2009年11月21日

『近代の再構築』

J・A・トーマス『近代の再構築』(杉田米行 訳 法政大学出版局)
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サブタイトルには「日本政治イデオロギーにおける自然の概念」とある。

丸山眞男によれば、日本の政治は自然に依存する道を選んだため、主体的になれずにいる。
明治以降の政府や知識人達は、決定論的な自然の権威や威光をしばしば利用し、思想化した。
一般的に、近代とは脱自然化した状態であり、自然は近代の背後に押しやられた存在と考える。
つまり自然とは反近代であり、デカルト的な人間モデルを用いるのなら、それは野蛮であり、
人間の自由を抑圧する何かであり、過去であり、東洋であり、要するにアンチ人間的である。

丸山眞男は故に、日本は西洋みたいに近代化してないよね、残念だよね、みたいなことを言うが、
西洋が培ってきた近代/自然の関係だけが近代の形態ではないよ、近代の形態は幾つかあって、
その中でイデオロギー的な自然の取り扱い方も自ずと異なってくるよ、というのが本書の内容。

もっとざっくりと言うと、明治以降、日本の政府や知識人達は、近代化に着手する中で、
近代化の不和とも取り組むことになったんだけど、その不和に対応するために、つまり、
真の近代国家にならんとするがために、自然に依存する道を辿ったんだよ、という話。
丸山眞男は日本の近代化に不満があったかもしれないが、あれはあれで(これはこれで)、
キチンとした近代化のプロセスだったと言えるんじゃないかなぁ、そもそも丸山先生は、
明治期以降のイデオロギー的な自然概念を毛嫌いし過ぎてるよね、という挑発でもある。


自然という言葉自体は明治期以前からあったけれども、西洋文化を翻訳・摂取する中で、
それは政治行動の絶対的な規範、混沌とした時代の中でも信頼できるツールと見做された。
しかしその中身は曖昧であり、知識人達は、その政治概念としての潜在力を模索することとなる。
自然は、旧幕府、新政府、民権派にとって、新時代を語るのに具合がいい言葉に思えたが、
それ故に、自然という概念を巡って、明治期初期に激しい論争が繰り広げられることとなる。

明治時代前半の頃は、ハーバート・スペンサーの社会的ダーウィニズムが隆盛を極めており、
「一八七七年から九〇年の間に日本ではスペンサーの著作は少なくとも三二回翻訳され」ていた。
初期のスペンサーは、人間が進化すれば、個人がお互いの利益を犯さずに完璧に共存できるし、
究極的には政府なんて不要になるし、世の中が均衡状態になって安定するよマジで、と言う。
明治初期の自然論争の担い手とされた加藤弘之と馬場辰猪は、このスペンサーに精通していた。
加藤は(反体制派・民権派から転向し、)寡頭制を支持し、エリートや政府のために発言した。
自然の目的と人間の目的は必ずしも一致しないので、エリートが操縦桿を握るべきだと彼は言う。
自然の用意したユートピアと、人間の望むものは違うため、加藤はエリートの寡頭制を肯定する。
一方の馬場は、逆に、自然の進化、その帰結としての民主化、そして安定化を疑わなかった。

どちらにしても、彼らの論点は自然、しかも社会ダーウィニスト達の言う「自然」であったが、
「彼らの論には、『人間』という言葉はあっても『国家』という言葉はなく、『世界』という言葉はあっても『政府』という言葉はない」ために、明治政府はむしろ自然概念について語ることを避けていた。
大日本帝国憲法や教育勅語には、自然についての言及、自然の権威を借りる表現は一切無い。
スペンサーのユートピア的なイデオロギーは、明治以降の政府・官僚のお気に召さなかったし、
全く均衡していない当時の西洋列強の立ち振る舞いは、楽観主義そのものに疑義を差し挟んだ。
要するに、スペンサーの思想には実用性もなければ説得力も無いと、そう判断されたワケで、
明治末になると、借り物の、普遍性を装う自然概念を、日本文化に内在化する試みがなされる。
西洋的普遍性を映し出す鏡だった自然は、日本人のアイデンティティを映す鏡へと姿を変えた。
日本人と自然との関係、日本人の感性を表現するものとしての自然は、この時期に再発見され、
愛国心や国民性、天皇や家族観との接合、自然概念の中央集権化(地方の風土の軽視、抹消)、
土地資源利用の官僚主義化、つまり近代的な自然観が形成され、そして一部は今にまで至る。


