蒙の精神』

ツヴェタン・トドロフ 『啓蒙の精神』(石川光一 訳 法政大学出版局)
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……啓蒙のアイデンティティ、すなわち、自立、人間中心主義、政治と道徳がまったく人間に根ざすこと、権威を論拠とするよりも理性を論拠とすること……(p.31)


18世紀のヨーロッパに興った啓蒙思想は、良くも悪くも近代を特徴付ける思想と言える。
万人が有するとされる理性の光の名の下に、キリスト教的、神学的なドグマを退け、
科学・経済・政治体制等が整備され、自由や法のもとの平等が謳い上げられた。
また、理性的な「啓蒙」の名の下に、社会の中の暴力・革命が正当化されるようになり、
未開社会は、植民地政策とセットで西洋化という名の文明化を強制され、あるいは搾取され、
また、ファシズムのような全体主義が、民主主義や官僚制の下で桁違いの虐殺を生んだ。
それにコミュニティの崩壊だとか、科学の発展による環境破壊だとか、道徳の欠如だとか、
物質的な欲望を追求する利己主義であるだとか、(成人)男性中心主義だとか、もう色々。


あれれ〜、啓蒙思想って駄目じゃ〜んと、そう思う人がいるとすれば、その人は正しい。
大抵の近代批判は、本人の意志は別にして、そのまま啓蒙思想に対する説教なことが多い。
それについて、神に従わず、人間が好き勝手に生きちゃ駄目だろ常考、という宗教側からの批判もある。
そもそも啓蒙思想自体が、ロベスピエールみたいな「理性教」的一面を有しているのも確かだ。
「ロベスピエールは一個の司祭であり、またそれでしかないだろう」とはコンドルセの言葉。
『機械の中の幽霊』でアーサー・ケストラーが問題視したのも、この種の偏執的な独断だった。
(ただ、啓蒙思想だって宗教じゃん、みたいな批判精神自体が、そもそも啓蒙思想の産物だから、
その点で、絶対的で統一的なものを目指さざるを得ない宗教よりはマシだと思いますけどね。)
ちなみに、政治学者のカール・シュミットは、『政治的なものの概念』(未来社 1983)の中で、
フランスでジャコバン党が跋扈していた時代の、こんな会報の一文を紹介している。(p.51)


フランス人民がその意志を表明した以上、それに反対の者はすべて主権外の存在であり、主権外にあるものはすべて敵である……。人民と敵との間にはもはや、剣以外のなんの共通点もない。


「俺の主張は理性的だからそれに歯向かう奴はDQN。よって理解できない愚図は死ね」的な、
今でもネットの内外で見受けられる、この種の独断的な物言いは当初から根深く存在している。
「悪とは、本来純粋で無垢な内部へと外部から割ってはいるものである」という思想的潔癖症、
このエリック・サントナーのエピグラムは、啓蒙思想家のルソーやロベスピエールのジャコバン党、
それに、ヨーロッパと啓蒙思想を語るトドロフ自身にも見受けられる良くない傾向だと思います。


トドロフのこの本は、基本的に啓蒙思想の擁護に回り、ヨーロッパの歴史を肯定する。
18世紀の啓蒙思想家達はヨーロッパ中を経巡り、他者の中で自分の新しい思想を育んだ。
今でもそうだが、ヨーロッパは多くの国と地域に分割されており、異なる文化や制度、
言語、伝統、人種等々と同居している。この多様性、他者とのせめぎあい、戯れこそが、
ヨーロッパのアイデンティティであり、分割こそがヨーロッパの基礎的な力である。
この多様な他者との恒常的な接点が、一人よがりな伝統や断定、名声を即座に相対化する。
自身の寄って立つ伝統に対して批判的になり、他者の主張に対しても寛容さを求められる。
ヒュームを引用しつつ、トドロフはヨーロッパの歴史を、ひいては啓蒙思想を称賛するが、
二度の世界大戦を含む数多くの戦乱の歴史について、この作者は多くを語っていない。
それはこの本が、そもそも啓蒙をテーマにした展示会のパンフレットに過ぎないからだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

『否定弁証法講義』

アドルノ 『否定弁証法講義』(細見和之・河原理・高安啓介 訳 作品社)
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1965年冬、アドルノ後期の主著である『否定弁証法』はまだ完成していなかったが、
その内容についての講義は行われていたから、その講義の録音テープを文書化した本。
『否定弁証法』の入門書かと言えばそんな感じでもない。(どっちもワケがわからない。)
まぁでも、こっちの本の方が安いから、本一冊に約7000円も出せない人にはお薦め。


「こういう言葉使いで考えたら、世の中ってすっきりと説明できるよね」みたいな、
「この哲学を修めれば、他の主観的な意見なんか一蹴できて優位に立てるよ」みたいな、
そういう世界の万能薬的な役目を哲学に求めるな! そんな時代じゃねぇんだよもう!
そもそも一つのラチオ、一つの視点、一つの体系で森羅万象が語れると思っているのか!!
と、こんな感じの内容。デリダやポスコロのサバルタンを彷彿とさせる箇所が幾つもある。
ヘーゲルの「無規定的なもの」と、概念化された「無規定性」に関する論述なんかは特に。


