2007年03月21日

世界の名著

『世界の名著 49 ベンサム J.S.ミル』(中央公論社 関嘉彦 責任編集)
『世界の名著 64 ベルクソン』(中央公論社 澤瀉久敬 責任編集)


古本屋に立ち寄ったら、1冊500円で売ってたので思わず買った。
5倍の値段がついてても買ったと思う。



『ベンサム J.S.ミル』
卒業論文でミルの『代議政治論』に触れる必要があったから、
ネットやらリアルやらを必死に探した覚えがある。
結局は見つからず、不本意ながら大学の図書館から借りて済ませた。

だから今はもう別にいらないんだけど、ついつい買ってしまった。
で、買ったからには読む気でいるけど、それがいつかはわからない。
功利主義自体にはまだ興味があるから、読まないことはないだろうけど、
まぁ、確実に積読だ。年内に読むことはないだろう。

こんな大人がいるから、必要とする哲学徒の手許に稀少本が届かない。
かつての私を困らせたのも、こんな奴だったのかもしれない。




『ベルクソン』
大学の頃に読んだ。買ったはいいけど、よく考えれば特に思い入れは無い。

世の中にたくさんいると思われる、「形而上学って興味あるけど意味不明」って人は、
この本の最初に収録されている、「ベルクソン哲学の素描」(澤瀉久敬)と、
その次に掲載された「形而上学入門」(ベルクソン)を合わせて読むのが超オススメ。
「あら、わかったかもしれない」と勘違いさせてくれる数少ない哲学書の一つだ。

ちなみに『形而上学入門』というタイトルの本はハイデガーも書いている。
きちんと日本語に翻訳されており、こっちの「入門」の方が入手しやすいのだけど、
入門とは名ばかりのハイデガー的ギリシア語講座に巻き込まれるので注意が必要。



哲学者の書いた「形而上学入門」なんて読む気がしないなー、と言う常識人には、
保坂和志という芥川賞作家の書いた一連の小説とその論がオススメ。
保坂和志の考えていることは文学の衣をかぶった形而上学だと思う。
あるいは文学は元々形而上学である、ということかもしれないが。

そういえば、保坂和志はハイデガーにはよく言及していて、
『形而上学入門』を本の中で引用したりもしているけど、
(正しくは『入門』に引用されたソフォクレスの『アンティゴネ』の引用だが)
ほぼ同時代人のベルクソンには(確か)ノータッチだ。
カフカやベケットと合わせて語るには、ハイデガーの方が便利だからだろうか。
posted by 手の鳴る方へ at 06:45| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月17日

都知事がニヒリズムとか言うから

芥川賞に23歳、青山七恵さん 直木賞は受賞者なし
2007年1月16日(火)23:54



文学賞に興味は無いし、この作家にも興味は無いんだけど、
これについての以下の記事が面白かった。


芥川賞選考委員で、23歳3カ月で同賞の受賞が決まった石原慎太郎氏と24歳4カ月で決まった村上龍氏が記者会見し、「ニヒリズムに裏打ちされた都会のソリチュード(孤独)を描いて圧倒的にいい」(石原氏)、「正確に厳密に言葉を選んで書かれていて、小道具も生きている」(村上氏)と絶賛した。


村上龍はどうでもよくて、石原慎太郎の選評の「ニヒリズム」云々の部分が面白い。
というか「ニヒリズム」という単語、その一点のみが面白い。


久し振りにその名を聞いた気がしたよ。ニヒリズム。ニヒリズム。


私が大学にいた頃の話だが、西谷啓治の『ニヒリズム』を読んでいたら、
「今更ニヒリズムもねぇよな。マルクスの次にねぇよ。駄目だよそんなの」
と、同僚に言われたことがあって、それだけならまだしも、教授からも、
「西谷啓治? 『ニヒリズム』? 図書館の開架にあったの? まだ読む学生がいるんだ」
とか言われる始末。哲学徒と哲学教授がそう言うくらいだからある意味スゴイ。

(さっきAmazonで「西谷啓治」を調べたら、その著作はたくさん出てくるのに、
カスタマーレヴューが一件も無い。西谷啓治はもうそんな扱いなのか。完全に過去の人だ。)