以上から、丸山眞男が言うように、日本の政治と自然の関係は伝統的な宿痾とは言えないし、
日本の自然概念は、前近代的な装いのものでもない。むしろそれは20世紀の産物ですらある。
「自然とは過去の遺物ではなく、根本的に再構築した考えの連続」(p.305)だと作者は言う。
世界遺産やら、環境問題やら、地方自治体の既得権やらが蔓延る21世紀日本の自然概念も、
伝統や普遍性、地域性、ツーリズムを語る言葉の中でゆっくりと生成変化していくに違いない。
posted by 手の鳴る方へ at 09:36| Comment(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

それは戦友の愛なのではないか

週刊誌の「AERA」の終わりの方に「はたらく夫婦カンケイ」というコーナーがあって、
週毎に、働く夫婦の写真と経歴、二人の文章、出会いから結婚に至るまでが掲載されている。
夫婦の職業は様々で、共に農家だったり、夫が会社を立ち上げて、妻もそこで働いていたり、
妻がマーケティング会社の代表取締役で、夫が商社のサラリーマンだったり、まぁ色々ある。
本人達の思惑が多分に込められた(と私が勝手に思ってる)写真の構図が多様で面白い。


で、そこに掲載されていたある夫婦を見て思った、というワケでも別にないのだけど、
現代において夫婦と言うか、伴侶と言うか、配偶者と言うか、パートナーと言うか、
その内実が大きく変化しているのではないかと、そんなことをぼんやり考えている。
まず、「AERA」のこの連載に出てくる夫婦を、「夫婦」と呼ぶことに違和感がある。
彼ら彼女らの言葉や写真から滲み出ているのは、より良い人生への真摯な努力であって、
「素晴らしい人生を送るため」や「もっと良い人生を築くため」という功利的な理由で、
お互いを必要としているような感があって、ここで「功利的」という言葉を安易に使うと、
また余計な誤解をされそうだけれども、彼ら彼女らがその関係の中で賭けようとしているのは、
愛だとか金銭だとかの三文芝居的なものではなくて、自分自身の人生なのではないだろうか。
それを踏まえた上で、初めて愛や経済や家庭やらが言葉にされ、繋がっているのではないか?

ぼんやりとした考えをぼんやりとしたまま書いたので、ぼんやりとした文章になっているが、
喩え話を持ち出すと、生きるということはよく言われるようにサバイバルみたいなもので、
私達はどこかの戦場の最前線で、結構ヒリヒリとした現実と交戦していると言えなくもない。
不況や政治や国際情勢の影響で、より良く、あるいは普通に生きるのすら難しい昨今だが、
人生をサバイバルする戦略の一つとして、例えば理解し合えて、自身を成長させてくれて、
一緒にいると安心できるようなパートナーを、側に置くことはとても有効なことだと思える。
一緒に戦えて、より長く生き延び、戦局を優位に進められる仲間の存在はきっと心強い。


現代人はその身をサバイバルに投げ込まれている。それこそ生まれて死ぬまで最前線生活だ。
「はたらく夫婦カンケイ」に垣間見える関係は、夫婦というより、共に戦う戦友のように見える。
現実を生き延び、サバイバルを潜り抜け、お互いの心身を休める居場所としての戦友関係だ。
思えば夫婦という関係性と、戦友という関係性は、一体どちらがより強く堅いのだろうか。
後者だと即断したくなる。そこにある夫婦の愛は、比喩が雄弁に語る戦友の愛なのではないか?
posted by 手の鳴る方へ at 05:42| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

東アジアの100冊

「東アジア100冊の本」選定 白川静さんの「字統」など(47NEWS 09.10.29)



日本、中国、韓国、台湾、香港が集まって東アジアの本を100冊選んだらしい。
日中韓から各26冊ずつ、台湾から15冊、香港から7冊、計100冊をチョイスした結果、
日本からは廣松渉や白川静、河合隼雄、多木浩二などの有名どころが選ばれた模様。

で、「東アジアの100冊」に選ばれた日本の書物26冊が、09年11月上旬時点のAmazon.comで、
どの程度レビューをされているのか、調べて書き置いておこう、というのが今回の試み。
同じ本が同じ会社、違う会社から何冊か出版されている場合、レビュー数が多い書を優先。
面倒臭いから、各個にリンクを貼ったり、紹介された本の表紙を載せたりはしません。

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・佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社 1965年 中公文庫 2005年)
中公文庫版のカスタマーレビュー(3件) 星5つ

・丸山眞男 『講義録 第6冊・第7冊』(東京大学出版会 第6冊 2000年 第7冊 1998年)
カスタマーレビュー 第6冊、第7冊ともに無し

・吉本隆明 『共同幻想論』(河出書房新社, 1968年、角川文庫 1982年)
河出書房新社版、角川文庫版のカスタマーレビュー(16件) 星4.5
16件のレビューは26冊の中で最多。さすがに一世を風靡した本だけはある。

