2010年03月10日

『オハナホロホロ』

鳥野しの 『オハナホロホロ』(祥伝社)
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女二人と子供一人で暮らし、毎日のように別階に暮らす男も紛れ込む、そんな生活の話。

気のおけない他人同士で暮らすことで、家族のイメージはもっと多元的なモノになるし、
他人と家族との境界線も不確かなものとなる。人間の関係というのは目には見えにくいし、
現在・過去・未来の中でその糸は複雑に絡み、変動するため、一義的に考えることは難しい。
家族と言うのは制度であると同時に常に一つの比喩であって、名前の無いものの総称なのだ。

ちなみにこの漫画には「家族」や「愛」なんて言葉は出てこない。子供の父親の名前も不明だ。
大人達は他人同士である、という自覚がある。だからメンバーの一人が異性の旧友と再会すると、
他のメンバーの一人は、旧友と彼女の関係が、友情より先の感情になるのではないかと心配し、
今の自分達の関係が終わってしまうのではないかと心配する。そんな切羽詰った心境の中で、
唐突に「結婚しよう」という話題になるのは、家族という比喩の力を当人が信用しているからで、
言い換えれば、そこにある具体的な(ように見える)関係性に頼ろうとしているからなのだろう。
そこで求婚された側が、実際の関係性、感情について諭すのは一つの見せ場としても面白い。
彼女達の関係はフワフワした名前の無い関係だけど、だからと言って冗談半分ではないし、
いい加減な感情で生きているわけでも全くない。フワフワした足場こそが彼女達のものなのだ。


人間関係は必ずしも帰る場所を用意しないし、「家族」という場所がそうであるとも限らない。
彼女達の帰る場所の名前は「おうち(お家)」であって、彼女達は「同居人」として振舞う。
ひびの入った関係性を修復する「ただいま」と「おかえり」は、その場所の上に成立する。
その場所の底は恐らく抜けている。その上で、彼女達の関係性は宙吊りのままに作用する。
そもそも人間関係に根拠などなくて、愛とか血縁だとかが、その空白に転がるだけだとも言える。



あと、話は変わるけど、ぬいぐるみ(表紙で子供が抱いてるやつ)の作中での役割だけど、
かわいい顔をして、ドロッとした大人のモノローグの相手役として描かれているのは面白い。
それを踏まえて表紙を見ていると、子供は大人の色んな感情を抱きしめて抑えているのだなぁ、
とかなんかとか思ったりする。この種のモノローグの表現方法って、女性作家特有なのだろうか。
少女漫画の、ぬいぐるみ相手に独り言を呟くシーンの延長線上にあるように思ったのだけど。
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2010年03月09日

ドキュメンタリーの撮り方

ドキュメンタリー作家募集。
「僕たち」が想像もしないような「あいつら」の文化が世の中にはたくさんあります。
その文化をビデオカメラで撮影し、編集し、一本の映画にするだけの簡単なお仕事です。


「僕たち」を煽情する映像を撮れば撮るほど、「僕たち」の癇にさわればさわるほど、
「僕たち」はその映画を見るため映画館に足を運び、お金を落とすことに躊躇しないでしょう。
「僕たち」の人口は多いので、あなたが思うほどこのビジネスチャンスは狭くないのです。

ドキュメンタリーとは「あいつら」の文化を撮影して、「僕たち」からお金を貰うことです。
世の中には差異なんていくらでもあります。それを巧みに見つけ出し、批判するお仕事です。
差異のギャップが大きければ大きいほど、ドキュメンタリーの破壊力、価値は高まるのです。
それは啓蒙であり、事実の伝達であり、問題提起であり、ときには異文化理解でもあります。
映像によってその差異は時に埋められ、時に強調され、時には更に断絶することもあります。
「僕たち」はそれを正当に評価する能力があり、正当な対価を払う能力があると自負します。

マイケル・ムーアという映画マンは、自国の「異常な」文化を撮影することを好んでいますが、
彼はあえて隘路を通う変態です。彼は共和党を内なる他者として見ることに慣れているのです。
彼は「僕たち」の中に「あいつら」を見出す天才、「僕たち」の差異をえぐり出す天才です。
しかしそのことにより、ムーアの「僕たち」からの評価は真っ二つに割れているのも事実です。
ドキュメンタリーに国境はありませんが、国境を跨いだ方が差異は多く見つかるのは自明です。
それに国境を跨いだ方が、「僕たち」の怒りに触れないだけ楽です。ここだけの話ですがね。
ドキュメンタリーはビジネスです。予想できるリスクをそれでも取るなら、覚悟が必要です。


皆様からの素晴らしい作品を、我々は心よりお待ちしております。
posted by 手の鳴る方へ at 09:50| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月15日