マルキシズムは政治制度として、今では完全に死に体になっているが、
それとは違う感じでニヒリズムというイズムは死んでいる。
死んでるけど、それでも人類はみんなそろって根無し草(デラシネ)だ。
中心的な何かは不在で、そこに何かが新生することもない。いつまでも空白のままだ。
今の時代は間違いなく空虚だと言える。しかし、ニヒリズムは死んでいる。
と言うのも、みんながそれを知っている。生や世界が空虚であることを知っている。
そしてあまりにもそれは当然のことなので、当然すぎて誰も相手にしない。
誰の口からもその言葉は発せられない。誰も『ニヒリズム』を読まない。
だからニヒリズムは生きているけど死んでいる。終わっている。終わり続けている。


芥川賞の話に戻るけれど、石原慎太郎のこの論評はレトリックとしても解せない。
現代日本を普通に描写すれば、例えば工業化社会の空気は必ずそこに含まれる。
資本主義的な感じも描写される。大量消費社会の様子もそこに描写されるだろう。
ましてや都市生活を描いていれば、描写されないと考える理由は無い。全く無い。
で、だったら、同じようにニヒリズムもそこに混ざり込むんじゃねえの?
それが普通じゃねえの? それが21世紀のゴクゴク普通の都市生活じゃねぇの?
むしろニヒリズムじゃない描写をしてる方がスゴクねぇ?
普通に生きてて「あ、神はいるな」とか思う方がスゴクねぇ?
「生き方は人それぞれではない!」と言う方が勇気がいるんじゃねぇ?
「自由の刑になんか処せられてないです。嘘っぱちですそんなの」って方がs(ry ??

というか、本当にニヒリズムなの? 本当に? マジで?? 都知事の勘違いじゃねぇ???




あと、ニヒリズムについて、『ニーチェと悪循環』(というかニーチェ)から、こんな一節を引用。


ニヒリズム(受動的な意味での)は、新たなフィクションを発明する力、そしてそれらを解釈する力が、枯渇したときに登場する。(p.252)


ニーチェの言う、「受動的ニヒリズム」の意味についてはググってもらうとして、
ニーチェにとって真理とは嘘、欺瞞、フィクションなワケで、もっと中性的に言えば、
真理とは常に「小文字の真理」なのだけど、今を生きる人達にとってそれは当たり前だ。
例えば何でもいいんだけど、アメリカの語る真理が、それほど真理には見えないのと同じことだ。

今の私のマイブームとなっている、コンテンポラリーに即して言えば、
現代とは新たなフィクションを発明し、それらを解釈し続ける時代であって、
そのプロセス、変動のダイナミズムが問題であり、大事であり、面白いはずであり、
世界の中心が空虚であろうが、神や仏がいなかろうが、真理がなかろうが関係ない。
コンテンポラリーとしての現代は、だからニヒリズムに陥っていない。
現代は空虚な時代であり、ニヒリズムであるにも関わらず。


で、以上をまとめると、
現代は神が不在の、空虚な時代である。
しかし、逆説的に、現代人はこの空間に戯れることが出来る。
その戯れの中から、新しい音楽やら建築やら、さらに言えば新しい文学が出てくるはずだ。
それなのに07年前期の芥川賞受賞作を、それを評価する立場の人間が、
「ニヒリズムに裏打ちされた都会のソリチュード(孤独)を描いて圧倒的にいい」って、
そんな風にニヒリズムに即して大絶賛するなんて、そんなのは嫌だ。


要するに、私の思うニヒリズムと、都知事の言うニヒリズムの語感が違うだけの話で、
現代の芸術が、ニヒリズムという旧態依然な側面から語られるのが嫌なだけの話。

あと、機会があれば受賞作を読みたいと思います。読まずに何か言うのは単なる無礼者だ。
posted by 手の鳴る方へ at 09:22| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月23日