・石牟礼道子 『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫 1972年 2004年)
2004年度版のカスタマーレビュー(9件)星4.5
ちなみに1972年度版のカスタマレビューは2件 星5つ

・石母田正 『日本の古代国家論』 (岩波書店 1971年 2001年)
カスタマーレビュー 1971年版、2001年版ともに無し

・松下圭一 『都市政策を考える』(岩波新書 1971年)
カスタマレビューどころかAmazonの検索にヒットすらしない。
出版元の岩波書店HPの検索にも書名が出てこないという悲哀っぷり。

・廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房 1972年  講談社学術文庫 1991年)
講談社学術文庫版のカスタマレビュー(2件) 星5つ
廣松先生は再発見、再評価の機運が高くていいと思います。

・宇沢弘文 『自動車の社会的費用』(岩波新書 1974年)
カスタマーレビュー(6件) 星5つ

・山口昌男 『文化と両義性』(岩波書店 1975年 岩波現代文庫 2000年)
1975年、2000年版のカスタマーレビュー(1件) 星5つ
私はこの本から山口昌男のファンになった一人です。

・河合隼雄 『影の現象学』(思索社 1976年 講談社学術文庫 1987年)
講談社学術文庫版のカスタマーレビュー(10件) 星4.5
星2つや星3つもあるが、レビュー内容は辛口でもない。

・梅棹忠夫 『狩猟と遊牧の世界』(講談社学術文庫 1976年)
カスタマーレビュー(2件) 星5つ

・網野善彦 『無縁・公界・楽』(平凡社 1978年・1987年 平凡社ライブラリー 1996年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(8件) 星5つ
レビュー内容もやたらと熱いのばかりで好印象。

・西郷信綱 『古典の影』(未來社 1979年 平凡社ライブラリー 1995年)
未來社版、平凡社版ともにカスタマーレビュー無し

・佐竹昭広 『万葉集抜書』 (岩波書店 1980年 岩波現代文庫 2000年)
どちらにもカスタマーレビュー無し

・鶴見俊輔 『戦時期日本の精神史』(岩波書店 1982年 岩波現代文庫 2001年)
岩波現代文庫のカスタマーレビュー(2件) 星5つ

・藤田省三 『精神史的考察』(平凡社 1982年 平凡社ライブラリー 2003年)
平凡社ライブラリー版カスタマレビュー(2件) 星4.5

・前田愛 『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1982年 ちくま学芸文庫 1992年)
どちらにもカスタマーレビュー無し。
レビューは無いけれど、色々なところで引用されているのをよく見る本です。

・中井久夫 『分裂病と人類』(東京大学出版会 1982年)
カスタマーレビュー(5件) 星4.5

・井筒俊彦 『意識と本質』(岩波書店 1983年 岩波文庫 1991年 ワイド版 2001年)
文庫版カスタマーレビュー(10件) 星5つ
この人が選ばれない「東アジアの100冊」のなんて意味が無い。
あと、こんな難しい本に10件もレビューがあることにビビる。

・白川静 『字統』(平凡社 1984年 新装普及版 1999年 新訂版 2004年 新訂普及版 2007年)
新装普及版(1999年)のカスタマーレビュー(7件) 星4.5
「東アジアの100冊」でこの人がいないのも嘘だよね。

・二宮宏之 『全体を見る眼と歴史家たち』(木鐸社 1986年 平凡社ライブラリー 1995年)
木鐸社版は検索にヒットせず。平凡社ライブラリー版にはカスタマーレビュー無し
個人的に樺山紘一とダブってどっちがどっちかわからなくなることがある。

・多木浩二 『天皇の肖像』(岩波新書 1988年 岩波現代文庫 2002年)
岩波現代文庫版カスタマーレビュー(3件) 星4.5
ちなみに岩波新書版のカスタマーレビュー(2件) 星4.5

・伊谷純一郎 『自然の慈悲』(平凡社 1990年)
カスタマーレビュー無し

・ノーマ・フィールド 『天皇の逝く国で』 (みすず書房  大島かおり訳 1994年)
カスタマーレビュー(4件) 星5つ

・市村弘正 『小さなものの諸形態』(筑摩書房 1994年 平凡社ライブラリー 増補版 2004年)
平凡社ライブラリー版カスタマーレビュー(1件) 星4つ
あと、Wikipediaに、「市村弘正」の、項目が、無い。