ハイデガーがどこかで書いていたが、ロゴスとは「拾い上げる」「集める」という意味で、
ロゴスによって何かが色々と拾い上げられるんだけど、その拾い上げられた個々のモノは、
どれも同じかと言えばそうでもなくて、それどころかお互いに対立し合っていたりもする。
ロゴスは拾い上げる際に、一方的・暴力的な側面を見せることがある。ロゴスさんマジやばい。
ゆえに西洋の理性主義には暴力が潜んでいる。「理性的」とは「非暴力的」とイコールでは無い。
それはヘーゲルの観念論的弁証法だろうが、サルトルの典型的な唯名論だろうが同じことだ。
だから理性に基づいて肯定された、統一的な、見通しのイイ世界を無邪気に肯定すべきではない。
とは言え私達はロゴス無しではそもそも何もできない。眼を閉じたままで世界は認識できない。
ロゴスは世界と私達を暴力的に遮断する壁であり、それでいてなお、世界そのものでもある。
前期のウィトゲンシュタインは「語りえないものは沈黙しなければならない」と述べたが、
アドルノはそれに反し、語りえないことを語ること、壁の向こうを語ることを哲学の使命とする。
ニュアンスとしては事象それ自体において語らせる、と言った方がイイのかもしれないが。


弁証法とは、哲学と異質なもの、哲学にとっての他者 ――先取りして言ってよろしければ――非概念的なものを、哲学の中に取り込もうとする試みを表しています。それはヘーゲルの意味では、非同一的なものの同一化ですが、私がみなさんに示している問題設定の意味では、非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握することにほかなりません。(p.100)


非概念的なものを巡る、ヘーゲルの弁証法とアドルノの否定弁証法との違いが端的に現れている。
現代思想はこの手のアポリアが大好き。ヘーゲルにも似たようなところがあるけれどね。
客観的な科学を気取って世界を解釈したり、世界を改変することを夢見たりした時代の後で、
哲学は考えることそのものを問い詰めて、というか自分で追い詰めて延命を図ろうとしている。


そもそも哲学的に思考されていると言えるのは、思想が的を外しうる場合、誤りを犯しうる場合だけなのです。哲学的思想に何事も生じえなくなる瞬間に、すなわち、思想がすでに反復の領域、たんなる再生産の領域に根を下ろした瞬間に、すでに哲学は自分の目標を見失ったことになるのです。(p.147)


「真理は我々から逃げ出すことはできない」というゴットフリート・ケラーの格言を、
ベンヤミンと同様、アドルノも批判する(p.205)。哲学は誤りうるし、真理は逃げ出しうる。
そしてそこにしか哲学はあり得ない、というアクロバティックは如何にも現代思想っぽい。

私個人も、現代思想をネタに同じようなことばかり再生産しているような気がしますが、
そういう軽さって面白いですよね。不可能性ばかりを語っても仕方ない気もしますし。
posted by 手の鳴る方へ at 01:31| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月07日

『ニーチェとヴェーバー』

山之内靖 『ニーチェとヴェーバー』(未来社)を読む。

目的合理性を称える、単純な近代主義者としてのウェーバー像に否を唱える意欲作。
キリスト教中心主義、ヨーロッパ中心主義、そこから派生する合理主義、ある種の普遍主義、
そういう類の考え方をウェーバーはきちんと批判してたよ、ニーチェみたいにね、という内容。
まぁ、人類の大半にとって、心底どうでもいい内容であることに異論は無いだろう。


代議制民主主義や資本主義、官僚制、科学主義などに代表される近代の枠組みは、
脱呪術化や生活環境の向上等、多くの利点もあったけれど、欠点も多々あるのも事実。
以下の引用文なんかも、近代の疎外論や物象化論の系譜に位置づけられる話ではある。


ウェーバーによれば、近代世界における目的合理的組織形態は、合理的経済計算に立脚する資本主義企業を一方の極とし、専門的法律家としての訓練を受けた官僚からなる公行政を他方の柱として成立するのであるが、この両者によって推進される社会関係の客観化は、非人格的であると共に合理的に機能する「マシーン」をもたらす。製造業における「死んだ機械」と官僚組織の「生きた機械」は「鉄の檻」と化し、かくして、形式的に組織化された行為領域は「生活世界」から劇的に隔離される。(p.185〜186)


この手のポストモダンの話というのは、近代化の負の側面に対する怨嗟・愚痴のようなものだ。
ウェーバーはこの件について、西洋発の近代化・合理主義を社会科学として「普遍化」しつつも、
一方で近代そのものには本質的に負の側面が備わっており、改善不可能であるという立場を取る。
近代を徹底化したり、そこに巣食う後天的な悪性腫瘍を除去したり、パッチを貼ったり、
革命を起こしたり、新しい思想や制度改革が実現されれば大丈夫という楽観論には立たない。
「鉄の檻」とはそういうことで、この近代観の中で、ウェーバーはニーチェと関係付けられる。


われわれは、すべてが次第に下へ下へと向かってゆき、より稀薄なもの、より善良なもの、より利口なもの、より気楽なもの、より凡庸なもの、より冷淡なもの、より中国的なもの、よりキリスト教的なものへと下ってゆくのを予感する。・・・・・・ここにこそヨーロッパの宿命がある。(p.34)


