2007年11月29日

ゲームの欲望

何かの本(多木浩二だったか?)に書いてあったことの受け売りだけど、
書物は何であれ、真偽を別としても、世の中のことについて書かれたモノであり、
それはただ世界を表象しているに過ぎない、という考え方は間違っている。

例えばギネスブックは世界中の世界一を収集した本で、初版は1951年。
そこに書かれてあるのは、内容が正確である限りにおいて、世界の現れ方の一つだ。

だからギネスは世界を表象し、代表し、写し取っていると言える。Representation だ。
私達はそれで世界の現状―― 世界最速の人、車、世界一の成功者、etc ――を知るが、
世界の中に投げ込まれたギネスブックの影響力はそれだけではない。

単に世界一を収集するギネスブックだが、それによって世界のあり方は変わっている。
例えばギネス以前、「世界最大の和太鼓演奏(2571人)」をする欲望があっただろうか?
ギネスブックのメジャー化により、そのギネスブックに掲載されることを目的として、
今までに存在すらしなかったジャンルの記録が、雨後のタケノコのように生じている。
ギネスブックの方は、その欲望を世界の現れとして自分自身の中で目録化するが、
そこにあるとされる世界は、ギネスそのものによって以前の世界とは異なっている。



で、この話、TVゲームとゲーム雑誌にも似たようなことが言えるんじゃないか。
ゲームセンターにあった、シューティングゲーム(STG)の筐体なんかは別としても、
昔のTVゲームにはやりこみ的な欲望が、関係者全員、ほとんど意識されて無かったはずだ。
それは放課後、子供の室内遊びという環境的にも、ハード、ソフトの性能的にも、
記録の証人となる、TVゲームを共有する集団の規模から言ってもそうだったはずだ。
少なくとも私は、あえて記録にこだわってみる、という遊び方をファミコンの頃にした記憶は無い。


STGのノーミスクリア、最速クリア、ハイスコアクリアはまだいいとしても、
RPGの装備や魔法を使用しないでクリアとか、セーブしないでクリアとか、
「バイオハザード」のナイフクリアとか、「メタルギアソリッド」のノーキルクリアとか、
そういう類の、プレイヤー自身が制約を用意して、その中でクリアを目指すやりこみは、
ギネスブックに載るために、不自然に長い巻き寿司を作ろうとする連中に似ている。
そしてそういうことをさせる欲望は、一人遊びの範疇には絶対に収まっていない。
やりこみというゲームの遊び方は、雑誌のようなメディアがなければ生じ得ない。
その大記録を、その価値を理解できる多くの他者に報告する媒介が無ければいけない。


プレイヤーの新しい欲望に応答するように、ゲームそのものも変わっている。
他にも、例えば収集欲に訴えかけるタイプの、アイテムや魔法のコンプリートがそうで、
具体的には「FF5」のジョブマスター、召還・青魔法コンプ、ピアノマスター等がそうだった。
それらはただ単にゲームをクリアするのとは別件の目標で、そういう意味でやりこみ的だ。

ニコニコ動画ではTASや改造マリオが、TVでは「有野の挑戦」が新しい欲望を生み出している。
惚れ惚れする完璧なゲームプレイの再現や、友人宅で人のゲームプレイを眺めている感覚、
これらがゲームの古くて新しい欲望として、色々な形でメディアに現れている。



ここまでの話をあらゆるメディアに拡大解釈することは可能だろう。
メディアは人に欲望を与える。雑誌も書物もTVもインターネットもそうだ。
そして欲望を与えられて初めて、私達は自分がそれを欲していることを知る。
初めて聴くテクノやジャズ、洋楽、初めて見る映画、漫画、絵画、風景のクセに、
「俺ってこういう感じのが好きなんだよね」と、実は前からそうでした、好きでした、
みたいなことを平気で言ったりもする。欲望を自分から発したモノだと思っている。

ある心理学の実験では、部屋に幼児と、幼児と同じ数の、同じおもちゃをいれたのに、
幼児達はおもちゃを奪い合って喧嘩をするそうだ。おもちゃは人数分あるというのに、
床に転がるおもちゃより、他人の手の中にある全く同じおもちゃを欲するのだと言う。
ちなみにルネ・ジラールという文化人類学者が、ここから色々と面白いことを述べている。

私達は他人が選んだように見える欲望を欲望するし、メディアが表象する欲望を欲望する。
だからあらゆる流行、ブームはメディア側の捏造であり、2ちゃん風に言えば電通の陰謀だ。
ただしそれは、私の欲望はいつも誰かの欲望であり、捏造で無い欲望など無い、という意味で。
posted by 手の鳴る方へ at 10:28| Comment(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月19日

そろそろ丸山圭三郎を褒め称えようか

丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス』(講談社学術文庫)を読む。


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他の主著(『欲動』『言葉と無意識』『文化のフェティシズム』)の詰め合わせ。
二番煎じというネガティブな意味ではなくて、思考の福袋みたいなみたいな感じ。
個人的には『文化とフェティシズム』を文庫化して欲しいと常々思っております。
この本も、もちろん丸山圭三郎その人も、十分に時代から求められているが故。


丸山圭三郎はソシュール研究の大家。93年に死去。もっとチヤホヤされてもいい学者の一人。
ソシュール研究の大家だけど、むしろデリダやクロソウスキーっぽい考え方をする人で、
今これを書いていてクロソウスキーの名前が出てきたことに自分でもビックリしたんだけど、
確かに丸山圭三郎はクロソウスキーを読み込んでいるし、本の中で何度か言及もしている。
丸山圭三郎をシミュラークルというキーワードで考えてみるのは面白いかもしれない。
ランガージュのシンボル化能力(言分け能力)を<過剰>なものと捉える丸山圭三郎と、
哲学者――シミュラークルを捏造する詐欺師――を告発するクロソウスキーは近い場所にいる。
丸山圭三郎の言う欲動(pulsion)と、クロソウスキーの言う衝動(impulsion)も、
似たような使われ方がされているんじゃない? まぁ、ただの思いつきだけど。


ソシュールの記号学をラングの学問、ちょっと加工して構造主義と考えるのは視野狭窄で、
丸山圭三郎は、ランガージュを中心に、もっと根源的で、グラマトロジーな読み方をしている。
現在、作家の保坂和志が考えていることは、10年以上前から丸山圭三郎が考えていたことで、
保坂和志が丸山圭三郎に言及しているのは読んだ記憶が無いけど、そんなことはどうでもよくて、
どちらも言葉について本気で考え、文化のフェティシズムという陥穽と真っ向から対峙している。