飛礫としてのニーチェ

ニーチェと悪循環』(ピエール・クロソウスキー著 兼子正勝訳  哲学書房)を読む。



「この本は要するに……」と、短いセンテンスにまとめることはできない。
読み終えて脳裏に渦巻いているものはある。そりゃあもう色々とある。
でも、さてそれをどうやって言い表していいものか、見当がつかない。
そもそもこの本を読んだ後で、この本を要約する気にはなれない。
捨象し、わかりやすい言語に翻訳し、それをこの本に代替させる気にはなれない。
私自身の力量の無さもあるけれど、私の脳裏に渦巻いているこの何かに、
迂闊にも言葉を当てはめる気にはなれない。


そもそもこの本自体、ニーチェの思想を要約しているものではない。
ニーチェの生きた最後の10年、その間に、ニーチェ自身に何があったのか、
その痕跡を辿り、辿ってるうちに色々と思うところがあって、寄り道して、
寄り道しつつも辿るんだけど、そうしておいてそこから何の結論も引き出さないような、
つまり、何らのニーチェ像も導き出さないような、そういう本だと思う。



 シュミラークルはファンタスムの産物ではない。そうではなくて、その巧妙な複製であり、その複製から出発して人間はみずからを生産する〔プロデュイール〕ことができるのだ。すなわち、このようにして毒を抜かれ馴致された衝動の力から出発して。
 偽りの像 Trugbild ――シュミラークル―― は、「詐欺師としての」哲学者の手のなかで、衝動の生からうまれた意図されざるファンタスムの、意志された複製となる。
(p.253)



この本は終始一貫してニーチェという出来事について書かれた本でありながら、
作者のクロソウスキーはニーチェをやたらと解釈に当てはめたりはしない。
解釈しているとしても、それはある種の自覚を持ってそうしているように映る。
と言うのも、上記引用のように語るクロソウスキー自身が、
『「詐欺師としての」哲学者』であることに気を配っていないとは思えないから。
作者がそういうスタンスでいるのに、読者がそれを無視してニーチェを複製するのは良くない。
と言うか、私の中には既に決まりきったニーチェ像があるわけで、
その像がまずもって偽りの像であることを自覚しなければねぇ、とこの本は誘っている。
(直接ニーチェとシュミラークルを繋げるような書き方はされていないけれど。)
とにもかくにも、結果として何がなんだかわからなくなる。




この本について何かを語ろうとする場合、完全に間違っているんだけれど、
アフォリズム集として語るのも一つの手ではあるかもしれない。
そもそもニーチェにはアフォリズムのイメージが強い。
下手するとそれしかない。(ラ・ロシュフコーみたいに)
が、ここで言いたいアフォリズムとはニーチェ自身によるアフォリズムではなくて、
ニーチェについての(クロソウスキーによる)アフォリズムとして。

世界中のニーチェ研究家によって磨き上げられたニーチェ像があって、
その像に向かって、同じ材質の飛礫(=アフォリズム)を投げつけるような、
そんな学術書が仮にあるとすれば、それは多分、この本のようなものじゃないかと思う。
posted by 手の鳴る方へ at 08:25| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

26時間テレビについて本気出して文化人類学的に考えてみた

例えば新聞のラテ欄は、時系列的に、各局ごとに、放映する番組が並んでいる。
それは枠の中にきちんと納まっており、ある意味で秩序的と言えるし、
日常的とも言える。(野球中継などで延長したりすることもあるけど)


仮に、ラテ欄から枠が――横枠だけでも――無くなったらどうだろうか?
枠を超えて、番組が自由に位置を変えたらどうだろうか?
そんなのはラテ欄として成立してないだろうし、
関係者は新しいラテ欄を作らなければならないだろう。


ワンクールが終了すると、主要テレビ局は次の季節に向けて、
「オールスター感謝祭」とか、「春の祭典スペシャル」とか、
そういう特別番組を放映するのが常となっている。
そこでは、普段は会うことのない番組同士が、
同じスタジオの上で、同じ時間帯に共演する。
5時間とか、24時間とか、26時間とか、その長短はともかくとして、
彼ら番組は、ほんの一夜に限り、ラテ欄の枠組みを越境している。

特にTBS系列のオールスター感謝祭(島田紳介が司会の番組)はそれが顕著だ。
TBSの番組のほとんどが、新旧とか、朝の番組とか夜の番組とか、
月曜日の番組とか、火曜日のそれとか、ニュースとかバラエティとかドラマとか、
そういう分類を全く無視して一同に介し、それぞれの特質を忘れ去り、
みんなで賞金をかけてクイズとかマラソンを行う。