・林達夫 『精神史』(平凡社ライブラリー 『林達夫セレクション 3』 2000年)
カスタマーレビュー無し

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東アジアの歴史や思想が、これらの書物、学問の言葉で語られるのが理想なのでしょうが、
「現代の古典」とか言ってるけど、おい、あれか、戦前の書物はタブーなのか、とか、
岩波的な教養、知識人が2000年以降もまだ有効だと思っているとしたら甘くないか、とか、
あの著者がいない、あの本が無いのはおかしい、多木浩二なら他にあるだろ、とか、
これじゃあ東アジアどころか日本の戦後思想の地図も書けないんじゃないの、とか、
そもそも東アジアや100冊の括りに意味があるのか、とか、思うことは多々あるでしょう。
綺麗にまとめようとすれば、この選定の歪み自体が、東アジアの歴史の一部なのです。
posted by 手の鳴る方へ at 07:28| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月20日

日記2 〜積み木〜

随分前の話だけど、姪っ子を園に引き取りに行って、そこで妹が井戸端会議を始めたので、
時間を潰すため、車内は暇だったから、園内の室内遊技場で絵本を読んだことがあった。

絵本の本棚は遊技場の南の隅にあって、そこで小さな白い椅子に肘をかけて床に座り、
「ぐりとぐら」とか五味太郎の本や「葉っぱのフレディ」(!)を片っ端から読んだ。


で、棚の向こうの遊技場の真ん中に男の子が一人だけいて、積み木遊びをしているのが見えた。
男の子は積み木を部屋の中央に集め、そこで城だか砦だか山だかを築いているように見えた。
面白いことに、積み木を積み上げるため、作品の周りをせっかちにクルクルと移動していて、
例えば東側の屋根に三角を乗せ、西に回り円柱を差し込み、北側で壁を増築したりしていた。
子供の積み木遊びって普通は座ったままされることが多い。その視点はほぼ固定されている。
彼のように作品の裏側に回って積み上げる、みたいなことは大人でもあまりしない気がして、
見れば見るほど不思議なことをやってるな、どういう欲望なんだろう、という気になってくる。


積み木の量が多いから作品はどんどん大きくなる。やがて裏側に回った彼の体が見えなくなる。
男の子は顔だけ出して黙々と積み木を積み上げるけど、無理して高くする気はないらしくて、
相変わらずクルクルと周囲を回りながら、今度はその裾野を広げて、また積み上げていく。
ときどき彼の袖やつま先が当たったり、彼の走る振動で、不安定な箇所が勝手に崩れたりして、
しばしばガラガラと音を立てるものだから、棚の奥から見てるこっちはハッとするんだけど、
ある程度大きくなると崩れてもどうでもいいというか、作品が駄目になった感じがしないのか、
チョコチョコっと補修すると、男の子はさっさと裏側へと回ってまた何やらを積み上げる。
補修と言っても、散乱したのを集めて、崩れた箇所にまた無造作に積み上げるくらいのもので、
完成しているのか半壊しているのかよくわからない、小さな建造物ができあがっていく。


時間が経つにつれて、何かスゴいものを見てる気がしてきたんだけど、
彼の母親がやってきて帰ると言うと、彼はあっさりと仕事をやめて、片付けをし始めた。
片付けも積み木を4、5個だけ持ってダンボールの大きな箱に入れることを繰り返すので、
この子は積み上げるのが好きなストイックな子なのかと思ったが、実際のところは知らない。
結局、何を作っていたのか作者の口からは聞けなかった。母親に見て欲しいと思ったとき、
あの子は母親を作品のどの方角に誘導しただろうか。建築はどこから見るのが正しいのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 00:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日記1 コンフィズリー屋

随分前の話だけど、綺麗な洋菓子が陳列されたオサレなコンフィズリー屋に行った。

色とりどりの飴やヌガーが綺麗な紙に包まれて、さらにガラス瓶に入ってたりしてて、
全部の色がおいしそうで、本気を出した砂糖どもがガラス以上に輝いていてました。
結晶に囲まれて、もう何がキラキラしてるのかよくわからんような素敵空間でした。


で、店内を物色してると、若くて派手な親子連れがカラの乳母車を押して入ってきた。
そこにいるはずの赤ん坊は、父親の胸元に生地の薄そうなスリングでぶら下がってた。
その父親は日に焼けて真っ黒で、何かどっかの雑誌で見た高そうな革靴を履いていて、
パリッとしたシャツ着てて、如何にもモテそうで遊んでそうな感じだったんだけど、
生後8ヶ月くらいの子供が、父親の胸元から首だけ出してケーキとかを見てるワケで、
プレイボーイだけど今は子育てに夢中です、アットホームです、って感じで微笑ましい。
それを見て、私の連れの女の子は「ああいうのって格好いいわー」とか言うワケです。
「赤ん坊は最高のアクセサリー」とか何とか私が言うと、舌打ちとかするワケです。


