2010年01月24日

アメリカ時計産業の興亡

香山知子 『ウオッチ・アド 広告に見るアメリカ時計産業興亡の軌跡』(グリーンアロー出版社)

アメリカの時計産業の歴史を、広告から読み解こうとする本、というか資料。
産業というものが如何に興り、如何に巨大化し、如何に歴史に巻き込まれ、衰亡したのかの話。
この世の春を謳歌したある一大産業が、時代の流れの中で見事に消滅したことが描かれている。


アメリカの2大メーカーであるウオルサムとエルジンの生産量を見てみると、1880年にはウオルサムが150万個、エルジンが70万個、1900年にはウオルサム900万個、エルジン900万個、1930年にはエルジン3300万個、ウオルサム2700万個である。またダラーウオッチの主要メーカーであるインガソルでは、1900年に600万個、1930年に7400万個を生産し、ダラーウオッチに代表される廉価時計の人気がうかがえる。(p.3)


20世紀初頭の混乱や大不況をモノともせず、アメリカの時計産業は発展していったけれど、
日本の真珠湾攻撃によってアメリカは2次大戦へ参戦。時計メーカーも工場のラインや職人を、
マリン・クロノメーターや軍事時計等、軍需産業へと大幅に転換せざるを得なくなる。
本土の国民に向けての製品供給が枯渇する中で、スイスの輸入時計に市場シェアを奪われ、
技術開発にも溝を開けられた中で、戦後、新技術を苦心しつつ導入、自らでも開発するが、
スイスとの貿易交渉に失敗(40年代)、クオーツによる日本企業の躍進(70年代)もあり、
アメリカでの時計生産は完全に凋落、多くのアメリカ時計メーカーは姿を消していった。
例えば上の引用中にあるウオルサムは、1981年に日本企業の平和堂貿易に買収され、
エルジンは1966年に消滅、インガソルは1922年に買収後、そのブランドを51年まで持続、
そして現在は、もはや唯一のアメリカ時計企業とも言えるTIMEXへと継承されている。

70年代の日本のクオーツ革命は凄まじく、アメリカだけでなくスイスの時計産業も壊滅させた。
「1970年から1985年の間に、時計関連会社は1620社から600社となり、3分の2近くが」消えた。
スイスの場合、アメリカと違って、現在ではその時計産業も盛り返し、その地位も磐石に見える。
それは例えば、オメガ、ロンジンを中心に結成されたSMHと呼ばれるコングロマリット(85年)や、
早い時期からの水平分業化(スイス時計のムーブメントの多くは日本企業製)等に見て取れる、
生き残り戦略の巧妙さであって、不況や戦争ではなく戦略ミスが産業を滅ぼすのだと痛感する。
未だに「モノ作り」とかホザいている例の国は、スイスではなくアメリカの轍を踏むだろうし、
その後のアメリカが2次産業から3次産業に移行し発展したことを考えれば、むしろそれでイイ。
アメリカ本土で時計が作られないことを、いま生きている私達は誰一人として困っていない。
上に名のあるTIMEXも、名前だけはアメリカの時計会社だが、組立工場は国外に散在している。


と、エコノミックなことばかり言ってみたけれど、この本自体はエコノミックでは無い。
インガソルの「1ドルを有名にした時計」等のコピーや、戦時中の広告は普通に面白い。
例えば1943年、ハミルトンの広告


この風変わりな大地は単調に地平線へと広がっている。風が吹くと、波のなかで流れができる。この果てしない無の空間で迷うことは死を意味する。
砂漠を行く戦車が船と同じように太陽と星と、そしてマスター・ナビゲーション・ウオッチと呼ばれる特殊な時計装置を使って進行方向を定めるのはこのためである。これは戦車士官が砂漠での進行方向を見つけるために頼りとする装置のひとつだ。戦車の揺れ、粉々の砂、最高気温華氏140度という気温にもかかわらず、ハミルトンのマスター・ナビゲーションは何ヶ月にも渡って信じられないほどの安定した時を刻み続ける。ハミルトンで働く人々は政府のためにこのような精密な時計装置を作ることができるのを誇りとしています。そしてこれは民間用のハミルトンをほとんど製造できないということでもあります。しかしこの経験が「鉄道時計の正確さをもつ時計」という評判以上のものを戦後に約束しているのです。ハミルトン・ウオッチ・カンパニー、344アベニュー、ランカスター、ペンシルヴァニア
(p.36)


戦時中の時計会社の広告は、売るためではなく、売れないことを釈明するための広告だった。
性能や「〜御用達」という下りは、いつの時代のどの場所でも同じような文句なのだけど、
「商品が供給できないけれど、どうか忘れないで下さい」というこの広告の思いは痛切だ。