と、こう述べるニーチェの言葉とウェーバーは呼応する。作者の山之内靖によればね。
一見わかり難いのだが、ニーチェも近代の見通しは暗いと警告し、人類の退化を予感している。
ニーチェは言わば逆ダーウィニストで、この件についてはクロソウスキーがこう述べている。
以下は 『ニーチェと悪循環』(兼子正勝 訳 哲学書房)p.316〜317 強調やルビは省略。


ニーチェはダーウィンの自然淘汰の概念を、現実におこなわれる選別 ――それは、生の意味と価値を危険にさらす人間たちの支配をもたらす―― の歪曲であるとしてしりぞけるのだが、そのときニーチェが感じていることは、ダーウィン的な淘汰が、平凡な存在たちを、強く、豊かで、強力な存在たちのようにみなしてしまう点で、集団性と共謀しているということである。それに対してニーチェ自身の考えでは、強い存在たちとはほかならぬ例外的な個別的ケースのことであり ――これまで実際には排除されてきたものたちのことなのである。ダーウィンが提示した選別はブルジョワ道徳と完全に一致する。それは外部の、科学の陰謀、制度の道徳であり、それに対抗してニーチェは〈悪循環〉の陰謀を企てるのだ。


ここで対比されている、共謀する集団性と個別性の図式は、ウェーバーの著作の中にも見出せる。
『古代農業事情』等に現れる、王権と手を結んだ司祭階級 vs 軍事貴族=戦士階級の図式である。
(両者の性格については割愛。山之内靖 『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)が参考になる。)
ウェーバーは、エドゥアルト・マイヤーの著作を参考に、オリエントやイスラエルの古代史を、
戦士的な市民層が司祭階級の権力支配に圧倒されていくものとして捉え、それに対比する形で、
ギリシアでは、司祭階級による支配は実現せず、非宗教的で世俗的な文化が凱歌をあげたとする。
まぁ、でも結局は、その後ギリシアのポリス世界が帝国化し、オリエントを巻き込んでいく中で、
かつては退けた司祭階級の神政政治に取り込まれ、「鉄の檻」へと自らを閉じることとなるのだが。
で、この図式、近代化の中で官僚制が世界を席巻し、「鉄の檻」を広げていくのと同じくしている。


現代において司祭階級は、その宗教的性格を拭い去った姿をとって、すなわち知的テクノクラートないし学者として現れる。かつて古代世界において司祭階級と激しく争った軍事貴族=戦士階級に相当する社会層は、現代において、いかなる姿をとって現れ得るであろうか。(p.232)


と、作者の山之内靖は意味深なことを述べているが、最後の自問については具体例を挙げていない。
まぁ、ギリシアを範型とする軍事貴族階級の生(レーベン)の態度、宿命観念がそれっぽい解答で、
一言で言えば「男らしく耐え」ろ(『職業としての学問』)という、身も蓋も無い話なのかも。
言わば、形而上学的な神に従い、安定的だがルーチン化した、抑圧された生を送るのではなくて、
逆にこの世を神々の闘争の場と捉え、その中で自身の個別性を賭けて闘え、ということだろうか。
ここら辺はウェーバーよりもむしろニーチェの方がまだ親しみやすい話ではあるのだろうけれど。
あるいは、ウェーバー自身は禁欲的プロティスタンティズムと結び付けているが、企業家なんかは、
軍事貴族階級的な性格を含み持っているかもしれない。この本の趣旨とはやや外れる話だが。
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2008年07月24日

丸山眞男の『福沢諭吉の哲学』

丸山眞男 『福沢諭吉の哲学 他六篇』(松沢弘陽 編 岩波文庫)
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福沢諭吉は「君子は豹変す」という言葉通り、状況論的で柔軟な発想を貫き通し、
時として輿論が一方へと偏頗すれば、それに抗する天邪鬼の役をあえて請け負った。
ブロガーのような身軽さで論陣を張り、日本の啓蒙思想家の嚆矢としても超有名。

福沢が自由と進歩にとって必須のモノと考えたのは、人の考え方の多様性だった。
福沢が生涯を通じて儒教思想を排撃したのは、儒教特有の倫理観や自然観もさることながら、
それがガッチガチに凝り固まった、極端に画一的な教条主義であったからに他ならない。
自身を絶対化するイズムは、他者の自由を阻害し、人々の多様性を奪いがちである。だから悪い。


「単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可からず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものを知る可し。」(p.92)


日本国は福沢が存命中に各国列強と肩を並べ、一応の「脱亜入欧」を達成することとなるが、
近代が予定していた多様性や他者への寛容、独立不羈の個人主義は完遂されることはなかった。
ここら辺は、ポストモダンに浮かれる現代人にとっても重要な問題だと思うのですよ、ええ。
ちなみにこの「脱亜入欧」と言う言葉、福沢の代名詞みたいな扱いをされていたらしいが、
実際に福沢が「脱亜」という言葉をを用いたのは、『時事新報』の社説のたった一度きりで、
「入欧」に至っては(つまり「脱亜入欧」も)一度も使用していないらしい。(p.281〜282)
と言うか、今の時代には、福沢諭吉=「脱亜入欧」というイメージすら失せている気がします。