一方の母親はと言えば、もう一人の、小学校低学年くらいの女の子の相手をしてました。
二人してハイテンションでコンフィズリーの瓶詰や缶、ケーキをワイワイ見てまして、
女の子がレジに商品を持っていく際に、「今までお手伝いしてお金貯めたもんね」とか、
「自分で買えるよね」とか、買ったら買ったで「一人でできたじゃーんスゴーイ」とか、
店を出るまで、子供の挙動にキチンとポジティブに反応してて、とても好感を持ちました。
が、私の連れは「本で見たような教育ママ」とかホザいてたので舌打ちしてやりました。


その後も二人で店内をブラブラ見て回り、私がふと「でもいい家族だねー」とか言うと、
「そうねー」みたいな感じで即座に肯定されてしまった。それはそれでどうなんだろうか。
「でもいい家族だねー」と言ったとき、私はむしろ舌打ちされたかったような気もするし、
連れの女の子も舌打ちをしそびれて、ついうっかり肯定してしまったんじゃないかと思うし、
そういう肯定の先には不毛なものしか転がっていないじゃないか、と、そんな気もする。
posted by 手の鳴る方へ at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

ファッションの語る言葉

メンズナックルキャッチコピーまとめ


「メンズナックル」と言えば――いまさら解説も紹介も不要に違いないけれども――、
ガイアが俺にもっと輝けと囁いたり、鳥人拳だったり、マッド・ロックの伝道師だったり、
孔雀は堕天使の象徴だったり、伊達ワルだったりで、とても有名な男性ファッション雑誌。
「俺たちゃ無敵のXYZ」だとか、「ある意味、俺がホスト界のスペードのエース」だとか、
わかりそうで、でもよく考えればやっぱり意味がわからないキャッチコピーが大好きです。

この類の、後発のニッチ狙いの雑誌は、手探りで独自の文化を築き上げなければいけません。
もっと細かく言えば、扱うファッションを言語化し、ボキャブラリーを練る必要があります。
個性のマス・プロダクトを築くためには、モデルやブランドと同じくらい言葉が大事なのです。


ちなみに、普通の先行しているファッション誌なら、その煽り文は極限まで洗練化されており、
材質や形状、色、柄、ブランド、状況、ステータス等々、語彙も一般的なものが占めています。
彼らは奇を衒う必要も無いし、変に自分自身を意識することもない位置で仕事をしています。
正統派のフォーマルなファッションなら、それを語る言葉も正統派で一向に構わないからです。
例えば(手許にどういうワケか女性誌しか見つからないので)女性誌の煽り文を例にとれば、


ミリタリーショーパンはざっくり
ニットとアースカラーのグラデが命

リゾート風サンドレスは
+ベストでタウンユースに変身

夏の大人カジュアルは
クラシカル女優がお手本



と言った具合に、見事な様式美、機能的な美文を見せてくれます。役目を全うしてる感じです。
この傾向は「小悪魔ageha」や「POPTEEN」等、フランクな雑誌でもあまり変わりがありません。
文章は確かにざっくばらんで馴れ馴れしい感じにはなりますが、言葉の使い方は同じです。
女性誌に話が移行してますが、例えばこれが「Gothic & Lolita Bible」ならどうでしょう。
その名の通りゴスロリのファッション雑誌です。煽り文を幾つか引用してみましょう。


茨の森で待ち構えているのは、リスの国の女王様。
「この森を無事に抜けたいのなら、
岩トカゲのしっぽと、雪うさぎの前歯、
上質なドングリを帽子いっぱいに集めてきなさい。
かわりに、この森の出口の地図をあげましょう」

ゴキゲンな日には、
黒猫みたいに
タンゴを踊るの♪
お気に入りの服は、
上手に踊れる魔法の道具の1つなの☆

しかし悲しいことがひとつ。
薔薇少女達は
たくさんの薔薇を食べなければ
動くことが出来ません。



どう見てもポエムです。そもそも、誌面の作り方からして煽り文であるよりはポエムなのです。
本来なら煽り文が入る場所に、連作ポエムがデカデカと挿入される誌面構成となっているのです。
一番目のヤツなんかは、ウサギの前歯を所望するあたりに残酷な童話の世界が垣間見れますね。
きっとリスvsウサギで、クイーンオブメルヘンアニマルの座を争っているに違いありません。
ちなみに「Gothic & Lolita Bible」の中身が全部こんな感じというワケではありませんし、
ゴスロリ誌一般がこんな感じってワケでもありません。ポエムは他の雑誌でも見受けられます。