戦時中の時計広告の中には、例えば「戦場となったジャングルで敵の日本兵が身に着けた
時計がうるさいから場所がすぐわかって奴らをご先祖様のところに送ってやったぜヘヘへ、
でも俺が身に着けていたハーベルの腕時計はとても静か。妻からの最高のプレゼントです」
だとか、「戦場にいる愛するあなたへのクリスマスプレゼントとしてハミルトンの時計を
贈ろうと思ったけれど、ハミルトンも戦場に行ってしまったわ。だから私は愛するあなたの
ために戦時国債を買っておきました」みたいなものもあって、こういうのは大好きです。
ちなみにハミルトンは1974年に、スイスの時計メーカーグループによって買収されている。
ハーベル(Harvel)は不明。戦時中に湧いて出た便乗組、泡沫企業として紹介されている。

この本にはもちろん戦時中以外の広告もたくさん掲載されている。そしてそれらも面白い。
ただ、もう既に絶版しているようだから、古本屋でしか手に入らないだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 09:51| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月23日

『偶像崇拝』

M・ハルバータル、A・マルガリート 『偶像崇拝』(大平章 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「その禁止のメカニズム」とある。
タルムードやミドラッシュ(旧約聖書についての古代ユダヤ人の残した注釈)、
カバラ思想、マイモニデスなどのユダヤの哲学者達の書き残した言葉を手がかりとして、
微に入り細に入り、ユダヤ教の偶像崇拝のメンタリティを解き明かそうとしている。


偶像崇拝の問題は、神を表象できるか、代理できるか、みたいな形而上学的なものではなく、
もっとシンプルな道徳の問題、具体的には夫を裏切って浮気する妻の姦淫の問題である。
イスラエルは神に選ばれ、その神との間に婚姻関係(契約)を結んだ妻としてイメージされる。
エジプトからの脱出は結婚物語の一部として語られ、関係は一夫一婦制の模範として描かれる。
そのイスラエルが、ワケの分からないバールだとかを崇拝するとき、それは性的な罪となり、
夫以外の男(それは夫よりも下らない男に違いない)への売春、色目という隠喩で語られる。
そして姦淫が禁止されるのと同じように、偶像崇拝は――何より性道徳的に――禁止される。


ここまではまだ分かり易い話なのだけど、例えばこの神とイスラエルの夫婦関係という隠喩、
それ自体が神を人として扱っているから、それだって偶像と言えるんじゃねえのかおいコラ、
という議論だってあり得るし、言葉で「神」とか言うのは偶像(表象代理)じゃないのかとか、
言葉で「神の手」と言うのはいいとしても、像や絵で神の手を形作るのが駄目なのは何故かとか、
契約の函やケルビム(天使)が、神の換喩として用いられているけどそれはいいのか、とか、
異神を崇拝するのは姦淫でいいけど、正しい神を間違った仕方で崇拝するのはどうなのかとか、
そういえばエジプトの王は当時は神扱いだから、それとの政治的な絡みで偶像崇拝を語れるし、
ローマの支配下に置かれた際、ユダヤ人がローマ皇帝に税金を支払うのは、異教徒の偶像に、
供え物をするのと同じじゃないのか、それも偶像崇拝に該当するんじゃないの? とか等々、
そういう偶像崇拝に関する議論、解釈の歴史的な流れが延々と、引用豊富に解説されている。

信仰心の薄い人間からすれば、こいつらまぁ長年に渡ってよくやるわ、と思う以外に他ない。
この本のまとめを乱暴に、一言で言えば「偶像崇拝は魔術で私的で非絶対的価値の信仰」だ。
つまりその具体的な内容は、軽薄には語れない。それは肩透かしだが実に正当な結論でもある。
あと、こんな具合に書けば如何にも普遍的に読めるけど、ユダヤ教自体のそれはそうでもない。
繰り返すけど、偶像崇拝の禁止は、神に選ばれたと自称する妻としてのイスラエルの道徳で、
そもそもからして、特定の共同体、その生活に深く根を下ろしている類のメカニズムなのだ。


(ちなみに、上の方で神が人の形なのはどうなの、みたいなことについて少し触れたけれど、
全能の神を人の形としてイメージすることは、昨日触れた汎神論者のスピノザが全否定し、
イェヘズケル・カウフマンという有名が学者が肯定したことだった。カウフマンにしてみれば、
神を抽象的なものとして考え、そこから個性・意志を抜き取ることは異教的な考え方だった。
スピノザにしてみれば、抽象的な神概念は聖書の語るモノでは全くなく、哲学の領分であり、
イスラエルの信仰は民衆のための信仰で、抽象的・観念的・エリート的なモノでは無かった、
というその点で、カウフマンもスピノザも一致している。スピノザは異教徒にされ易い。)
posted by 手の鳴る方へ at 09:58| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

スピノザの『神学・政治論』

スピノザ 『神学・政治論(上)(下)』(畠中尚志 訳 岩波文庫)


スピノザは、幾何学のような正確さで神の存在を証明したと思った17世紀オランダの哲学者。
神は永遠で絶対だから形なんかねえよ、だって形があるってことは有限ってことじゃん、
だから旧約聖書で神様の姿が描写されてるあれは違うんだよ、神即自然なんだよ、な?
とかなんとか言ったから、当時の神学者や世間一般からフルボッコに叩かれたKYな人。
しかも、哲学者として味方をしてくれると思ったデカルト主義者からもフルボッコで、
無神論者とかレッテルを貼られて罵倒され、いったいどうなってるんダ・ヴィンチ、な人。