いつの時代にも、それなりに言葉に関して問題意識を持つマイノリティはいるワケだから、
どうせ売れないんだし開き直って、文系学部のため、他の主著も文庫化したらいいのに。


ちなみに「シミュラークル」でググってみたら、やっぱり東浩紀の影響力はデカいね。
エコノミーに回収されない場所で書いている本家のクロソウスキーが霞んで見える。
posted by 手の鳴る方へ at 02:13| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月05日

マクルーハンとRPGと聖アントニウスの誘惑

引き続きマクルーハン。今回はTVゲームの話題とか。

マクルーハンの用語で有名なのは、熱いメディア/冷たいメディア だろう。

ラジオや写真、映画は受け手に与えるデータが多い(高解像度 High definition)から熱いメディア。
漫画や電話、テレビはデータが限られているので(低解像度 Low definition)冷たいメディア。
利用者の参与性が低いのは熱いメディア。参与する余地があるのは冷たいメディア。

テレビよりもラジオの方が、受け手に与えるデータが多いのだろうか。意味がわからない。
電話と比べてラジオは熱くて、映画と比べてテレビは冷たい、ということだろうか。


それはともかく、この理屈は、TVゲームにあてはめて考えると面白い。
RPGのドラクエ(ドラゴンクエスト)は、主人公が「はい/いいえ」しか喋らない。
また、登場人物の顔は、取扱説明書やソフトのイラストから推測するしかなかった。
解像度という点では、敵キャラの方がゲーム内でははっきりとした姿で現れている。
完全3Dグラフィックになったのはプレイステーション2から出た8作目が最初だった。
ドラクエはプレイヤーに参与性がある(主人公はプレイヤー本人)という点から、
マクルーハン的に言えば、それは冷たい。しかもそれは意図的に冷たい。

一方、FF(ファイナルファンタジー)シリーズは熱い。
シリーズ2作目の時点で、登場人物達にはドット絵の顔があった。
顔以外にも、その世界の解像度は比較的高く、武器や魔法のエフェクト等も、
氷の呪文なら氷らしく、一段強い魔法(ブリザド→ブリザラ)ならそれらしく、
剣や斧や槍や杖や本なら、そのように見える映像で、別個に差別化されている。
普通の魔法でいいのに召還魔法というジャンルがあるのも、そのエフェクトが大事だからだ。
RPGとして、最先端でリアルさを追求していたのはFF(というかスクウェア)だった。
プレイステーションで発売された7作目の時点で、主人公達の解像度は敵とほぼ同じだった。

ちなみに女神転生はファミコン版の「デジタル・デビル物語 女神転生」の時点で、
つまり1作目(!)で、ステータス画面にヒーローとヒロインのドット絵が表示されている。
女神転生は敵キャラをそのまま仲魔にできるシステムだからか、主人公も敵も、
その解像度はほとんど同じだ。ペルソナ、デビルサマナー以降はそうでもないけど。


ハードの進歩は、通常、ゲームの解像度を高くする。つまり熱いメディアにする。
グラフィックはリアルになり、様々な音声や効果音も表現できるようになる。
ソフトのイラストから想像するしかなかったドット絵のスーパーマリオも、
今では当たり前のように3Dの身体を持ち、「イーヤッホー」とか叫んでノリノリである。
静止画だったドラクエのスライムも、体当たりで攻撃することが明らかになり、
イコンだった敵キャラは、腕を振り上げ、ラリホーで眠りこける身体を持つに至った。
Wiiの最新作では主人公以外、大臣も門兵もゴーレムも当たり前に喋っている。
僧侶キャラからは変なあだ名で呼ばれる始末だ。私なんか「チャッピー」呼ばわりだ。


ともあれ、このようなハードの進歩は、熱いFFにとっては有利に働いている。
FFの目指すところが、映画(これも熱いメディア)のようなゲーム世界なのは明確だ。
美麗なグラフィック、ド派手なエフェクト、リアルな登場人物こそがFFの真髄だ。
実際、FFのチョコボは初登場(ファミコン版の2)以来、随分とリアルになった。
チョコボは記号であることをやめ、画面の中で実体を持つ道を選んだようだ。
デフォルメされたチョコボも健在だが、その背後には既に実体が備わっている。
FFは今後、兵馬俑のように、街の人の顔が一人一人異なるゲームになっても不思議は無い。
絵画で例えるなら、FFはダリの『聖アントニウスの誘惑』に似ている。
この劇的で緻密な絵画は、如何にもゲーム後半に登場する召還魔法のように見える。
実際、ダリの写実力は美術史の中でもトップクラスだ。つまり解像度が高く、熱い。
1945年の『パン籠(恥辱よりは死を)』の、粉の吹き具合なんかは超スゴイ。


一方、ドラクエの場合、ハードの進歩から一歩退いたところに世界観を広げている。
それは鳥山明の作画を放棄しないし、スライムはあれ以上リアルにはならない。
どんなに生き生きと動いて見せても、それらは記号であることを忘れていない。
それはミッキーマウスやハローキティ、その他諸々のキャラクターが、
ぬいぐるみや動画になっても、決してリアルにはならないのに似ている。
チョコボは新種の鳥になったが、ミッキーもキティも新種の鼠や猫にはならない。
記号であることこそが、それらの本質だからだ。それはドラクエのキャラにも言える。
だからどちらかと言えば、ドラクエは漫画に似ている。そして漫画は冷たいメディアだ。
絵画で例えるなら、ドラクエはボスの『聖アントニウスの誘惑』に近い。
その絵では、画面いっぱいに空想的でコミカルなモンスター達が暴れている。


「聖アントニウスの誘惑」とは、聖人のスキャンダルを描いた題材だ。
聖人としての修行をしなければならないのに、誘惑に襲われるのがスキャンダル。
未成年アイドルなのに、煙草を吸ってしまうのも(普通の意味での)スキャンダル。
勉強をしなきゃいけないのに、TVゲームをしたくなるのもスキャンダルだ。
それは悪魔の誘惑であり、人の欲望につけ入り、人間を自滅させる躓きの石だ。
ダリの聖アントニウスは、幻影をじっと見据えて十字架を突きつけている。
マクルーハンによれば、高解像度なメディアは人間を視覚中心に改造する。
ダリの聖アントニウスは幻影を「見ている」。その時点で悪魔の誘惑は成功している。
ちなみにダリの同時代人のエルンストが描いた『聖アントニウスの誘惑』では、
聖アントニウスは両端から、モンスターに体を引きちぎられそうになっている。
その両目は恐怖からか、何も見据えていない。エルンストの絵はダリよりもボスに近い。