で、ご覧の通り、「Gothic & Lolita Bible」にはイメージ先行の煽り文が多用されています。
そのイメージとは、キーワードを挙げれば「童話」「西洋」「ウィッチクラフト」等でしょう。
「メンズナックル」と同じように、イメージが先走りすぎて意味不明だったりもしますが、
このようなゴスロリ誌の言葉や誌面作りは、これはこれで洗練されているようにも思えます。


メンナク系やゴスロリ雑誌には、ファッション“を”語る言葉が希薄であると言えそうです。
むしろファッション“の”語る言葉があり、その言葉で、ストリートにイメージを招くのです。
それらの雑誌の煽り文は、モデルその人というより、ファッション自体が発した言葉なのです。
つまり、ガイアだとか黒猫のタンゴとかの語彙は、皮膚の上に憑依した霊の語る言葉であって、
それを着ている人間の言葉では必ずしもないのです。ゴスロリ少女はゴスロリに身を包みつつ、
結構、「お母さんに素麺買って来てって頼まれたー☆」とか生活臭のある言葉を吐くものです。
メンナク系のモデルだって、DQNや厨二病は少数派でしょうし、鳥人拳の達人も皆無でしょう。


ゴスロリやメンナク系の想定する世界を、「共同幻想」と言ってしまえばそれまでですが、
現代においても、幻想を作るというのは、最高にクリエイティブな仕事に違いないのです。
今までになかった幻想を作りつつあるという点で、私はそんなファッション誌を応援したいです。
雑誌業界はますます低迷していますが、雑誌“の”語る言葉もまだ大丈夫だと言いたいのです。
posted by 手の鳴る方へ at 23:06| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

メディアと時代のスピード

SMAPの草なぎ剛が、最近やたらと雑誌の表紙に登場していて、
あの全裸事件はもう完全に過ぎ去ったことになってるらしい。
地デジのキャラクター、というか大使にも復帰したらしいし。

新聞やTVに限らず、メディアは国民に情報を提供する役割を担っており、
現代の問題点を表象し、その時代の時代性を知らしめるためにありそうなもんだけど、
表象するスピードが速すぎて、逆に歴史と言うものが失せている気もする。

先週のニュースが今週のニュースで押し流され、昨日のニュースが今日のニュースに、
今朝のニュースが夜のニュースで押し流されてしまうような表象の速度の中で、
情報の受容者が、そのスピードから果たして何を得ているかと言えば心もとない。
実際の所、手許に残っているのは個々の事件ではなく、それらの断片ですらなく、
事件が重なり合い、猛烈な速度で過ぎていったそのスピード感だけではないのか。
情報の量こそが目に見える時代の速さだとすれば、ネットもその流れの加速に加担し、
ノイズもいや増し、参照点となり、寄って立つべき時代性は一段とかき消されている。


われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物となってしまったことを考えてみるだけでいい。ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的体験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことにある、と言いたくもなるだろう。このように、メディアの情報機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。
(室井尚 「「歴史」は誰のためにあるのか?」 「現代思想」1986 11 p.97)


と言ったのは1983年の時点でのフレドリック・ジェームソンという哲学者だが、
当時以上に現在は、過去も現在も未来もフラットに流れ去り、忘れ去られている。
忘却こそがメディアの役目というのなら、草なぎ剛の事件の一連の表象具合は、
なるほどメディアの役割が忠実に果たされた結果であると言えなくも無いし、
それを恒久的な変化(アイドル→容疑者→アイドル)と呼ぶならそうなのだろう。

歴史はもはや意味を成さない。現代のスピードの中でその首はへし折れて消えている。
現代人にとって歴史とは、人生の縦糸でもなければ横糸でもない。なんでもない。
草なぎ剛が生まれ変わったとされるスピードよりも、現代の変化するスピードは速く、
私達はそんな新しい時代に対応するため、即座に健忘症になって情報を更新する。
歴史とは最初から喪失された記憶、忘れたままの記録、鏡に漠然と映る像なのだ。

ノルベルト・ボルツは『意味に餓える社会』の中でこんなことを書いている。


われわれは、満たされた時間のもろもろの意味素形なしに――歴史の目標も終点もなしに、救済も進歩もなしに、伝統という指導像なしに、経験という基礎も由来という支えもなしに――やっていくことを学ばなければならないのだ。
posted by 手の鳴る方へ at 23:26| Comment(3) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

『高校球児ザワさん』

『高校球児ザワさん』(三島衛里子 小学館)
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男だらけの野球部に女が一人でいたら周りの人はどう思うか、って話。
スポ根や部活動漫画というより、周囲の反応を記した観察記録みたいな漫画で、
主人公の「ザワさん」自体は、見られて反応される対象として描かれている。
チームメイトやクラスメイト、観客など、周りの人間のリアクションがメインで、
観察記録とはザワさんの記録ではなく、周囲の人間の、反応パターンの記録だ。