今村仁司の『仕事』

今村仁司 『仕事』 (弘文堂)
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ヨーロッパの伝統においては、労働は宗教的、神話的、道徳的な蔑視の対象であり、
自由な人間のすることではない、非人間的、周縁的、低俗なものとしてイメージされていた。
一方、近・現代の労働観では、働かないことがむしろ悪徳、後ろめたいことに分類されている。
だが、古代においてそれは善であり、「労働からの解放」として理想的な評価をされていた。
観想、宗教的瞑想、余暇こそが、人間本性と結びつけられた、人間らしい行為だったのだ。
無論、それらが奴隷制や劣悪な差別を支えとしていたことは考慮しておかなければならないが、
現代の私達の労働観が、それなりに擬似的な普遍性しか持っていないことは明記してもいい。


ここに見える古代と近・現代の労働観の転倒現象は、ウェーバーの『プロ倫』にあるような、
近代化の流れの中で生じたものだと言えるだろう。脱魔術化、脱宗教化、合理化の流れの中で、
都市の周縁に位置していた商業は、都市の中核を担う要素として把握されるようになり、
「最も卑しい」とされた労働行為は、人間社会を組織する中心的な価値として理解される。
また、科学者や技術者は産業と合流し、魔術師と同格だったその社会的地位を向上させ、
一方で、精神活動すらも「労働」「生産」という概念で語られてしまう時代が到来する。
学問や観想すらも労働であり、生産性を求められるというから、まさにプラトン涙目w である。


古代的な労働観は、産業革命や近代化を経て19世紀まで残り続け、20世紀になっても、
例えばバートランド・ラッセルあたりが「労働とか大概にしとけよ」と言っていたりする。
そこにある価値観は何かと言えば、「労働は人間的自由を喪失させる」という直観であった。
労働と言うのは生きていくために避けられない、自然的必然性に拘束された活動であって、
それに縛られている限りは自由でない、人間にはもっと大切なことがある、という意見は、
甘い、空想的な意見ではあるけれど、そこにはそれなりの説得力があるように思われる。

私達現代人は、その意味で総奴隷化されている。かつては一部の人間だけが奴隷だったが、
現代では全ての人間が労働者という名の奴隷である。余暇ですら、私達は消費するしか能がなく、
かつて永遠の相を帯びていたあらゆる耐久財は、「労働‐消費」の刹那性の陥穽へと落ち込む。
ハンナ・アレントが『人間の条件』の中で語った「労働」「仕事」「行為」の分類も、総労働化し、
「仕事」の美学も文化性も、「行為」の政治性・公共性も、労働的なものとして消費される。
そしてそのような状況で語られる、「労働の尊厳」だとか「労働は生きる意味」という観念は、
資本主義的だろうと社会主義的だろうと、現代の奴隷制を支えるイデオロギーでしかない。


「労働の尊厳」は、資本主義という労働社会を確立するための物質的力を発揮した。ウェーバーが言うように、「労働の非人間性・無意味性」を隠すためには「尊厳」という宗教的光明をさえ必要とした。資本家も労働者も同じイデオロギーに浸されることで資本主義的労働社会が成立する。そのイデオロギーが単なる空虚な観念でなく生産力の上昇に貢献したことは確かであるが、そのことと労働の不自由性=奴隷性とは別のことである。現代でも、カピタリストとソシアリストとを問わず、「労働の尊厳」を強調することが根強く生きのびているが、俗耳に入りやすいがゆえに、この労働イデオロギーは全般的労働奴隷性を強要することに貢献してしまう。現代の社会思想の根本問題の一つは、労働が根本的に奴隷的であることを直視し、それを美化する労働表象をできるかぎり解体することである。(p.194)


この話が具体的に、リアルに問題になるのは、恐らくベーシックインカム論の中でだろう。
政治家や批評家の中には、ベーシックインカムに肯定的な人が相当数いるように思われるが、
そこで「労働の尊厳」や「労働者の連帯」や「労働意欲の後退」という言葉をよく耳にする。
今後、ベーシックインカムが社会的な議論になるとすれば、そこで考えておくべきなのは、
「労働そのものに価値がある」的な意見の具体性・公共性、「労働」の意味ではなかろうか。
ここまでの論旨から言えば、そんなもん無えよ、というのが私の言いたいことなのではあるが。

今村仁司のこの本のタイトルは、『労働』ではなく『仕事』である。
この本は総労働化した社会を、「労働の仕事化」へと繋ぐ形で結ばれている。
この「仕事」とは、アレント的な「仕事」だろうが、簡潔に書かれすぎてて不明瞭だ。
ともあれ、「労働は人間的本質である」という観念を解体し、人間をより自由にするために、
ベーシックインカムという制度が、「労働の仕事化」に協力できることはあるかもしれない。
posted by 手の鳴る方へ at 07:24| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