で、そのボスの聖アントニウスは、そもそもどこにいるのかわかり難い。
T字の杖などの共示義で見分けることができるのだけど、知らないしそんなこと。
聖人は絵の中心で、半壊した塔にひざまずき、中にあるキリストの像に祈っている。
聖アントニウスは幻影を見ていない。見ていないが、見えているし、全身を巻き込まれている。
それは部族的で神話的だが、これは、表音アルファベット以前の、冷たいメディアの特徴だ。
聖アントニウスは異界の中で誘惑に耐え、退けている。誘惑は全方位から襲ってくるから、
十字架を突きつけることはできない。だからボスの聖人は体を丸めて神に祈るのだ。


TVゲームは私達を誘惑する。それは躓きの石であり、悪魔の囁き、スキャンダルだ。
それは、しなければいけない宿題を放り出して、コントローラーを握るように誘惑する。
ダリの聖アントニウスは、リアリスティックな幻想、視覚的なものに誘惑されている。
ボスの聖アントニウスは、視覚に限らず全感覚的に、異界全体から誘惑されている。
ドラクエやFFの誘惑の仕方も、これと似たようなものだ。そういうことが言いたい。


ドラクエの次回作はニンテンドーDSから発売されるらしい。解像度の低い携帯ゲーム機だ。
そもそもドラクエは、一番売れているハードで最新作を出すというスタンスらしいが、
それにしても最初聞いたとき「あれ? PS2じゃなくて?」と思った人も多いだろう。
このスクウェアエニックスの決定も、ドラクエは冷たいと考えると腑に落ちる。
参与性を売りにしているドラクエには、解像度の高いハードに追随する理由が乏しい。
むしろDSなら、携帯できてTVもいらないから、シリーズ最高の誘惑度になるだろう。
ドラクエ7なんか、スーパーファミコンで出しても良かったくらいだし。
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2007年09月03日

マクルーハンの『メディア論』

ワケがわからないことで有名なメディア学の嚆矢、マクルーハンの主著。
こんな論文を学生が提出したら、多くの担当教官はやり直しを命じるだろう。
言ってることがどれもピンとこないのは、時代や国が違うせいなのだろうか。
たびたび出てくる「ロシアは口誦文化的」って、実際にそうなのだろうか?


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マクルーハンの言う「メディア」の意味は広い。「道具」と脳内変換した方がいい。
間違ってそれをテレビやラジオ、新聞としてイメージするとワケがわからなくなる。
人間の身体を延長し、能力を拡張するものは全部メディア。言葉だってメディアだ。
この本の第二部ではアルファベットと同数の26のメディアが各論として取り上げられている。
そこにはテレビやラジオや新聞だけでなく、時計やタイプライター、数、衣服の項目もある。


人間や社会にとってメディアとは何であろうか?
それは単なる道具であり、人間によりコントロールされるべきで、
使い方次第では既存の秩序を破壊しかねないモノなのだろうか?

「現代科学の産物はそれ自体でいいとかわるいとかいうものではない。その価値を決めるのはその用い方だ。」(p.11)

こういう類の意見は、よく聞くし、よく口にすると思う。
DVDや漫画自体は良くも悪くもない? エログロ暴力や海賊版が悪いだけなのだ?
マクルーハンによれば、これは現代の夢遊病者の意見であり、首肯できない。
新しいメディアの影響力は、そのコンテンツ以上に、メディアそのものが孕んでいる。

例えば、活版印刷により、知識は紙の上に、安価に、大量に蓄えられるようになった。
これにより教育は、それまでのオーラルコミュニケーションから、
机に向かって教科書を読み、試験でその習得率を量るというスタイルへ変化する。
それだけでなく、図書館に通い、そこにある本を読めば知識が得られる時代には、
それまで知識の貯蔵庫だった、生き字引の、博識な賢者、つまり老人一般は、
知識を得るメディアとしての役割を、多かれ少なかれ喪失することとなる。
土地の長老、即戦力として敬われていた高齢者は、活版印刷によって牙を奪われ、
儒教で言う「考」の乏しいコミュニティでは、不幸にも疎外されるかもしれない。
この老人達にとって、その最新のテクノロジーは、価値中立的なモノでは全く無い。
新しいメディアの形式そのものが、既存の秩序に変更を余儀なくさせたのだ。


こういう状況をして、「メディアはメッセージである」とマクルーハンは言う。


上の例は社会的な変化の事例だが、人間の感覚的な側面もメディアによって変化する。
表音アルファベットは視覚の機能を強化し、聴覚など他の機能を縮小させる。らしい。
マクルーハンはそこから、西洋的な時間・空間概念、個人としての非部族的な人間、
部分的、分析的、専門的、線条的な思考の誕生、その他諸々を結び付けている。


いったん文字文化が細分化という分析技術を受け入れてしまうと、部族人のように宇宙のパターンにほとんど近づけなくなってしまう。開かれた宇宙よりは、分離された状態、仕切られた空間のほうを好む。自己の身体を宇宙のモデルとして受け入れたり、自己の住宅を――あるいは、それ以外のいかなるコミュニケーションのメディアをも――自己の身体の祭式的拡張であると見たりする傾向がなくなる。いったん人がこの表音アルファベットの視覚的力学を採用してしまうと、宇宙の秩序や祭式が身体器官やその社会的拡張として再起反復するという、部族人がとりつかれている考えを失い始める。しかしながら、宇宙的なものに無関心になることによって、微細な断片や専門の仕事に強烈な集中がなされることになり、それが西欧人の独特の力となっている。専門家というのは、小さな誤りをけっして犯さない反面、巨大な誤謬に向かって動いている人のことである。(p.125)