予想できる通り、ザワさんに接した人間のリアクションは、半分くらいがエロい。
「男だらけの体育会系部活動に女が一人」なんてエロ漫画のテンプレもいいとこだ。
「目隠ししてプロテイン」とか、もっと身も蓋も無いエロゲ的な描写もあるけれど、
もう半分はエロくなくて、キチンと部活動や青春を送っている描写もあったりする。


恐らく、現代人がザワさん的な相手に見せるリアクションのパターンはそれほど多くない。
作者の想像力は十人十色のリアクションを思いつくだろうが、その想像力の限界が、
すなわち現代人の想像力、ザワさんを前にしたときの想像力の限界ですらあると思う。
2巻にして既にエロい話が目立つのは、作者のマンネリなどでは決してなくて、
それがザワさん的なモノに接した際の、一般的な現代人の発想のテンプレだからだ。
そして一般的な反応だからこそ、そのテンプレは繰り返し描かなければならない。
描かなければ逆に嘘になる。チームメイトの猥談や困惑や妄想は特にそうだろう。

これが例えばマリナーズのイチローのニュースを見聞きした人々の反応なら、
漫画家はどの程度のパターンを想像して話数とすることができるだろうか。
それは何を考えることができるか、何を真っ先に考えてしまうかのテストでもある。
問われているのはステレオタイプと、そこからズレる現代の想像力に違いないし、
大仰なことを言えば、そこから生じた成果は、現代を映す鏡ですらあるだろう。
一人の作家が脳髄を振り絞って考え出した様々な反応のパターン数は、
現代人の反応パターンをほとんど網羅すると思うのだけど、どうだろうか。
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2009年06月06日

『千と千尋の神隠し』〜放棄について〜

語り尽くされた感があるけれど、千とカオナシのスタンスの違いは面白い。
例えば「千は全部捨てる。カオナシは全部拾う」と言ってみるのはどうだろう。
「千は後先考えず捨てる。カオナシは後先考えず拾う」と言ってみるのは。

千は油屋で働いているときに、催吐剤としてのニガ団子を手に入れた。
最初にまずその半分を、銭婆の呪いにやられて、のた打ち回るハクに与え、
「本当は両親にあげるつもりだった」もう片方を肥大しきったカオナシに与えた。
4枚綴りの電車のチケットも、帰りの分を無視して全部使い切ってしまった。
カオナシが出した黄金は手にしなかった。宮崎駿作品の真っ当なヒロインらしく、
「私の欲しいものは、あなたには絶対に出せない」と、申し出を拒否していた。


また、物語のクライマックス、銭婆の所からの帰り、ハクが名前を思い出した後、
千が12匹の豚の中から、物語冒頭で豚になった両親を探し当てるシーンがあるが、
そこで千はどの選択肢も選ばなかった。12の可能性を全て捨ててしまったと言える。

私はこのシーンが大好きだ。物語の最中に、何のフラグも立ってないはずなのに、
決定的な場面で選択肢の中に答えが無いことを言い当てる、その正しさが好きだ。
「正しさ」とは、決定的な場面で、目前の選択肢の中に答えが無い、という点で、
そこに答えが無いのなら、ならば選ばないことが正しいのだ、という程度の意味だ。


世の中を見渡せば、「この中に、本当に痩せるダイエット方法がある」とか、
「この中に、本当にあなたを幸せにする生き方が、価値観がある」とか、
「この世の中には、赤い糸で結ばれた、あなたに相応しい伴侶がいる」とか、
「本当の進路、職場、老後がある」とか「本当の政党、政策、思想がある」とか、
「食べ物がある」とか「安全がある」とか「教育方法が」とか「正しさが」とか、
挙げればきりが無いくらい、正しい道筋を示唆する情報で満ち溢れている。
私達は個々人の関心に従ってそれらの情報や実物やらを生業として手にするし、
場合によっては個人で情報や実物を作り出し、発信してみたりすることもある。
私達には個人的な欲望や、社会的な責任感・使命感が多少はあるに違いなくて、
経済も政治も法律も教育も、どれも全て決定することで未来へと繋がっている。
「答えが無いから選ばない」的なスタンスでは社会も個人の人生も成り立たない。
(逆に言えば、答えが無くても選んでしまえば何とかなる。「答え」涙目wwwww)
非決定をあえて語るのは、せいぜいが真摯な宗教者か変人の哲学者くらいのもので、
この『千と千尋の神隠し』が、物質文明を説教しているように見えるのも、
登場するキャラクターや世界観のためというよりは、この宗教性のためだと思う。