『福祉と正義』

アマルティア・セン、後藤玲子 『福祉と正義』 (東京大学出版会)
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アマルティア・センの論文と、センの研究領域内で語られる後藤玲子の論文からなる一冊。
ロールズ批判から日本の生活保護への進言、カントの不完全義務、世代間の公共性問題など、
内容が主軸もないままに理論から応用、さらに別の理論へと拡散しており、とっつき難い。
それでもあえて一言で言えば、「開かれた政治・開かれた社会」についての本だと言える。
『グーテンベルクからグーグルへ』が、文献学の開かれた制度設計に関する本だったように、
この本は、政治や社会という制度を、開かれたものとして設計する筋道について考えている。


センが専攻とする社会的選択理論は、革命的な経済学者ケネス・アローが発展させた理論で、
ざっくりとその業績を説明すれば、「理想的な投票制度は無い」ということを明らかにした。
政策決定は、民主的でありつつ、個々人の多様な選好を集計して合理化することができない。
センの社会的選択理論における功績は、アローのこの不可能性定理を継承・発展させつつ、
アローも前提としていた近代経済学そのものへの批判、検討可能性を示した点にある。

そのセンの業績の、主要なものを解説すれば、近代経済学のタームである効用(utility)から、
福祉(well-being)への転換、その福祉を保障する潜在能力(capability)という概念を設定、
これによってより客観的(と言うより脱自己中心的)な評価、そして公共的な討議を可能とし、
人々の社会性や主体性を同時に尊重してみせる、という筋道を理屈の上で立てた点にある。

補足すれば、潜在能力とは、経済・学校・医療制度等によって社会的に保障される個人の能力で、
それらの(法的・道徳的)制度に不備があったり、そもそも公共的に認知されていないならば、
社会は、あるいは国際社会は、福祉の観点から何らかの対応を迫られるし、迫られるべきである。
そして何が保障されるべきか、誰が保障されるべきか、それを制度化する義務を誰が負うべきか、
誰の自由が実現され、誰の自由が制約されるのか、誰がそれらを決定するのかという問いがある。
それら困難な問題は、公共的理性に基づいて討議し、精査、識別されるべきであると考えられる。
「開かれた政治・開かれた社会」はこの場面において要請される。要するに、みんなで決めよう、
という小学校の学級会レベルの話を、全身全霊で――個々人の自由に配慮し、合理的であり、
民主的であり、なるだけ最善の決定であり、その「最善」とは何かについても思慮深くあり、
アローが示した公共的投票の限界を存知しつつ、「みんな」の範囲を不当に制限しないように、
そしてそのときに言う「不当」とは何かも考えつつ――やっているようなものと言えなくも無い。


これらのことを投票だけに押し付けるのが、そもそも無茶振りとも言える話なのであって、
現代の民主主義を、投票のような単一の制度的特徴へと還元すること自体が不穏だと言える。
民主主義において熟慮されるべきなのは熟慮そのものであり、道徳哲学や政治哲学が希求する、
公正としての正義は、開かれた制度設計に関する視線なくしては語ることなどできないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 09:11| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

『30年代の危機と哲学』

M・ハイデッガー他 『30年代の危機と哲学』 (清水多吉・手川誠士郎 編訳 平凡社ライブラリー)
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近代化したヨーロッパが、世界大戦やら資本主義の矛盾を経て、1930年にまで至った頃、
その近代を支えている、ヨーロッパが生み、培ったはずの客観主義・自然主義・自然科学が、
実はヨーロッパを、その大学を、精神を、民族を、文明を、危機に陥れているんじゃないか?
と、ドイツの知の巨人達(フッサール、ハイデッガー、ホルクハイマー)が主張したって内容。
もっとみんな本気で哲学を学ぼうぜ、人間について考えようぜ、という愚痴っぽい話でもある。


「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と、
カントの墓には刻まれてあるらしいが、フッサール達哲学者の危機感の根本は何かと言うと、
この前者の、天体の動きのような客観的合理性が、後者の道徳法則を飲み込むという自覚にある。
この「内なる合理性」の危機、人間精神の危機が、即ちヨーロッパの危機として認識されている。
科学至上主義は我が上なる星空だけでなく、我が内なる道徳法則にすら影を落とそうとしている。
そんな「外面化」された合理性にしゃしゃり出て来られると、ヨーロッパが衰亡するだろうよ、
人間や文明をそんな視点で語られたらたまったもんじゃないよね、と、まぁ、そういう認識だ。
訳者の一人の手川誠士郎が、とても勉強になる「あとがきにかえて」の中で述べているように、
「学問の危機とは現実を離れて存する純粋理論がそれ自体で超越論的に機能するところにある。」
この言葉自体は、科学至上主義だけではなく、フッサールの純粋理論にも向けられた言葉だけど、
この躓きの石の上に、アドルノやハーバーマス達の次世代はポストモダンの言説を築き上げる。
だからこの本の内容自体は、ポストモダンが繁茂するための苗床のようなものだったのだろう。