西洋にはキリスト教と哲学の二本の柱があって、この二つはお互いに微妙な関係にある。
詳細は省くけど、哲学の懐疑とキリスト教の信仰は、そもそもからして相反しており、
しかもそれでいてどちらも真理を語ろうとする、そんな中で西洋の歴史は紡がれてきた。
巻頭の訳者解説や、上野修『スピノザ』(NHK出版)がとても詳細に説明しているけれど、
スピノザがこの本でやろうとしたことは、哲学と信仰の分離、役割分担の取り決めであり、
市民社会を閉じた神学者の信仰、知見から解き放とうとする政治的な試みでもあった。

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聖書の中に神という言葉があるけれど、それを哲学的な神と解釈するからおかしなことになる。
そこに書かれてある神は、預言者達の知的レベルによって表象された、真理ではないものの、
とても有意義な何らかのイメージである、そういう論旨でスピノザは話をグイグイと進める。
スピノザは聖書や神学を神への服従や隣人愛の物語と考え、真理は哲学の領分だと考えている。

例えばスピノザは、聖書で「神」という単語が強調の意味で使われてることを主張する。


かくの如く、常ならぬ自然の業が神の業と呼ばれ、常ならぬ大いさの木が神の木と呼ばれるのであつて見れば、創世記の中に於て、極めて強い極めて大きな人間たちが、それが不信心な盗人であり姦淫者であるに拘はらず神の子と呼ばれてゐるのも少しも不思議でなくなる。古人は凡そ人が依つて以て他の人々を凌駕する所以のものを何でも神に関係せしめるのが習ひであり、これはひとりユダヤ人に止まらず異教徒たちもさうであつた。例へば(略)ローマ人に在つてさへもかうしたことが極めて普通に行はれた。例へば精巧に作られた品がある場合、それを彼らは神の如き手に依つて作られたといふやうな表現をする。これを若しヘブライ語に直さうとすれば、「神の手もて作られた」と言はねばならぬ。(上巻 p.77)


昔のローマ人も「神パピルスwwwwwww」とか「神職人ktkr」とか言ってたと思うと感慨深いが、
スピノザにとって聖書とは真理の書ではなく、このような比喩と謎のイメージの群であった。
彼はそういう史的物語として聖書を高く評価する。民衆の理解力に沿う、経験的なものとして、
人々に服従と敬神を教示するという点で、聖書を、言わば社会的、福利厚生的に評価する。
ただしだからと言って、聖書そのものへの信憑性が、人間を幸福にするワケでは全くないし、
そこに書かれてある諸々の奇跡が、現実に起こったことであるなんてことは絶対に認めない。
認めないが、その意義は認めているわけで、ここら辺のスピノザのバランス感覚は絶妙だ。
神の正確な知識なんて信仰には不要だし、神を誤認してもそれは冒涜じゃないとすら彼は言う。


だから神が(略)自らを預言者たちの表象像や先入的意見に適応させたことも、又信心深い人々が神について色々違つた意見を抱いたことも、少しも不思議ではないのである。更に又聖書の諸巻が至るところ神について極めて不適当な語り方をし、神に手、足、目、耳、精神、場所的運動等を帰し、その上又心の激情(嫉妬、慈悲等々の)を帰し、最後に又神をばキリストを右にして天の玉座に坐つてゐる裁き主として描いてゐるのも不思議ではない。聖書の諸巻はつまり民衆の把握力に応じて語つてゐるのであり、聖書は民衆を学者にしようとしてゐるのではなくただ、従順な者にしようとしてゐるのである。然るに世上一般の神学者たちは、神に帰せられたさうした諸性質が神の本性と矛盾することを自然的光明に依つて知つてそれをすべて比喩的に解釈しようとつとめ、之に反して、彼らの把握力を越える事柄は之を文字通りに受け入れようと力めて来た。だが若し聖書の中に見出されるこの種の事柄が皆比喩的に解釈され・理解されねばならぬとしたら、聖書は大衆乃至無教養な民衆のためにではなくて単に識者たちのために、殊に哲学者たちの為に書かれたことになるであらう。(下巻 p.125〜126)


スピノザの神はスゴイので外部なんか無い。だから自分の外部を見るための目なんか無い。
また、自身が全ての中心なので、感情なんてワケの分からないモノにも振り回されない。
そして聖書の神は、預言者達にそんな事情は教えていないし、語ることを求めてもいない。
聖書の神が求めているのは、神への愛だとか、服従だとか、隣人愛だとかの生活方式であって、
それさえ個々人に備わっていれば、聖書解釈なんて勝手気侭でいいとすらスピノザは語る。


こうしてスピノザの語る哲学・真理は、神学が吐き出すドグマから巧妙に分離され、
さらに返す刀で、民衆の信仰を、哲学的で無意味な論争からも解き放つ筋道をつけた。
『神学・政治論』はさらに、聖書や歴史を絡めて国家論へと話が進んでいくのだけど、
そこら辺はもう私の手には負えない。固有名詞とヘブライ人の歴史がワケわからん。