丸山眞男が福沢を読み解く鍵概念としているのが「惑溺」という言葉。
漢語・訳語として、語源的な話もしているが、その定義は、丸山の言葉を引用すれば、


あらかじめ与えられた規準を万能薬として、それによりすがることによって、価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する煩雑さから免れようとする態度(p.84)


である。
ここら辺の論旨を眺めていると、近代化の中で蠢動していた啓蒙思想活動というものは、
一方的に、無知蒙昧な愚衆に知恵を与えるような、家父長的な活動だっだのでは無くて、
建前上でも、もっと大衆側の自主性を重んじ、自身の権力性に自覚的だったのだなぁと思う。
例えば、死ぬ三年前に福沢はこんな演説をしていて、私はこういうのは格好イイと思うのです。


成るだけ議論を多くするが宜い。決して大人君子が一声を発したからと云つて草木の風に靡く如く承知するでない。誰が何と云つても議論を喧しくして、さうして世の中の進歩に伴うではない。(略)だからますます世の中の交際を恐ろしく綿密にし、議論を喧しくして、人の言ふことには一度や二度では承服しない様に捏ね繰り廻はして、さうして進歩の先陣となつて世の中をデングリ返す工夫をする、と斯う云うことに皆さんも私も遣りたい。私は死ぬまでそれを遣る。貴方がたは命の長い話であるから、何卒して此人間世界、世界は率ざ知らず、日本世界をもつとワイワイとアヂテーションをさせて、さうして進歩するように致したいと思ふ。それが私の道楽、死ぬまでの道楽。何卒皆さんも御同意下さるやうに。(p.114〜115)


理解だとか合意だとかは、「ワイワイ」を封じ込める分、意見の対立よりもマズイはずで、
今の世の中は何かあれば「理解」だとか「説得」だとか、最悪の場合「妥協」を求めるけれど、
そういう類の合意が何故、意見の相違よりもイイとされるのかをもっと真剣に内省すべきです。
というかそこに理由なんか無いはずで、理解し合えなきゃ成立しない社会は滅んだ方がいい。
理解し合わなくてもそれなりに成立する社会の方がイイし、実際に今ある社会はそうなっている。
「分かり合えるって素晴らしい」的なメルヘンは、戦後日本のマズいフィクションだと思います。

と、私の意見はどうでもよくて、若者をアジるこのジジイは格好イイだろどう考えても。
まぁ私は議論もジジイも大嫌いですけどね。本当はね。
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2008年07月20日

『メディアと情報化の社会学』

『メディアと情報化の社会学』( 岩波講座現代社会学 22 岩波書店)
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パソコン通信がまだ現役だった96年に編集されたメディア論の論文集。
全体的にカルチュラル・スタディーズの流れを取り込んだ論となっており、
何となく時代に追い越されて、取り残されたような論旨が続いているけれど、
メディア論の入門書としては最適。ただしそもそも手に入り難い本ではあるが。


マクルーハンとグールド(ヴォイジャーに乗って時空を進む複製技術時代の音楽!)の話や、
電気技術黎明期のエレクトリシャン、双方向的なメディアとなる可能性もあったTV等々、
面白い話題はたくさんあったけど、まとめて語ることは無理なのでリテラシーについてだけ。


メディアを通じて受容・鑑賞したり、活用できる能力のことをリテラシー能力と呼ぶとして、
その能力は「能力」であると同時に、「権力」にも近いことは改めて確認しておいてもいい。
例えは何でもいいんだけど、2ch、お笑い番組、政治ニュース、クラシック音楽、ジャズ、
前衛絵画、能楽、コンテンポラリーダンス、フィギュアスケート、生け花、「萌え」等々は、
その良さを理解し、批評する前提として、(拡大解釈した意味での)リテラシーが求められる。
理解しない者からすれば、それらの良し悪しがわかり、入り込める者はなにやら秘儀的に見える。
それは文字を知らない人々が、インクの染みから意味を見出す人々を魔術的だと思うのと似ている。


共通のリテラシーを有し、その磁場の中で語り・批評できる人々は、一種の共犯関係にある。
彼らはリテラシーを活用して作品を作り、文字を書き、そこからメッセージを読み取るけれど、
それは演者と観客、見られる者と見る者のような、純粋で客観的に対立した関係ではない。
サッカーの12人目の選手達は、ただ応援し、見ているのではない。彼らは客席でプレイしている。
競技場には見る‐見られるの関係は存在しない。フィールドも客席も一つの舞台上にあり、
そこでは全員がサッカーに参加し、興じ、情報の発信者と受信者が渾然一体となっている。
そこで彼らが共有しているのがリテラシーだ。試合後、批評家は共犯者に関して何事かを語り、
作品はそれによって、あたかも客観的な価値があるかのように立ち振る舞うことができる。
リテラシーを共有しない者だけが、プレイに参加することなく、客席で眼前の光景を「見ている」。
非共犯者には何が何だかわからない。わかっている者達は、自作自演的に評価をしてみせるが、
そこに真実などありはしないし、そもそもそんな大層なものは、誰からも要求されていない。