人は手にした道具に似るらしい。印刷された地図から世界を見る者は、
実際に荷を背負ってその川を渡り、砂漠を越えた者とは違う世界を見ている。
『メディア論』(p.160)には、息子が地図上で、自分が移動した道程を、
マイルの単位で軽々しく測ったことに対して憤る父親の話が載っている。
印刷術の無かった時代の地図は、冒険者の個人的な経験を記した日記だった。
世界は、その、個人の手垢や血でズタボロになった平面上に広がっていた。
印刷術がその手垢や血の痕跡を払い落とし、世界の空間は経験から離れ、均一にされた。
現代の独裁者は、地球儀の風船と戯れ、それで世界を征服したと思っている。
現代の一般人は、映画のそのシーンを見て、世界がもてあそばれたと思っている。
そこでは双方ともが迂闊なのだ。地図、映画、兵器というメディアが全員を麻痺させている。
しかも、その全てが、西洋の表音アルファベットがもたらした産物なのだと言うから胡散臭い。


前にも触れたけれど、ハイデガーによれば、古代ギリシアで「知る」と言えば、
それは「身をもって思い知る」というニュアンスだった。
前述の、重い荷を背負って旅をした父親は、地図を眺める子供より地理を知っている。
しかし現在、「冒険者は、ただ地図を眺めている者よりも世界を知っている」
という定理を真剣にとらえてはいけない。時代は宇宙の世紀に片足を突っ込んでいる。
荷を背負って天の川を渡り、銀河の果てから地図を持って帰還することはできない。
だから最新のメディアである観測機器を眺めて、マイルで測って宇宙を知るしかない。
現代の宇宙関係者達は、宇宙というより、宇宙の広さを「思い知っている」だろう。
それは、地理は知らないけれど、地理の試験の難しさを思い知っている学生に似ている。
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2007年08月29日

寛容論概説 〜心学とポストモダン〜

江戸時代の大阪人は勉強熱心で、商人層を中心に「心学」というのを学んでいた。
心学とは儒学、神道、仏教、道教等からインスパイアされた江戸時代の倫理学。
18世紀頃に石田梅岩・脇坂義堂によって体系化され、普及された学問で、
Wikipedia に脇坂義堂の項目が無くてビビッたんだけど、それはともかくとして、
日本版カルヴィン主義とも、日本のCSRの原点とも言われている、らしい。
資本主義を知らない時代に、そういう思想があったことはもっと評価されてもいい。


一言で言えば、心学は忍耐の学問。「忍徳教」と称する場合もあるくらい。
当時の商人は、カースト制度の中で、武士相手に金貸し等の商売をしていたワケで、
一つ間違えば力や刀任せに無理を通され、理不尽な顛末になりかねないワケで、
身分が下の存在として、我慢することがサバイバル術の一つになっていたのだろう。

心学とは直接の関係にはないらしいけれど、当時の関西で流行した道歌に、
「堪忍のなる堪忍が堪忍か ならぬ堪忍するが堪忍」というのがある。
ロジックとしてみればこれはムチャクチャで、論理的には破綻している。

「ならぬ堪忍するが堪忍」という言葉は、堪忍できないと思っている主体を食い破っている。
既に差異化され、アイデンティファイされた自我のヴァージョンを変えようとしている。
私みたいに、中途半端にポストモダンを齧っている輩には、ここら辺にデリダを見る。
そもそもデリダの論には、正義といい贈与といい、「不可能だけど、でも」というのが多い。


デリダの寛容論も、「赦せないものを赦す」という不可能性から出発している。
そこら辺は『テロルの時代と哲学の使命』(岩波書店)あたりが文献として簡潔。

西洋の寛容論でよく引き合いに出されるのが「ナントの勅令」の件。
16世紀末、異教徒だったユグノー派に対し、アンリ4世が、
「王権とカトリックの至高性に疑義を唱えない」という条件付きで、
近代ヨーロッパで初めて、信仰の自由を認めた、というもの。

んで、これって寛容? アンリ4世って優しい? という話で、
ハーバーマスやデリダは、このナントの勅令を家父長的なエセ寛容として批判している。
要するに、「俺達は絶対に正しいし、絶対的な優位に立っているし、人格的にも素敵だから、
お前らみたいなモンにもお情けで信仰の自由を認めてやる。ホンマ松本さんの優しさは
五臓六腑に染み渡るでぇ〜(by ガキ使)。でも王政や教会に文句言うなブッ殺すぞ。」
ということで、堪忍のなる堪忍が堪忍じゃないように、我慢できる範囲内で我慢して、
相手側が寛容の臨界点を突破した時点で、つまり条件を破った時点で反故にされるような、
そんな寛容は寛容じゃない、全然優しくない、嬉しくない、ということが言いたい。


16世紀とか18世紀とか言ってるけど、寛容の問題はタイムリーな話だ。
「タイムリーな寛容の問題」と言ってもピンとこないかもしれないが、
同じ意味で、「不寛容の問題」だと言うと実に現代的になる。
「ならぬ堪忍するが堪忍」という不可能な倫理は、常に現在進行形でここにある。
このアポリア――語源は「通行不可能」――からポストモダンは始まっているが、
とは言え、「堪忍のなる堪忍が堪忍よ ならぬ堪忍せぬが肝心」という開き直りが、
町人の台頭と武士階級の弱体化が影響して、19世紀初頭に流行していたりして、
進むことのできない地点「から」歩み始めるデリダの脱構築や心学の堪忍は、
不寛容だった20世紀の衣鉢を継ぐ21世紀の中で、その真価を試されている。
posted by 手の鳴る方へ at 06:34| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月15日

『哲学、脳を揺さぶる』

『哲学、脳を揺さぶる』(河本英夫 日経BP)を読む。

日本でオートポイエーシスといえば河本英夫、ってくらいスゲー人。
本の内容が、今現在の私の関心圏ととても重なっているので良い。

イリヤ・プリゴジンの散逸構造の話とか、荒川修作の天命反転住宅とか、
バックミンスター・フラーのテンセグリティとか、興味深い話も多々。
フラーレンの模型なんかは、夏休みの工作の宿題にもピッタリだよね。


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観点や視点によって世界が捉えられているとするのは、まだ認識論の世界である。その場合は、見方を変えれば世界が変わるというような認識の枠が前面に出てくる。新たな見方を学び、新たな観点で物事を捉える仕方を学ぶという作業は、学習の基本に組み込まれているが、いまだ認識論の話である。この場合、仮に新たな見方を学んでも、明日元に戻すこともでき、明後日再度新たな視点に切り替えてもよい。視点の切り替えができるというのは、認識論の大前提であり、そのとき正しい視点や観点を学習することが課題になる。(p.220)