スピノザの聖書解釈はスタンダードでは無いけれど、画期的で革新的で、何よりも面白い。
当時のキリスト教会からすればKYな奴だったのだろうけど、実はイイ奴だったのは読めば分かる。
posted by 手の鳴る方へ at 09:06| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

ぼくのかんがえたでん子ブックリーダー

SONYがウォークマンを開発したとき、その後に現れたのは、一つの新しい世界だった。
それはスピーカーの省略とか軽量化とか小型化とか、そういう技術の進化というより、
街中で好きな音楽を聴きながら歩ける、という音楽との新しい関係を作った点でスゴかった。
新しい関係を垣間見せてくれたり、違う世界へと誘ってくれる商品というのは素晴らしい。

今後、新しい世界を見せてくれそうな商品、デザインとして、電子ブックリーダーがあって、
日本では恐らく、電子ブックは絶望的に普及しないし、したとしてもKindleだろうけれど、
そこには読書と人間の関係が、今までに無いものに変化する可能性が胎動している。


もしも私が電子ブックリーダーを開発しろと言われたら、きっとこんな機能をつける。

電源をONにし、読みたい本をチョイスした後に、二つの項目が画面上に表示される。
「ページ数」「時間」とそこにはあり、例えば「200ページ」「100分」と設定する。
すると電子ブックは200ページの分量を、100分かけて自動スクロールし始める。
この場合は、単純計算で1ページで30秒。本の内容によっては結構早いペースだろう。
無論、ストップやリバースの機能はつける。それらは片手で操作できるのが当然。

この機能を使えば、人は時間――移動時間、待ち時間、休憩時間――に合わせて、
本を所定量まで読むことが期待できる。何なら丸一冊を読み終えることだってできる。
今までは(当たり前だが)自分の読むスピードに合わせて本を読んでいたけれど、
これによって、ある意味で強制的に速読の状態に持ち込んで文字を目で追わせてしまう。
こう書くと速読を推奨しているみたいだし、恐らく速読が推奨されるのだろうけど、
個人的には良い読書体験というのは、気に入ったフレーズや文章に出会った後の余韻、
本から眼を離して、その文章から自分が何を思ってるかとか、何を考えているかとか、
そういうことをしている状態というのが心地よいので、1ページ30秒というペースではなく、
1ページ5分とか、200ページ2000分とか、そのくらいのペース配分を推奨したい。

そんなことする位なら普通に読めよ、自動スクロールはいらんだろ常識的に考えて、と、
そう思われるだろうけど、読書の最中の思考の流れ、みたいなのがあると思うんですよ。
それを機械の側に預けて、自分と本の関係を客観化するのって面白くないですかね?
読書のスピードというのは、本とその人との関係をシンプルに示唆していると思う。
好きな本、好きな作者の新刊は、敬意を込めてゆっくりとしたスピードで読み、
あるいは、もう好き過ぎるから、情熱に任せるままに速いスピードで読んでみたり、
自分に合うかどうか分からない本は、自分が最も読みやすいスピードで下調べしたり、
別に読みたくないけど読まなきゃ怒られる本は、自分の読むよりも速いスピードで読んだり。
本を読むのにかかった時間じゃなくて、文字の上を滑り、そこから垂直に深く潜った、
その速度を電子ブックと共有できるのなら、それは紙の本よりも親しくなれないだろうか?


他にも新機能の案は幾つかあるし、そういうことを考えること自体が面白いんだけど、
人間と読書の関係は、イノベーション次第でもっと面白く、有意義になると思ってます。
posted by 手の鳴る方へ at 06:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月27日

『知識・信仰・懐疑』

カール・レーヴィット 『知識・信仰・懐疑』(川原栄峰 訳 岩波書店)


ヨーロッパの精神には互いに矛盾する二つの源流、ギリシャとイスラエルがある。
前者は西洋哲学、後者はキリスト教をしてヨーロッパ精神を支える柱となったけれど、
学問たる哲学と、宗教たるキリスト教との間には、越えがたい深い断絶がある。
断絶があるけど繋がってて、繋がってないという意味で繋がってるとも言えるよね、
まぁ、そこら辺が西洋哲学の分かり難いところかもね、という入門書的な一冊。


懐疑的に哲学するとは求めること、問いつつ探求することをとおして可能な答えの周囲を回ることをいうのであって、啓示された真理を確信することではない。キリスト教的思惟とは信仰を基礎にして考えることであるが、ほんとうに信じている人はけっきょくもはや求めることをしない。その人は神の言葉と神の語りかけとの中に自分を自由にし救済してくれる真理を見いだしているのである。もちろんその人とて、この真理をくりかえし新たに信じなければならないのではあるが。信仰がはじまるところでは、ソクラテス的懐疑的な意味で哲学することはやむ。真理を見いだしてしまえば、探求的な懐疑の求めるというはたらきはやむからである。(P.48)