これはどこか神話的で、儀式的、祭事的だ。
一瞬だけ秩序が崩れ、あらゆる記号が差異を喪失して、
渾然一体となり、無秩序、混沌と化し、それでいて饗宴を楽しんでいる。



現代ではほとんど関心が払われていないが、
元々祭事は季節の変わり目に行われていた。

季節の変わり目、というのがこの場合、ポイントで、
人は境目を越えるとき、やたらと大騒ぎをし、
自分で秩序的な日常を破壊しにかかる。
というか、自分で無秩序を演じる。
そこでは番組がラテ欄を越境したように、
あらゆる記号が相応なポジションから逸脱している。

例えば大晦日が典型的で、大晦日の24時になると、
老若男女を問わずカウントダウンに参加し、
世界中で陶器が割られ、花火が上がり、自動車のホーンが鳴らされる。

祭りにしてもそうで、太鼓やら鈴やらが集落に響き渡り、
変な格好をした青年団の連中が、変な踊りや奇声を発して練り歩く。
日本でも有名なEUの牛追い祭りとか、トマト祭りなどはもっと奇妙だ。
普段なら絶対に隠されておくべきな暴力性が露骨に表れている。
街中がトマトまみれになり、怪我人が出るなんて狂気の沙汰ではないか?

さらに言えば4月1日のエイプリル・フールもそうだ。
元々はイギリスの「万愚節」が発端で、この日は例外的に
公然と嘘をついてもいい日とされている。
この「万愚祭」にしても、季節の境目に設けられた混沌的な道化祭りで、
秩序とは相反する虚偽がまかり通る。誰が得をするというワケでもないのに。

日本の節分だって奇妙である。(節分、という名前がまさに境目っぽい、というか境目だけど。)
何で鬼に豆を撒くのだろう? 豆の使い方が間違っているとは思わないか?
玄関先にヒイラギや魚を飾るのも奇妙だ。普段なら絶対にあり得ない。
しかしその日に限っては、そういう豆の使い方、ヒイラギの飾り方も許されている。


こんな例はいくらでもあげることができるけれど、
要するに普段の文脈とは異なる時間・空間が立ち現れて、
その秩序を一時的にぶっ壊すのが祭事の典型で、
それが大抵、季節の境目を超えるときに行われている。
そういう事実が世の中にはある。しかもいくらでもある。


結論から先に言えば、この演じられた混沌は、
原始の頃、人が無秩序な自然を切り開き、集落を作り、
そこで自分自身の秩序を作り上げたことの再現である。
人は、来るべき季節を迎えるために、秩序を再生させ、
新しい秩序を迎い入れるため、自分で混沌を再現する。
それは秩序の生まれ変わりであり、新しい時間軸への飛躍である。

ここでTVの話に戻るとすれば、この手の特番はまさに秩序の再生である。
クールの変わり目に特番を行うことは、季節の変わり目に祭事を行うのに似ている。
実際、新しい番組編成でラテ欄は生まれ変わり、新しく作り変えられる。
そして新秩序の中で、人はまた(本当は何も変わっていないのに)新しい日常を送るのである。

祭事とは元々、このような旧秩序から新秩序への脱皮を意味しており、
昔の人は、あえて無秩序を取り込むことで、秩序を生まれ変わらせ、
日常を乗り越えていこうとしていたわけで、そこには混沌とした自然に対する
畏怖が潜んでいる。彼らは混沌のダイナミズムを上手く取り込み、
日常が立ち枯れるのを何とか防止しようとしていたのだ。


四季も自然への畏怖も混沌への敬意も何もあったもんじゃない現代において、
このような祭典やら感謝祭が当然のように行われているのは面白い。
現代人にとって、TVこそ、自分が属する村落、秩序なのかもしれない。



           ――参考文献 山口昌男 著『文化と両義性』(岩波現代文庫)
posted by 手の鳴る方へ at 06:03| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