リテラシー能力は、パノプティコンのような視覚的な権力ではない。それは触覚的だ。
客席やTVの前で全身を巻き込まれ、ある物事についてそれっぽいことを語ったりする。
TVや雑誌や2chはリテラシーを教え込む。それらは劇場や競技場の延長なのだと言える。
それらメディアはメッセージであり、私達は常時、舞台上で何者かとの共犯関係に属している。
日常を覆う電気と電子のメディアにより、リテラシーは浸透し、「ただ見る者」は姿を消す。
舞台の外には何もない。客観的な世界は不在であり、シミュラークルがそれに代替する。
現実は存在しなくなる。ということはそれを媒介するメディアも存在し得ないだろう。
と、斉藤環とは違った意味で、ボードリヤールもメディアは存在しないと言っている。
(『シミュラークルとシミュレーション』 竹原あき子 訳 法政大学出版局 p.108 )


まぁ、『メディアと情報化の社会学』には、こんなことまでは書いてなくて、
どこまでが私の意見で、どこまでが私の意見でないか、一つ一つ指摘するのは面倒臭い。
色々と考えさせられる面白い本でした、とそんな感じでお茶を濁しておく。
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2008年06月08日

『近代の思想構造』

今村仁司 『近代の思想構造』 (人文書院)
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近代の自然観・宇宙観は機械論的であり、それは現在にも大きく影響している。
人間は目の前の時間・空間を抽象化し、等質化し、分析し、部分部分の要素に分け、
洗練された方法論を通じて認識し、制御し、加工して支配することができる。
全ては命令の対象となり、自然への恐怖はこの近代の啓蒙の力によって克服される。

西欧人はプラトン、アウグスティヌス、ガリレイ、そしてベーコン(「智は力なり」)等を通じて、
ソクラテス以前の、プュシスとして生成する有機体的(非機械的な)な自然を見事に忘却し、
無機質・無構造的なナトゥーラ、形相に対して立てられるマテリアとしての自然を作り出した。
神から与えられた理性により、あるいは神なんかいなくとも、豊かさをもたらす理性により、
近代以降の人々は世界を組み替え、過去よりも優れた、進歩発展する「現在」を確信していた。

また、この大きな網の目の中に、人間も社会も国家(最も巨大な機械)も包まれている。
かつては祈りに似ていた労働が、近代以降は自然を否定し、排斥するものとして表象される。
多忙と余暇の評価は逆転し、多くの行為が方法論的に組織化され、幾つかは排除された。
生活や制度は一変する。又は徐々に姿を変え、「日常経験はことごとく投企になる。」(p.176)
学問が生み出す知識は技術と化し、ただちに経済に組み込まれ、より善き世界の礎となる。
人間の身体も時間も、「勤勉と禁欲」をスローガンに、生産中心主義的な文化の一部となる。


このような機械論的思考を忌避する声は常にあるが、大抵は俗言に過ぎないと言える。
資本主義に対比された共産主義も、この近代的な機械論、生産中心主義の産物であるし、
観念論者も唯物論者も、自然・世界をコントロールしようとする点で同じ穴のムジナだ。
人間の精神、デカルトの言うコギトでさえも(こそが)、機械論的近代の産物である。
例えば今村仁司は別の本、『近代性の構造』の中で、こんなことを書いている。


常識論でいうと、「我考える」は精神の原理だから、機械とは正反対のものだと考えがちである。その常識はまちがいである。たとえば、戦時中に「近代の超克」の座談会で、小林秀雄が「精神は機械が嫌いだ、それを代表するアメリカの機械文明はけしからぬ」というようなことをいっているが、これは日本人の俗耳に入りやすい。歴史的事実はこれと違う。近代の精神は、デカルトのいう意味での精神、すなわち思考する精神(コギト)は、機械論の世界像がつくった偉大なる成果であり、デカルトの『方法序説』はその最初の成果である。(p.125〜p.126)


文系の教養だとか道徳だとか教育だとかは、まんまとこの「非機械的」精神のために奉仕する。
携帯よりも機械的な現代で、子供の教育のために携帯電話を持たせるべきではない、と、
そんな不可解なことを政府の諮問機関(これも何と機械的なことか!)が口にしたりもする。
海へと子供を放り出し、「塩水は体に悪いから飲んじゃ駄目」と言っているようなものだ。

人間存在をバラバラに分解し、分析する中で、デカルトの言うコギトは発見されたワケで、
その「バラバラに分解して分析する」手法そのものが、近代を生んだ機械論的である。
この手の、機械が上か人間が上か、あるいは機械に管理されるのか自律的に生きるのか、
という話はよくある話だけど、今村仁司にしてみればどちらも超克すべき近代の産物だ。


機械や技術は合理的に自然を最適化し、西欧形而上学のユートピアを具体化する。
「世界の技術化は形而上学の世界化である。」(『近代の思想構造』 p.262)
機械が人より上だろうが下だろうが、自然は常に機械や人間よりも下に隷属する。
今村仁司はテクネーの問題についてある種の提案 ――遊戯の思考―― をしているし、
本書全体についてもニーチェだとかベンヤミンを持ち出して述べているが、割愛。
というのもあんまり面白くないから。というか、ポストモダンの羅列になっているから。
個人的には、この機械論はマクルーハンのメディア論に繋げて考えてみたい気がします。
posted by 手の鳴る方へ at 08:55| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