認識論とか世界の見方は、人の理性や悟性、まぁ何と呼ぼうがどーでもいいけど、
「知」という側面に関係している。この本はその「知」の前段階について語っている。

つまり、世界の解釈の仕方ではなくて、与えられた世界の現れ方が問題となっている。
もっと言葉を重ねれば、身体によって体験される、そもそもの現象としての世界。
Aという風にも、Bという風にも、CやDやEという風にも見ることができるであろう、
色々な解釈の原因となる「知」やイメージの地平。無尽蔵に湧き上がる問いの源泉。
そのような、身体を包括して、感覚に訴えかける環境について、
厳選されたトピックが惜しげもなく紹介されている。


「知」はこの前段階のほんの一部でしかない。脳で言えば大脳皮質の一部分。
受け取られた世界のほとんどは言語化・抽象化されることもなく、
個々の身体の中に、内的に、非言語的に、交換不可能な姿で現れている。
この身体が受け取る世界の豊穣さに比べれば、「知」の把握する世界は大したこと無い。
「知」は世界の要約、しかも結構恣意的な要約だ。多くの物事を反故にしている。


そういう「知」なんてせせこましいモノを追い求めるだけじゃ物足りない。
ストックした知恵を、特定の状況下で機械的に当てはめて嬉々とするのもダサい。
たくさん本を読んで知識量を誇ったところで、現代はウェブ2.0の時代だし、
Wikipedia に代表される Wisdom of crowds と競うのも馬鹿馬鹿しい。
情報のストック、インデックス化に限れば、脳よりもパソコンの方が圧倒的に勝ってる。


だからそういう「知」とは違った頭を鍛えるエクササイズとして、この本はオススメ。
posted by 手の鳴る方へ at 02:35| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

ホピ族の場合

相手のブログに書こうと思ったけど、長くなったからこっちに書きます。

ホピ族の時間概念についてですが、こういうことじゃないかと思うのです。

例えば、宇宙が始まってから現在まで、ものすごい時間が過ぎ去っていて、
それが山のように積み重なっている、というイメージを持つのは可能だと思います。
それは、それこそ砂時計の、落ちる砂のようなイメージだと思います。

でも、ホピ族の場合、そういうイメージで時間を捉えていないのではないか。
ウォーフの本にも書いてありますが、ホピ族は時間に関して基数的な思考をしていない。
それは常に単数で、序数的なものとして考えているようです。(『言語・思考・現実』p.103〜)

たとえばここで、アルファベットのAが点滅していると想像してください。
ここには2通りのイメージの仕方があり得るように思うのです。
1つ目は、Aが現れて消えるたびに、過去へとAが積み重なっていくイメージ。
2つ目は、同じAがひたすら点滅しているだけのイメージです。

西洋は1つ目のような発想をするようです。
Aが積み重なる、と言うとき、そこには複数個のAが前提にされています。
ここでは、目の前にあるAは常に一つですが、これを例えば残りの9つとまとめて集合化して、
10のAがあると言うことができます。Aの点滅する間隔が1秒なら、10秒あったと言います。
見落とされがちですが、このAの集合は、同一空間上に無いにも関わらず、空間的に扱われています。
つまりこれは比喩表現なのですが、それを客体化したのが西洋のスゴイところです。
時計の針は回り、カレンダーはめくられ、西暦はキチンと一つずつ増えています。


ホピ族の発想は2つ目です。10人の子供が教室にいる、とは言うみたいですが、
それはあくまでも空間的に集合として捉えられる場合に限られます。
目の前にある時間は常に一つです。朝、昼、そして今現在の晩にAさんがいたから、
その3つのAさんを集合化して3人のAさん達がいる、とはあまり言わないように、
ホピ族は、10の時間(例えば Ten days という複数形)があるとは考えないようです。

ウォーフによれば、ホピ族では He is runnning. も、He ran. も同じ言葉で表現します。
(ただし、それを聞く人間が、He が走っているかいないか、見てわかる状況下にいる場合。)
ホピ族では、たったいま点滅したAも、西洋風に言って一時間前に現れて消えたAも同じです。
だからHe がたったいま走っていることも、He が一時間前に走っていたことも同じと考える。
聞き手は、いま走っているか、走っていたかは見ればわかるので、時制で区別する必要も無い。

基数的に考えていないから、ホピ族の時間は量的には積み重なりません。
One plus two equals three. ですが、First plus second equals third. ではない。
X軸に時間を、Y軸に落下距離をとり、自由落下速度を求めることも出来ない。
ただ、だからホピ族は客観的に世界を説明できない、というワケではなくて、
ホピ族にはホピ族なりの方法、というか秩序で、世界について上手に説明できるだろうし、
もちろん彼らにも記憶はあるし、思い出も、心理的な時間もあるはずです。

ホピ族に時間概念が無い、というのは、あくまでも西洋的な時間概念が無いということだと思います。
ただ、西洋的な時間概念を持たないことがどういうことかはイマイチわかりません。
posted by 手の鳴る方へ at 06:26| Comment(1) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月28日

人事担当官様が見てる

今月の上旬に読んだ春山直樹の『 〈遅れ〉の思考―ポスト近代を生きる 』の数ページ目に、
オーディット文化」という、グーグルで検索しても1件もヒットしない単語がある。
でもまぁ、「監査文化」とか"audit culture"でググったら結構な数のサイトがヒット。
英語圏ではそこそこ使用されているテクニカルタームなのだろうと思いました。


Auditとは会計監査のこと。
で、オーディット文化とは、簡単に言えば説明するのが普通な文化のこと。
「自分で自分を監視し、客観的な基準によって自己を診断して、他者へと開示するように命じる」
そういう文化というか、市場化に伴って現れた統治のためのシステムみたいなモノで、
現代人の内面や良識に食い込み、人格形成にも影響し、自律性すらも脅かしている。

と、この説明ではイマイチわからないし、自分でも書いていて嫌になる。
見方を変えれば、auditionならオーディションで、こっちの方がイメージし易い。
それはまさに選別の空間で、私達は選評され、吟味されるような文化の中にいる。
そして吟味され、選評される私達は、自ずと、自分自身で自分を吟味、選評している。

そこで眼を光らせている選評者こそが、権力としての人事担当官に他ならない。
現代人にとって人事担当官の視線は、パノプティコンの虚ろな監視窓なのだ。


私達は人事担当官のために自分という人間を説明しなければならない。
人生、社会、経済、携わっている仕事等についても意見を求められる。
しかも人間性、コミュニケーション能力等、そういう部分も覗かれる。
多くのビジネス関連の本、雑誌は、人事担当官のまなざしの上にある。
頑張らないと社会人失格の烙印を押されて生活が大変になってしまう。
だからみんな自己を規律化して、自ら進んで素敵な社会人へ邁進する。
そこでは精神や身体、言葉、立振舞いなど、全人格が賭けられている。