キルケゴールとMOTHER3

14時。バイクで市内へ。お祭り騒ぎに馳せ参ず。
調子に乗って酒を飲む。バスで帰った5月4日。

そのバスの中での話。

郊外へ向かう20時のバスは客でいっぱいで、
私が乗ったときから既に車内はギュウギュウ。

座れるわけないし、まぁ、座る気もないんだけど、
ふと、目の前に座ってる人を見るとそれは女子高生。
祝日なのに制服着てて、それは別に珍しくないんだけど、
手にしていた本が珍しかった。

キルケゴール著 『死に至る病』

思わず「君のことが好きだ」って言いそうになりました。
ええ、私も読みましたよ、高校の時分に。
ニーチェおもすれー、フロイトおもすれー、ヘーゲル(の解説本)おもすれー、
とか思いながら、同じ棚にあったキルケゴール。
ええ、興味津々で手にしましたよ。
わけわかんねーよな、あれ。
はっきり言って理解できない。
(ならニーチェは理解できたの? って、そんなワケはないけど。)
でも何か手にしちゃう本らしいね。
私の先輩達も、大学の教授(言語学だが)も、高校の時に読んだって言ってたもん。
哲学知らない人も、この本の名前くらいは知ってたりするしね。


で、ふと思い出したのが、村上ファンドの村上世彰氏。
学生時代、阪急の電車に揺られて『会社四季報』読んでたって話。


同じ読書でも、随分と質が違うなぁと思う。
でも、どう違うかは上手く言えない。
『死に至る病』の方は、
「読んだって理解できるわけない本を、自分と何か関係あるんじゃないか、みたいな、
そんなはっきりとしない動機に基づいて、ウンウン言いながら読んで、結局理解できない」
こんな感じの読書。これは受験とか、株で稼ぐためにする読書とは違う。
もちろん話題の本を読むとか、そういうことでもない。
こういう読書は多分、現代ではどこからも評価されない。
評価されるとすればそれは大学で、しかも人文学系の学部だが、
それも最近、不要論とかあるし、そういう読書が根底から否定されている感はある。


そんなことを思ってたらその女子高生は先に降りた。
後に座ったのは背広を着たサラリーマン風のおっさんで、
座って即座に鞄からニンテンドーDSを取り出して(多分)マザー3を始めた。

思わず「君のことが好きだ」って言いそうになりました。

上の世代が祝日に働いてる間に、下の世代が『死に至る病』を読んでて、
上の世代も、仕事が終われば公衆の中で「マザー3」で遊ぶ。
これは文化として正しいことじゃないかと思う。
少なくとも下の世代が『会社四季報』を通学中に読み、
上の世代が会社帰りに『プレジデント』を物知り顔で読むよりは正しい。
どう正しいかを説明するのは難しいけれど、
そんなことを思ったりした国民の祝日でした。
posted by 手の鳴る方へ at 00:29| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

なにその分類ふざけてるの?

以下引用
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この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。
それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事象を
揺さぶらずにはおらぬ、あの笑いのなかにだ。
いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされた
われわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての
表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とを
ぐらつかせ、<同一性>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、
しばし困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、
「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。


動物は次のごとく分けられる

(a)皇帝に属するもの
(b)香の匂いを放つもの
(c)飼いならされたもの
(d)乳呑み豚
(e)人魚
(f)お話に出てくるもの
(g)放し飼いの犬
(h)この分類自体に含まれているもの
(i)気違いのように騒ぐもの
(j)数えきれぬもの
(k)駱駝の毛のごとく細の毛筆で描かれたもの
(l)その他
(m)いましがた壺を壊したもの
(n)遠くから蝿のように見えるもの




     ――ミシェル・フーコー 『言葉と物』 (新潮社) 冒頭部分から引用

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フランスでは「パンのように売れた」と言われている

死ぬほど難しい名著 『言葉と物』の冒頭部分。

こんな本がパンのように売れたってのがすごいよフランスのエスプリは。

それ以上に凄いのが中国。完璧に狂ってる。

笑いとは何か、なんて藁板らしくないので多くは触れないけど、

「思考におなじみなあらゆる事象を揺さぶらずにはおらぬ」ボケが、

きっと面白いボケなんだと思った日曜日。

posted by 手の鳴る方へ at 03:15| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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