古代の哲学は懐疑を旨とし、エピステーメーとドクサ、哲学者とソフィストを区別する。
そこで人が本当に哲学的に考えるのなら、聖書に書かれてあることは真理と断定できない。
聖書の神はいるともいないとも言えないし、それ故に絶対視・特別視することもできない。
が、つい最近まで、ヨーロッパの多くの哲学者は、当たり前のようにキリスト教徒でもあった。
無論それは彼らの思想が短慮であったり、キリスト教徒としてインチキであったことを意味しない。
単純に言って、彼らは、キリスト教の教義だけが、人間や世界の摂理の本質に迫っていると、
そう確信していただけの話で、信仰と懐疑の間に横たわる矛盾と格闘しなかったワケでは無い。

アウグスティヌスは真実を求めて哲学の門をくぐり、幻滅して門を出た後に信仰の徒となった。
彼は「私が信じているから神は存在しており、神が存在しているから私はそれを信じる」的な、
この循環的な信仰の基礎付けの存在をはっきりと認めつつ、信仰の知について熱く語っている。

パスカルは数学的な知見を有する物理学者であり、哲学者であり、キリスト教徒でもあった。
彼は『パンセ』の中で、人が本当に理性的なら、理性で掴みきれないことが多々あるのだから、
人は理性を捨てなければ理性的とは言えないと述べ、懐疑の限界と信仰の知を語っている。

キルケゴールは自身を「キリスト教的ソクラテス」と自称し、懐疑と信仰を絶望で繋いだ。
(ちなみにレーヴィットは、「キリスト教的哲学」とかマジであり得ないと述べている。)
キルケゴールの懐疑は古代哲学の懐疑ではなく、キリスト教的、実存的な懐疑なのだけど、
均等化される西洋に抵抗し、一般性を廃する「単独者」として、知を脇にそっと置き、
普遍性と似ているようでその実は全く異なる永遠性、啓示としての真理について思索した。

他にもカントは、哲学の懐疑論と宗教の独断論の中間に活路を見出し、哲学的に処理したし、
ヘーゲルは知識と信仰を、絶対者の中では同一だと言うことで、その対立を弁証法的に解消した。
そして無神論者であるはずのあのサルトルですら、その実存主義はキリスト教的だと言える。
サルトルは、その哲学を実存と共に始めたが、それはキリスト教的な神学から出た考え方である。
ギリシャにおいて実存は自明のことであり、神については主にその本質が問われていたが、
キリスト教は、創造物は神の意志によって無から生み出されたと語り、それに驚愕してみせた。
そして16〜17世紀の天文学などの進展により、創造物の世界と人間との関係が素っ気なくなり、
人間は意味も無くこの宇宙の片隅に放り出された、というような偶然性の経験を経たワケだが、
サルトルの実存主義は、その西洋の経験に答えるかたちで、かつての神の創造説を差し引き、
神の代替として実存を担保にして、決断主義的に、そして効果的に、哲学的なことを語る。
サルトルの発想そのものはトマス・アクィナスと結構似ていると、そうレーヴィットは述べている。


このような良質な本が昭和34年に翻訳され、200円で売られていたことに感動する。
レーヴィットの本は復刊するなりして、もっと手に入りやすくなればイイと思います。
posted by 手の鳴る方へ at 05:47| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

自分のことは自分で決める!

たくさんあるTV雑誌を前に、老婦人が店員にこう尋ねていた。
「この中で一番、文字が大きく書かれた本はどれ? 私は目が悪いから見えないの」
店員は困った顔つきで適当に選んだ雑誌をペラペラとめくっていた。

例えば店員がそこから、客観的に見て一番文字が大きい雑誌を選んだとしても、
それが老婦人に読めるかどうかはわからない。何故なら視覚は主観に属するからだ。
逆に、文字の大きさが三番目の雑誌を選んでも、老婦人は読めてしまうかもしれない。
そもそも「私の目で読めるかどうか」という選択を他人に任せているのがおかしい。
その雑誌が読めるかどうかは、実際に自分の目で見て判断すればいいのだから。


この話自体も今年の6月頃の話なんだけど、3〜4年前にも本屋でこんなことがあった。
30代くらいの男性が、小さな男の子を連れて、店員にこのように尋ねる。
「この本は『6歳以上対象』と書いてあるが、4歳のウチの子でも読めるだろうか?」
それに対して中年の書店員はこのように言う。
「お子さんが読みたいと言っているのなら、読ませてあげて問題はないですよ」
実際に、子供はその本を読みたがっていたから、父親(多分)はその本を購入した。

何が言いたいかって、「対象年齢が○歳」という表記は、作り手の大体のイメージなワケで、
それを鵜呑みにして、子供が欲しがっている本を買うのを躊躇うなんてのはどこかおかしい。
主観的であるべき判断基準が、客観的に見える規範の側へと無自覚に横滑りしている。


自分のことは自分で決める、あるいは複数形にして自分達のことは自分達で決めるのは当然で、
こうして当然というのは簡単なんだけど、自分のことを判断するにも想像以上にいい加減で、
岡目八目、なんて言葉もあったりするし、ましてや自分達のことを決めるとなると大変だ。