こういう生き方は息苦しいかもしれないが、辟易してみせるだけなら簡単だ。
それは簡単だから大した意味はないし、一人だけ檻の外に出ても遣る瀬無いだろう。
例えば町田康の小説みたいに「っれぇー? おっかしぃなぁーん?」ってアホ面さげて、
うどん啜っているような、何者でもないし、何者にもなれない現代人丸出しで生きる羽目になる。


ちなみに町田康本人は、彼のコラムによれば、いつ店主の気が触れるか知れないから、
喉元に剃刀を押し当てられるような床屋・理髪店なんかには行きたくないらしい。
理髪業はしかるべき組織、社会から管理され、その技術は免許の形で制度化されている。
そこで鋏を持つ人間も、十分な基礎教育を受け、自己自身を管理できているはずだし、
簡単に気が触れてしまう人間は、早期に病院へと送り込まれ、治療を受けているはずなのだが。

オーディット文化は、全てを想定内へと収斂させることに全力を注いでいる。
それは不確定要素を排除し、安全・安心第一の生活空間を大規模に演出する。
が、この演出を、この現代の作家は全く信用していないし、理解していない。
それはある意味で正当な態度で、例えばこれが理髪ではなく年金の話になると、
それなりに多くの人が「信用してない」と口にするし、実際に年金も払わない。
そもそも行政官のしょーもないミスで、支払った年金が未納の扱いになって、
しかも説明責任も事後フォローも不十分とは、オーディット文化にあるまじき話で、
これは権力の土台を揺るがし、安心・安全な社会の演出を害する出来事だと言っていい。

だから町田康の危惧は間違ってはいない。十分に正しい。
正しいが、その正しさは社会に出た途端、マッチの火を水に入れたように雲散霧消する。
私達はそういう社会の中に生きているんだよ、と、今回はそういう話。
posted by 手の鳴る方へ at 01:27| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月12日

〈遅れ〉の思考

『〈遅れ〉の思考―ポスト近代を生きる』(春日 直樹 著 東京大学出版会)を読む。


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フリーターとかフィジーで起こった民族運動とか、人食いを目の当たりにした宣教師とか、
太宰治とか、ハムレットとか、『テンペスト』とか、そういうものについて考えながら、
同時にポスト近代の生き方についても考えてみる、哲学と文化人類学の本。
この説明を聞いても「はぁ?」としか思わないだろうけど、そういう本。

タイトルに「遅れ」と銘打ってあるけど、具体的な説明は無い。
定義付けを先延ばしにされたこの「遅れ」を、思い切り噛み砕いて翻訳すれば、
「届かないし追いつけないから、私達は何度も何度も繰り返してみせるけれど、
他ならぬまさにそのことによって、私達は届かないし追いつけないのです」
と、こんな具合になるだろうか。「はぁ??」としか思わないだろうけど。

この「遅れ」の反対語は「先取り」になるのだろう。
どこかで鷲田清一が書いていたが、現代のビジネスっぽい言葉は、
どれもこれもPro- という接頭語のオンパレードで、現在と未来を結びつけることに必死だ。
プロジェクトとか、プロダクトとか、プロセスとか、そんな単語のことだ。
本来、不確定だったはずの未来が、現在の中で奇妙に安定した位置を占めている。
未来とはそういうものでなければならないという強迫観念すら今の社会にはある。

んが、「遅れ」の生き方はそうでない。
曖昧さは継続し、人間は受け身でひたすら未来の到来を待っている。
「待つ」という言葉を使うことで、現在と未来が不用意に繋がりかねないのなら、
「未だ無い」と言い替えてもいい。要するに彼は何もしていない。無だ。
「はぁあん???」としか思わないだろうけれども、そういうことだ。

非常に乱暴に、しかも本書に即さずに言ってしまえば、
問題に対してプロジェクトを立ち上げ、プロセスに従って解決するのが「先取り」の思考。
問題に対して「南無阿弥陀仏」と念仏を反復して動かないのが「遅れ」の思考。


ポスト近代とは、別に祈らなくてもまぁ大丈夫だと、みんなに思わせている社会のことで、
それは哲学についても言えるらしい。デリダの歓待論と何が違うのか私にはわからないが。


じゃあ「遅れ」の思考って駄目じゃん?
確かに駄目なんだけど、祈らざるを得ないのも人の業で、
クールな「先取り」思考の中にも、こういう祈りの瞬間は内在している。
解決に至る道に横たわる断絶が深いほど、社会人としての思考は空転して、
あらゆる問題は、本来計測不可能だということを思い知らされる。
神なんかいないに越したことはないんだけど、「苦しいときの神頼み」だ。


ちなみに、この本は念仏については何も語っていない。私が付け加えただけだ。
この本に書かれてあるのは、「遅れ」の思考は、ポスト近代にも常に内在していると、
単にそのことを語っているだけで、最後まで「はぁ?????」と思われただろうが、
普段慣れ親しんだ考え方とは別の思考があるのだ、役に立たんけど、と、
そんな身も蓋も無い感じで覚えておくのもいいだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 05:30| Comment(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月29日

僕はカンタンに想いを重ねたりはしない 〜尾崎豊再考〜

知り合いの女の子が大学生になっていたので、その関係で話をする機会があった。

「最近の子供は尾崎豊に共感しないらしいね。子供も変わったね」って話をしたら、
「いつの時代も大人は子供に文句言ってるよね。大人は変わんないね」とのこと。
こういう返しを日常会話でできる人は大好きです。おじさんは感動しました。


香山リカや吉岡忍、あと私みたいな大人とティーンエイジャーの関係は、
批評する側/批評される側、言葉を持つ側/持たない側と言い換えることができる。
大人は基本的に傲慢で、メンツとかもあるし、しかも大抵は勘違いしているので、
社会とか世界とか人生とか物事の価値について何か知っている気になっているし、
時々それを偉そうに語ったりもするワケで、ましてや相手が子供だとわかったら、
「俺はこいつよりは物事をよく知っている」と確信するから、つい身の程も知らず、
子供に対して子供について偉そうに語ってしまい、「最近の子供」扱いして満足してしまう。