『機械の中の幽霊』

アーサー・ケストラー 『機械の中の幽霊』 (日高敏隆・長野敬 訳 ぺりかん双書)


邦訳において付けられたサブタイトルには「現代の狂気と人類の危機」とある。
この副題は、ケストラーやその専門分野とは関係の無い方向で語られることの多い
本題 『機械の中の幽霊』 ( The Ghost in the Machine )に比べれば、
ある程度の偏りはあるものの、本書の内容を的確に言い表していると思う。
この本は67年出版。冷戦真っ只中で語られる「現代の狂気と人類の危機」だ。


パブロフなどの行動主義心理学批判、ケストラーの発案したタームであるホロン、
ホロンの階層秩序性で説明される進化論、それを踏まえての人間の種としての危機。
これらが緩やかな紐帯で繋がり、語られていくけれど、具体的な関係はわかりません。


進化の筋道は勝手気ままであり、生物はその場しのぎのDIY的な遣り繰りで生き残ってきた。
種としての人間の進化、もっと正確に言えば脳の進化にしてもその通りであると言える。
人間の脳には旧い、動物的な部分の大脳辺縁系と、人間に特異的な新皮質の部分があり、
その二つの部分はお互いに整合性が無く、広範な連合も無いままに分裂している。
人は理性と情緒に引き裂かれ、偏執的な情緒を、理性はコントロールし損なうこともある。
この分裂生理は人間の種に組み込まれたものであり、進化プロセスの誤り・失敗作であり、
ケストラーにしてみれば、(絶対悪ではないものの)これこそが人類の諸悪の根源である。


人類の諸悪の根源は個人の一次的な攻撃性にあるのではなく、知性は低く情緒は高いことを共通分母とするような集団と自己超越的に同一化することにあることを、先に論じた。いま私たちは、それと並行した結論に達する、つまり歴史を貫いて流れる一筋の迷妄の流れは個人的な型の狂気によるのではなく、情緒に基礎を持つ信仰体系から生ずる集団的な迷妄によっている。これらの病理学的な現れの基礎にある原因は、理性と信仰の間の分裂、あるいはもっと一般的にいえば心の情緒的な能力と弁別的な能力の整合が不十分なことである。(p.357)


動物には自然に備わっている同種殺しのタブーが、半端に理性的な人間には備わっていない。
しかも悪いことに武器の発明が、墓穴を掘るようにこの新皮質の不備を致命的なものとする。
「歴史を貫いて流れる一筋の迷妄」は、武器の進化と共に殺戮の度合いを深めていき、
ついに現代において、全体主義や核兵器と結びつくことでジェノサイドを引き起こした。
冷戦時代のケストラーは、人類の歴史が、この狂気の故に幕を閉じることを危惧している。


ケストラーは、人間の種としての暴力性を見極めたうえで、道徳や倫理に解決策を求めない。
この不幸な状況を根本から打開するため、彼が最後の最後、第18章で主張したことは、
「心の制御に利用できるような(略)一連の化学物質」の中に治療法を求める』(p.446)
ということで、要するに、精神のお薬を飲んで全人類は一旦落ち着こうヨ、ということだ。
予防注射で病気を防ぐように、フッ素を水道水に入れて虫歯になりにくくするように、
精神薬理学に基づいてお薬を飲み、情緒と理性の間に橋を架けよう、と、そういうことだ。


途中まではやたら面白かったけど、最後のこの結論はネェな、と思いました。
似たようなことはデザイナーフードやサプリメントがやってるんだけろうけどね。
posted by 手の鳴る方へ at 03:22| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月27日

いいよね、枯山水って

枯山水とは、水を一切使わず、白砂や岩で自然を模している庭のこと。
大徳寺の塔頭(禅宗寺院の脇寺)の大仙院や龍安寺など、京都のそれが有名。


枯山水の自然表現は、能や狂言、水墨画などの様に、如何にも日本的で抽象的だ。
「抽象的」とか言うと、何か難しい、衒学的なイメージしかないだろうけれど、
abstraction には「要約」とか「要素に分解して取り出したモノ」って意味もある。
ある対象の要約だから、本当は「抽象的でよくわかる」と言ってもいいはずで、
枯山水は善く自然を表現している、という主張にはそれなりに納得できる人もいるだろう。
(そもそも現代人の自然観と、枯山水の神仙思想的なそれとは全然別物なのだが。)

一方、枯山水に表現されている自然とは、枯山水の庭の外、借景のさらに向こう側、
広大に広がっている海や山、雲、星、空、広野、丘陵、河川や泉、岸辺の類では「無い」。
それら具体的な広がりと枯山水には、前者をモデル、後者をその表現とする関係は無い。
庭の外、現実にある自然は、自然にとてもよく似た、錯覚させられる別の何かであり、
山稜を楔形に飛ぶ渡り鳥や、海に沈む夕日、路傍の花を見て、人が自然を感じるように、
人は枯山水からも自然を感じる。そういう意味で、その美的な地位は双方ともに同格だ。