ここからが本題で、福山市の「鞆の浦埋立て架橋計画問題」は現在進行形で迷走していて、
行政が説明し、お互いに話し合い、挙句に選挙を行ってもまだ住民の意見が分かれている。
そして2007年、工事反対派が広島地方裁判所(福山市から西に約90km)に差し止め訴訟。
で、裁判関係者が鞆の浦を二時間ほど視察したり、過去の判例を持ち出したりして原告勝訴。
また、イコモスと言う偉い環境団体のトップが飛行機で来日、一時間半ほど街並みを視察。
で、予定された都市計画は破壊的だし、ここの景観は世界遺産級とかなんとか言う。

自分達のことを自分達が決められないからって、余所の街の裁判官や余所の国の専門家、
余所の都道府県に住む映画監督に、自分達が生きて暮らす場所の運命を預るのはおかしい。
それらは確かに制度化されており、権威があったりするものだけど、そこに生きる人にとって、
そんなものは幼児雑誌の「対象年齢が○歳」という一文とさして変わるものではないはずだ。
繰り返すけれど、「私の目で見えるかどうか」を他人の判断に委ねるのがおかしいように、
「私達の暮らしが良くなるかどうか」を、そこに住んでも居ない他人の判断に委ねるのは変だ。
世界遺産だとか自然環境だとか歴史的遺産だとかも、生活を無視して金科玉条にするのは変で、
そういうことを言えば客観的な意味や価値があるように見えるし、実際そうかもしれないけど、
そこに住んでも居ない、数時間視察しただけの連中が箔をつけるためにそう言うのは嫌らしい。
それは冒頭の老婦人に対して、「表紙が福山雅治ですよ」とか「講談社の雑誌ですよ」とか、
彼女に読めるかどうかとは無関係なことを言っているのと似たようなものじゃないのか。
posted by 手の鳴る方へ at 07:43| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

小箱とたん『スケッチブック』

小箱とたん 『スケッチブック』(マッグガーデン)
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高校の美術部が舞台だけど、あるあるネタと昆虫ネタが中心な漫画。
登場人物の自意識の無さはむしろ小学生かと思うくらいだが、高校生。
人間パートは4コマ漫画、猫パートは普通のギャグ漫画という不思議な構成。
数年前にアニメにもなってたようで、今のところ、漫画は6巻まで出ている。


同じ作者の『スコアブック』という、野球漫画の面を被った動物漫画が顕著なのだけど、
(どのページをめくっても野球のアイテムと動物が当たり前のように揃って描かれてる)
動物がしゃしゃり出てくると、この作者は何故か4コマの枠をはみ出してしまうようで、
逆に言えば、そこに出てくる人間達にとっては、4コマが一番居心地いいのかもしれない。
確かに、あるあるネタや昆虫ネタ、変な日本語のネタなんかは4コマあれば足りるワケで、
カミキリムシ限定しりとりなんかでも、8コマあれば相手がキレるのには十分過ぎている。
漫画に出てくる登場人物の青春が、そもそも如何にも4コマ的な断片でできているのがイイ。

「彼らの青春は4コマ漫画みたいでした」って言うと、どういうイメージなのか分かり難い。
恋愛や部活動や学問と格闘することもなく、休憩時間中、ずっと机に伏せているワケでもなく、
モテないことを僻むのでもなく、「何が勉強だ」と嘯くのでもなく、孤独なワケでもなく、
そこそこに同性にも囲まれ、異性にも囲まれ、どうということのない関係を築いていて、
家族や友人や先生といった人間関係に深く悩むのでもないような、そんな「真っ当」な青春。
学校生活を舞台にした4コマ漫画は枚挙に暇ないが、私のイメージはそんな感じだろうか。
このように書くと何も残ってないように思えるけど、もちろんそんなはずはなくて、
そこには物語になり損ねた無数のエピソードが、霧のように不確定なまま漂って残されている。


あっちむいてホイ
だけで
部活の時間が終わった日
帰り際に部活に
うちこむ運動部の姿を
見たときの
なんともいえない気持ちといったら・・・



例えばこういう不毛さは不毛さそのものがエピソードで、不毛でない学校生活なんて嘘です。
『スケッチブック』の美術部は、居心地がいいけど不毛な場所のようで(特に先生には)、
文化系クラブの見せ場のはずの文化祭では、絵を飾りつつその横で焼きそばを作ってたりする。
焼きそばはあんまり売れなかったし、美術部のアイデンティティも丸つぶれのはずなんだけど、
主人公は「部長の作った焼きそばはまぁおいしかった」と、そう独白するだけで後に残さない。
この手応えの無さ、深刻に考えない感じは逆にリアルで、リアルだから4コマ以外では語れない。
霧のような密度のエピソードは、4コマ程度のパッケージでないと逆に拡散して不明瞭になる。
あるあるネタというジャンル自体が、そもそもそういう類のモノのようにも思える。