大人は一度は子供だったのだから、子供の気持ちは知っている、というのは大嘘で、
15歳の頃の気分を、30歳のオッサンが自分のことのように覚えているなんてことはない。
15歳の自分と30歳の自分が同じ「私」であるという自己同一性は形而上学そのもので、
そういう近代的な自我はよく考えればおかしい。それは同姓同名の赤の他人みたいなものだ。
と、保坂和志がこういうことを言ってそうだし、哲学者ではジャック・デリダっぽい言い方だ。



尾崎豊は言葉を持たないローティーンの代表者扱いされているものの、
尾崎自身、正しいティーンエイジの言葉なんか持っていないし、持ったこともなかった。

当時、尾崎以上に適切な言葉でティーンエイジの民意を代弁できる大人はいなかった。
で、実際、尾崎の言葉、つまり歌詞に共感する特定の支持者がいたのも確かで、
結果として、彼はティーンエイジャー全体の代弁者みたいになってしまった。
選挙で選ばれた代議士は、制度によって、便宜的に国民全体の代表者として扱われるが、
もちろんそれはあくまでも便宜的に過ぎなくて、実際の民意はもっと複雑だし意味不明で、
しかも対立していることも多く、一人の人間によって代表可能な代物ではない。
尾崎が「正しいティーンエイジの言葉」を持っていなかった、とはそういうことで、
尾崎イズムに反発するティーンエイジャーは、いつも一定数存在しているはずで、
それを無視して部外者の大人達が、普遍性とか道徳の名の下に尾崎を持ち出してしまった。
ちなみにここら辺の話の仕方はデリダの表象論そのまま。スタンダードな記号論でもある。


こういう見方をすれば香山リカ達の言い草はひどく近代的な発想でしかなくて、
ある人物に普遍性を見る、というか見てしまう、というその身振りそのものが古い。
古いけれど、ただ古いだけなら別に悪くなくて、古いものを新しい人類に押し付けて、
「あれ? こういうのって苦手? 駄目じゃん」ってほざいてるのが無礼千万だ。
普遍的な代議士なんかいないように、ティーンエイジャーの普遍的な代弁者もいない。
こんなことはわかりきっているはずなのに、大人はついつい普遍性を語りたがる。


普遍性なんか嘘臭い、と思う心性は相対主義的で、もっと言えばポストモダン的で、
さっきからデリダの名前を出しているけれど、要するにこれがポストモダン的な話で、
デリダのこういう議論から30年近く経っている、ということを暗に言いたいワケで、
今の子供達は、生まれる前から、こういうポストモダン的な社会の中に投げ込まれている。
とりわけオウム真理教の一連の事件以降、宗教的なものを毛嫌いしている人達は多く、
彼らは神や真理、絶対性とか普遍性を、それこそ全く、全力を注ぎ込んで信じていない。
カリスマと言う意味では麻原も尾崎も同じようなもので、気の利いた2ちゃんねらーなら、
「儲」呼ばわりして、この程度の類似性でも鬼の首を取ったように突っ込んでくるだろう。
実際、チープではあるけど、それにはそれなりの批評性があって、反論は面倒臭い。
面倒だけど、そもそもそれ自体、批評でしかなくて、「麻原も尾崎も同じ」という意味づけも、
「尾崎には普遍性がある」という意味づけも、どちらも傲慢な大人の身振りに過ぎない。


要するにいまの時代、権威や体制ではなくて、この身振り自体に違和感があるんじゃないか?
「大人は卑怯だ」とか何とか、それなりに賛同者を得た、尾崎豊が抱いた違和感とは別種の、
「大人は変わらないね」と、クールなシニシズムに裏打ちされた大人への違和感が。

香山リカも吉岡忍も、ひねくれた2ちゃんねらーも私自身も、言葉を持って批評して、
何事かについて核心を突いた気になっているし、ネットの環境がそれを加速させているけど、
言葉は適切に物事を言い表さないし、言葉を持っている人間は代弁者として碌な奴がいない。
「100万人のために唄われたラブソングなんかに、僕はカンタンに想いを重ねたりはしない」と、
J-POPで歌われ、この歌がグレートティーチャーなアニメの主題歌だったのも随分と昔の話だ。
どこにも重ならず、言語化されず、宙吊りになったこの想いの方が、まだ普遍の名に相応しい。
批評や尾崎豊の言葉はその後から立ち現れるだけだ。


冒頭の女の子は、そういう言葉からスッと身を引いて、毒のあるユーモアを吐いた。
それは大人の言葉なんかに、僕はカンタンに想いを重ねたりはしないという、
新しい人類の新しい身振りだったのかもしれない。
posted by 手の鳴る方へ at 11:45| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月06日

酔っ払いの見た世界

花間一壼酒,
獨酌無相親。
舉杯邀明月,
對影成三人。
月既不解飮,
影徒隨我身。
暫伴月將影,
行樂須及春。
我歌月徘徊,
我舞影零亂。
醒時同交歡,
醉後各分散。
永結無情遊,
相期※雲漢。



(※は貌にしんにょう)


上の漢字の列挙は詩仙・李白の「月下独酌」という漢詩。
詳しくはここを見ればいいと思うよ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/rs32.htm


春をテーマにした漢詩と言えば、孟浩然の「春暁」(春眠 暁を覚えず……)とか、
詩聖・杜甫の「春望」(国破れて山河在り……)とか色々あるけど、
私はこの「月下独酌」のクルクルパーな世界観が大好きだ。

詩の内容は、一人で酒を飲んでて面白くねーなぁ、と思っていた李白が、
そこにあった自分の影と、空に浮かぶ月を見つけて戯れているだけ。

意訳するとまぁこんな感じ。


花が咲いてるから酒を持ってきたけど一人で飲んでもつまんねぇなぁ。
って空を見れば、月があるじゃん。イエーイこっち来いよ月、一緒に飲もうぜ。
って足元には影がいるじゃん。お前もこっち来いよ。三人で飲もうぜ。
月は下戸だし影は俺の真似ばっかだけど、関係ねーや楽しめりゃどうでもいいよ。
だって今は春だし、こんな素敵なトゥディを無駄に過ごすなんてもったいないよね。
俺が歌ったら月はフラフラしてるし、俺が踊ったら俺の影もなかなか踊るんだこれが。
で、酔っ払って一緒にバカ騒ぎして、その後は各自、現地解散。
こういう関係っていいよねー。次は天の川でやろうぜイエーイ。