と、このような書き方をすると、まるで目に見える自然の背後にイデア的な自然があって、
枯山水もそれを表象しているように取れるかもしれないけれど、もちろんイデアなんて無い。
少なくとも現代では無視することになってる。つまりここには表現される側の準拠枠が無い。
枯山水は自然表現と言われているけれど、表現される側の自然はどこにも実在しない。
それは記号表現としての自然であって、その諸記号も諸実在と対応しているワケではない。
しかし、枯山水は、だからと言って、何も表現していないワケではないし、誰もそう思っていない。


この状況に似た比喩がある。M.C.エッシャーの絵の中に『描きあう両手』というタイトルがある。
描かれた手が紙から浮き出て、自分を描いたペンを持つ手を描いている。しかもお互いに。
どちらが本当に描かれた手なのだろうか、という問いは、ここではさして意味を成さない。
起源も中心も合目的性すらも無く、それらは円環する。記号も記号自身に準拠している。


さっきイデアと呼んだものを、アウラと呼べばベンヤミンの複製技術の話になる。
ウォーホルから枯山水に至るまで、現代の芸術は複製マシーンとしての芸術だ。
マリリン・モンローやキャンベル缶が反復されるように、記号は無根拠に反復される。
再生産が生産を豹変させた。それに気が付いたのはベンヤミンとマクルーハンだった。
と、そのようにボードリヤールは述べている。もっと言えば、生産は死んでしまった。
そもそも今回の話題全体が、ボードリヤールのシミュラークル論を前提としている。
枯山水はシミュラークルだ。丸山圭三郎もどこかでそう書いていたと思う。多分。


そんなことを、ホテルの中、ガラスの向こう側にあった枯山水を見て思いました。
現代的な、清潔で、表面がピカピカの建物の中に、抽象的な枯山水は似合いすぎだ。
いいよね、枯山水って。
posted by 手の鳴る方へ at 02:57| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

真理とディスクール

ミシェル・フーコー『真理とディスクール パレーシア講義』(中山元 訳 筑摩書房)を読む。


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フーコーとか真理とかディスクールとかパレーシアとか書いてあると、
何か難しいように見えるかもしれないけれど、これはとても面白い一冊。
講義口調のせいもあり、他の晦渋なフーコーに比べればスラスラと読める。


「個人や社会にとって、真理を語ること、真理を認識すること、真理を語る人を確保すること、真理を語る人を見分ける方法が、どのように重要なのかを問うこと」(P.248)
これが、この本に書いてある大筋の内容と言っていいだろう。


ポリスの高貴な生まれであり、疚しい心を持たず、法と真理を尊敬する善良な市民は真理を語る。
そんな彼ら(それは全員成人男性である)が、自分の考えていることを率直に語る自由、
あるいは勇気、または権利でもあるし、市民としての義務でもあるのがパレーシア。

この出自とパレーシアが予定調和的に繋がっていた頃は何の問題もなかったけれど、
民会(エクレーシア)において二枚舌、追従者、悪い意味でのソフィストが目立ち始めると、
民主制下、パレーシアの意味は二重になり、ネガとポジの両面を併せ持つようになる。
法の前の平等、自由な言論としてのパレーシアが、民衆に媚びた甘言的なパレーシアにもなる。
で、後者から真理を保護するため、個人的な教養、教育、訓練の問題がクローズアップされる。
問題なのは真理そのものというより、真理を見分ける可能性の、行政的な手続きの試行錯誤だ。

フーコーはプラトンの『ラケス』を、この方向から読解してみせる。
ソクラテスはデリオンの戦い(アテナイ側の負け戦)において、後退戦に参戦し、
アテナイの名将軍ラケスと共に勇敢に戦い、歩兵として手柄を立てている。
このソクラテスが、勇気を語る=パレーシアを行使する人として立ち現れている。
ソクラテスの語る勇気のロゴスは、そのソクラテス自身の勇敢な生と調和しており、
その点で、口先だけの、何の戦果もあげていないソフィストとは大きく区別される。
ソクラテスの生は、他者に対しての試金石となり得る。彼の生は真理のモデルであり、
対面する人間との個人的な教育関係の中で、パレーシアは実践(プラクシス)される。

ローマ帝国期に入ると、ロゴスと生の調和が、哲学者に一層求められるようになる。
というか、パレーシアの担い手は哲学者だけ、みたいな論旨でフーコーは話を進めている。
パレーシアは医術や航海術のような技術(テクネー)として考えられるようになり、
学校の中で、師から弟子へと集団的に、あるいは個別的に教育されるモノへと変化した。
市民の権利義務だったパレーシア、個人の資質、徳だったパレーシアが、技術となっている。

また、樽のディオゲネス、あるいは犬のディオゲネスで有名なキュニコス派の場合、
認識された真理は見世物として体現される。ソクラテスが勇敢さを体現していたように。
犬のように自由に生きる彼らは、秩序に対して率直にモノを言うことができる。
「率直にモノを言う」とは、本来の意味通りの直言、パレーシアのことであり、
とうとう真理の担い手は、善良なポリスの市民から襤褸をまとう賢人へと姿を変えた。
そこには、金や地位や名誉や他者への依存があるから、人は他人に対しておべっかを使う。
だから自分に正直に真理を語り、面と向かって王を非難し、社会について批判するならば、
自然で、自己充足的な犬にならねばならぬ、という理屈が働いている。