と、まぁ、いつものように漫画ごときに、見当違いなことを小難しくホザいてますけれども、
私はこの漫画に出てくる根岸という男が大好きなんですよ、要するに。そう、要するに!
この漫画の女性は全員がアンチヒロインな性格で、根岸と彼女らの普通の関係が好きなのです。
『スコアブック』に8ページほど、『スケッチブック』の非4コマな漫画が載っているのだけど、
根岸+女の子三人で、日曜にツチノコ探しに出かけたのに、現場で女の子なんかガン無視して、
全力でツチノコを追うこの男はもうね、素晴らしい。そもそも8ページあるこの漫画のオチ、
最後のコマは、ツチノコに間違えられやすいトカゲの簡単な解説でしれっと終わっていて、
この作者は常道から逸れることを素でやってのけているから、もっとやればいいと思います。


小箱とたん 『スコアブック 小箱とたん作品集』(マッグガーデン)
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2009年11月24日

リップマンの『世論』

ウォルター・リップマン 『世論(上・下)』(掛川トミ子 訳 岩波文庫)
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社会はとても広くてとても素早く変化するため、誰もその全貌を見た者はいない。
人々はほんの一瞬だけ、そのほんの一部を垣間見ることが出来るに過ぎないので、
社会を思い通りに変化させたり、社会の総体を推し量ったりするのはとても難しい。
もしも社会が狭ければ、かまどの炊煙が夕餉時に立ち上っていないから税を免除しよう、
と言ったような、直感的で、メディアを介さないような政策判断も出来るかもしれない。
が、現代では、このような仁政は理想でもないので、炊煙に代わり世論が政治の参考となる。


変化するうえに巨大な社会を、全体として把握するのは困難で何よりも面倒臭い。
社会の構成員はもはや同質ではなく、幾つものコミュニティが勝手な思惑を抱いている。
だから目に届き難い雑多なことは、類型を指し示す、特徴的なイメージで把握される。
社会の中の物事は生成変化するが、頭の中の、物事に関するイメージはあまり変化しない。
と言うより、本人に変える意志がなければ、イメージはずっとそのイメージのままであり、
ステレオタイプとは、この類のイメージが、多くの人々に共有されている様子を言う。


もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、次の二つのうちいずれかが起こる。当人がもはや柔軟性をなくしているか、あるいはなにか強烈な利害関係があるために自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合になっているような場合、彼はその矛盾を規則にはつきものの例外であるとして鼻先であしらい、証人を疑い、どこかに欠点を見つけ、矛盾を忘れようとつとめる。しかし、当人がなお好奇心が強く開かれた心の人であれば、その新しい経験はすでに頭の中にある画像の中にとり込まれ、それを修正することが許される。(上巻 p.136)


と、そう言われるように、ステレオタイプは広大な社会の穴を埋め、空転する憶測でもある。
そもそも人の目の届く範囲には限りがあり、人の目が見ようとするモノにもまた限りがある。
アリストテレスによれば、機能する民主主義の限界は、そこに住む人達の視力の限界であった。
仁徳天皇の仁政の範囲が、山上で目に映った、その風景に限られていたのとそれは似ているが、
リップマンは、「シカゴ市民は往時のアテネ市民と同じ視力しかないのに、はるかに遠くまで見聞きすることができるようになっている。」(下巻 p.255)と述べ、民主制に決して悲観はしていない。
リップマンが死んだ後、メディアは一層発達し、人々はますます遠くまで見通せるようになった。
現代の社会や政治が陥っている齟齬と、その齟齬を修正する力は、同じ根を共有している。


すなわち自治を行う人びとが、情報機関を発明、創造、組織して自分たちのきまぐれな経験、偏見の外へ踏み出そうとしないところに〔病巣の〕源がある。政府、学校、新聞、教会は、民主主義のあきらかな弱点、たとえば、はげしい偏見、無気力、重要だがつまらないことへの反発からきた、些細ながら好奇心を唆るものへの偏好や、枝葉のことや不完全なものへの欲求に対して、あまりにも主導性が乏しい。それは彼らが信頼すべき世界像のないままに行動せざるをえないからである。これは民主主義の根本的な欠陥であり、その伝統にもともとつきまとっている欠陥である。そして、ほかのすべての欠陥も、原因はこの欠陥にさかのぼると、私は思う。(下巻 p.222)


この引用した前のページで、新聞は暗闇を照らすサーチライトに喩えられている。
情報の世紀の中にあっても、新聞に限らず、メディア一般なんてその程度のモノなのだし、
それらに過度な責任を押し付けるのも、リップマンが弁護するように、お門違いなのだろう。
最終的にモノを見て考えるのは、何だかんだ言って、メディアでは無く個々人なのだから。
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2009年11月23日

『ヤシガラ椀の外へ』

ベネディクト・アンダーソン 『ヤシガラ椀の外へ』(加藤剛 訳 NTT出版)
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コーネル大学教授で専門分野は東南アジア。名著『想像の共同体』の作者として有名。
大学人、研究者としての自身の「幸運な」半生を、日本人の若者向けに語った本で、
訳者の加藤剛も、訳者の枠を超えて日本の大学教育の歴史、学問領域について語っている。