最後の二行は恐らく素面で言ってるからスゴイ。
人や月や影を一体何だと思っているのだろう。

ここに西洋形而上学を持ち込むのは随分と無粋なことだけど、
私達を取り囲んでいる、いわゆる「客観的な」客観世界が、
ここまでただの酔っ払いに振り回されているのは痛快だ。
ああもう主‐客とかどうでもいいや、って気にさせてくれる。
自然科学が世界や人間について教えてくれるのとは違う形で、
このアルコホリックの詩は世界や人間について教示してくれている。

もっと言えばここには「天と地」とか「光と闇」とかの二項対立もあって、
これっていかにも「善と悪」って漫画的な(というかキリスト教的な)
記号付けがされそうなんだけど、李白はこの二項対立に挟まれた世界のど真ん中で、
「そんなの関係ねーよ一緒に飲もうぜだって春じゃんかイエーイ」
って感じで一緒くたにしているのもいい。酔っ払いは差別しない。

というか世界の眺め方として、こんなに面白い視点はそうそう無い。
理性でも悟性でも何でもいいけど、そういうのを通して見た世界がいかに一面的かがよくわかる。
posted by 手の鳴る方へ at 08:41| Comment(2) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月24日

入門・政治哲学

『ザ・フェデラリスト』
(A.ハミルトン, J.ジェイ, J.マディソン 著 斎藤真・中野 勝郎 訳 岩波文庫)
を読む。

合衆国憲法を作ろうと思い立った際、じゃあどんなconstitutionがいいの? ってことになった。
で、何人かの頭のいい人達が、新聞紙上に匿名で自説のキャンペーンを展開する。
それをまとめたのがこの本。その人達のスタンスが人呼んでフェデラリズム(連邦主義)。
新聞に投稿された全85篇のうち、31篇が翻訳されている。



はっきり言って面白く無い本だったけど、それでも以下の文章にはハッとさせられた。


およそ人間の理性が誤りうるものであり、人間がその理性を自由に行使しうるものである限り、相異なった意見が生ずるのは当然であろう。人間の理性とその自愛心との間につながりがある限り、その意見と感情とは互いに影響し合う。意見には感情がつきまといやすいものである。人間の才能が多種多様なものであるところから財産権が生じるのであるが、それと同様、人間の才能が多様であることにこそまた人間の利害関係が同一たりえない基本的な原因がある。そして、こうした人間の多様な才能を保護することこそ、何よりも政府の目的なのである。財産を獲得する多種多様な才能のどれをも等しく保護する結果、その程度と種類とを異にするさまざまの財産の所有がただちに生ずる。これらの事情が個々の財産所有者の感情や見解に影響を及ぼすのであるが、その結果として、社会はさまざまの利益群と党派とに分裂することになる。
(p.54〜p.55 「第10篇 派閥の弊害と連邦制による匡正」 1787年11月22日 マディソン)



この文章はそのまま、例えば20世紀のハイエクの筆で書かれていてもおかしくない。
ちなみに「匡正」は「きょうせい」と読むんだってさ。


この第10篇が問題視しているのは立法の場面での党派性の問題だ。
国全体について考慮すべき立法府の議員は、国全体のためになる法を作るべきだが、
どいつもこいつも自分達の利害関係を背後に持ちやがって、それはまぁ仕方が無いけど、
多数決で法を決める場合、多数派の利害が国全体の利害として法制化されてしまう。
それって不公平だし、ズルイよね。少数派がいっつも損をするなんて嫌だよね。

ということで、マディソン達がこの問題をどう解決しようとしたかというと、
多数派が議会の絶対者にならないよう、共和制(代議制)を採用し、議会の規模を拡大して、
そこに参加する党派の数を増やし、意見や利害を多様にし、一党が突出するのを防ぎ、
それでもって普遍的な立法を目指そう、というものであり、それができるconstitutionは、
そうです私達が主張する連邦制なのですイエーイ、という話になるわけで面白い。



ちなみにこれに不満だったらしいのがフランス革命を生き抜いたコンドルセ。
政治家にして教育者、箴言家、そしてルソーも連なる啓蒙思想家でもある。
チョー有名なドイツの法学者、カール・シュミットは彼についてこんなことを言ってる。


コンドルセーの絶対的合理主義は、権力の分立を廃棄し、こうした分立のうちに存するところの国家権力の調停と媒介をも、また諸党派の独立性をも否定するに至った。彼の急進主義にとっては、アメリカ憲法の複雑な均衡主義は、煩瑣な、重苦しいものに見え、それは各州の特殊性に対する譲歩であり、「そこに人が法、したがってまた真理、理性、正義を無理やり押し込もうとする」組織の一つであって、個々の民族の偏見や愚鈍のために一般的に人間的な「合理的立法」を犠牲に供する制度の一つと考えられたのである。
(シュミット著 『現代議会主義の精神史的地位』 稲葉素之訳 p.60〜p.61)




コンドルセの法のイメージ(真理とか理性とか正義とか)は、当時のフィロゾーフ、
あるいはステレオタイプとしてのヒューマニストがいかにも言いそうな話で、
これだけを見ても、法律に対するイメージがフェデラリスト達と全然違う。

コンドルセがこんなに言われるくらい絶対的合理主義者だったかは微妙だと思うが、
少なくともルソーは三権分立にすら否定的な中心志向で、絶対的合理主義者だった。

シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』でルソーの一般意志を批判しているし、
上でちょっと触れたハイエクなんかも、合理主義者ルソーを全否定のスタンスだ。
ルソーが現代の思想家に嫌われがちなのは、そのロゴス中心主義、つまり合理性、絶対性、
スタロバンスキーのルソー論を持ち出せば透明性、純粋性への偏向があるからだろうか。



で、「入門・政治哲学史」っぽいスタンスで書いてきたけれど、本題は実は別にあって、
ここにある「議論」の方法論で、Wikipedia なんかも説明できるんじゃねーかと思っている。
創設者のJimmy・Wales は大昔、Wikiはハイエクの思想から影響を受けていると言っていた。


情報の集約:ハイエク、Blog、さらにその先へ
2005年07月20日 05:29



が、政治思想史が蓄積してきた、立法過程を巡る研究や決定についての哲学の方が、
ハイエク思想のアナロジーよりも有効だと、そんなことをボンヤリと考えている。
posted by 手の鳴る方へ at 06:17| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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