話はやや変わるけど、「西洋」「近代」「学問」「哲学」「古典」というこれらの言葉は、
私達日本人が思っている以上に、密接に絡み合い、分けて考えられない概念のようで、
近代の危機、なんてものは今の日本にもある話なんだけど、だからって哲学とか古典とか、
その類の学問がクローズアップされることは余り無い。新書が売れる程度でしか、無い。
近代を耐え抜き、近代人を鍛錬する「古典」、そんな発想がデフォルトな西洋が羨ましい。
日本の文系学問が軽視されてるのは、この種の発想が欠けてるからでもあるのだろうなぁ。
posted by 手の鳴る方へ at 04:43| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月03日

DS版DQ6の感想

・SFC版をプレイ済みなのにあらゆるイベントの記憶が無い
・SFC版はクリア直前に自分のデータだけ消えたんだよね・・・
・結局妹のデータでエンディングを見た記憶がある
・アモールの「いくら洗っても血が落ちないよ」だけは覚えてた
・会話システムがドラクエの本体になりつつある
・特技ゲーだからHPの低い女性陣は使い辛い
・「ピチピチギャル」とか一人称の「あたい」とか、もうドラクエでしか見られない
・人魚って魚食うのか・・・
・バーバラは馬車からホイミとリレミトする機械
・アモスは萌えキャラ
・それ以外はモンスター含めて真面目過ぎる
・ハッサンとかああ見えて普通に常識人だからね
・でも「ネコさんこんにちわ」「うさぎさんこんにちわ」とか言うミレーユ姐さんはイイ
・アモールのバニーガールに「うさぎさん」とか言うんだよこの人
・「うふっ、しかばねさんこんにちわ」とか言いやしないかとドキドキする
・「持ってた武器を振り回した」スライムナイトに誰か突っ込むべき
・職業ドラゴンが二人いればどうにでもなる
・むしろ一人でも何とかなる
・マッドロンのザキで何度ゲントの村に戻ったことか・・・
・チャモロはゲントの杖のおまけ
・文字表示の速度を最速にしてるから遊び人が何をやってるのかさっぱりわからない
・気がついたらHP50回復したりとかしてるし・・・
・テリーは雷鳴の剣のおまけ
・ピエール>テリー
・アモス>ピエール
・ドランゴ>アモス
・最初はテリーを使おうと思ってたんだよ
・けど無理でした
・アモスは萌えキャラ
・ドランゴが兵士に変装するのは無理だろ
・盗賊連れてレベル上げをしてるとアイテムをガンガン盗んでくれる
・買った覚えのないドラゴンキラーが6本くらいあるからね
・カーリングなんてやらないよ?
・そしてドーピングアイテムも使わないよ?
・夢告白もやってないなそういえば
・欲望のまちのイベントで「私ならお菓子をたくさん食べちゃいますねー」とか言うアモス
・お菓子て
・伝説の刀鍛冶の娘が「筋肉つきすぎてて踊り子になれなかった」という話が好き
・父親が失踪し自分には鍛冶職人のスキルしかないけどその技能で生きる気にはなれない。しかし生活が困窮するので仕方ないから意を決してカジノのバニーガールになろうと思ったら「筋肉がつきすぎてるから無理」と言われた一人称が「あたい」の女性がいたらそっと抱きしめるだろ普通に考えて・・・
・ガンディーノの先代皇后の隔離されっぷりが生々しい
・トラマナ→賢者に話す→イベント→イベント終了→動く→ダメージ床でダメージ→おいぃ!
・賢者の石の有難味がこれほど薄いのも珍しい
・やまびこぼうしの有難味も薄いなぁ
・エンディングでいっつもダンスするけど、しょぼいから止めればいいのに
・しかし会話テキストの量が尋常じゃないな
・アモスは萌えキャラ
posted by 手の鳴る方へ at 20:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

メディアと人間関係の濃淡

2010年1月29日 朝日新聞 天声人語
http://www.asahi.com/paper/column20100129.html


秋葉原無差別殺傷事件の初公判に伴い、殺人事件とネットを絡めてのコラム。
揶揄と諦観混じりの「何でもネットのせいにしてりゃあ、そりゃ楽だわな」、
というネットユーザーの声が、至るところから聞こえてきそうな内容となっている。