アンダーソンは1936年生まれ。父親はアイルランド人、母親は中流階級のイギリス人。
雲南(昆明)で生まれ、ヴェトナム人の保姆(保母)に育てられ、思春期に至るまでに、
カリフォルニア、コロラド、独立アイルランド、イングランドと、色々と転居している。
21歳でコーネル大学のティーチング・アシスタントととなり、全キャリアを同大学で過ごす。

本の内容は、大学やフィールドワークの思い出(巻末の人名索引がスゴいことになってる)や、
大学の学問領域(ディシプリン)解説、アメリカの大学事情や時代背景との絡みも面白い。
タイトルの『ヤシガラ椀の外へ』は、学問領域や国境、言葉、時代を越境し続けた作者からの、
狭い場所に引き篭もってないでもっと視野を広げてみなよ、というシンプルなメッセージだ。


で、話はスゴイ変わる。
『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞を受賞した水村美苗が、同賞の受賞コメントの中で、
アンダーソンの『想像の共同体』に触れ、「英語で書いてあることに無自覚」と述べているが、
無自覚な理由はこの本に書かれてある。「翻訳されることに無自覚だった」と言う方が正しい。
『想像の共同体』が書かれた1983年当時、ナショナリズムの著作は、主にイギリスで出版され、
主にイギリスで論争が行われていた。その論争に学術的でない文章で横槍を入れようとしたのが
『想像の共同体』で、アンダーソン本人は、当たり前なんだけど、言語に関しても鋭敏である。
例えば学者として、現地語に堪能になるほどその地域に愛着を持ち、肩入れする危険性を語り、
学術領域のみで流通しがちなジャーゴンの使用が、その学問を閉鎖的にする呪縛であると言い、
他国語で読むことで他者を発見し、学問が始まるという、トドロフの啓蒙的な話もしている。
また、インドネシアの華人が書いた多言語的な本を、復刊するようなこともしていたりする。

(ちなみにアンダーソンの母親は、イギリスの西の果てでしか流暢に話されていなかった、
消滅しかけのアイルランド語ではなく、既に消滅しているラテン語を息子に学ばせている。
それは優秀なパブリック・スクールや、いい大学に入るための受験対策だったらしい。
これはアンダーソンが小学校時代の頃、アイルランドのウォーターフォードにいたときの話で、
このときに「ラテン語に恋をした」と、のたまってしまうアンダーソン先生マジ格好イイ。)

ついでに『日本語が亡びるとき』に即して言えば、アンダーソンはこの本の最後の方で、
グーグルのような検索サイトが、アメリカ語の跋扈を許すことになることを危惧しており、
ドイッチュの「権力とは耳を傾ける必要がないということだ!」という言葉を引用する。
アメリカ語は権力だから、他の言語の事情なんか知らないし、興味ないよ、ということだ。

この『ヤシガラ椀の外へ』は、訳者との共同作業で、日本のみで出版されたのだけど、
その内容と水村美苗の『日本語が亡びるとき』や受賞スピーチとは、どこか交差している。
日本語で書くと言うことは、国際社会の批判に晒されない場所で書くということでもあって、
小説は百歩譲ってまだいいとしても、学問の分野ではそれはヤシガラ椀の中に篭ることだ。
アンダーソンはこの本によって、日本の若者、特に研究者に、〈現地語〉から脱しなさいよ、
でも〈普遍語〉をあまり過大視しなさんなよ、と、そう言って背中をポンと叩いているようだ。
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2009年11月22日

『ヨコハマ買い出し紀行』

ヨコハマ買い出し紀行(1)(2) 新装版 (芦奈野ひとし 講談社)
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月刊アフタヌーンで連載していた漫画の復刻版。通常版はとても手に入り難かった。

いい意味でも悪い意味でも使われることがあるらしい、「雰囲気漫画」って言葉だけど、
この漫画の場合、いい意味で、しかも最高峰の、類無き、雰囲気だけの漫画だといえる。

登場人物の周囲は、時間的にも空間的にも、基本的にのほほんとした雰囲気なんだけど、
「優しいことばかりじゃなかった」時代を経た、銃の携帯も不自然ではない世界観が背後にある。

この漫画が「雰囲気だけ」なのは、単刀直入に言って世界がとっくに滅んでいるからで、
滅んで、元に戻れないところまで閾値を振り切ってしまった、そんな世界だからだと思う。
比喩で語れば、華やかな遊園地があり、そこにある全てのアトラクションの電源が落とされ、
日は沈み、音楽が止み、入り口が閉じた後の、帰り道の人間達の「何事も無さ」に似ている。
本当に楽しいことも、本当に悲しいことも全部終わってしまった後の、デストピアのような風景。
後は明日を待ち、次の時代の到来を待つだけの、空白のような、周縁に位置する時間の中で、
金網の向こう、シルエットだけになった観覧車のように、過去や「ターポン」は眺められ、
老いた世界がベッドの上で見るような、あるいは見たいと思うような人の遣り取りがある。


まぁ、とかなんとか大袈裟なこと書いてますが、普通に面白い、肩の全く凝らない漫画です。
三巻ももうすぐ出るようです。あるいはもう出ているかもしれません。
posted by 手の鳴る方へ at 09:01| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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