金や地位や名誉などの欲望、仏教で言うなら煩悩が、真理を語る際の障害として認識される。
かつて二枚舌、おべっか使いは自分以外の誰かだったが、ここにきて自分自身が問題視される。
パレーシアは、この煩悩・自己愛を克服し、心の平静、持続性を保つものとして現れる。
ここでは率直にモノを言ってくれる真の友人、私を矯正してくれる善き友人が求められ、
医師として有名なガレノスになると、友人だと情が涌くこともあるから駄目だ、
利害関係の無い人格者にパレーシアの役目を受け持ってもらおう、という話になってくる。

この延長線上には、友人や赤の他人ではなく、自分自身が克己的に、自分自身に対し、
パレーシアを行使する、自分の行為を率直に諌める、という自己完結的なあり方も出てくる。
それは具体的には夜寝る前、一日の言動全てを点検し、反省する、ということであるし、
もっとラディカルになれば、自分の心が思い浮かべるモノ全てを行政的に逐一点検し、
自分の制御できないような心像を排除しようとする、極端な検閲官が誕生することとなる。
このレベルでのパレーシアは、かつてのように民会や王を、直接には相手にしていない。
真理は民会や友人に開かれるモノというより、自分自身に開かれるモノへと姿を変えている。
ここからキリスト教の、真理としての神と私との間の内的な関係まではほんの一歩だ。


と、簡単に流れを書いてみたが、色々な問題が表れては乗り越えられているのがわかる。
時代の中である問題が認識され、同じ時代の中で、具体的な人物によって解答が与えられる。
その中で真理もパレーシアも、また新しい問題も、問題圏も、色々な関係を取っている。
真理とは何か、その定義は何かについて語ることは難しい、というかもはや不可能だが、
真理の語られ方、パレーシアという言葉の使われ方については語ることが可能だ。

結局レジュメのような内容になったし、小難しいことを書いたけど、面白い本だよ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:39| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月22日

占いについて

「横行する」スピリチュアル番組、その悪影響を止める手立ては
2007年12月21日(金)12:46



「最近の若者はなってない。昔は良かった」的な愚痴は大昔からあったらしい。
同じように「占いなんて信用する奴は馬鹿wwwwwwwwwww」という愚痴も昔からあった。


紀元前一世紀頃の人物、キケロは『占断論』の中で占星術やストア派を難詰しているし、
ほぼ同時代人のセネカの父は、約2000年前に、こんな現代人のようなことを書き残している。


ある人々には彼らは幸福な人生を約束しましたが、運命はときをおかずにあらゆる災害をこの人々にもたらしました。
おわかりでしょう、私達は不確かな運命を分け持っていて、これらのことはそのうちに何の真理も持ち合わせずに小賢しい占星術者によって捏造されたものなのです。

(大出晁 『知識革命の系譜学』岩波書店 p.161)


その後占星術は、ヨーロッパに興った新プラトン主義の中で捨て置かれ、
キリスト教の時代になっても、アウグスティヌスなどの教父から否定されることとなる。
古代オリエントの円環的な時間観(天体や恒星が再帰するような反復性)が、
創造から終末へ向かう直線的な時間観を前提とした聖書と真っ向から対立していたからだ。

が、キリスト教の理念と相容れない占星術は、それでもヨーロッパの中で生き延びた。
神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世(1194〜1250)は占星術師を召抱えていたし、
多くの王侯貴族も、もちろん民衆も、その小賢しい予言に頼むところがあった。


ファイヤアーベントなんかは、実験と観察によって得られた事実(データ)から、
帰納的に理論を組み立てる立場を「ベーコン主義」と蔑称として呼ぶことがあるが、
この『ノヴム・オルガヌム』の作者ですら、そして晩年のニュートンですら、
非科学的と見られがちな、オカルトチックな錬金術へと傾倒していったのだから、
これはもう、二十一世紀の極東の島国にスピリチュアルが横行しても仕方ない。
そもそも突き詰めると科学だってその根拠は怪しいモンだしね。


ちなみに紀元前のオリエントの為政者達の中にも、占星術師を召抱えていた者がいたし、
当時書かれた文書全てを網羅せんとしたような規模の、巨大な図書館を建てた者もいた。
この当時、占星術と天文学は同じジャンルの知識で、判然とした差異はなかったけれど、
今風に言えばオカルト的な奴もいれば、学問に関心を持つ奴もいたということだ。
キケロの立場は反・占星術だけど、彼の師匠は熱心な占星術の普及者だったそうだし。


キリスト教化されようと、科学技術が進歩しようと、人間は今も昔も似たようなモンだ。

細木数子すら見たことのない私なんかに、普通の占いとスピリチュアルの違いはわからないが、
人はTVの影響で(いわゆる)非科学的な世界観に走るワケじゃ無いのでは? まぁ、知らんけど。

というか、一国の宰相が占いに頼らなくなっただけ、現代人は満足すべきじゃないだろうか?
posted by 手の鳴る方へ at 08:50| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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