警察庁によれば、全国で去年に起きた殺人事件は戦後最少になった。皮肉なことに、ネット社会で人間関係が希薄化したのが一因という可能性があるそうだ。特定の相手への動機が生まれにくい。そうなったで今度は、「誰でもよかった」が目立っている


ネットは人間に直接会わなくても色んなことが出来る。だから人間関係は希薄になる、
ってのはまぁ一理あるんだけど、むしろネット本来の思想としては、人と人とを繋ぐ、
しかも今までに無い規模とスピードで繋ぐことなので、(メディアってそんなモノなので、)
2010年にもなってこんなこと言うのはアホ臭いんだけど、この手の話は辞めた方がいい。
「可能性があるそうだ」とか「目立っている」とかいう言い方も辞めた方がいい。


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ここで、殺人と「人間関係」の関係を調べれば、ネット云々とは異なる視点が見えてくる。
河合幹雄 『日本の殺人』(ちくま新書)によれば、日本の「犯罪白書」の殺人の項目には、
毎年大体約1400件という数値が並んでいるが、そこには殺人未遂と殺人予備が含まれる。
そこから殺人の定義を色々と勘案すると、大体800件前後が、実質的な殺人だと言える。
(そもそも「殺人」の類型化自体が困難であり、統計から読み取るのも困難そうに見える。
ついでに言えばネット上で検索できる犯罪白書や犯罪統計と、『日本の殺人』で使用された
数値があんまり一致していないようにも見える。私の調査能力が低いせいだろうけど。)

で、例えば2004年の殺人事件の検挙件数は1224件。その内の半分弱が家族、親族間での事件。
その内訳は実子・養子・継子殺しが135件、実父母・養父母・継父母殺しが合わせて121件、
配偶者殺しが206件、兄弟・姉妹間が88件、その他親族38件、以上の合計は588件となる。
この588件の中にも未遂犯、予備犯が含まれるが、その数は決して多くない、らしい。
つまり年間の実質的な殺人が約800件で、その内の(多分)約500件が親族間の殺人と言える。

一方、1977年の広義の殺人被害者の人数は1527人。加害者との関係が明らかなのが1448人。
その内訳は子殺し505件、親殺し87件、配偶者殺し159件、兄弟・姉妹が28件、その他49件。
親族関係だけで合計828件。残りの内訳は同居人31件、知人友人273件、顔見知り155件、
そして面識なし(無差別殺人があったとすればそれの犠牲者)161件で、計1448人となる。
1977年と比べて、2004年は子殺し(505件→135件)が圧倒的に減少しているのが見てとれる。
もっと言えば2004年の嬰児殺しは22件。1977年には187件あった。これだけで165件の減。
「80年代に入ってから現代に至るまで殺人事件は大きく減少してきたが、その減少分の半分は嬰児殺の減少で説明できる。」(p.31〜32)
というわけで、作者はこの嬰児殺しの減少の理由を、「できちゃった婚」が普通になって、
「不義の子」だとかの社会的偏見、親世代からの圧力がなくなったからだろうと予想している。
ネットの普及とこの嬰児殺しの減少は、とてもではないが結び付けることはできない。


河合幹雄によれば、殺人というのはエネルギーを使うので、強い動機がなければできない。
そしてその強い動機が生まれるのが人間関係の濃い場合で、つまりは家族や恋愛がそうだ。
人間関係が薄ければ、リスクを犯してまでして相手を殺そうとはしない。それが殺人の類型だ。
故に、人間関係が希薄ならば殺人は起こらない、という天声人語の言い分は河合幹雄と同じだ。
だが、統計的に見て殺人が減っている、故に現代人は人間関係が希薄である、とはならない。

昔と比べ、04年の家族間の殺人は減っている。ネットにより人間関係が希薄化したからだろうか?
ネット中毒でひきこもっている子供と、その家族の関係は希薄なのだろうか。逆ではないのか?
家族という関係は、PCや携帯等のメディアによって大きく、本質的に(まさに本質的に!)、
変化しているけれども、その変化は関係の希薄化だと、ただちに言えるものなのだろうか。
関係性が変化しただけで、その関係の濃淡については、メディアは関与できないのではないか。
今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄であると、安直に考えてはいないだろうか。
同じことは友人・知人関係にも言えるだろう。全ての人間関係にも言えると私は思う。