決定的な場面で選択肢の中に答えが無いから選ばない、という生き方は不可能だ。
私達はどう頑張っても、自分達は千よりもカオナシに似ていると結論せざるを得ない。
物語の中の千の生は、その労働と時間を費やして得るものはとても少なく、
与えられても拒み、せっかく手にしたものがその手からこぼれ落ちるのは早い。
意志しつつ放棄し、関心を持ちつつ放棄することで、生はゼロへと近似する。
「ゼロになる体 満たされてゆけ」と心地よい主題歌は歌っている。
空の容器に水が入るように満たされるのではない。ゼロそのもので満たされる。
それはつまりは死ということであり、千は死ぬことによって元の世界への道を開く。
彼岸で死ぬことで、振り返ってはならない道を通り、此岸へと戻ることができる。
放棄することの極北がここにある。それは本来性へと帰還する道なのだ。
物質文明は人間にとっては彼岸であり、あの世である。カオナシは本来性を喪失している。
と、この口調は、「死後の世界が真の世界である」とホザく宗教とよく似ている。
宗教は悪くない。このような言葉を宗教に任せきりにしていた非宗教の怠慢だ。
posted by 手の鳴る方へ at 08:08| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

『英国王 給仕人に乾杯!』

『英国王 給仕人に乾杯!』
(イジー・メンツェル監督 2006年 チェコ/スロヴァキア)
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背の低い野心家の給仕人が、1930年〜1960年代のチェコを生きる話。

この時代の、ドイツとソ連に挟まれた国を舞台にしているものの、
主人公が戦火に巻き込まれていないため、直接的な戦争表現は無い。
内容はむしろいい歳をぶっこいた、名も実もある良識ある大人達の乱痴気騒ぎだ。
町のカフェでの名士の馬鹿話、ブルジョワの暮らすチホタ荘での豪奢な暮らし、
ホテル・パリでの女体+食事、これらが楽しそうな雰囲気と共にスクリーンに現れる。
そして戦争(最大の乱痴気騒ぎだが)が始まると、ナチスの優生学研究の名の下に、
給仕人かつチェコ人の主人公は、全裸のアーリア人種の女性達の世話をする。
「何も見るな。何も聞くな」「すべて見ろ。すべて聞け」という給仕人の心得を、
見習いの頃に教わっていた主人公だが、ここでは積極的に全裸の女性達に無視される。


映画では、彼が乱痴気騒ぎの「おこぼれ」を貰う場面が多々ある。
それは女であったり、金であったり、勲章であったり、高額な切手であったりする。
切手は彼の妻がユダヤ人から回収してきたもので、それら僥倖は歴史の気まぐれで、
彼の足元に投げ出された硬貨のようなものだ。彼はそれを拾い、財を成し、投獄される。

この歴史の悪い冗談の中、英国王給仕人をしていたというホテル・パリの給仕長は、
ナチスに従わなかったとか、多分そういう理由でホテルから連れて行かれてしまう。
同じ頃、熱烈なヒトラー信者の女性と付き合っていた主人公は、彼女と結婚するため、
アーリア人女性を孕ませるのに相応しい遺伝子かどうか、優生学的な検査をする。
で、ヌードピンナップでオナニーをするわけだけど、その部屋にはラジオがあり、
そこからは、空気を読まずに、「ナチスの反逆分子」の名前が読み上げられている。
画面にはトラックから降りる若い男達と、降りた先で銃をもてあそぶ兵隊が映る。
主人公はその放送が流れる部屋の中で、優生学的な検査のための精子を搾り出す。
そしてやがて、太った看護婦の手伝いもあり、カップの中に精子が溜まっている。

ナチスに連れ去られたあの偉大な給仕長・英国王支給人に乾杯するその杯の中には、
恐らくこの精子が入っている。乱痴気騒ぎの極地で、優生学だけが杯を満たすのだ。
人間の尊厳も美酒も人生も何もかもが、アホみたいな騒擾の中で姿を消してしまう。
優生学研究所は、戦争が進む中で、全裸の負傷兵がノロノロと行きかう療養所と化す。
優生学すらも最後には残らない。2月革命により、主人公の「おこぼれ」も没収され、
栄誉ある勲章も、やがては山羊の肩にかけられて土に汚れるままになってしまう。

時代の馬鹿騒ぎが歴史を紡ぐのなら、歴史とはそもそもコメディのようなものだ。
この映画の最後は、ビールのCMのような科白で幕を閉じる。
幕引きに相応しい美しい言葉は、杯に精子が満たされた時に死んだのだろう。
posted by 手の鳴る方へ at 06:29| Comment(0) | 批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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