それと、メディア・環境の変化による殺人の減少について、河合幹雄がこんな例を挙げている。
昔と比べれば、所謂「ケンカ殺人」というものも、他と同様に大きく減少しているのだが、
その理由として、科学警察研究所の田村雅幸という人の80年代の研究を参考にしつつ、
河合幹雄も、「人間関係の希薄化」が原因であると述べている。


田村に言わせると「飲み屋で見知らぬ客と意気投合するという他者との関わりの強さは、逆にそこでのケンカ口論から暴力的な事件を発生させやすくもする。」となる。これは八〇年代はじめの指摘である。飲酒と犯罪のところで述べたように、その後、日本人は酔いつぶれるほど飲む機会を大きく減らしている。その原因として、背中に担いで帰ってくれる友人がいなくなってきているということを指摘した。遠くから通勤しているという理由があるため、友情を失ったというような精神論に陥ってはいけないが、人間関係の希薄化がケンカを減らせる作用はここでも確認できる。
 最近では、知らない同士が、肘をぶつけ合って屋台で飲むのではなく、明るくきれいで、十分なスペースがあり、隣席とは壁や衝立で仕切られたところで飲む、それも非常に少人数で飲むように飲み屋が変わってきている。店の方は、別にケンカ殺人の防止策をとっている認識はなく、客が、隣席とのかかわりを嫌うようになっているというマーケティングに過ぎないと考えられる。スペースのあるいい店で安く飲めるようになったとすれば、ここでも豊かになったことでケンカが減り、ケンカ殺人も減るということが起きていることになる。
(p.95〜96)


アーキテクチャと言えばそれまでの話だし、経済的に豊かになったからと言えばそれまでの話。
「最近の子は喧嘩しないから人間関係が希薄化している」と産経抄あたりが言いそうだし、
「飲ミニケーションが死語だから人間関係が希薄化している」とか編集手帳は言いそうだ。
もう一度書くが、今までと異なる関係性、イコール、関係性が希薄である、とは言えない。
喧嘩しなきゃ深まらない人間関係は、メアド交換しなきゃ深まらない人間関係と同じだ。
酒がなきゃ成立しない人間関係は、ニンテンドーDSがなきゃ成立しない人間関係と同じだ。
ネット社会ごときで人間関係が希薄になる奴は、最初から希薄なだけだ。そういうものだ。
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2010年01月27日

グレン・グールドのTwitter

宮澤淳一 『グレン・グールド論』(春秋社)
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1964年6月1日、グレン・グールドはトロント大学から名誉博士号を授与される。
その答礼として、通常なら演奏をするところなのだが、グールドはある講演を行った。
ほんの一握りの大学関係者を前に為されたその講演のタイトルは「電子時代の音楽論」。
その中でグールドはバックグラウンド・ミュージックの可能性について話している。
次の引用は、その講演の冒頭部分についての宮澤淳一の解説である。
(引用文を含め、今回の記事全体は、宮澤淳一『グレン・グールド論』(春秋社)による。)


ここでのバックグラウンド・ミュージックとは、「家庭や自動車内のスピーカーから流れ出る音楽、コマーシャル映像に伴う形で編成された音楽、レストランで会話の切れ目を埋めるために[・・・・・・]有線放送から流れてくる音楽」など、電子メディアによって生み出され、日常生活の私たちを囲むあらゆる音楽を指す。これを「音楽に対する私たちの鑑賞力や理解力や情熱の体系をそっくり弱める感覚攻撃」だと批判する向きに対して、グールドは正反対の立場を表明する。これらの音楽は「私たちの鑑賞力や理解力を弱める」どころか「恩恵」である、とグールドは擁護するのである。「内省的態度」の聴取を主唱する音楽家らしからぬ発言かもしれない。(p.39)


中島義道が聞いたら、そんなもん「感覚攻撃」以外の何モノでもないわ! とか言いそうだが、
それはいいとして、グールドはこの後、演奏会を批判し、音楽の匿名化等について触れる。
そしてその後に、もう一度、バックグラウンド・ミュージックについて話を振り戻す。


電子時代になると、音楽には、私たちが日常生活を送る中で言語が担っているものと同等の、即時的、口語的、実用的な特徴が備わると私には思われます。音楽に関してそうした慣れ親しみやすさの度合いがそこまで達成される唯一の条件は、音楽があらゆる方向へ拡大していき、どんな時期、時間、様式であろうと、音楽の基本的な流儀、特徴、癖、慣習的な仕掛け、統計的に頻度の高い表現――要するにクリシェです――が、聴くものすべてにとって即座に親しみのある、認識できるものになっていることにほかなりません。ある語彙(音楽的語彙であれ、言語的語彙であれ)が備えるクリシェの特徴を大量の人が認識できるようになるとき、個々の聴き手がそうしたクリシェの供給過剰になることに配慮する必要はあまりないという気がします。むしろ正反対です!(p.45〜46)


そして後に続けてグールドはこのように宣言している。


音楽の世界に、絶えずクリシェを参照できる背景を供給することで、想像力豊かな芸術家――あるいは、電子時代ですから、正確には、想像力豊かな芸術家集団と呼ぶべきかもしれません――の活動の場である前景が、はるかに際立つようになるのです。電子時代は、陳腐なものからとてつもない超越を必ずや達成してくれるでしょう。(p.46)


引用ばかりになってしまったが、私がTwitter のタイムラインをだらだらと眺めていて、
ふと何気なく思い出したのが、『グレン・グールド論』のこの一連の内容だった。
バックグラウンド・ミュージックとは、大衆、それにグールドのTwitterではないか?
それが音楽にとっての「恩恵」であり、人々の音楽を変え、音楽の環境を変えたように、
TL上に流れるtweetsも、何かにとっての「恩恵」であり、何かを変化させるのではないか。
Tweetsをクリシェ(決まり文句・常套句)と称するのはさすがに抵抗があるけれども、
宮澤淳一が以下のように解説し、あるジャンルの断片とその編成、浸透が語られるとき、
私達の前に現れてくるその「前景」、「超越」には、一体何という名が付けられるのだろうか?


スピーカーから流れ続けるその音楽は、古今のクラシックの有名曲やその自由な編曲・改作、あるいは、それらを模倣した様式や語法のクリシェを用いたオリジナル曲から、場所・時間・用途にあわせて「編成」された「響き」である。電子テクノロジーの発達のおかげで日常生活の中に浸透したそうした「陳腐なもの」(common place)を「背景」(background)に、〈聴き手=消費者〉を含めた多くの参加者による現代の「芸術家集団」は創作を行い、「前景」(foreground)を描き出す。(p.47)
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2010年01月26日

『グーテンベルクからグーグルへ』

ピーター・シリングスバーグ 『グーテンベルクからグーグルへ』
(明星聖子・大久保譲・神崎正英 訳 慶應義塾大学出版会)

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副題は「文学テキストのデジタル化と編集文献学」。
グーグルのことになんか触れてないので、内容的には副題の方がしっくりくる。
それと、訳者の明星聖子の後書きの内容は面白い。いつか新書あたりで書いて欲しい。


私達は自分の手にした本が、その本の内容に関して絶対的であることを疑わない。
しかし実際は作者のメモ、手稿、草稿、初版本とそれ以降の本、翻訳、海賊版には違いがあり、
さらにそこには植字工のミスや意図的な変更、注釈者、出版者、編集者の何らかの介入があり、
さらに編集者によって介入されたテキストによって作者がさらに改変したテキストがあり、
他人がテキストを変更して、それを元に戻せたのに作者が介入しなかったテキストがある。
また、書かれたテキストには書かれて読まれた当時の文脈があり、それはともすると重要であり、
それらを踏まえての批評家の批評があり、後世の編集者の介入や編纂、簒奪、再現等もある。

文学研究とは制度と言える。編集文献学はその制度の設計、交通を担う学問と言える。
上記の錯綜する諸事実と取り組みつつ、理想的な文献研究の制度を開発するのがその役割だが、
ここにきて学問的な知識の集積場所、文献学の舞台が、印刷版から電子版へと移行しつつある。
その影響は大きく、上記の諸事実との関係も大きく変わるだろうということが述べられている。
研究者達はそのことについて、失うものは少なくない、とは言いつつも好意的のようだ。


1960年代くらいまでは、文献編集者達も、所謂その言葉の意味どおりの「決定版」、
客観的な文献研究の最上の成果、プロジェクトの終わりを高らかに宣言する研究結果、
そんな学術編集版を志向していたけれど、最近はさすがにそんなことも言わなくなった。
編集とは主観的な批評行為であり、編集者(研究者)の志向性によってそれは編みこまれる。
彼らは資料から転写し、編集し、註をつけるだろうが、そこにはある意図が横たわっており、
別の意図(それは有益であり有意義であるかもしれないのに)は無視されて隠れてしまう。
だから文献編集者はそのことに自覚的になるべきだし、その意図の説明はしておくべきだし、
異なり、対立する編集方針の生まれる余地を常に残しておくべきなのだ。作者はそう語る。

学術編集と言うか、制度設計の方向性は、一つの目的だけを絶対視する閉じた以前の方向から、
複線的で開けた、将来の研究者達に依存することも多いだろう、歓待的な方向へと変化した。
そして電子版のナリッジサイトや編集システムは、印刷媒体よりも有効にそれを達成する。
それは分量的な制限を取り除き、ハイパーテキストによる参照、インデックス化も容易にする。
何よりPCさえあれば世界中からアクセスすることも可能であり、情報は簒奪されることもなく、
利用者(専門家から学生、一読者に至るまで)の自由なコントロールにも応えることができる。
電子テキストは、一つの意図によって致命的に隠されることもなく、電子の中で貯蔵される。
それは長きに渡って多くの人達によって管理され、新しい何かを産む土壌であり続けるだろう。


それでも問題は山積しているようで、その問題に頭を抱えている文章の方が多いくらいだ。
それどころか学術編集そのものに挫けている様子も無きにしも非ずで、訳者の後書きといい、
それは彼ら特有のメンタリティなのかもしれない。もう一度言うがこの後書きはとてもいい。
主観的でしかない人間風情が、客観性や学問の理想をどうして実現することができようか、
でもやるんだよ、やるしかないだろ、みたいな態度が全編に渡って展開されている稀有な本だ。
posted by 手の鳴る方へ at 10:56| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

『らいか・デイズ』

むんこ 『らいか・デイズ』(芳文社)
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4コマ漫画雑誌で連載中の4コマ漫画だったはず。4コマ漫画の見本で筆頭という印象。
勉強はできるけど不器用でウブな(死語)小学6年生の日常を描いたり描かなかったりする。


今のところ9巻まで出ているんだけど、小学6年生のまま、正月ネタを4〜5回は繰り返している。
これは漫画にはよくあるループで、キャラクター達はつまるところ永遠に小学6年生のままだ。
が、担任が結婚して子供は生まれるわ、一度も出てきてないキャラが死ぬわ、生理が始まるわ、
ブラジャーはつけ始めるわ、産休の代理で新しい先生がやって来て、帰って、また戻ってくるわ、
そういう出来事はきちんと用意されていて、クラスメイトや両親や親戚やその他大勢の中で、
子供達はきちんと成長していますよ、的な、「4コマなのにいい話」的な傾向がとても強い。

永遠の小学6年生達が登場人物で、舞台も学校、家、町内、両親の田舎でほぼ占められている。
たまに一人で田舎に行ったり、遠くの図書館に行ったり、海や別荘やらには行っているけど、
閉じた環境が大半で、それでもなお成長というものが図らずも前面に出てくるのは面白い。

成長のイメージとしては、例えば教養小説(ビルドゥングスロマン)のようなモノがあって、
子供が旅の中で色々な人々と触れ合い、移動する距離が遠くなり、出来ることが増えていき、
肉体的にも心理的にもタフになり、やがて大人になっていく、みたいな流れを辿るのだけど、
この『らいか・デイズ』には、教養小説的な移動や成長、肉体強化、メンタル面の向上等、
その手の経験値アップはほとんど見当たらない。貧乳は貧乳だし、料理下手は下手のままだし、
テストで97点は97点だし、泣き虫は泣き虫のままで、つまりあるキャラはそのキャラのままで、
この手の漫画では当たり前なんだけど、初期設定のまま、変化というものが排除されている。


それでもなおそこに成長と呼べるものがあるとすれば、それは何だろうかとなるワケだが、
漫画表現における成長とは、必ずしも身長の伸びではないし、スキルアップでもないし、
移動する距離が伸び、見知った人が増え、今まで見えなかったモノが見えてくると言うような、
視野の拡大、世界の広がりというワケでもないし、通過儀礼というワケでも必ずしもない。
確かに新しい必殺技の習得や覚醒、ある種の親殺し、親離れ、そして教養小説的な旅物語は、
成長を分かりやすく、視覚的に読者に教えてくれるものではあるし、それはそれでいいけれど、
『らいか・デイズ』的な漫画には、もう少し別な成長の描き方、考え方があるように思われる。


前フリが長くなったが、例えばこのように言ってみるのはどうだろう。
成長とは無自覚なままに、ゆっくりと、自分自身へと収斂していく様のことなのだ、と。
コマを重ね、ページを積み上げ、巻数を増やしていくその中で、『らいか・デイズ』は、
登場人物たちを磨き上げ、ときには削ぎ落としつつ、より彼女ららしさへと近付けていく。
そこにあるコマは、新しい世界を開示し、その時間を過去や未来へと延長することもあるが、
登場人物たちは、未知の力や風景、敵へと分け入っていくよりもむしろ、既知へと擦り寄る。
時間の停止したその既知の中で、子供達は容姿やスキルはそのままに成長することが出来る。
だから『らいか・デイズ』的な物語は、物珍しいビルドゥングスロマンでもあると言える。
それは何者かになるのではなく、他ならぬ自分自身へとなるための、成長の物語なのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:12| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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